まどか先生の「ママ達のおやつ」

日頃の身のまわりの出来事は、すべてがママをステキにしてくれる一滴です。ママの心が豊かなら、どんな事にも心は響くはず!

母の「置き換えられた記憶」に思うこと

2016年04月15日 | にこにこ
 ここ10年、私は毎月、必ず二泊三日の帰省をします それは、両親との間で決めた約束だから、でもあります。
 大阪の郊外で暮らしていた両親。私も結婚するまでの13年間をその家で暮らしました
 アメリカへの短期留学ですっかり有頂天になり、「アメリカかぶれ」になっていた頃には、庭にデッキチェアを出して読書をしたりていましたし・・・両親もお客様を招いて庭でバーベキューをしたりしましたし・・・私の子ども達が幼い頃は、父が用意をしてくれた小さなお砂場やビニールプールで遊ばせたり・・・もしました。
 私が中学生の頃に植えられた庭の木々も、いつしか立派な木に育ち、四季折々の美しい姿を見せてくれる広いお庭でした
 けれど、若年性のパーキンソン病を患う父の症状が進行するにつれ、庭の世話も難しくなり、バリアフリーとは無縁のその家そのものが、両親の暮らしを脅かすようになっていきました。玄関から家までの階段で父が転んだり、飛び石に蹴躓いたり・・・父の自慢だった家も庭も、すべてが住み難さのかたまりのようになっていきました
 そして10年前、両親、特に父は断腸の思いで大阪のど真ん中の高層マンションに移ったのでした。その時の条件、約束が、「伊丹や新大阪から近い町の真ん中であれば、私は楽に帰省できるでしょ 飛行機や新幹線で大阪に着いても、その後、電車を乗り換えて1時間以上もかかるようでは、すごく効率わるいもん。中心に引越せば、私は毎月、帰ってくるよ」でした。

 さてさて。
その毎月の帰省によって、私と母の距離は一気に縮まりました。ってことは、以前は母子に距離があったの?ということですが、いやー、そうだったんです。
 昭和の好景気の中、父と共に小さな企業を創業した母にとって、「一番大事なこと」は、長年ずっと「会社を守ること」でした
 母は、決して口に出して「一番大事なのは仕事」とは言いませんが、一人っ子でもあり、常に両親を客観的、そして冷静に見ていた私には「自然と見えること」がたくさんありました。
 私にとっては不都合なことであり、あまり幸せとは言えないことであっても、それが事実、現実であれば甘受するしかなく、そしてその状況の中で上手く生きていくこと・・・それが私に課せられた「私の暮らし、私の環境」です それを嘆くことは、自分の暮らしを自分でつぶすことだと思っていた私は、文句はありませんでした。
 両親が私が小学校2年生の時に起業して以降、結婚して家を離れるまでの18年間、仕事中心の暮らしをしていた母との間では、あまり「母と過ごした、話した」という記憶がありません
 でも、そんな母の心の中には自分の描く「理想の母像」があったのです。母とはこうあるべき、とか、こんな母が素敵な母だ、という・・・
 そういう母のイメージする理想の母像は、母の実生活とは大きくかけ離れた「24時間体制で、子どもに目をかけ、手をかけて育てる母」でした。
 「おかえりなさ-い」と我が子を迎え、手作りのお菓子をおやつに出してあげる・・・一緒におやつを食べながら、我が子のその日の学校の様子を聞き、談笑する・・・
 そんなことは絵に描いた餅であり、実際には専業ママの家庭でも、こんなドラマのような暮らしなんてあり得ない でも、状況的にそんな暮らしが出来ない母からすると、もし自分が仕事をしていなかったら、私は間違いなくそういう母親の理想像通りの暮らしをしていたに違いない、という思いが強かったのでしょう。

 母が一度も口に出して「仕事が大事」と言ったことがないのは、そういう「仕事を大事にする母親」は、自分の思い描く理想の母親ではなかったから、なのです。私は幼い頃から、そのことに気づいていました。
 そして、「私は仕事を一番大事にしているのよ」と母が自信を持ってそう言ってしまえば、ずっと母自身も私も楽になるのになあ・・・と、ずっとずっと思っていたのです・・・
 なぜなら、私は「社会人としての母」を尊敬していましたし、自慢でもありましたし、そんな母の背中から、とてもとても多くのことを学び、真似て、今があります。それに、母の愛情はきちんと感じられていたのですから。
 これは余談ですが、私は子育てをしている間、自分の子ども達には社会人としての自分の顔をしっかりと見せてきましたし、そういう顔に誇りを持っていることも伝えてきました。これは、母と私の関係からの「反面教師」だったわけです。

 話を元に戻しましょう
そうです、私と母の距離が近づいたのは、母と二人の時間が長くなり、いろいろなことを話すようになったから、なのですが、そんな中でとってもおもしろいことに気づきました
 それは、ことごとく「母の記憶が改ざんされている」ということ、なのです。
 つまり「仕事が一番大事だった母」が長年してきたことや、言ってきたこと、何らかの出来事での記憶の中で、少し思い出すには辛い記憶や悲しい思い出などは、母の都合の良いように、母が思い出した時に気持ちの良いように置き換えられている、ということなんです
 たぶん、自己防衛本能が働き、いろいろな自分にとっての嫌な記憶や不都合な記憶をすり替えることで、母自身が安心できたり、納得できるようになっている・・・

 たとえば。
仕事を優先したために、私との固い約束を果たせなかった記憶は、本当は私が前日から体調不良だったために、体調をおもんばかった母が断腸の思いで中止をした、ということになっていたり・・・約束の手料理をふるまえなかった記憶は、ケイタリングのほうが見た目も豪華だからと以前から私が言っていたから、とか・・・
 記憶力の良い私は、いろいろな思い出をものすごく細部まで覚えています その時に着ていた洋服や、その場面の場所や空気などなど、すぐにでもよみがえってくるのです。
 娘としての私の根性が根っから悪くて、母を責めるために私のほうが、母に不都合なように記憶や思い出を意地悪くすり替えた、ということはないのです、はっはっは。
 私は、今さらブログにこんなことを書き、母への恨みを晴らしたい、なんて気は毛頭ありません 私はさっきも書いたように、心から「私の母」も「社会人としての母」も尊敬していますし、誇りに思っていますから。
 ただ、理想と現実の中で葛藤を繰り返したであろう母の長い年月を思うと、気の毒でならないのです 自分の描く母の理想像からかけ離れた現実を受け入れられず、一人で悶々としたり、自分を責めたり、時には父や他の人達を責めたり・・・ こんな「辛い」「悲しい」マイナスの時間は必要ないですよね

 現代は、特に都市部では「働くママ達」が多数を占めるようになってきました。私の教室でも、8割以上がお仕事を持ったお母様達です。
 そういうママ達が、社会からの目や批判などではなく、自らの意識の中で不必要な引け目を感じたりすることは、本当につまらないこと、残念なことです
 仕事を持っている自分に「自信と誇り」を持ち、むしろ、その姿を堂々と、気持ち良く、子ども達に紹介するような心意気を持って、毎日の子育てに勤しむ事・・・素適だと思うのですよね
 増やすことの出来ない時間に嘆いたり、変えることの出来ない状況に嘆くよりも、その状況、環境の中で、精一杯のことを心を込めてすることが、真の愛情溢れる子育てだと思えてなりません。

 変わってしまった母の記憶をもとに戻すことは不可能です
 何となく違和感があって話しますが、もう今となってはそんな母の記憶も苦笑して済ませられるほど、私も年をとりました。
 でもねえ、記憶は塗り替えられるよりも、やっぱり真実のままのほうが尊い、と思うのですよね

 



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

驚いたり、感動したり・・・

2016年02月05日 | にこにこ
 冷たい・・・ あまりの冷たさに目が覚めてしまいました。
よほど疲れていたのか、それとも寝心地がいつもよりも良かったのか、私はベッドに入った時のままの体勢で寝ていたようです。横向きになってウトウトしながら、「ああ、右手がお布団から出ているわ・・・」と思っていたことを覚えていました
 それから数時間。朝の冷え込みで一層室温が下がり、その「お布団から出ていた右手」が氷のようにつめたーーーーくなってしまっていました

 私はまだ夜が明けきらない時間の、薄暗い部屋の中で目を閉じたまま、「何時かなあ・・・やっぱり手をお布団の中に入れて寝れば良かったあ・・・大失敗。まだもうちょっと寝られるかなあ・・・」と思いました。
 お布団の中に入れた右手は、だんだんじわじわと温まってきましたが、私は半分寝ているはずの頭の中で「お布団から出ている手は、あんなに冷たくなるんだなあ・・・」という思いがいつまでも離れず、もうひと寝入りしたいと思っているのに、なぜか脳ミソだけが活動を始めてしまったかのようで・・・
 その次に頭の中に浮かんできたのが、「むー・・・手を出してたらこんなに冷たくなって、目まで覚めてしまったのに・・・じゃあなんで顔は冷たくならないのかな?」「おかしいじゃない・・・顔は毎晩、お布団から出ているのに、どうして冷たさで目が覚めないんだろう?」ということでした
 そっと温まりかけた右手を出して顔をさわってみても、さほど顔は冷たくはありません。
 いやいや・・・考え出すと、どんどん脳は勝手に動きだし、楽しい二度寝はできる様子はなくなってしまいました。

 私達の身の回りには、「どうしてだろう?」「不思議だな?」と思うことがいろいろとあります
そんなにご大層なことではなく、ちょっとしたこと・・・「昨夜に使ったバスタオルは、どうして日なたに干しているわけでもないのに、洗面所のタオル掛けで乾いているんだろう?」そんなことだって、自分できちんと説明ができるか?と問われると、自信はないです ってことは、知っているような気になっているだけで、実際には「不思議だなあ」と思うことでもあります。

 3歳くらいになった子ども達は、よく「ねえ、なんでえ?」「どうしてなのお?」と聞いてきます
最初のうちは、まあうちの子も成長してきたのねなどと、フフフの気持ちだったのに、次から次へと「ねえ、なんで、なんで?」とやられているうちにすっかり面倒になり「もー、なんでなんでばっかり聞かないの とにかく、なんでもなの」などと言いたくもなっています。
 まっ、こんな時の答えるコツは、あまり学術的な説明をしようとするのではなく、3歳は3歳、4歳は4歳の頭で「なるほど」と思えるようなたとえ話などを使って、簡潔に、手短に答えることですよ 完璧に教えよう!などとは思ってはいけません

 それにしても。
私達大人は、いつしか「何事にも驚かなくなり」「おー!というような感動をしなくなる」そうではありませんか?
 そして、それが成長することだ、と思ってしまっている・・・ でも 私はやっぱり何歳になっても、自分の身の回りに起こること、周りの様子にびっくりしたり、感動したり、え?あれ?わー!という感性を持っていなければならない、と思っています
 なんでもかんでも、そりゃあそうでしょう、とか、まあこんなもんじゃない、のような「平坦な感性」では、きっと脳ミソが老化していき、身体の中の細胞たちも、どんどんとどんよりしていくのじゃないかな?と思うのです

 そう言えば。
かわいげのない子っていうのは、大人びた子、だと思いませんか?その大人びたって表現は、いつも平坦な感情で、わー!とかきゃー!とか、すごい!みたいな感情の起伏が乏しく、何でもそんなの当然でしょう?!みたいな顔をする子・・・だと私は思います
 大人も子どもも、「驚いたり、感動したり」する、プルンプルンした感性があったほうが、その人は素適で、豊かな毎日が送れるし、そのほうが生活が楽しいように思います

 ところで、何で顔は冷たくならないのかな?調べてみなくっちゃ
 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

学びは楽し!

2015年11月10日 | にこにこ
 「学びは、楽しい」と、私は今までに何度書いたり、言ったりしてきたことでしょう
何度書いても、何度言っても、言い足りないくらい・・・あっちでも、こっちでも言いたい、と思います。
 「学ぶ」とは、もともとは「知る」と同義語である、と私は考えています。ただ、いつの頃からか「学ぶ」のほうが上等で、高等なことのようなイメージとなり、学ぶことは座学的に「教えてもらうことを、受け身で学習する」という意味に知らないうちになってしまったような気がするのです
 「学ぶ」をこのように捉えてしまうと、私がそうだったように「算数を学ぶことは嫌い」「〇〇先生の説明は難しくてわからない。だから、私は物理を学ぶことが嫌い」となってしまうでしょう
 
 私は、幼い頃から、何でも知ることが大好きです 両親やまわりの大人、学校や先生によって与えられた事に対して深く興味を示したというよりは、自分の目の前で起こること、起こったこと、身近で見聞きしたことに、自然と「へえ、どうしてなんだろう?」「わー、すごい!」「それって何なの?」のように「その次」を知りたくなる・・・
 大人に(いえ、かなりのオバサン)なった今も、それは全くかわりません

 先月、夫の仕事の関係で、二泊三日で福岡に行きました
 二泊三日というとそれなりの旅行に聞こえますが、実質の滞在は1日半程度。そして、その滞在中は夫の会社が主催したセミナーを見学したり、レセプションのために着物の着付けをしたり・・・で、ほとんど自由な時間はありませんでした。
 でも、空いた時間を駆使して、有名な料亭のランチを食べたり、1時間の歴史お散歩ツアーに参加したり、かなり充実した有意義な滞在になりました
 私はこの歴史ツアーで初めて「福岡と博多の違い」を知ったり、一緒にツアーに参加した九大工学部の学生から町家の話を聞いたり、博多織の起源を聞いたり・・・今まで無縁だった町のことをたくさん知りました
 かと言って、今後も私は福岡に移り住むわけではなく、知ったからと言って、何ということもありません。雑学を披露するつもりもありませんしね
 でも、あれ以来、テレビで「福岡」と聞くとすぐにササッとテレビの前に立ち、「ああ、ここをバスで通ったな」「おー、ここはあん時の神社だ」などと、とても親しみを持って眺められるようになりました。
 もしかしたらいつか、私の知っている「〇〇」と、新しく知った「△△」がつながって、「なるほど~ そうだったんだねえ」となるのかもしれません。

 学ぶこと・・・本当に楽しいです
新しいことを知ったり、気づいたり、知っていたこと同士が不思議なところで結びついて、今度は違うものに発展していったり・・・
 
 先日、私の教室の生徒の保護者から、うちの子が夜ベッドに入ってから「ママ、ぼくさあ、おじいさんになってもマナーズには行きたいんだ」と言っておりました、とお知らせくださいました。私は嬉しくて、泣けました。
 11月は私にとっては別れの時期 小学校受験の考査を終えると、子ども達は静かに教室を巣立っていきます。
 こんな素敵なことを言ってくれた男の子とも、別れの時期がやってきます。残念ながら、その子がおじいさんになるまで、マナーズに通ってもらうことは出来ません。それに、小学生になれば、その子には目の前に大海が広がり、もっともっと素敵な世界が待っているのですからね
 でもね、この子が「おじいさんになってもマナーズに行きたいんだ」と言ってくれた理由の中には、きっと「あそこは、いろんなことを知ることができるところ」「あたらしい気づきのあるところ」「たくさん学べる場所」という気持ちがあったからではないか、と思うのです。
 なぜなら、その子の口ぐせは「へえ、知らなかったあ、すごーい」「そうなんだあ」「そっかあ、わかったあ」であり、いつも知ること、発見が楽しそうでしたから。

 私がイタリア語を習いだしてからまもなく、「イタリアでは、カプッチーノは朝しか飲まない。イタリア人は、午後や夜にカプッチーノを飲むことはしない」と、イタリア人の先生から教わりました 
 先生が「ゼッタイニ ノミマセン。コレハ アサノ ノミモノダカラデス!」と「絶対」を強調されたので、イタリア人にとっては、朝以外にカプッチーノを飲むということは、よほど変な「ええーーーっ」「Ma Come」ということなのでしょうねえ。
 確かに、イタリアの町のバールでは、午後にカプッチーノを飲んでいる人は見ませんでした。奇異な事なんでしょうねえ・・・
 私はカプッチーノが大好きで、今までは一日中、時間を気にせず飲んでいましたが・・・一度知ってしまうとねえ・・・
 別に、イタリア人ではありませんし、ここは日本なのだから、と思うのですが、どうもそのことを知ってから、何か朝以外の時間にカプッチーノを飲むことを躊躇してしまうようになりました
 じゃあ、知ることは楽しくないって??? はっはっは

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

戦争を子ども達に伝える必要性

2015年08月06日 | う゛う゛ー
 戦後70年の今年、例年の夏以上に、メディアでは戦争のことが扱われているように思います。
 この状況は決して日本国内だけではなく、世界で「終戦後70年」が大きく取り上げられるのは、太平洋戦争終結、という意味だけではなく、第二次世界大戦として考えれば、確かに今年は多くの国々にとって「終戦後70年」であるからです

 私は、家族とともに「終戦後50年」の節目の8月を、インドネシアのジャカルタで迎えました。
 当時主人は単身赴任中。10歳の息子、7歳の娘は、ジャカルタの熱い熱い空気の中で、「独立50周年」を迎えた大祝賀ムードを、肌で感じました 
 「Hari Merdeka(独立の日)」の8月17日(日本が無条件降伏をした2日後、です)の意味を、夫と二人で、小学生の我が子達に、順を追って話したことを今でもよく覚えています。
 「そうだったんだね・・・だから、あの田舎で会ったおじいちゃんは、僕達に『君が代』を歌ってくれたんだね・・・」
 「だから、旧市街のジャカルタには、オランダみたいな建物があったんだあ・・・」
 夫の駐在3年間の間に、子ども達がインドネシアを訪れ、そこで見たもの、聞いたことの諸々が、この日の話によって、彼らの頭の中でつながっていき・・・そして、いろんなことを感じ、考える機会になったなあ、としみじみと感じました。

 先日、NHKの調査で、広島と長崎に原爆が投下された日を知らないという日本人が7割にのぼる、ということを知りました。中でも、広島、長崎というその地でも、その日がわからないと答えた人が3割いた、ということは驚きでした。

 私は、比較的幼い頃から、両親の影響で、こういう歴史や社会的な動きに関しては深く興味を持つタイプだったと思います。
 昭和33年生まれの私達は、まだかろうじて、「親や祖父母の戦争体験」を聞くことがありました。思えば、私はまだ、戦後わずか10数年で生まれたのですからねえ・・・

 政治的にはどうであれ、戦争には勝者も敗者もない・・・と私は感じています 我が子を持つことになり、あらためてそれを実感するようになりました。
 18歳で初めてアメリカに短期留学をした時、「戦争の話題は避けるように」とアドバイスを受けました。たぶん、それはつたない語学力では、自分の考えや思いを十分に伝えることは不可能、という理由からのアドバイスだったのでしょう。
 でも、ホストファミリーのお父さんが、海軍の退役軍人であったことで、退役軍人家庭のピクニックにも頻繁に参加し、結果的にいろいろと戦争の話題にもなりました。
 そんな時「命の尊さ」という観点からは、戦勝国も敗戦国も関係はないと思う・・・と、その日に話したこと、話してもらったことを思い出し、いつまでもベッドの中で天井を見つめ、感じていましたねえ・・・若い日の、ピュアな感覚です・・・

 現在は、美しい青い海が観光財源となっている太平洋上の島々には、激戦地が少なくありません。二本軍玉砕と言われる島々でも、実際には、敵軍にも夥しい戦死者がいたのです。

 今のお母様達の多くは、子ども達に「美しいもの」「楽しいもの」「ハッピーなもの」はたくさん教え、経験させますが、「みにくいもの」「怖ろしいもの」「目をそむけたくなるもの」は見せず、教えず、「辛いこと」はなるべく回避させようとする傾向にあると思います人 その理由は、それは自分達も楽しくないから・・・のようです

 この間「今この瞬間も、食べるものがなく、死んでいく子ども達が世界中にはいるのよ」と教室の子ども達に話すと、「なんで食べるものがないの?お店屋さんだって、いっぱいあるじゃん」と、とても不思議な思いを持った表情で言われました。まさに、その通りですね。私は、その子の瞬時の反応をとても新鮮に感じ、「教えないこと、伝えないことの罪」を強く感じたのでした。
 なぜなら、その時の子ども達が、一生懸命に、自分達の知らない話を聞こうと前のめりになっていることが伝わってきたから、です。

 子どもに伝えるべくことはたくさんあります 伝わる言葉を探し、子ども達が理解できるように伝える義務が大人にはあるのです そして、あらためて大人の私達も、真実を学び、感じ、考える必要があるのではないでしょうか

   

 
 
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

輪島塗のお箸が二膳・・・

2015年05月21日 | う゛う゛ー
 北陸新幹線開通で、一気に首都圏から近くなった石川県。
もともと、金沢は長年「行きたいねえ」と言っていた町でした。今まで何度も、貯めているマイル利用で行こうとしましたが、なかなか夫婦の仕事のタイミングが合わず、そのつど断念。今回、やっとその念願叶い、新幹線利用で行ってきました

 お昼前に金沢に到着。本当に近くなりました 昼食後は、夕方までしっかりと歩きまわり(帰ってから、距離を測るソフトを使ってみてみると、12キロ歩いていました)、主要な「見どころ」はほぼ訪れました。
 ゆったりとした、穏やかな時間の流れる町・・・それが私達夫婦が金沢に持った印象でした
新幹線の開通を機にリニューアルしたり、あらたに整備されたであろう建物や空間がたくさんあって、あっちもこっちも行き届き、ぴかぴか かと言って、もともと風土、文化ともに豊かな土地柄ですから、にわか仕立てのちょっと痛い空気?!というものもなく、本当に居心地の良い町でした 滞在中、何度も「前田家はすごいねえ」とか「さすが、加賀百万石!」と言葉にしました。(いやいや、石川県知事さんがご立派なのかな?)

 翌日は、朝から2時間かけてバスで輪島へ 私は中学生の頃に両親と訪れてから、ほぼ40年ぶり。その時に訪れた町の記憶はありませんが、輪島塗の工房を訪れ、製作工程を見学したことを、とってもよく覚えています 能登半島を一周したその時の旅では、九谷焼の工房、輪島塗の工房、金箔の蒔絵の工房を訪れ、まるで夏休みの自由研究のようですが・・・文化的なことが大好きだった父にとって、こういう全国の工房めぐりは、まさに教育パパの一環だったのでしょうね 
 幸いなことに、その思惑にまんまと引っかかった私は、今も自宅近くを歩いていても、何か町の説明があると立ち止まり、思わず読みふけってしまいます

 今回の輪島行きには、観光以外にもう一つの目的がありました。それは、夫の友人のご実家を訪ねる、というものでした ご高齢のお母様の一人暮らしとお聞きし、何が何でもお訪ねして、少し、お話し相手にでも・・・と考えたのです。
 とは言え、その夫のお友達に教えてもらった「お寿司屋さん」には行きたいし・・・お宅にお邪魔する前にお店に立ち寄り、「2名、カウンターでお願いします!」と予約をしました。
 お母様宅には、同じくご高齢のお友達という方が待っていてくださり、私達を車で郊外にある世界遺産まで案内してくださる手筈が整っていました 
 じゃあ、一緒にお寿司屋さんに行きましょうか!ということになり、4人で向かいました。
先に私達がお店に中に入り、4人になったのですが、大丈夫ですか?とたずねると、いきなり怖い顔で「無理無理」とすごい剣幕で言われ・・・急な変更を詫びながら、何とかならないかと再度お願いすると「2階に行って」と言われました。カウンターが4席空いていたので、「お二人はご高齢で、急な階段を上がられるのは難しいと思うのです。カウンター席でお願いできませんか?」とお聞きしましたが、「ちゃんとあんたらの2席はとってあったでしょ。とにかく、4人は無理。2階、2階」と繰り返すばかりで、舌打ちされ、睨まれ・・・ この会話も、実際には、途中で聞こえないふりをされたり、無視されたりで、決して字面ほどスムーズではなく・・・
 お年寄りお二人は、その場でオロオロするばかり。私は、何とも情けない気持ちでいっぱいになりました

 急な変更をお願いしたのは私達で、非は私達にあります。
確かに、お願いをしたのは2席で、その席はきちんと予約席として、意してくださってもいました。そういう意味では、お店のご主人に何の落ち度もありません。
 勝手かもしれませんが、ご一緒したのが地元の方で、高齢者お二人だったから、やっぱり「なんでこういう扱い?こういう応対?」と思ってしまったのです。

 結局、お二人にカウンター席に座っていただいて、私達夫婦は、2名で二階席を使う許しを乞うて、どう考えても杖をついて歩いているお年寄りには上り下りの出来ない急な階段を登っていきました。

 お寿司屋さんにご一緒しましょう、ということになった時、お二人は何度も、あそこは輪島では有名なお寿司屋さんで、本当においしいお店なのだと、自慢するように笑顔で話してくださっていたのです。
 そのお二人が、睨みつけながら声高に「2階!2階!」を繰り返すご主人の前で、どんなお気持ちだっただろうか?そして、どんなことを思いながら、カウンターでお寿司を二人で食べられたのか?

 2階の席に運ばれてきた、みんなが注文するというご主人お薦めの、地元のお寿司を前にしても、私はすっかり食べる気持ちが失せていました
あの、睨みつけていたご主人が握ったお寿司なんだなあと思うと、食べる前から、そこには「心」がないように思えてしまいました。きっと、手で握るお寿司だから、一層、気持ちが萎えたのかもしれません

 私も主人も下のお二人のことを気にしながら、ほとんど会話をすることもなく、砂を噛むような思いで「とても美味しいはずのお寿司」を食べました。
運んでくださるお店の方も、何となく居心地が悪そうで・・・でも、その方は私達のことを気遣い、下のお二人の食べているペースを教えてくださり・・・ ありがたく、申し訳ない思いでした

 お会計を済ませ、お店を出る時にも、ご主人はそっぽを向いたままだったので、その後ろ姿に「急なことでご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。ごちそう様でした。」とお声をかけました。
 帰り際に渡された輪島塗のお箸・・・ご主人お薦めのランチをいただくと、お土産にいただけるとのこと。そのお箸を持って、外に出ました。
申し訳なかったですねえ、と何度も詫びるお二人にお箸を渡し、車に乗り込みました その後は、努めてお寿司の事は忘れ、輪島の今昔物語を語ってくださるお二人に耳を傾けました

 言葉足らずは、心足らず・・・私がよく教室の子ども達やお母様方に話す言葉です。
恥ずかしさのあまりに「こんにちは」や「ありがとう」の言えない子どもはいます。少々常識に疎く、言葉の足りないお母様もおいでになります。
 でも、それが「仕事」となると話は違うよな、と私は思うのです 何か物を売る、とか、サービスを提供する、とか・・・それが仕事なのであれば、相手に対する「言葉」は、そのままで大切な仕事の一部ですよね。そして、心があれば、その心は、やはり思わず言葉となって出てくる・・・

 非は、私達にあります でもね、もしあの時「すみませんねえ、二人と聞いていたから、2席しか用意はありませんよ。4人であれば、2階のテーブルの席に行ってもらうしかないです。・・・え?お年寄りですか?いやー、事情はわかるけど申し訳ない。このカウンターの2席は、予約でとってある席でね。カウンターで4席ってのは無理なんですよ。」と言ってくださったら、きっと空気は違っていたことでしょう

 そのお寿司屋さんから、ほんのワンブロック先のお家に住んでいるお年寄りとは、お店の方は顔を合わせることはないのかな・・・一人暮らしのお年寄りでは、お寿司屋さんの常連客にはなり得ないから、大事には出来ないのかな・・・
 疑問はいっぱい残りました

 私達がお店を出る時には、カウンター席には2人の外国人客も座り、お寿司を食べていましたし、外に出ると、並んで待っている人達もいました。観光客に人気の、グルメサイトでも評価の高い有名店ですからね。お土産までいただけて。

 いただいたお箸、二膳・・・ 
何だか、本当にいろんなことを考えてしまう出来事でした。今週末も、きっと金沢や能登は、観光客で賑わうのでしょうね

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加