Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20110630 ローマ3:27~31

2011-06-30 | Weblog
6月30日(木)
現在のテーマ「神の義」
今日のテーマ「信仰による義」
■聖書 ローマ3:27~31 (27)
■聖句 「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」。(27)
■解説
十字架の贖いによって初めて義とされるという事実を受け入れたとき、そこから二つの結論が導き出されます。第一は、私たち人間には誇ることのできるものは何もないということであり、第二は、私たちが義とされるのは「ただ信仰による」ということです。この二つは十字架のキリストを見出し、福音の光の中に招かれた者の根本的な体験といえます。なぜなら、罪人である人間に対して実証された神の愛とキリストの贖いを理解したとき、人は何一つ誇ることはできず、行いの法則(自力救済の法則)ではなく、神の用意された恵みを信じるという信仰の原理によって救われたことを体験するからです。パウロが見出したものもそれであり、パウロが全ての人に説いたのもそれ(福音)なのです。
■祈り
十字架のキリスト信じ受け入れたわたしには誇るものは何一つありません。ただ、神の愛とあわれみを全ての人に証するのみです。

今日の御言葉 20110629 ローマ3:25~26

2011-06-29 | Weblog
6月29日(水)
現在のテーマ「神の義」
今日のテーマ「神の義」
■聖書 ローマ3:25~26 (26b)
■聖句 「今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。(26b)
■解説
今日の聖句は神の義があらわされつつ、人間が義とされる救いが完成したことを宣言しています。それがイエス・キリストの十字架です。神は本質的に不義であることはできません。人間はどのように努力しても神の義に到達することはできません。そこで神の御子が、私たちに代わって私たちの罪の罰を受けるために身代わりとなられたのです。十字架上のイエスは、神の義をなだめる供え物であると共に、私たちの罪を償う供え物でした。十字架上で神の義と愛は融合し、そこからイエスを信じる者に義が与えられるという救い、福音の流れが始まったのです。
■祈り
十字架を見上げます。そこに神の義と私たちに対する愛があらわされています。神は愛です!

今日の御言葉 20110628 ローマ3:21~24

2011-06-28 | Weblog
今日からテーマは「神の義」です。

6月28日(火)
現在のテーマ「神の義」
今日のテーマ「購いによる義」
■聖書 ローマ3:21~24 (24)
■聖句 「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。(24)
■解説
人間の罪の状態を鋭く指摘したパウロは、罪の現実という絶望から神による救いの希望へと展開していきます。さて、今日の拝読箇所には「義」という言葉が連続的に使用されています。「義」とは、第一に神に関わるもので、神の普遍的な正しさをあらわします。第二に、人間の神の御前における正しい状態(人間の本来的姿)を意味しています。パウロは「神の義が示されたので、神の御前における義が与えられる」と言っています。今日の聖句はそのことを具体的に示しています。「神の義はキリストの贖いの業を通して現されました。それは恵みであるので無償で提供されます。それによってのみ罪人である私たちは神の御前に『義』とされるのです」というのがパウロの主張です。この恵みという現実を受け取るための唯一の手段が信仰であり、そこには何の差別もないのです。
■祈り
現された神の恵みに心いっぱい感謝をささげ、信仰により恵みという現実のすべてを受けることができますように。

今日の御言葉 20110627 ローマ3:10~20

2011-06-27 | Weblog
6月27日(月)
現在のテーマ「人間の罪」
今日のテーマ「ここまでの結論②」
■聖書 ローマ3:10~20 (20)
■聖句 「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。(20)
■解説
ここまでの結論の①は「皆、罪の下にある」というものでした。結論の②は「律法によってはだれ一人義とされない」です。今日の拝読箇所となっている10節から18節までは詩編とイザヤ書からの引用で、「正しい者は一人もいない」(10)ことを聖書の言葉を通して立証しています。そして今日の聖句となるのですが、「律法」という言葉があるためにユダヤ人だけに向けられた言葉のように受け取りがちです。しかし、パウロは「律法」(ユダヤ教)が代表する、すべての自力救済主義に対して語っているのです。パウロは「すべての人が罪の下にあり、律法(修養や努力)によっては救われないのだ」と結論付けています。それは自力救済を標榜するすべての教えにとって絶望の深淵を意味しています。しかし、そこに差し込む新しい光があります。それこそパウロが最も伝えたかったことなのです。
■祈り
主よ、わたしを新しい光の中に導いてください。

今日の御言葉 20110626 ローマ3:1~9

2011-06-26 | Weblog
6月26日(日)
現在のテーマ「人間の罪」
今日のテーマ「ここまでの結論①罪の下にある」
■聖書 ローマ3:1~9 (9)
■聖句 「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。(9)
■解説
3章に入り、パウロは独善的で排他的なユダヤ人の優れた点とは何かと自問するところから始めます。それは「神の言葉をゆだねられた」(2)という点にあります。聖書を人類にもたらしたという点において、私たちはユダヤ人に感謝しないければなりません。3節から8節までは「神の誠実と人間の不誠実」がテーマになっています。そして今日の聖句となります。ここまでパウロは人間の罪と律法の下にあるユダヤ人の罪について糾弾してきました。パウロの結論は「皆、罪の下にある」ということです。パウロは、人間の罪の深刻さ重大さを述べることで、ユダヤ人に対しては律法を行うことでは、異邦人に対しては努力や修養によっては、絶対に救われないことに気がついて欲しいと切望しているのです。なぜなら認罪こそ神の用意された福音の扉を開く鍵であるからです。
■祈り
主よ、真理の光で私の心を照らしてください。ありのままの姿を認め、福音の扉を開くことができますように。