まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

いよいよお正月

2008年12月27日 | にこにこ
 クリスマスが終わり、いよいよ慌ただしくなってきましたね。
私も、せめてリビングの窓ふきはしたい!と思いながらも、この急激な寒さで結露した窓ガラスを恨めしく眺めています

 さあ、お正月、です 一年の始まり。いろいろな「特別のもの」が盛りだくさんの「お正月」。今では、たくさん端折るご家庭が多くなったとは言うものの、それでも、全く平生と同じ、というご家庭は少ないでしょう。

 さて、そこで・・・
こんな面から、お正月に代表される「季節や行事」について考えてみましょう。
 小学校受験の準備を始めたとたん、ほとんどのご家庭が驚かれるのが「季節や行事」に関する出題が、多くの学校に見られることです。
 昔から、「読み、書き、そろばん」と言われるように、「学習」というものは生活に密着したものではなく、頭脳を使うもの、学問を修めること、と皆が思っているでしょう
 確かに、それは現代でも同じこと。
小学校に入学してから以降の12年間・・・子ども達はひたすら「算、国、社、理」、「数、国、社、理、外国語・・・」と、教えられて学ぶ、という学習が続きます。
 ですから、中学受験、高校受験、大学受験と言うものは、それらの教科の習熟度、理解の深さや応用力が問われます。
 簡単に言えば、中学受験以降の入学試験とは・・・
 「どれだけ習ったことを理解し、それをどの程度まで応用できる能力があるか?」
 が問われる、のですね。まあ、極端な言い方をお許しいただくならば、そこに、「人間性や家庭」というものを見て、それを評価し、合否に反映させようという思考はゼロと言っても過言ではないでしょう

 しかし。
小学校受験というものは、もちろん、子どもの能力を判断し、一通りの評価をするわけですが、実際にはそれと同じくらい、時にはそれ以上に、「その子が、どんな家庭で、どんな親によって育てられているのか?」が重要になっています
 なぜならば、私立小学校とは、そう高らかに謳ってはいないものの、暗黙の了解事項として、子どもの入学と同時に、その子のご家庭、ご両親も、その小学校との関係が生まれ、「○○校のパパ、△△校のママ」などと呼ばれるようになる 言ってみれば「親もその学校に入学した」ことになる、ということです。
 つまり学校は・・・子どもは、入学と同時に教育をスタートさせ、その学校の方針によって育てていけるものの、すでに「完成品」として育ってしまっている親は如何ともしがたい むー、どうしたものか・・・と思っている、ということなんですね。
 まさか、両親と長い長いインタビューをして、「面接向けの猫をかぶった顔」を剥がすだけの時間はないし、まさか、親の常識力テストのようなことはできない・・・

 ということで。
そんな親の人間性、感性の豊かさ、生活の中の潤い・・・そういう「人としての本質」を知るための一つの手だてとして、その親によって育てられている子どもの「季節感、行事の理解」などを知りたいと思っているわけです
 もちろん、行事などは、日本文化に深く根ざしたものですから、そういうものをどれほど大切にし、自分のアイデンティティーに誇りをもっているか?てということも知りたいわけです。
 なぜなら、自分を大切にし、自分に誇りの持てないような人は、我が子の学校を大切に思い、誇りが持てるとは思えない・・・

 きっと、小学校受験における「季節の理解、行事の理解」は、ご家庭が思っている以上に、深い意味を持った考査内容なのですね
 最後の最後は、「春の花、10個言ってご覧!!」式の丸暗記しか仕方はないでしょうが、それでも、やっぱり!です。

 お正月・・・どうぞ、大切になさってくださいね
 そして、今までは深く知ろうとしなかった様々なお正月の習慣やグッズの意味を調べてみて、「そうだっんだね!」「むー、なるほどねえ!」と、子どもと一緒に「知ることの楽しさ」を実感してみるのも新鮮ですよ

 今年も、このブログを読んでくださり、本当にありがとうございました 来年も、どうぞよろしくお願いいたします

 
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サンタクロースがいても、いなくても

2008年12月23日 | にこにこ
 「サンタクロースはいるの?いないの?
毎年、この時期になると、ちょっと大きくなった子どものいる家庭では、こんな話題が持ち上がりますね

 じつは我が家では、サンタクロースの「後ろ姿を見た」と、真剣に言い張るメルヘンチックな息子がおりました。
 当時は、すっかり兄に右に倣え!の妹も、うんうんうん!と横で神妙にうなづく・・・
 ですから、我が家の場合、こんなふうに説明をしていました。

 「サンタさんはね、10歳まではプレゼントを届けてくれるのだけれど、世界中の国々では毎日、どんどん赤ちゃんが生まれてくるでしょう。だから、増え続ける子ども達全員にサンタさんがプレゼントを配って回るのは不可能なの それで、11歳になったら、サンタさんからのプレゼントはもらえなくなるのよ
と説明をしていました。
 そう、サンタさんは「いる」のです ただ、プレゼントをもらえる権利は、より小さな子達に譲っていくものなのよ、というお約束、ですね

 彼らが、いつまで「サンタさんはいる!」と信じていたのか?ということを確かめたことはありません 実際、そんなことを確かめる必要などないでしょう。私は、心からそう思っています
 
 要するに。
サンタがいると信じていようが、サンタなんていないと豪語しようが、その子に、ほのぼのとした夢のある発想や思考があれば、その子にとっての「クリスマス」は、とても豊かで、あたたかいものに違いない!そう思います
 家族との楽しい時間、クリスマスらしい食事、クリスマスツリー、プレゼント・・・そんな愛情に溢れた両親のお膳立ての前に、子ども達のクリスマスは、ほのぼのとした思い出となる・・・

 私は、幼い子どもに、「サンタクロースというのは、4世紀頃のキリスト教の司教「聖ニコラス」が起源で・・・」などと、わざわざ教える価値を見出してはいません
 なぜなら、サンタクロースは、子どもとって、いえ、世界中の人々にとっての「一つの夢」だと思うのですよ

 キリスト教国家でない日本では、一部のキリスト教信者や、キリスト教をベースにしている学校以外では、クリスマスそのものがあまり意味深いものではなく、あくまで一つの「楽しい冬の行事」です。
 パパサンタさん、園長先生サンタさん、ボーイフレンドサンタさん、トナカイのそりでやってくるサンタさん、サーフィンしながらやってくるサンタさん・・・すべてのサンタさんが、待っている人々にとって、心温まる、幸せな気分にさせてくれる存在であることは確かです。

 サンタさんを信じる子ども達・・・少し成長してくれば、「???」と思うようになるのは当然のこと。
 でもね、私は、常々、「子どもらしい」と「幼稚、稚拙」とは異質のもの、だと考えています。
 年齢相応の能力があり、精神的発達は十分にしていながら、思考がユニークだったり、発想が豊かだったり、愛らしさに置き換えられるような子供っぽさがある子は「子どもらしい子」。
 それに対し、理解力が比較的低く、よって思考力も貧弱で、論理的に物事を考えられない子は「幼稚な子」。私は、そういうふうに定義しています。

 すべての子ども達、ご家庭に、それぞれの楽しいクリスマスがやってきますように

 メリー、メリー、クリスマス!

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言葉は手段

2008年12月13日 | う゛う゛ー
 ノーベル賞の授賞式、それに引き続いての晩餐会
数日前のモーニングショウでは、どのチャンネルもこぞってその様子を放送していました。
 中でも、ターゲットになっている先生は、お茶目な物理学賞受賞の大学教授。受賞が決まったその時から、奇想天外なコメントを繰り広げるため、絶好の取材対象になっているようです
 私のように、物理と聞いただけで「身の毛がよだち、身震いしてしまうタイプ」からすると、あのように、ちょっと世の中の常識や社会概念から逸脱している?人が、どうしても物理や数学に長けた人みたいなイメージがあるのですが、それではあまりに「普通の科学者の方」にはお気の毒でしょうね
 あくまで、かわっているのは「あの方」だけ、それは個性や人柄の問題。誰でも彼でも十把一絡げに、物理や数学の先生方を変人扱いするのは、あまりに失礼でしょう。
 
 さて、その先生。何だか人を小馬鹿にしたようなコメントも、なぜかチャーミングに映ってしまうお得なキャラクター 
 しかし、今回だけは、「お茶目だけど、ちょっと・・・」と苦笑されたお父様やお母様も多いのではないでしょうか。
 というのも、今回の「日本語しか話せません」問題。他の受賞者が、国王妃殿下のお隣に着席なさり、英語で談笑されている一方で、ノルウェー国のご配慮か、英語の話せない教授のために、敢えてお隣は同じ受賞者の日本人の奥様。その甲斐あって、晩餐会を無言で過ごす、ということもなく、談笑をされながらのお時間だったようです

 さすがに「日本語が大事。まずは美しくて、正確で、人柄のでる立派な日本語を話せるように子どもを教育すべき」という持論を展開している私でさえ、今回の「私は日本語しか話せません」騒動は、とても残念に思いました

 あの先生のように、「外国語が話せない」ということは、たとえ世界的に認められる立派な功績を残しても、そのことを介して世界中の方々と話し、もっと人脈を広げたり、その研究について各国の専門家の方々と話したり、それをきっかけとして国籍を問わず、多くの方々と知り合い、ご自分を高めたり、見聞を広めたりができない・・・ということに他なりません

 ちょっと目先をかえて。
私が、「まずは日本語」と必死になって訴える理由は、「言葉は手段」ということを伝えたいからです
 「手段」の学習ばかりを先行させても、その手段によって伝える中身、語る中身が希薄であれば、意味がありません
 要するに、外国語に堪能になっても、言葉は単独であるくことはないのです。つまり、単語を1000個知っていて、文法を理解していたとしても、問題は「それで何を語るのか?」ですよね。

 私が推察するに・・・あの物理学の先生は、語る中身をたーくさん持っていらっしゃる方、でしょう
 専門分野の研究は当然のこととして、今までの大学での教員生活を考えても、本当に多くの、語ることのできる経験を豊富に積まれ、人として豊かな人生を送っていらっしゃるに違いありません。
・・・それなのに、それを語る手段がない
なんて残念なことでしょう

 「私は物理学の文献などは、もちろん、英語でも読みますよ!」と話していらっしゃいましたが、やっぱりそれだけではつまらない・・・あの先生の愛されるお人柄、すべてを人に語り、世界中の方々に、先生から学ぶチャンスを与えてあげられればいいのになあ、と心から思ったものです

 


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普及品と逸品

2008年12月01日 | う゛う゛ー
 先日、ひょんなことから、評判の高い天ぷら屋さんの食材を、そのお店でもなく、天ぷらでもなく、いただく機会に恵まれました まさに「ひょんなことから」で、決して今流行の『○○産の△△をいただく会』のような催しでもなかったのです。
 いただいたのは、「しいたけ」と「レンコン」でした。
要するに、車エビでも、江戸前のあなごでもなく、ちょこちょこっと私達がスーパーに行けば食べられる食材です

 ところがです。ひとくちいただくだけで、もう、すべてが違うんですよ 香りも、食感も、もちろんお味も・・・さすがに、かなりの驚きでした

 確かに最近では、生食用のお野菜は、味や香りにかなりの違いがある、ということはわかっていました。野菜ソムリエ・・・などと呼ばれる人がいる時代ですから、銘柄牛のように、お野菜も、かなり味に違いがある
 ただ、それもトマトやキュウリやほうれん草、にんじんのように、生で食べられるもので実感していたことで・・・
 ちょっと目先の変わったところでは、水菜やつるむらさきなど、あまり普通は生食でいただかないものを、バーニャカウダでいただく・・・という場合に、「へえー」と感心させられたくらいです。
 
 けれど、今回のしいたけとレンコン。
さすがに生食ではいただきません。ところが、火を通しても、香りも味も、本当に常々食しているものとは全く違う 似て非なるもの、とはまさにこのこと!と痛感しました。

 その二つが、どこの○○で~~~・・・のような講釈は敢えていたしません 食のブログではありませんからね。まあ、当然のことですが、しいたけもレンコンも、そのお店のご主人の「こだわりの逸品」であることだけは確か、でした

 私は、自宅でそれらを調理し(単にお味噌汁の具材にしたり、炒め物や煮物に使っただけです)、そして本当に形容しがたいほどに「美味」なお野菜をいただきながら、まったくお料理とは関係ないことを思いついたのでした・・

 『考えてみれば、人も同じ・・・』と。

 同じ格好、かたちをしている人間でも、じつは全く違う・・・そう気づいたのでした
 こんなことを書くと、「いやいや、『曲がりキュウリ』でも味は同じ!」と反論なさる方がいるでしょうね。
 確かにそうです 人が手を加えて、まっすぐにしたものは、見場が良いだけで、味に違いはない・・・見場を良くする必要はどこにあるのか?
 しかし、これはあくまで「見場を整えた」ということで、私が感服した「味」とは無関係です。私は、あくまで「味」の話しをしています。

 天ぷら屋さんのご主人にお尋ねすると、やはり、しいたけもレンコンも、確かに「○○産の△△」でした 
 生産者の研究と手間は大変なもので、私たちが普段、スーパーで簡単に手にいれているものとは、本当に「似て非なるもの」。
 
 しかし、それを求める場、求める人がいる限り、普及品と逸品はずっと存在し、同じように見えながら、全く違う機会、違う人に食されていくのでしょう
 普及品が粗悪品であるわけはなく、逸品だけが重用されるということではありません。どちらが良い、悪い、という問題ではないのです
 あくまで、「どちらを求めるか?」ですね。

 そして、逸品を育てるためには、当然、普及品を育てる以上の手間暇、研究、苦労はつきものです より良い逸品を作るためには、それ以上の努力と時間、研究は不可欠でしょう。
 普及品には普及品としての価値はありますが、けっして逸品に昇格することはない・・・そして時には、普及品を作っているつもりが、こっそりしてしまった手抜きで、たちまち普及品どころか、とんでもない粗悪品になってしまう、という危険性もあるでしょう

 手塩にかけた逸品とは、やはり、それだけの価値のあるもの、ですね 然るべき機会に、然るべき人に愛されるもの
 
 きっと人も・・・同じでしょう 
無垢で産まれた子供達。親という生産者の手によって、さて、どちらに育てられるのでしょうか?


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