Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20070430

2007-04-30 | Weblog
4月30日(月)
今週のテーマ「召命」
今日のテーマ「聖なる招き」
2テモテ1:9~11(9a)
■聖句「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」。(9a)
■解説
私たちは単に罪から救われたのではなく、聖なる招き(生活)へと呼ばれています。そこには神の意志(計画)と愛(恵み)の力が働いています。救われた私たちが聖なる招きに応えることによって、主の恵みの確かさが証しされ、救いの広がり(御計画)が実現することを、主は期待しておられるのです。今日も主の招きの御声を励みとして、ひと足ごと歩ませていただきましょう。

今日の御言葉 20070429

2007-04-29 | Weblog
今週のテーマは「召命」です。

英語では「Calling」で「呼ぶ」という言葉です。聖書には神に呼ばれた人々が数多く登場しています。またその後の福音宣教においても様々な人が「主に呼ばれ」、その時代になすべきことを行い、召命に応えてきました。今は、私たち一人一人に「わたしの証人はあなたたち」(イザヤ43:10)と主の召命が掛かっています。無力さを自覚しながら、呼んでくださる方を見上げ、召命の御声に私たちも応えましょう。(今週、ロゴス神学院では献身希望者セミナーが開催されます。覚えて祈りましょう)。

4月29日(日)
今週のテーマ「召命」
今日のテーマ「わたしに従いなさい」
マタイ16:24~26 (24)
■聖句 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。(24)
■解説
「自分を捨て」は自己中心をやめて神中心に生きること、「十字架を背負って」は自我を捨て神の意志に適合すること、「従いなさい」は一生を通じての継続的な営みを表しています。それがたやすい事ではないことは、私たちの経験です。しかし、何度倒れても、また立ち上がり、この召命の御言葉に応えようと歩を進めます。それは、キリスト自らが、私たちへの愛のために歩まれた道だからです。誰も主の恵みなしに最後まで従うことはできません。主の恵みと支えを受けながら今日も私たちは歩むのです。

今日の御言葉 20070428

2007-04-28 | Weblog
4月28日(土)
今週のテーマ「罪について」
今日のテーマ「罪人に示される愛」
ローマ5:8~9(8)
■聖句「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。(8)
■解説
ここに私たち人間に対する神の愛の先行を見ます。しかもそれは、言葉や約束ということではなく、死という行為によって現されたものです。罪人である(罪と死の法則に縛られている)ことさえも認めることができない人類を愛して身代わりの死を遂げられたのです。神は愛です。真実の愛です。示された愛に私たち人間にしか与えられていない自由意志をもって応えることを主は望んでおられます。

今日の御言葉 20070427

2007-04-27 | Weblog
4月27日(金)
今週のテーマ「罪について」
今日のテーマ「神の御顔を隠させる罪」
イザヤ59:1~2(2)
■聖句「むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。(2)
■解説
罪を犯すまでのアダムとエバと神の関係は非常に近い(親しい)関係でした。しかし、罪が聖なる神と人間とを隔てました。神の声を聞き、神の足音を聞いたアダム(創3章)ですが、その子孫には神の御顔(神の現存)は隠されたままです。その神の御顔の栄光を現すためにイエスはお出でになりました。神と人との間にある深い淵を飛び越えてイエスはお出でになりました。イエスを通してしか罪人である私たちは神の御顔を拝することはできないのです。

今日の御言葉 20070426

2007-04-26 | Weblog
4月26日(木)
今週のテーマ「罪について」
今日のテーマ「人から出て来るもの」
マルコ7:18~23(20b~21a)
■聖句「人から出て来るものこそ、人を汚す。つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」。(20b~21a)
■解説
私たち人間は結果としての罪しか見ることはできません。しかし、イエスは人間の内にある罪(悪い思い)を見ておられます。それこそ罪の原因(原罪)です。イエスは人の心の中を見ておられます。エレミヤ書には「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである」とあります(17:10)。私たちは私たちの内に原罪が宿っていることを素直に認め、主に憐れみを求めなければならないのです。