まどか先生の「ママ達のおやつ」

日頃の身のまわりの出来事は、すべてがママをステキにしてくれる一滴です。ママの心が豊かなら、どんな事にも心は響くはず!

明日の私が、もっと素敵であるように。

2012年02月05日 | う゛う゛ー
 毎年、冬ってこんなに寒かったっけ?真面目に、毎日そんなことを考えながら過ごしています
 この冬は、流行するのが少し遅かったインフルエンザですが、やっぱりこの時期にやってきました。町に「がんばれ!中学受験生」のポスターが貼られる頃、決まってインフルエンザが流行するのですよねえ・・・
 小学校受験は、夏から秋への季節の変わり目で、気温、気候が安定しない時期。中学受験は、まさにインフルエンザの流行時期。
 もちろん、高校受験をするディーンエイジャー達や、大学受験をする高校生達にも災難降りかかることなく、無事に受験を終えてもらいたいと切望しますが、小学校受験、中学受験は、まだまだ受験生が幼いということもあり、万全の体勢で臨めないのは哀れでなりません

 さて・・・
みなさんは、一日、どれだけのことを真剣に考えたり、感じたりしますか?
 もちろん、お仕事をされている時には、とても真面目に、真剣に目の前のことを考え、対応されていることでしょう。しかし、私が今、たずねてみたいなあと思ったのは、普段何気なく過ごしている時間、特別のことをする時ではない、そんな平凡な時間に、どんなことを感じたり、考えたりされているのだろうか?と、ふっと思ったのです。

 ここのところ、ちょっと考えてしまうこと・・・がたくさんありました。今日はそのうちの一つを、お話させてください
 先日、私は郊外の駅で電車から降りた私は、約束の時間まであまり余裕がなかったので、ホームを慌てて歩いていました。 改札口に向かう下りエスカレーターに乗る直前、私はコーンと何かを蹴っ飛ばしたのです。コロコロと転がっていくものを目で追うと、それは見慣れた緑色のリップクリーム。医療系メーカーが販売している強力メンソールのあれ、です。コロコロと転がっていった先は、ホームのベンチの下でした。
 私は自分のリップクリームではありませんでしたし、あまり深い考えなく、「ああ、落ちていたのを、蹴っちゃったんだ」程度に思い、そのまま、足早にエスカレーターに乗り、歩きました。
 何段か降りた時、後ろで何か呼び止める声が聞こえました。でも、はっきりは聞こえなかったのです。私がそのまま降りつづけていくと・・・
 「もしもし、前の人!」
と、今度はしっかりと聞こえました。「?」と思った私は振り返りました。すると、年の頃、60代後半と見える女性が、
 「これこれ、あなた、落としましたよ!
と、リップクリームを差し出されました。私は咄嗟に、「あ、それ、違います」と応えていました。
 するとその女性、「ああ、そうなの・・・」と言われ、あとは、独り言のように、「どうしようかしらねえ、駅の人に・・・」と、そこまでは聞こえました。
 改札階まで降りで、数歩歩いた私は急に気にかかり、振り返って女性を探しました。あらためて声をかけ、お礼を言おうと思ったのです。
 しかし、その方の姿は、なぜか見つけられませんでした・・・

 私は駅を出て、歩いている間も、ずっとずっと気になりました 確かに、あのリップクリームは私のものではありませんでした。でも、蹴っ飛ばしたのは私です
 私よりもずっと年配だったあの女性は、「落とし主である私のために」、ベンチのところまで行き、身体を屈めて、手を奥に伸ばして、あのリップクリームを取ってくださったのです・・・
 そう考えたら、見ていなかったその光景が、まるでしっかりと自分で見たかのように頭の中に浮かびました。
 屈みこんだとき、ご自分が持っていたお荷物はどうなっていたのだろう?
 日頃はなかなかとらない姿勢をして、どこも痛くはならなかったのだろうか?
 私に遅れをとらないように、慌てて追いかけ、躊躇することなく、大きな声で呼びかけてくれたんだ・・・
 それなのに、私はケンモホロロに「あ、違います」と一言だけ言い残し、エスカレーターを降りつづけた・・・とても後悔しました

 確かに、他のお客様も降りていたエスカレーターでしたので、そこで立ち止まり、頭を下げてお礼を言うという状況ではありませんでした。
 でも、もっともっと、「言葉」ではお礼の気持ちを伝えることはできたでしょう。それに、自分のものではないと伝えるにしても、木で鼻をくくったような「違います」というのではなく、心のある言葉、違った言い方はあったはず・・・ 

 あの日から5日。
私は今もずっと考えているのです・・・ どうしてあの日、私はあんな対応しかできなかったのか?あの女性の厚意に応えるためには、どのようにして、どんな言葉で私の思いを伝えるのが最善だったのか?
 明日の私が、今日の私よりもっと素敵であるように、私はいつもいろんなことを心で感じ、考え、生きていたい、と思っています・・・



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脇役は重要です!

2012年01月22日 | う゛う゛ー
 先日、叔父と一緒に映画を観てきました
年末、一人暮らしの叔父を招き、クリスマスを一緒に迎えた時、プレゼントとして「目録」を渡していたのです。『映画を観て、美味しい牡蠣の夕食をご一緒しましょう』という目録。
 映画は、叔父のリクエストで、年末から話題になっていた邦画を観ました。年末には、三年越しでNHKの「坂の上の雲」を観ていたので、私も「海軍モード」になっていたこともあって、叔父のリクエストを快諾
 まるで、近現代史を学ぶような感覚の2時間でしたが、とても良い映画でした 主役の俳優さんが、良い味を出していて・・・むかーし昔、確か1970年頃だったと思いますが、両親と一緒に観た「トラ・トラ・トラ」という映画を思い出しました。しかし、何よりもあの頃とは違い、飛躍的に進んだCGの技術のおかげで、戦闘シーンも連合艦隊が航行するシーンも、非常にリアルで、タイムスリップした気分になりました

 しかし・・・この映画。製作費に多少の不安があったのでしょうか・・・それとも、もともと意図的にそのようにしたのでしょうか・・・主役級の俳優さん以外は、あまり普段は映画でもテレビでも観ることの少ない俳優さん達が「重要な脇役」を固めていて・・・見ごたえ、という点から言えば、やはり、主役級の俳優さん達との間にあきらかな「差」が浮き彫りになってしまい、とても残念だったなあ、という気がしてしまいました
 平たく言えば、素人の私が初めて「やはり、演技力の差って、こんなにもあるんだあ」ということを実感した一作でした。

 こういうことをあちこちの場面で感じながら、どこか映画の中にのめりこめない思いで鑑賞していた私は、ふっと、全く映画とは関係ないことを考えていたのでした

 世の中(それが大人の世界であっても、子どもの世界であっても)にはリーダーになるような人材と、リーダーのもとで動く人材がある。乱暴な表現をすれば、リーダー以外の人材は、それぞれが相応の力を持つ「駒」となって、構図としてはリーダーの元で動いているように見える。
 一般的には、リーダーには大きな実力が求められ、「駒」は、集まって初めて大きな力としての意味を持つ・・・
 
 でも
私がこの映画を観ていて随所で痛感していたことは・・・駒1、駒2、駒3は、脇役的な存在に思えるけれど、たとえ配役としては「脇役」であったとしても、決して各人はリーダーのための構成員でも、リーダーの引き立て役でもない セリフが一つ、二つだったとしても、そこで語られるセリフには大きな意味がある 「リーダー」映画で言えば主演級の俳優だけが重要なのではなく、脇役である「駒1」「駒2」「駒3」・・・が、どんなに大きな意味を持っていることか
 この作品では、それぞれの「駒」である脇役が力不足であるために、こんなにも作品そのものが見ごたえのないものになっている(あくまで、私個人の主観ではあっても)。
 やはり、脇役には重要な実力が求められ、それぞれがかけがえのな意味深い登場人物として、物語を作っていっているのだ

 とかく親というものは、主役級のリーダーのポジションに我が子を起きたがります。
グループリーダー、クラス委員、キャプテン、部長、生徒会長・・・スポットライトのあたるところに我が子の姿があるとそれは嬉しいですね ビデオだって回しがいがあるし、有給休暇をとっても、行くだけの価値がある
 
でも、私はやっぱり、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんそのものが存在する意味、その子の素顔を大事にして、Aちゃんの役割、Bちゃんの力、Cちゃんだからこその味・・・そういうものを、誰よりも親が気づき、親が評価してやれなければならない!と強く感じています

 「主役のオーディションに落ちた」「クラス委員の選挙に敗れた」「副リーダーにしかなれなかった」etc.etc. そんな我が子の嘆きを聞いた時、「良かったじゃないの。トップは大変よー。失敗したら大恥かくし、責任重いし 主役でなくって良かった良かった」などと、訳の分からないネガティブな慰めを言って、自分自身をも慰めるのではなく、我が子の良さと味に気づき、その力を十二分に発揮できるように、親こそがその子の力を評価し、エールを送ってやらなければならないと思っています。

 ああ、それにしても・・・
脇役にも名脇役と言われ、評価されているような俳優さんを揃えてもらった上で、あの映画が観たいなあ なんて、不可能なことを思いながら、叔父との牡蠣三昧ディナーを楽しんだ私でした

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新年、発想を変えてみる

2012年01月06日 | にこにこ
 あけましておめでとうございます
激動の2011年でした。何とか、今年2012年は、穏やかで、あたたかいニュースでいっぱいの年であって欲しい!と心から願っています

 さてさて。
年末は・・・日頃さぼっていることを、たーくさん片付けないといけない・・・というのが私の常、です あれもしなくちゃ!これもしないといけない!考えているだけで、胸が苦しくなります

 もともと、私は自分で自分にたくさんのことを課して、そしてそれを達成した自分を自画自賛するタイプでした そんなふうに、ずっとずっとやってきました。
 他人に評価されることも嬉しいですし たとえ他人からは十分に評価はされなくても、そんなふうに「がんばっている自分、がんばった自分」が好きなんですねえ・・・究極のナルシストだったかもしれません

 けれど、人生観が変わって以来、もうあまりそんなふうには思わなくなりました。
自分に無理難題を課して、自分で自分の首を絞め、時には忙しさのあまりに人に当たりちらし、青息吐息で達成し、そして自分を誉める・・・今はそんな馬鹿なことは止め、その「一瞬、一瞬」を大事にするようになりました
 目標は立てても、大きすぎる目標によって自分を追い込んでしまい、苦しくなるようなことはせず、今は、小さな目標をたくさん作るようにしました
 いきなり10歩先のことを目標にするのではなく、3歩先程度のことを目標にして、1,2,3・・・と、一歩ずつ進み、その過程を愛おしみ、楽しむようにしたのです。

 そんなことで・・・
昨年末、私には大きな変化がありました 自分でも驚いたのですが・・・
以前は、リストアップした「〇〇をする」「△△をする」が1つ終わると、それを線で消しました。そして私は必ず思ったものです。「ああ・・・まだこんなにもある・・・これだけ残ってる・・・いったい、いつまでかかるだろう・・・」そんなふうに思ったとたんにうんざりし、顔からは笑顔が消えました。イライラし、雑事や仕事を溜め込んだ自分を罵倒したり、腹を立てたりしていました
 当然、リストアップしたことをやっている時は気が急き、頭の中には「これからしないといけないことのリスト」がちらつき、気分はブルーでした。

 でも
昨年末は、発想を変えました。1つのことを済ませたら、「ああ、一つ終わったぞ 一つ、確実に終わらせることができた ああ、良かった」そう考えるようにしたのです。
 まだBもCもDもEも残ってるじゃないか・・・と思うのではなく、「A」をきちんと終えることができたー!無事に終わらせた、良かった良かった!と思うようにしたのです。
 すると、とっても気分が軽くなりました。そして、Aをやっている時は、自然とAだけのことを考え、慌てることも焦ることもなく、愛情を持ってAに専念できました

 これは、例のお寺のご本堂のお掃除の時に、「心をこめて一つのことをする」ということから、自然に会得したことかもしれません。
 実際に、Aに取り組み、Aを終えたら、すべきことは一つ確実に終わるのです。ところが、BもCもまだ残っている、と考えている時には、終わらせたAには心はない・・・ということ、ですよね。要するに、Aの時にはAのことを考え、Aを終わらせたらAを終えた!ときちんとAへの気持ちを完結すること・・・そして、あらたな気持ちでBに向かう!ということでしょうか。

 すると不思議ですよ。一つ、一つのことを終わらせる時、とても充実感があって、あたたかい気持ちになれます 気持ち良く次のことに移れるのです。これは、年末に限らず、どんな時に、どんなことをする場合も同じだと思います

 何だか、私は大きな真理を得た気分で・・・年末年始、帰省をした実家で、のんびりと座る暇もなく、あちこちに気を遣い、コマネズミノように働いた時も、今までのようにストレスは感じませんでした。(でも、大層疲れて戻ってきましたが

 どうぞ、みなさまも試してみてください こんなふうに気持ちの持ち方、発想の転換をするだけで、自分が楽になり、そして、すべてのことが好循環になりますよ



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お掃除を修行にする

2011年12月20日 | う゛う゛ー
 じつは先日、お友達に誘っていただき、お寺の「年末のお掃除」のお手伝いに出かけました お寺のお掃除???正直、イメージが湧きません。お寺と言ってもねえ・・・鐘楼もある・・・境内もある・・・ご本堂もある・・・庫裏もある・・・仏像だってあるよな・・・などとあれこれ考え、よく年末のテレビのニュースで観るお坊さん達が作務衣姿で大きな仏像のすす払いをしたり、大きな梁を見上げて掃除したりということを思い描いて出かけました

 その日は、たくさんの方がお手伝いにいらしていました。私は心の中で「むー、みなさん、ご自宅のお掃除を上手になさる方なのだろうか・・・私のように『掃除は好きじゃない』なんて人はいないのだろうなあ・・・」と、とても場違いな思いがし、意気消沈してしまいました
 そんなうちに、お世話役の方からご説明があり、お掃除をする場所が振り分けられていきました。私はその誘ってくれた友人と、「前から詰めてお座りください」のお言葉に素直に従い、最前列に座っていたためか、「この一番前の列の方は、ご本堂のお掃除をお願いいたします」と言われました。
 さすがの私にもわかります。
お寺の中でも「ご本堂」は最重要な場所 仏様も安置されているとってもおごそかで、粗相のあってはいけないところ、に違いありません。いよいよ場違いな私です
 しかし、覚悟を決め、他の方達と一緒にご本堂に移動しました。ああ、その通りです・・・こんな「掃除嫌い」の私がいるには罰当たりなところ・・・
 けれど、そんな私だからこそ、何かそこに決まったことに意味があるような気がして・・・教えていただいたように、一生懸命に窓を拭きました

 最近の子ども達は、クラスの中で「テーブルに牛乳をこぼしたら何で拭きますか?」とたずねたら、ほとんどが「ティッシュ!」とか「キッチンペーパー!」とか答えてくれます。
 確かに、そうでしょうね。牛乳や生卵をお布巾で拭くと、匂いがついて、なかなか取れません。特にタンパク質の汚れは、あとあと何かになっちゃう?などと思うと、拭いてポイッと捨てられ紙で拭くことが一番気持ち良いかもしれません
 けれど、さすがに「お布巾」と「お雑巾」の違いがわからないとか、「うちはダスキンだから、雑巾は見たことないよ」と言われると、ちょっとだけ悲しくなります

 この日。
ご説明では、使う雑巾は4種類ありました 窓を拭く用のもの。腰から上の場所で使うもの。足の位置で言えば、くるぶしの上あたりからの腰あたりの場所に使うもの。そして、床を拭くもの、です。私はなるほどなあ・・・と思いました。
 でも、何にでも興味を持ってしまい、人とのふれあいを縁と考えている私の性格がこの日ばかりは仇となり?窓を拭いていても、あれこれと考えてしまいますし、ついついご一緒した人と話してしまう・・・
 ああ、この渕を面とりしたガラスは普通のものより高級だけど、やっぱりきれいなんだよなあ とか、たまたまお隣の窓を拭いている方とも、お子様の悩みをお聞きしたり・・・

 だからでしょうか、年配のとても品の良いおばあさまからお声がかかりました。
「そこの若い方。そうそう、黒いベストをお召になったあなたですよ 掃除機をお願いしてもよろしいかしら?」 
 まず、そこの「若い方」との呼び掛けに躊躇してしまいましたし(確かに、その方よりもかなり若いことは事実ですが・・・)、「掃除機をお願いする」で、もっと躊躇しました。
 何を隠そう、私は「掃除機をかけるという行為」が嫌いなのです 整理整頓は好きです。いろいろなものを整理し、片づけていくのは好きです。でも、なぜか、掃除機を出し、長いコードをバリバリと引っ張り出し、ホースの支度をして、バキュームする・・・これが嫌いなんですねえ・・・

 その方のお声には、不思議な威力があり「いえ、私はちょっと・・・」「私は適任ではありません」などと言える「隙」のようなものはありませんでした。
 私は歪んだ笑顔で返事をし、その方の後に続きました。にこやかにご説明をくださるおばあさま。私ははい、はい、とお返事をし、掃除機をかけ始めました。
 いつも家でするように、部造作にシューシューと・・・そして、壁のところまで来たら、掃除機を前後させ、掃除機の頭の部分をコツコツと壁に当てながら・・・すると、そのおばあさまは「ご自宅のお部屋でもそうなさっているかしら?きっと何度も掃除機をかけている間に、それでは壁に傷がつきますよ。それにね、壁は、家を支えれくれている大事な部分ですもの。大切に扱ってあげてくださいな」とおっしゃいました。
 私は、顔から火が出そうになりました。恥ずかしさで、身体中が熱くなりました 「申し訳ございません。そうですね。私はいつもこんなふうに掃除機をかけていました。ああ・・・そうですよね・・・」
 おばあさまは、相変わらずにこやかに、穏やかな笑顔で「では、こちらはお願いいたしましょうね」とおっしゃり、私のところから去っていかれました。
 私は夢か、現実か、わからなくなりました。あの方は、本当にいらっしゃる方なのだろうか?それとも、私の元に現れた、私を戒めるためにお言葉をくださった仏様???
 そう思えるほど、私には衝撃的なお言葉だったのです・・・

 「心を込めて」が私のモットーです。そう思って生きていますし、公私ともに、人にもそのようにずっとずっと伝えてきました。心を込めて人と接し、人と語り、陰口、悪口を言わず、心の目で見て、心からの言葉で語る・・・そうしている、と自負さえありました
 でも、嫌いな掃除機をかける時には、そんなことを考えたことがありませんでしたし、心を込めてお洗濯をし、心を込めてお洗濯を干したこともありませんでした。かろうじて、二人の子ども達が高校生の頃までは朝5時起きをして、二人のお弁当を子ども達が食べる時の様子を想像して、「心を込めて作っていた」だけでしたねえ・・・

 私はその後、「心をこめて」掃除機をかけました
いつもたくさんの人に踏まれ、たくさんの方達が座り、足やお尻を受け止めてくれている床に、いつもありがとうございますという思いを込めて、感謝の思いで一生懸命に掃除機をかけました。
 そのうちに、掃除機のホース、掃除機のノズルが、私の手と一緒になっている錯覚に陥りました。私の手が動くように、掃除機が動きました。私の手が、床のチリや埃をかき集めているような気がしました・・・私の感謝の思いは、そのままで私の手に伝わり、私の手となったホースに伝わりました。とっても、不思議な感覚でした・・・

 やっつけ仕事、という言葉があります。とにかく済ませる仕事、という意味でしょうか。私にとってもお掃除、お洗濯は、そういうものだったのだと思います

 あの日から2週間。
今でも、やっぱりお掃除は好きではありません あの仏様の化身?のおばあさまの言葉が深く心に刻み込まれ、私の手となった掃除機のホースの感覚・・・あの日の掃除機をかけていた床・・・すべて身体が覚えていますが、まだまだ自分の身についてはいないことは、本当に恥ずかしいことです。
 けれど、普段何気なく「こなす」家事にも、心を込めて取り組むと、全くその行為が違うものになり、家事以上の意味を持つものになる!ということ痛感しました
 
 そして、あの日のお掃除は、じつは「お掃除」ではなく「修行」であり、私が生きていく上での貴重な学びの時間だったのだな・・・と感じています


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我が子がそこにいる、ということ

2011年12月08日 | めそめそ
 今日、12月8日。
仏教では「成道会(じょうどうえ)」の日。お釈迦様が悟りを開かれた日です カトリックでは、「無原罪のマリアの日」とされ、祝日になっています
 たまたま、この日が息子の手術日となった、と話した時、信仰心の厚い二人の友人は、ともに「大丈夫 この日の手術ですもの。どんなに難しい手術であったとしても、必ず成功するわよ。この日は特別の日なんだから」と力説してくれました。
 私は、このそれぞれの友人の言葉に、どれほど大きな力をもらったかしれません。

 2年前の今日、息子は自分で歩いて手術室に向かいました。角を曲がる時、振り返った息子は、夫や妹、私に手をあげて、視界から消えました。
 今見た息子の姿が、息子の最後の姿になるのだろうか?
泣くまい 悲しむまい 嘆くまい それをしてしまったら、もう終わってしまう・・・そんなふうに思いました。
 そんな話をすると、多くの方は私のことを「あなたは強い母親ですね。」とおっしゃいます。
そうなのかもしれません。でも、息子の命をつなぎとめるための努力はしても、それ以外のことは何一つとして無駄なことをする気にはなれませんでした 
 なぜ、こんなことになってしまったのか・・・どうして私の息子にこんなことが起こってしまったのか・・・そんなことを考えて、涙を流して、いったい何になるというのでしょうか?
 そんなことをする時間があるのであれば、息子のために「祈る」ほうが、どれほど価値のあることか!と思っていました。

 きっと、息子は今日も、忙しく働いているのでしょう こんな時代に仕事をいただけたことも、仕事に就ける身体にまで回復させてもらえたことも、生きている!ということにも、ひたすら感謝です。

 今日、みなさんはお子様に腹を立てましたか?怒鳴りましたか?呆れましたか?
  何度言ったらお弁当箱を出すの!
  言われる前に宿題をしてしまいなさい!
  いつまでゲームをしているの!
  どうして学校からのお手紙を出さないの!
  またピアノの練習をしなかったわね!
  さっさと塾に行きなさい!
  もう12月なのよ、わかってるの!・・・・
 私自身も母親として、何十回、何百回と息子、娘に言ってきた言葉です どれもこれも大事なことです
 
 でもね。
たまには、本当にいつでも、でなくても良いので、たまには思ってみてください
そこに、あなたの息子が、娘がいてくれることが、どんなに素晴らしいことなのかを・・・

 お弁当箱を出さない子でも 宿題をなかなか済ませられない子でも ダラダラとゲームに溺れる子でも 手紙を出し忘れる子でも ピアノの練習をサボる子でも 塾にいくのを嫌がる子でも 12月になっても、なかなか本気モードにならず、偏差値があがらなくても
 そこにあなたの大事な子どもがいて、あなたをイライラ、カリカリさせてくれることが、じつはどれほどのことなのか

 「おめでたですよ!」と言われたその瞬間から、あなたは、その子を授かるという凄い奇跡をもらい、あなたのもとにその子は産まれてきたのです
 そして今日まで、腹の立つことが五万とあったかもしれませんが、嬉しくて幸せで、泣けてくるほど素敵だと思える時間もたくさんくれたはずです。

 あなたのそばで、あなたに笑いかけてくれる息子がいること、娘がいること・・・生きているということ・・・
時には、そのことに感謝をしてください 毎日、当たり前のように無事に親子で過ごせていることは、決して「当たり前」のことではないのですから・・・
 私は毎年、これからも12月8日になると、繰り返し、繰り返し、同じことを説き、我が子がそこにいてくれることに感謝しましょうね、っと言うでしょうね




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