村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

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はじめに

2007年06月08日 | Weblog
このブログは村内美術館館長村内道昌について、昭和53に出版された単行本「村内まごころ商法」と、家具の業界誌であるホームリビングに連載された「剛毅の経営」をテキスト化して広く公開するものです。そのきっかけとなったのは2007年6月7日に喜寿を迎えるからです。

「村内まごころ商法」分がその記念日にあたる2007年6月7日からさかのぼって4月7日までの全62回、「剛毅の経営」分が2007年3月31日からさかのぼって2006年12月8日までの全114回です。

なお名称や役職などは当時のままにしてありますので注意が必要です。


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家具は村内八王子

2007年06月07日 | Weblog
1章 ゼロからの出発

1.村内ホームセンターの現況

東京の副都心、新宿を基点にして、甲府に向かって延びる中央高速道路を車で行くと、やがて八王子インターチェンジのすぐそばに「村内ホームセンター」の本店が見えてくる。三万三千平方メートルの敷地に、六階建て、延べ一万平方メートルのフロアを持つ大型店舗である。

この大型店舗がオープンしたのは、昭和四十四年九月であった。昭和四十四年当時、デパート、スーパー業界を見れば、この程度の規模の大型店舗はかなりあった。にもかかわらず村内ホームセンターのオープンが全国的に注目を集めたのは、その業態がデパートでもスーパーでもなく、「ホームセンター」という新しい業態だったからであった。

「ホームセンター」とは何か。これについては、あとで詳しくふれていかなければならないが、簡単に説明しておくと、「家具を中心とした住いの総合店舗」である。商品構成も家具だけでなく、住宅本体から、自動車、家庭電器、台所設備、インテリア用品まで含めた幅広い構成を持ち、消費者のメリットとしては、住いに関する商品は、すべてまとめて購入できるというのがホームセンターなのである。

さて、昭和四十四年、日本で初めての「村内ホームセンター」オープンには二つの問題点が指摘されていた。

その第一点は、すでに欧米では一般化していた「大型専門店」が日本でも可能なのか、ということであった。今でこそ大型専門店はわが国でも珍しくなくなったが、当時はどの業界を見渡しても、村内ホームセンターのような大型専門店は存在しなかったのだ。

第二の問題点は立地条件である。ご存知の通り、中央高速道路八王子インターチェンジは、八王子市の中心の繁華街から五キロメートルも離れた地点にある。周囲はほとんど畑ばかり、人家さえもまばらである。こんなところへ大型店を建設したのだから、成り行きが注目されたのは当然であった。

結果を先に述べよう。村内ホームセンターは大成功であった。「家具は村内八王子」というCMを覚えて下さっている方も多いと思うが、わずか十年にも満たない年月のうちに、家具部門の売上げ高全国五位、利益率では業界全国二位の大型店に成長したのである。

資本金四千八百万円、年間売上高約百億円、支店数四店舗、傍系会社三杜、従業員数約四百名。商圏はすでに関東一円に及んでいるといってもいい過ぎではない。

村内ホームセンター成功の秘密は、①百姓商法に徹したこと、②多くの方の善意の協力が得られたこと、③場当り商法ではなく、常にシステムを組んで実行に移していったこと、④モータリゼーションに対応できたこと、などが主なものである。

これらについては、次の項から順を追って説明していくつもりであるが、ここではじめにいっておきたいのは、村内ホームセンターの成功は、決して私一人のカでなしとげられたわけではなく、恩師、先輩、学識者、幹部社員諸君の指導、協力の大きな支えによってなしとげられたものだということである。また、「村内会」を組織していだたいている多くの問屋、メーカーの方々のおカ添え抜きには村内ホームセンターを語るわけにはいかないのも事実である。

二宮尊徳先生は『凡て商売は売って喜び、買って喜ぶようにすべし。売って喜び、買って喜ばざるは道に非ず』と教えておられる。

私も、多くの恩人の皆様方のご期待に添うべく、尊徳先生の教えを商売の支えにしていきたいと、固く心にきめているものである。

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本店およぴ支店網

2007年06月06日 | Weblog
八王子本店がオープンして三年のちの昭和四十七年十一月、府中に第一号の支店が完成した。本店ほどではないが、やはり家電、ピアノ、フトンなどのテナントを入れた大型店である。さらに翌四十八年には相模原店、五十年には大月店、五十一年には立川店をオープン。現在は町田市近郊にも五番目の大型支店を建設する予定である。

企業にとって、拡大は宿命的課題といってもよい。現状維持、あるいは縮小といった発想を持てば、その時点ですでに競争に負けるという宿命をいやでも負わされているのだ。その意味で、現在の支店網を見ていれだければ理解していただけると思うが、村内ホームセンターの拡大戦略は、「地域一番店」を、ユーザーが車で気軽に行ける程度の距離に置き、面すなわち商圏を埋めていくという方式である。地域一番店とは、その地域では一番大きい専門店という意味である。村内の場合はもちろん、家具を中心とする住いの総合店舗の地域一番店である。その地域の主要国道ぞいに大型店舗を置いて、住いのことならなんでもその店でまにあうということになれば、車で来られる範囲のユーザーなら必ず一度は見にくるはずだし、他店に比べて商品そのものが安くて良質のものであれば売れるに違いないということである。そして現実にもその通りになってきたのである。これが地域一番店でなく、他に強力な競争店があれば、商品数をはじめとして、さまざまな不利が予想されるから、巨大店舗方式こそ、現代の専門店の拡大方式として正しかったわけである。

村内ホームセンターの販売戦略の基本は以下の通りだが、専門店のもうひとつの大きな課題は商品供給の問題である。並みの商品を並みの値段で売るのなら問題はない。しかし私の基本理念にある「良品廉価」、すなわち良い商品を他より安く売るのが専門店の本来の姿勢であるという方針を実行に移すためには、普通の方法ではだめなのである。ただ単に安く売るだけならメーカーを叩けばいいし、金融品など裏のルートから商品を入れることも可能であろう。しかしこのルートでは安定供給はないし、まして良品ということになると不可能になってしまう。

優良商品を長期にわたって安定して仕入れるにはどうしてもメーカー側の協力が必要である。ご存知の通り、日本の家具メーカーは家内工業的な規模がほとんどだから、メーカーと専門店はモノとカネの交換といった単純な交渉ではなく、場合によっては親戚付合い以上の親密さがないと、良い商品を開発し、製作してもらうことができないという事情である。その点、村内ホームセンターには「村内会」というメーカーの集った親睦団体があり、この会の加入メーカーによって商品のはとんどが供給されている。私はメーカーに対しては常に“親戚以上のお付き合い"をモットーに相手の立場を第一に考えるよう努めてきたつもりだが、それがホームセンター成長の蔭の大きなカになっているのである。

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関連会社

2007年06月05日 | Weblog
ホームセンターという発想は、家具だけでなく、住まいに関するすべての商品が置かれている総合店舗であると前にも述べたが、これには住まい(生活)の足である自動車や、住まいそのものの住宅まで含めている。家具以外の関連商品は他社のテナントで埋めることもできるが、車や住宅となると自分のところで手がけていかないと、企業のバランスがとれなくなる。そこで傍系会社の手はじめとして、昭和四十五年に「村内外車センター」を設立した。外車にしぼったのは、国産車の場合はディーラー網が完備していて、喰い込む余地がないことと、外車の将来性に注目したからである。

八王子本店がオープンしたとき、ディスプレイとして外車を展示し、多数の引き合いがあった。当時、東京、三多摩地方には外車のショウルームが一つもなかった。

引き合いの状況をみて、これは将来もっと需要が大きくなるのではないかと判断したためである。この狙いは当って、「村内外車センター」は設立以来毎年黒字になっている。現在も年間一八〇台のアメリカ車、ヨーロッパ車を販売し、月商は三千五百万円。昨(昭和五十二年)秋には本格的な整備工場も完成した。

住宅に関する傍系会社は昭和四十七年に「村内ミサワホーム」を設立した。郊外住宅地として発展しつつあった八王子市周辺では絶対の成長産業と見えたのだが、やっと昨年から軌道に乗った状態である。そこで私が学んだのは,企業に頭を二つ作ってはいけないということだった。村内とミサワというこつの頭を作ってしまったため、社員があっちを向いたりこっちを向いたりという姿勢になり、それが業績を悪化させた。いい古された言葉だが“企業は人なり”ということをあらためて強く感じさせられたのである。

この村内ミサワホームも、昭和五十三年に「村内ハウジング」と改称し、頭を一つにしたことと、プレハブだけでなく、木造の注文住宅を開発することによって業績が良化し、今後は順調に成長するだろうという見通しがついた。

このほかに、「村内サービスセンター」という傍系会社も昭和四十五年に設立しているが、こちらは配送車三十台を主体とする配送,アフターサービス会社。この部門を切り離して独立採算に持っていったのは、切り離したほうが機構上うまくいくのではないかと判断しただけの問題である。

さて、これまで、村内ホームセンターの現状を大ざっぱに展望してみたわけだが、私の目標は「日本一の専門店」になることであり、この大目標に向って今日も戦う「村内ホームセンター」が過去にどのような道をたどり、これからどう伸びていくかについて、読者の皆様方の前に余すところなく提示してみようと思う。現代において、専門店とは何か、商売とは何か、というテーマで、発想、戦略等をこまかく述べていきたい。明日に大きな希望を託して強く生きている読者の方々のために、何らかの参考にしていただければ幸いである。なお私事にわたる記述で皆様にご迷惑をかけることもありそうであるが、どうか笑ってお許し願いたい。

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攻撃精神

2007年06月04日 | Weblog
2.父に鍛えられた“村内精神"

村内家は八王子市の北部にある加住という村の地主であった。遠く戦国時代にさかのぼれば、北条家の家臣の一家だったといわれている。やがて、北条が豊臣秀吉に破れることによって土着したと伝えられているが、豊臣時代が終わり徳川時代に入ると、江戸の甲州ロを守る幕府直属軍団として歴史上名高い「八王子千人隊」の一家として、幕府に迎えられる。「八王子千人隊」の平常時の仕事は日光東照宮の警護であった。東照宮はご存知の通り、徳川家康を祭ったところであり、徳川幕府の精神的支柱でもあった。その東照宮を警護するわけであるから、当時の千人隊士の袴りは大変なものだったらしい。家系的には、私は十七代目ということになっている。

さて、明治維新になったときの当主は村内宇三郎といった。肖像画で見ると、なかなか立派な風貌の人物だが、事実、村で、名主的な仕事をする一方、八王子の代表的な産業であった織物業も行なうなど、実力のある人物だったという。

宇三郎は私の祖父である。宇三郎の長男は村内栄一といって、この人は私の伯父に当たる。

栄一という人も若い頃から事業家的な気質に恵まれていたらしく、小学校を出ると同時に、親に無断で千葉県の醤油醸造屋に丁稚小僧として住み込み、年季が明けると八王子に帰ってきて醤油メーカーをはじめた。農家の長男であるから、そこまでする必要はまったくなかったのだが、それでは気がすまなかったのだろう。この人は戦後、醤油製造から家電販売に転進し成功を収めた。現在のムラウチ電気が、それである。

私の父、村内万助は字三郎の次男であった。当然、村内家を継ぐ立場にはなかったのだが、長男が農業より事業家への道を選んだので、成り行きで家を継ぐことになった。

兄が千葉から帰ってきたら、家を継ぐものとばかり思っていた父、万助は、典型的な次男坊であった。小さいときから腕白で、人一倍元気がよかったという。ごく若い頃は競争馬を買って、前橋、伊勢崎といった草競馬場を転戦して歩いたというエピソードもある。

村内万助は現在の八王子工業高絞、当時の八王子染織学校を卒業して、甲種合格で近衛騎兵連隊に入隊した。皇居の守備隊であるから、身体検査、学歴、家柄などすべて厳重に審査される。身長は一番低かったが、この名誉ある連隊に配属されることになったのだ。

軍隊時代の村内万助のエピソードは、軍刀術が抜群に強かったことである。子供の頃から攻撃精神が旺盛で人一倍負けず嫌いだったのが、軍刀術でも負けたくないという気持に結びついたのだろう。

軍刀術にはこんなエピソードがある。ある夜、万助は野戦の演習に出て、何か大切なものを落してきて、営倉に入れられてしまった。ところが、翌日、連隊の軍刀術の中隊対抗試合があった。万助のいない中隊はどんどん負けていく。中隊長が「村内はどうした」というと、営倉に入れてありますという。すぐ出して来いというわけで出場した万助は連戦連勝、ついに自分の中隊を優勝させてしまった。もちろん、営倉は取り消し、中隊長以下に大いにほめられたという。

村内万助が、私の母、正子と結婚した事情については、あまり詳しいことはわからないが、正子は当時十九歳で庄屋の娘だったという。たいへん美人で働さものだったらしい。明治生まれの女性の典型で、我慢強く、常に夫につくすというタイプだった。

嫁に来たときも、父と母は盛大な結婚式はしていないという話である。父は次男で、家を継ぐとは思っていなかったので、やがて財産でもできたら盛大にというつもりだったらしい。

さて、父はというと、軍隊に行ってきて、かなり人間ができてきたものの、まだ若く、次男坊気質も完全には抜けていない。家業の農業よりも、競争馬を連れて歩いたりするほうに熱心である。地主で小作米も入ったからそれでもやっていけたのだが、そのため、母は大変苦労したらしい。

地主とはいっても、自作の田畑もあるし、豚も五、六十頭飼っていた。座って小作人を指図しているわけではなく、とても忙しいのである。

父がその調子で、あまり家業に身を入れてくれない。母はそのぶんだけ働かなければならなかったわけである。田畑へ出るし、豚の世話もする。豚がお産をするなどということになると、豚小屋に徹夜で泊り込み、生まれたばかりの仔豚の面倒を見るといったことも、珍しくなかったという。それでも明治の女だったから、不平をいうわけでもなく、黙々と働いたらしい。

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物事を善意に解釈せよ

2007年06月03日 | Weblog
父がこの調子で、一生遊んでいたら、いまの村内家はないわけだが、ある事件をきっかけに、父は人が変わったように真面目に生きるようになった。      

事件というのは、火事であった。八王子は絹の産地で、村内家でも毎年養蚕を行なっていた。若い年代の人にはわからないと思うが、養蚕は、座敷の畳を全部上げ、そこにかいこ棚をつくり、炭火で部屋を暖めて卵をふ化させる。

その棚が、暖房用の炭火に落ち、自宅が全焼してしまったのである。のちに、父は私によくこういった。

「前日までは、いくら遊んでいても、地主の息子だから近所の人に旦那さんといわれていた。しかし、一夜明けると、焼け跡にむしろを敷いて、近所の人が炊き出してくれたおむすびを、ありがとうございますといって食べなければならない。一夜乞食とはこのことだなと思ったよ」

人生の厳しさが、そのときはじめて実感としてわかったと、父はよくいっていた。やがて、村内万助は家を建て直すが、それからは人が変わったように遊びをぴたりとやめ、家業に精を出すようになった。母にかわって、一生懸命田畑で働き、豚を飼った。母もそれまでの苦労が報われ、家庭も円満になった.

「結果的には、家が焼けたのはよかったんだ。あのままでは、のちのちまで大切なことがわからなかったろう」

と父はいう。なにか悪いことが起こると、多くの人は、気落ちしてダメになってしまう。しかし、父はそのとき、火事は自分に課せられた試練であろうと思ったという。現象的には大きな災難だが、それは自分がもっと優れた人間になるための試練であって、けっして、本当の災難ではないというわけである。物事を悪いほうへ悪いほうへ解釈していけば、自然に気が滅入って、自分がダメになってしまう。そうすると、本当に物事はどんどん悪いほうへ悪いほうへといってしまう。しかし、悪い出来事を、これは自分のために天が与えてくれた試練だと、善意に解釈してがんばれば、悪い出来事も人生の貴重な教訓になり、物事は良いほうへ良いほうへ向うというわけである。

「すべて、物事を善意に解釈する」

という言葉は、それ以来、村内家の家訓のひとつとなった。悪いことが起こったとき、それを「誰々のせいだ」などと他に責任を転嫁せず、自分の糧とせよということである。

父はまた、

「人間の真価というものは、逆境に立ったとき、はじめてわかる」

ともよくいった。逆境に立ったとき、くじけてしまうか、それとも、笑ってそれを受け止め、再出発ができるかどうかで、その人間の真価がわかるということである。

のちに、農地解放で土地を取り上げられたときも、村内万助にとっては大きな逆境に立たされたときだった。普通、地主が土地を取り上げられれば、それでおしまいである。あとは没落していくよりない。しかし、そのときも父はそれと試練を受け止め、のちに出てくる木工所をつくって、村内家具店の基礎をつくった。最悪の事態でさえ、他人のせいにせず笑って受け止め、再スタートを切るという父、万助の思想は、私が父から学んだ最大の教訓であり、いまの村内ホームセンターを支えている「村内精神」の根底にもなっている思想である。

物事をすべて善意に解釈できれば、悪い事が起こったときにも試練として受け止めることができる。逆境に立ち、それを天が与えた試練として受け止め、「なにくそ」という「負けじ魂」ではね返していけば、何物も怖くないのである。

さらに、物事を善意に解釈し、逆境に立ち向かっていけば、そこから自然に、真心とか奉仕という精神が生まれてくる。悪い事が起こったとき、他人のせいにしなければ、必然的に自分自身を振り返って見るはずである。自分のどこかに悪いところがあったのではないだろうか。それが、悪い結果を招いてしまったのではなかろうか。

この世は、人と人が協力しながら生きている世界である。そう考えていけば、真心で奉仕するほかに正しい道はないというところに必然的にたどりついてしまう。私はよく「百姓商法」という言葉をつかう.これはキャッチフレーズでも何でもない。村内はもともと百姓であるから、百姓の延長上で商売をしているということであり、百姓を売りものにしているわけではない。精神構造そのものが、何百年もの長い間、八王子で農業を営んできた人間のそれであるから、商売もまたその精神構造の上に構築されているということなのである。

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男の子は泣くな

2007年06月02日 | Weblog
私は昭和五年生れ。村内万助が正子と結婚して十二年目にはじめて生まれた子供である。何かの因縁かもしれないが、父とは三回り違う、同じ七石金星の午年である。

ただ、私が父と違うのは、父ががっちりした体格で外向的な気質だったのに対して、私は長身で細く、性格も内向的というところである。どちらかといえば母親に似ているのである。

そんな私を見て、父はこの子は強く育てなければいけないと思ったらしい。たとえば、遊んでいてケガをしたり、年長の子供にいじめられたりして泣いて帰ると、

「男は泣くもんじゃない!」

と家に入れてくれない。幼い頃の私はどんなに痛くても、どんなにくやしくても歯を喰いしばっていなければならなかった。

また、虚弱体質で内気だったから、引っ込み思案になりがちだったが、父はそれを治そうと、昼休みの時間によく相撲を取ってくれた。

「男は攻撃精神が大切だ。ドンとぶつかってこい」

というわけである。そして、三度に一度はわざと負けてくれることも忘れなかった。

相撲だけでなく、父はなにかにつけて、私を一人立ちできる強い人間に育てようとした。たとえば、八王子市内に買物に行って、父と二人で七キロの山道を帰る途中日が暮れた。すると父は、

「急に用事を思い出したので一人で帰りなさい」

という。私は真暗な山道を一人で帰ったのだが、その恐ろしかったことはいまでも忘れられない。いまのように舗装された明るい道ではない。人っ子一人通らない峠の細道である。

「お化けや幽霊なんか絶対にいないんだ」

と私は自分にいいきかせながら峠を越えて家へ帰った。ところが、父は用事を思い出したわけではなかった。私に自立心をつけるために先に歩かせ、自分は後からそっとついてきて見守っていたのである。怖いながらもなんとか自分で家へ帰りついたので父には大いにほめられたが、怖さのあまり足がすくんで動けなくなったら「コラッ、男のくせに」と叱られるところだった。

父にひどく叱られた思い出がひとつある。小学絞に入る前の年、小学校の運動会を見にいったときのことである。

運動会では、未就学児を対象にした「宝拾い」というゲームがあって、私もそこに出されたのだが、たくさんの人が見ている校庭の真中に出されたとたんに足がすくんで動けなくなってしまった。内気だったから、先生が「あそこまでいってお菓子の袋を持ってきなさい」といっても、一歩も足が前へ出ない。とうとう先生が袋を拾ってきて私に渡してくれた。

ところが、それからが大変だった。家へ帰ると父が待構えていて、

「コラッ! おまえはそれでも男か」

とカミナリを落したのである。それはもう恐ろしいケンマクで、

「いまから、学校へ行って、皆が見ている前で校庭を三周走ってこい。グランドを三周してこなかったら家へ入れないぞ」

というのである。家へ入れてもらえなかったら困るから、私は泣きながら校門をくぐり、目をつむって無我夢中でグランドを三周した。運動会の競技をしているところへ変な男の子が入ってきて、泣きながら走ったのだから、見物人もびっくりしたに違いない。しかし私のはうも「走って来なかったら家の子じゃない」といわれているのだから必死であった。

夢中で三周して家へ帰ると、あれほど怖い顔をしていた父がニコニコしていた。

「よくやった。お前は偉い」

というのである。

内気で虚弱児だった私に対する父の教育はざっとこんな調子だった。一人息子だからデキが悪くては困る。周囲はともすれば甘やかしがちである。それでは大人になってから大変だ。

「突撃精神」「攻撃精神」を育て、過度の内気を克服させ、体力をつける。スパルタ教育で自立できる子供をつくるというのが父の教育方針だったのである。

小学生の頃、父の名代で何かの寄合いに出されたことさえあった。お祝いを持って、京王線に乗り、調布に行き、父にいわれた通りお祝いの言葉をいって帰ってくるわけだが、向うは父の名代というので上座へ座らせて酒まで出されたりする。これもやはり教育のひとつだったようだが、子供の私としては緊張のしっぱなしだった。ちゃんとやって帰らないと父のカミナリが落ちるのだから、酒まで飲めとはいわれないにしても大変であった。

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小学生の頃

2007年06月01日 | Weblog
小学校は三年まで古山先生という女の先生が担任であった。非常に立派な教育者で、すでに結婚しておられたが、ご主人も教育者ということであった。私は三年間ずっと級長だったが、苦手は体操と音楽だった。体操は虚弱体質のせいで「乙」。音楽にいたっては「丙」だった。

音楽で「丙」を取ったとき、これは、また父にカミナリを落されるとビクビクものだった。しかし、通信簿を見た父は、音楽が丙であるのを見てひどく喜んだ。

「オレは音痴だったから、宴会嫌いで村内をつぶさずにすんだ。おまえも歌は下手らしい。これで村内家は安泰だ」

というのである。物事にしくじって叱られなかったというのは、これが最初で最後であろう。

四年生になって、担任は酒寄先生という男の先生に替った。この先生は、いつも真赤なネクタイをしていて、怪談話が大好せな先生だった。子供を前に四谷怪談などを大真面目にやるのだから一風変っていたわけである。この先生の前任地は伊豆七島の式根島で、いまはひらけているが、当時は孤島という感じだったらしく、ことにつけて「白砂青松、風光明媚、式根島ほど住みよいところはない」というのがロぐせだった。四年生のときは書取りのテストで連続百点の新記録を
作ったのを覚えているが、これは古山先生に教えられた結果であった。

五年生のときの先生は「ブルトーザー」というアダ名の横山先生。甲種合格で、兵隊から帰ったばかり。すごい迫力のある人だった。たとえば、体操の時間に雪が降っていると、

「全員裸になれ!」

とパンツ一枚にされて裸足で砂利道を走らされる。三キロぐらい離れたところに住んでいて、病気で休んでいる子の家へお見舞いにいくわけである。病気見舞いが終わると雪の滝山城址のガケを登らされるという調子だった。古山先生も名教育者だったが、この横山先生にきたえられた一年間も私には忘れられない思い出である。父に教えられた「攻撃精神」と「負けじ魂」をもう一度叩き込まれたという感じであった。

六年生になると、今度は小牛田先生という男の先生が担任になった。この先生は人格者で、私のこともよく面倒を見て下さった。

小学校の頃、私が一番名誉に思っているのは、習字の全国大会で特選をもらったことだった。小学校四年生のときだったが、夏休みを棒に振って、約一千枚ぐらい練習し、その中で、一番よく書けていると父がいってくれた一枚を、上野美術館で行なわれた展覧会に出品したところ、特選に選ばれたのである。いまはもう書に自信はないが、そのとさは父がそばで墨をすってくれているので遊びにいくわけにもいかず、ただ必死に書いたという感じであった。物事はいいかげんにやるのではなく、徹底的にやれという父の教えの一つだったと思うが、それが報われて特選になったときは実に嬉しかったと覚えている。

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府立二中へ進学

2007年05月31日 | Weblog
私は昭和十七年、旧制東京府立二中、いまの立川高校へ入学した。しかし、しばらくすると太平洋戦争がはじまり、学徒動員も行なわれるようになった。最初の頃は授業に出られたのだが、三年生の頃になると、自宅から毎朝、いま多摩ニュータウンの一角になっている稲城の火工廠、つまり陸軍の火薬工場へ通うことになった。

火工廠での仕事は検査係だったが、その頃とくに覚えているのは、配属の中尉が学者だったせいか、午前中は勉強させてくれたことである。本職の軍人が配属されていた部門に行った同級生は朝から晩まで、ときには夜勤までさせられたことを思うと、立派な将校だったと記憶している。

やがて戦争も末期に近づくと、米軍のB29が上空を通って東京空襲へ行くようになるし、グラマンなどの戦闘機までくるようになった。私たちは防空壕に身をひそめているのだが、何しろ火薬工場だから、爆弾を落されたり、機銃掃射を受けたら、それでおしまいである。誘爆を起こして火工廠も人間も影も形もなくなるのはよくわかっていたから、実に恐ろしかった。しかし、不思議なことに、終戦まで火工廠は一発の爆弾も機銃弾も受けなかったのである。幸運だったとしかいいようがない。

終戦が近くなると、私たちも学年上は卒業の時期にきていた、時代の要請で同級生たちはどんどん陸軍幼年学校とか予科練あたりに志願していったが、私は前にも述べた通り、まったく体力に自信がなかったので、そういうところから戦争の第一線に行くのはどうにも気が進まなかった。

そうこうしているうちに「君はどうも体力的に問題があるから、海軍主計学校へ行ったらどうか」とすすめてくれる人があり、願書を出すことになった。海軍主計学校とは、海軍の経理将校を養成する学校である。

しかし、願書を出した時点で終戦。火工廠の工場で天皇陛下の玉音放送を聞いた。放送が終わると大さわぎになって、日本刀で抗戦するといいだす人までいたことを覚えている。終戦直前の八月一日に、八王子市の中心部が米軍の爆撃を受けて火の海になったことも忘れられない。

さて、戦争が終わって、私が進学するかどうかが問題になった。しかし、私が軸性視神経炎という眼病をわずらっていて、近所の眼科医では直らず、秩父の専門医まで通わなければならなかったことと、米軍支配下の日本が今後どうなるかという見通しがなかったため、進学はやめたほうがいいという気持になった。

中学の先生など、進学をすすめてくださる方はたくさんいたが、もし進学していたら、また別の生き方をしていたろうと思う。しかし現在の道を選んだのはけっして間違いではなかったという確信がある。

府立二中時代、大戦のさ中で、ほとんど勉強らしい勉強もできなかったにもかかわらず、私が幸運であったのは、今野先生という、秀れた教育者が担任になられたことだった。今野先生はその後、府立一中の校長から大妻女子大学の講師になられたが、先生の適切なご指導のおかげで、私の成績も入学時二百七十人中の十六番から、三、四番まで上ることができた。

その時の同級生の中には、トップ競いのよきコンペティターであり、のちに東大から読売新聞へ入り、科学記者として、月や地震に関しての研究と著書で有名になった伊佐喬三氏、更に伊佐氏の友人であり、コマーシャルの分野で、幾多の受賞をしている日本テレビの加藤芳孝氏がいる。

この両氏には広告はじめ、多面にわたって教えられることが非常に大きかったことを特に付け加えておきたい。

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豚小屋を改造して木工所に

2007年05月30日 | Weblog
先生方のありがたいおすすめにもかかわらず、私は病気のために進学しなかった。そこで私は「日本一の百姓」になろうという志を立てた。

私の家は代々、百姓である。そんなところから、少年の頃読んだ「日本一の百姓」という無名人の伝記にひどく心ひかれるものがあったのである。伝記といえば、エジソンとかナポレオンとか野口英世などがほとんどだが、その中に、岡山県の一農民を扱った伝記があり、それが私の夢になったのである。

しかし「日本一の百姓」の夢も、時流によって転換せざるを得ない日が来た。昭和二十二年からはじまった農地改革である。

農地改革で村内家に残された土地は山林を除いて田畑二町二反。自作農としては何とかやっていけるにしても、とうてい「日本一の百姓」になれるような面積ではなかった。戦後、農家がよいといっても、それは一部の「米どころ」だけであり、それ以外の一般の農家の生活は非常に厳しかったのである。

これではだめだ、どうにもならないと私は直感した。なんとか窮地を脱する方法を考えなければと思ったのである。

そんなとき、ふと頭に浮んだのは、裏山の雑木林の存在だった。自宅の裏山にはまともな木ではなかったが、名前もよくわからないような大木がたくさんあった。普通ならタキギにして売ろうなどと考えるところだが、父と私が二人で考えたのは、それで家具を作ってみようということだった。

八王子市街の七割は昭和二十年八月一日の空襲で焼失していた。しかし戦争が終わり、復興がはじまり、民家や学校などが建ちはじめた。裏山の木を使い家を建てるというほどの木材ではないが、家具ぐらいならできるかもしれない。学校が建てば机や椅子も必要ではないかと考えたのである。

今思えば、裏山の木はほとんど松や杉だった。松や杉が家具になると思い込んだのだから、今となってみれば滑稽なのだが当時としては大真面目だったのである。

家具をつくるには、まず製材工場をつくらなければならない。そこで、自宅の前にある古い豚小屋を改造し、あちこち探し回って安い製材機械を買ってきて据えつけた。豚小屋は父が競馬に夢中になって家へ寄りつかなかった頃、母が豚のお産のためにいつも泊り込んでいたという例の建物である。

戦後の混乱が続いて、社会が騒然としていた昭和二十二年のことである。

小さな木工所をつくり、山から木を切り出して引き下しても、父も私も家具のことは何も知らなかった。そこで、専門家をやとうことになった。八王子から七キロの山奥の製材所にも、製材職人二人、家具職人三人が来てくれて、翌昭和二十三年三月、加住木材工業有限会社が正式に発足した。これが今日の村内ホームセンターの母体である。このとき私は十九歳だった。
 
この頃のことをもう少し詳しく書くと、やはり父、万助のことになるだろう。

父はどちらかといえば、他人に対して面倒見がいいというか、自分の利益になるというより誰かのためになるという理由づけがないとやる気を起こさないタイプの人物だった。だから、木工所を開いて家具をつくるという動機の基本に〃他人の為に尽そう〃という精神があったからではなかろうか。当時市内の学校にほとんど机も椅子もなくなってしまっていて、子供たちが板の床の上に直接座って授業を受けているのを見て、子供たちのためにどうにかしたいという気持があったのだと思う。この気持は後年の地域社会に対する奔走ぶりをみているとけっして表面だけのものではなく、明治人の本性のようなものであり,そこから教えられるものがたくさんあったと私は思っている。

さて、木工所は二軒の村内の共同出資という形ではじまった。私の家は地元では上村内と呼ばれていて、こちらが三分の二出資、下村内という家の当主村内登久一という人が三分の一を出資して登久一さんの弟正三さんが工場長になった。この人は工場長とはいっても、製材も、家具も知らなかったので、もっばら営業、すなわち注文取りに歩いた。近隣をあちこち歩いて、机や椅子の注文をとって来る役目である。しかしそれだけでは十分な仕事はなかったので、賃引きという他の業者の下請けの仕事もかなり受けなければならなかった。

木工所の私の最初の頃の仕事はもっばら事務的なものだった。一般的な計算とか帳簿づけのほかに、材木の石数計算に計算尺を応用した簡単な方法を考案して便利がられるといったこともあった。やはり体をつかうのは不得手だったのである。

しかし、そのうち、そんなぜいたくはいっていられない段階になってきた。私が第一線になって働かないことには、どうにもならない事態にたちいたったのである。

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