Daily Bread 日々の御言葉

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今日の御言葉 20170622 エゼキエル10:1~11:16「傲慢な人々から去る主の臨在」

2017-06-22 | Weblog
6月22日(木)
現在のテーマ「エルサレムへの裁きの預言」
今日のテーマ「傲慢な人々から去る主の臨在」
■聖書 エゼキエル10:1~11:16 (16)
■聖句 「それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった』」。(16)
■解説
10章は、エルサレムに対する審判がテーマで、1章に出てきたケルビムについての描写が繰り返され、神の栄光(臨在)がエルサレムから去り、バビロンにいる捕囚の民にそれが与えられること(11章)への序言となっています。11章を理解する上で、私たちはエゼキエルが今どこにいるかを理解しておかなければなりません。彼はエルサレム滅亡の預言を捕囚の地(バビロン)で受けたのであり、年代的に言えばBC586のエルサレム滅亡前のことです。捕囚を免れたエルサレムの指導者は言うのです。「この都は鍋で、我々は肉だ」(11:3)と。「鍋は火にかけられるが、中の肉は焼かれない(安全だ)」という理解と、「鍋(エルサレム)の中心は肉(我々)だ」という理解があり、前者は楽観主義を、後者は傲慢な姿勢を表しています。そのためにエルサレム神殿から神の臨在は去り、審判が下されようとしているのです。それに対して、主は飢えや疫病で死んでいった者を「肉」と呼び(7)、鍋(エルサレム)は剣(敵)により蹂躙され、多くの人が撃たれて死ぬことを預言されます。エレミヤは、それでは「残りの者」がいなくなってしまうと思い、「滅ぼし尽される」のですかと祈ります(13)。主は、捕囚の民を「残りの者」とされることを宣言されます。それが11:16-18に示されていることです。「彼らのためにささやかな聖所となった」は、主による保護の約束であり、神が現存されるところ、御名を置かれるところこそが神殿であるということです。神殿は場所に固定されるのではなく、主の現存があるところが神殿であるという理解は、やがてキリストの体なる教会が、神の霊の宿る神殿となることにつながっていきます(1コリ3:16,エフェ1:23-2:21-22)。11:17-18では、捕囚民のイスラエルへの帰還が約束されています。
■祈り
傲慢な思いを持つことがありませんように。憐みにより救いを得、恵みによって今があります。主がささやかな神殿の内にあって、いつも私を保護してくださいますように。