Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20180131 創世記3:22~24「命の木」

2018-01-31 | Weblog
1月31日(水)
現在のテーマ「蛇の誘惑」
今日のテーマ「命の木」
■聖書 創世記3:22~24 (22)
■聖句 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。(22)
■解説
「我々の一人のように」は、主なる神の三位一体を示唆すると考えられますが、ここでは深く触れません。今日のテーマは「命の木」です。「食べるな」と命じられていたのは「善悪の知識の木」だけなので、その実を食べるまでは「命の木」からは自由に取って食べていたと考えられます。人は「命の木」から神の属性の一つである永遠性にあずかっていたのかもしれません。その人間が「善悪の知識の木」から取って食べた、すなわち神からのたった一つの言いつけを破り、神と等しいものになろうとしたのです。この神への不遜こそが罪です。そして、もし罪を持ったまま永遠に生き続けるとしたら、そのような人間はなんと恐ろしい存在でしょうか。そうならないために神は人をエデンの園から追放し、命の木に至る道を守られたのです。さらに黙示録を見ると、この命の木の実はキリストに贖われた者が天国で再び食することが許されていることが分かります(黙22:2,14,19)。
■祈り
命の木から取って食べることができるように、神の深い御心と愛を信じ、キリストの贖いを受け入れることができますように。

今日の御言葉 20180130 創世記3:20~21「贖いの光」

2018-01-30 | Weblog
1月30日(火)
現在のテーマ「蛇の誘惑」
今日のテーマ「贖いの光」
■聖書 創世記3:20~21 (21)
■聖句 「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。(21)
■解説
いちじくの葉で腰を覆っていた二人に(3:7)、主なる神は皮の衣を与えます。それは裸の恥を覆うものとして神が備えてくださったものです。はじめて人のために動物が屠られ犠牲となったこの事実は、旧約では「贖いの小羊」、新約では「キリストの受難」へと続く、神が用意された贖いの曙光です。この御言葉を背景に、パウロは「 主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:14)と言い、「着せられる」ということが、単に肉体的な必要のためだけではなく、霊的、内的な領域を含むことを示唆しています。
■祈り
このとき既に、主なる神が代価を払い、人を贖う思いを示してくださっていることに感謝をささげます。

今日の御言葉 20180129 創世記3:14~19「福音の光」

2018-01-29 | Weblog
1月29日(月)
現在のテーマ「蛇の誘惑」
今日のテーマ「福音の光」
■聖書 創世記3:14~19 (15)
■聖句 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。(15)
■解説
責任転嫁するアダムとエバ、そして災いをもたらした蛇に対して裁きが言い渡されます。その一つ一つが今日の人類の姿を現しているのが分かります。その中で、今日の聖句(15)は原福音と呼ばれ、聖書で最初のメシア預言と見なされてきました。文脈を見る限り、それほどはっきりしてはいなのですが、少なくとも主はアダムの堕罪の直後にサタンの頭を砕くことを約束され、それは女の子孫から生まれ、「かかとが砕かれる」という受難を経験する存在であることが示されています。神の救済の意志が、どれほど迅速なものであったかが分かります。
■祈り
闇の中にも福音の光が差し込んでいることを感謝いたします。

今日の御言葉 20180128(日曜版)詩編101:1~8「王の覚悟と願い」

2018-01-28 | Weblog
1月28日(日)
現在のテーマ「詩編第四巻」
今日のテーマ「王の覚悟と願い」
■聖書 詩編101:1~8 (2)
■聖句 「完全な道について解き明かします。いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します」。(2)
■解説
表題に「ダビデの詩。賛歌」とありますがダビデ王と限定することができるほどはっきりとした資料は見つかっていません。そこでダビデを含む王位に付く人の国、特に「主の都」(8)を治める覚悟と願いが語られていると考えられています。特に3節から5節は王自身の誓い、6節から8節は統治者としての覚悟が具体的に述べられています。8節最後の「悪を行う者をことごとく、主の宮から断ちます」はイエス・キリストの宮清め(マルコ11:15-17)を思い出します。それほど作者は神の都エルサレムの聖性を維持したいと望んでいたのです。聖句として取り上げたのは覚悟を述べる前の王の願いの言葉です。王は、自分が完全な道を歩むだけではなく、民にそれを示し導かなければなりません。そのために真理と知恵の霊である主の訪れを願っています。「家にあって」は主の家、神殿、祈りの家のことです。「行き来します」は「歩き回る」という意味で生活全般を表すときに用いられ、「無垢な心」と合わせて生活全体を整備して主の来臨を待ち望むことを表明しています。ダビデの家系であったヨセフ(ルカ2:4)も、きっとこの2節のような思いで主の来臨を待ち望んでいたのではないでしょうか。やがて聖なる都エルサレムが天から下ってきます(黙21:2)。その住人として招かれている私たちは、心と生活を清めて主の訪れを待つのです。
■祈り
聖なる都エルサレムに招かれた者として、主の訪れを待ち望みつつ、その道を人々に解き明かし、招いてくださった主にふさわしく生活することができますように。

今日の御言葉 20180127 創世記3:12~13「責任転嫁」

2018-01-27 | Weblog
1月27日(土)
現在のテーマ「蛇の誘惑」
今日のテーマ「責任転嫁」
■聖書 創世記3:12~13 (12)
■聖句 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。(12)
■解説
「どこにいるのか」という主の招きと恵みの前にアダムは自分の非をまず最初に認めるべきであったのに、他者(ここではエバ)に責任転嫁してしまいます。しかも「あなたが共にいるようにしてくださった」と神にも責任の一端はあるとさえ言うのです。そして女は「蛇が‥‥」と。過ちを認めながらも言い訳をするのです。自己を正当性を主張し責任を逃れようとする姿は現代にまで通じています。宿った罪の重さは、それを認められないところにあるのです。このことを通して私たちは、まぎれもなくアダムの子孫であることを知るのです。
■祈り
主よ、過ちを認める力をわたしに与えてください。