良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

発音チェックのすすめ

2014-04-03 12:27:17 | 悪い子、悪い親?
 幼児期からの外国語教育・・・大流行り、です。
私自身、結婚前は「5歳児から中学生までに英会話を教える」という仕事をしていた手前、「外国語教育は必要ない」とは言えません
 ただ、やみくもに「21世紀の国際社会では、絶対に英語が必要!」と、まともに日本語も話せない子どもに外国語教育をするのもどうなのだろう???と考えているのが本音です。
 早期の外国語教育を絶賛するご家庭では、特に「発音が大事だから、最初からネイティブの先生に教えてもらわないと意味がない」とおっしゃいます。
 発音・・・確かに大事ですね。
だからこそ、今日は「発音」ということについて提案をしたいと思います。
 いえいえ、今日のお話は「外国語の発音」ではありません。母国語である「日本語の発音」についてのご提案 いえ、本心では、警告というほうが正しいかもしれませんね・・・

 我が子の発音・・・あまり気にしていない、ってこと、ないですか?
子どもも3歳くらいになれば、すっかりおしゃべりも上手になり、時には一緒に「パパの悪口」なんかにも付き合ってくれちゃったり

 でも、案外、しっかりと気を付けて聞いていなければ、子どもが話している時の「発音」がおかしいことが多々あります。

  ぱれる → たべる
  すたべきー → スパゲティー
  てべでぃ → テレビ
  すれびだい → 滑り台

 これらは、すべて実際に私の教室の生徒達「年中児」が間違って使っていた言葉です。これらはほんの一例にしかすぎません。彼らは大真面目にこの発音で話し、日々、家庭生活をしていた、ということです。
 食べるも、スパゲティーも、テレビも、滑り台も、子ども達が普段の生活の中で、よくよく使う言葉であり、決して「難しい言葉」であったり「なかなか使わない言葉」ではありません。
 このように頻繁に会話の中で使っている言葉・・・言い換えれば、親は頻繁に自分の耳でこれらの言葉を聞いているはず、ですね。
 でも・・・彼らは、残念ながら家の中ではこの発音の間違いを指摘されることもなく、平然と暮らしていた、ということになります 子どもが悪いわけではない
 これらの発音の間違いを、彼らとの会話の中で気づいた私は、自尊心を傷つけないように()矯正していきます。

 こういう発音の間違いは、「ラ行が言えない」とか「サ行がタ行になってしまう」というものではありません。舌や口の動かし方が未発達のために、なかなか特定の音や今日が正確に発音できない、ということはめずらしいことではありません。
 しかし、上記のような発音の間違いは、単純に「最初から間違って覚えてしまい、間違いを指摘されなかったため、それを正しい言葉と認識して使い続けている」ということ、なのです

 是非、たまには我が子との会話に、耳を澄ませてみてくださいね
かなり大きくなってから、発音を直すのには時間がかかりますし、何より「間違ってずっと使ってたんだ」「だから、時々、お友達が笑ったりしたんだ」と、すっかり自尊心を傷つけてしまうことにも成りかねません。

 外国語学習も大事ですが、まずは母国語「日本語」の習得に、大真面目に取り組んでくださいね


公共の場でのマナー

2013-08-08 10:21:50 | 悪い子、悪い親?
 子どもの躾、子どもの社会性・・・長い間、ブログの更新を怠り、久々のテーマがこの重さ ただ、最近、よくこのテーマについて考えさせらる出来事が多いのです。

 私は職業柄、どんな時でも、どんなところでも、子どもがいるとそこに目がいき、行動や言動が気になります 時にはあやし、時には話しかけ、子どもを見ていると飽きません。
 けれど、5回に2回程度は、その子ども達の親に秘かに腹を立て、そんな親の元に生まれ、育てられている子どもの将来の社会性を憂います・・・ まあ実際には、そんなことは大きなお世話なんですけれどねえ

 先だって、恒例の介護帰省をした折、母と一緒に中国料理のレストランに行きました そこのシェフは、大阪の地方局のテレビ番組によく登場するらしく、かねがね母は行ってみたいと思っていたそうです。
 ホテルのレストランらしく調度品は重厚で、サービス、お店の方の対応、お味、すべてにおいて「さすが」でしたが、お値段も「なるほど」というものでした、ははは

 案内されたお席は、親子3人のお隣のテーブルでした。
じつは私は、お食事の時にはなるべく子ども連れのテーブルの近くには座りたくない、と考えています というのは、子どもの様子、親の対応等が気にかかり、その家族によっては時には食べた気がしない、ゆったりとした気分で食事ができないからなんです
 その子がお利口さんであればあったで、「偉いなあ ご両親の躾が行き届いているなあ」と感心し、親子の様子から目が離せなくなってしまいますし、その子が社会性のない野生児であれば、今度はどうしてしっかりと親は世話をしないのだろう?なんで叱らないのだろう」と食べた気がしない・・・
 その日も、正直、アジャ~と思いました。私一人の食事のような時には、コソコソっとお店の方にお話をし、席を替えてもらったりするのですが、母が一緒となると、またいろいろと説明をするのも大変なので・・・と、そのまま席につきました。

 その女の子・・・4歳くらいでしょう。とっても愛嬌のあるニコニコ笑顔のお嬢さんでね 表情は豊かで、仕草もとっても子供らしくてかわいいのです
 けれど・・・落ち着いて座っていない 食事をしているはずなのに、完全に席から降り、テーブルのまわりで遊んでいる状態。そして、時々、お母さんに呼ばれると、口だけ開けてお母さんの横に立ち、その状態で食べ物を口に入れてもらう かわいい子だっただけに、私はその飼育係と動物、という感じの様子が残念でなりませんでした

 長時間になれば、当然、子どもはその場にいることに飽きてきます。子どもの遊ぶ様子はどんどんエスカレートしていき、食事をしているお客様のまわりのテーブルにまで歩いていき、注意を引こうとおどけて見せたり、歌ったり、踊ったり・・・ホテルの方はハラハラとされている様子で、その子が各テーブルを離れると、その席のお客様に頭を下げて回る始末
 それでもいっこうにご両親は慌てる素振りもなく、子どもを連れ戻すこともなく、一生懸命にご自分達はビールを飲み、食事をされていて、時々子どもに手を振ったりするだけで、気になっていないようでした

 私自身も2人の子育て真っ最中のことを思い出せば、久しぶりの豪華なランチ、素敵なお店・・・となると、貪欲にもなります そのお気持ちも十分に理解できます

 でもね。やっぱり、それが外食の場であろうと、自宅であろうと、食事と遊びのメリハリはつけなければなりませんし、ましてやまわりに他のお客様がいる時には、その方達への配慮は不可欠です
 お箸の持ち方、食べ方、食事のマナー・・・すべて、毎日の食事の中で教えられて学ぶもの。そして、それが習慣となって身につき、その子の人となりの一部となっていきます。それが「躾」であり、その子の社会性として育っていくのです。

 そのお嬢さんは、本当にかわいい子だったのです もし、あの笑顔、歌や踊り、お調子者の振る舞いが公園で披露されていたとしたら、きっと私はあの子に声をかけ、ご両親に「とっても素敵なお嬢さんですねえ」と思わずお話をしたことでしょう

 あの子に罪はありません あの子は、真っ白な状態で生まれ、幼稚園や保育園、学校生活が始まるまでは、ほぼすべてのことを自分の家庭で、両親から学び、両親を真似て成長していくのですから。

 食事というものを、食事の時間を、そして、公の場での善悪やマナーを十分に教えられていな子どもはかわいそうです 楽しい食事の場が辛い時間になるほど、厳しくガミガミと言われ続ける子どもも哀れですが、社会性という面では、やはりガミガミ言われて、しっかりとしたマナーの身に付いた子どものほうが、将来はどんな場においても、恥ずかしい思いをすることなく、幸せになることでしょう

 子どもは親によって育っていきます。どこに出しても恥ずかしくない立派な子どもに育てるためには、偏差値的教育を受ける前の段階では、外注型の各種お稽古や知育雑誌の定期購入よりも、まずは家庭教育を考えること・・・私は本当に大切だと思っています


叱らなければ、子どもは賢くなれません!

2011-05-01 01:26:27 | 悪い子、悪い親?

「何やってんだー コラ待てー ほんとにあんたって子は、どうしてこんなにやっちゃいけない事ばっかりするんだろうねえ、逃げ足だけは速いんだから
 下町のお母さんが、こんなふうに大声で怒鳴り散らしながら、ほうきを持ってガキ大将の息子を追っかける・・・むかーし子どもの頃に見たテレビドラマの一こまです。昭和のドタバタホームドラマ・・・というところでしょうか

 こんなドラマの中の情景を思い出しながら考えてみると、最近、子どもに大声で怒鳴る、叱りつける母親の姿を見かけなくなりました
 電車の中、デパート、スーパー、いろいろなところで昔と変わらず「駄々をこねる子どもの姿」「泣き叫ぶ子どもの姿」を見る事はありますが、案外そういう場面で見るお母様の姿はみな一様に冷静で、ほとんどの場合、皆さん「静かに子どもに語りかけている」ように思えます。その様子は、叱る、というよりは、「叱っているパフォーマンス」にも見えてしまいます
 中には、完全に無視をして、全く我が子の悪事、大騒ぎを意に介していない様子の強者のお母様もいらっしゃいます。子どもが騒いだり、泣いたりしている横で、平然とメールを打っていたり・・・

 やっとお座りできるようになった赤ちゃんが、ティッシュの箱の前に座り、うれしそうにピュッピュッとティッシュを抜いています。出せば自然に次のティッシュが飛び出してくる・・・赤ちゃんにとっては大発見 「引っ張り出せば、次のティッシュが出てくる」ということを学習をします。
 
 幼い子どもが、自らの経験、体験を通して様々なことを学んでいくことは、それはそれはすごく意味のある事です 音を立てて、脳が働いている・・・
 しかし、だからと言って、この『ティッシュ出し』は良くない事。遊ぶ道具ではありません。そこで、お母様は叱ります。本当に恐い顔をして・・・
 「どうしてこんな悪い事をするの ダメじゃないの ティッシュがもったいないでしょ もう絶対してはいけません
と大声で注意します。
 赤ちゃんにすれば、大発見をして驚喜し、ご満悦で遊んでいたにもかかわらず、鬼のような形相のママに大声で叱られ・・大泣き

 0歳児であるこの赤ちゃんには、理屈などは通じません。ママが言った「こんな悪い事」も「ティッシュがもったいない」の意味も、実際には通じていないのです。
 ただ、いつもやさしいママが、確かに大声で恐い顔をして怒っている・・・この事実は赤ちゃんにとって衝撃であり、その衝撃は「ママが恐い顔をして、大声で怒鳴った」という記憶として残ります。

 この子は、たぶん二度と『ティッシュ出し』はしないでしょう。ティッシュの箱を見つけた時、当然おもしろかった記憶「引っ張れば、次のティッシュが出てくる」というおもしろさが甦り、またやってみようか、と思うでしょうね 
 しかし、そのおもしろかった記憶を思い出すと同時に、恐かった「ママの形相と声」も思い出されるのです

 幼い子供達は、理屈ではないところで「いけない事をしたんだ」「いけない事をしたからママに叱られたんだ」というふうに「罪の意識・罪悪感」を学びます。
 きゃー・・・これはおもしろそうだなあ・・・と思っても、気持ちのどこかにパパやママに叱られた時の「恐かった思い・嫌な思い」が甦り、こんな事をしたら、きっと大変なことになってしまう・・・という気持が生まれるのですね。そして、禁止されていることはしない、という意識が育ちます

 ここ10年ほどは、「叱る教育」は罪悪のように言われてきました。
「ほめて、伸ばす」の全盛期だった、と言えるでしょう。だから、世の中のパパ、ママは、子ども達にとっての「お友達のような存在」に成り下がり(と私は思っています)、ある意味ではなめられ、うるさいだけの人となり、何の影響力も与えない庇護者になってしまった・・・ 最近では、「大人を自分と同等に見ている子ども」の多いことに驚かされます。

 話を「叱る」にもどしましょう。
確かに、たとえ小さな子ども相手にでも、0歳児のような何も理屈が理解できないほど小さな子どもでなければ、必ず、頭ごなしに叱る、怒鳴るのではなく、きちんと「叱る理由を伝える」「叱られる理由を理解させる」ことは大切なことです
 しかし、公共の場で騒ぐ、社会のルールに反する行為をしている、何か危険なことをしている、のように「禁止」をさせなければいけない時には、そんな悠長なことは言っていられません
 まずは、「止めさせる事が先決」であって、なぜ止めないといけないかを子どもに「伝えること」「説くこと」は二の次です。
 
 叱る側がきちんと「叱る理由」を伝え続ければ、なぜその行為がいけないか?という事はわかるようになります とは言え、小学校に入るまでの幼い子供に、理路整然とした説明から「罪の意識」を育てることは大変むずかしい事です。

 「叱る」「諭す」「説く」これは人に何かを理解させる時に使う方法です。しかし、幼い子どもを相手に、スマートに「諭す・説く」だけでは、禁止は出来ません
 電車の中でいつまでも「座りたい、すーわーりーたーいー!」とぐずぐずと文句を言う我が子に・・・
 「〇〇ちゃん、だーめ。そんなこと言っちゃダメよ~ ほら、見てごらんなさい。お席、空いていないでしょう?」
 などと笑顔で上品に言っているお母様を見ると、
 「ねえ、お母さん、あなた、間違ってません?なにをここで上品ぶってるんですー?今は、ピシッと叱る時ですよ あなたの猿芝居は、滑稽なだけ 意味なーし」と心の中で言ってしまいます。そんなお母様は、叱るパフォーマンスにご自分で酔っているだけです

 平成も20年をとうにすぎた今、お母様方に「昭和の下町のお母さん」になってください、と言っているわけではありません
 ただ、時には人前であろうと、叱るべき時には大きな声を出し、子どもが日頃は滅多に見ることのない怖い顔で、ビシッと叱ることも必要です
 思わず、子どもがびくっとするような、そういう瞬間だって成長のためには必要です{/kaminari/

 いつも子ども相手に「ああ、ごめんごめん!」とわけもなく謝っているママばかりが増殖し、子ども達は知育教育ばかりを受けただけの、本当の意味での賢さを育ててもらっていない、我がままな王子様や王女様ばかりになってきています
 巷では、勘違いの「品良く叱るお母様」と「全く言われた事を聞こうともしない子ども」の喜劇が展開しています。

 毅然と叱る、ピシリと叱る!親が思っている以上に、子どもにとっては貴重な「学習の時」なのですよ



家庭教育の責任

2010-06-16 09:41:17 | 悪い子、悪い親?
 先日、友人からの誘いで、ある女子高で催された公開授業を参観しました
 その授業は、高校1年生を対象とした国語科の授業の一環で、「告白」という映画についてディベートをする、というものでした
 授業(4回シリーズで、その日の授業が最終の授業でした)の進行は、民間初の校長として話題になった元和田中学校長、藤原和博氏。こういう授業自体が、その学校ならではの斬新な試みで、とても興味深いものだったのです

 たまたまその日は、その映画の監督、中島哲也氏と、主演女優である松たか子さんもその授業に参加されるということで、映画関係者とテレビ局の方も入り、学校の中はカメラやマイクを持った人たち、いかにも「業界人」という出で立ちの「PRESS」の腕章をつけた人たちでごった返していました。
 会場となった学校内のおしゃれなカフェテリア。にぎやかなフォトセッションの時間も終わり、生徒達も席に着き、歓声で迎えられた監督や松たか子さんも入られ、いよいよ授業が始まるぞ・・・という時
 私はふっと左手のほうが気になり、目をやると・・・二人の若い女性の姿が目に入りました。
 彼女達はとてもおしゃれで軽快なパンツ姿。おばさんである私のイメージの中にある、いかにもテレビや映画の関係者・・・という装い
 ただ、何とも不快感をそそられたのが、クチャクチャとガムを噛んでいること そして何より仰天し、眉をひそめたのが、カフェテリアの壁にぐるりと設置されたテーブルとして利用するためのカウンターに座り・・・組んだ足をブラブラとさせていたことでした

 ガムに関しては、現代では歯医者さんも奨励する「歯に良いガム」もあることですし、昔のように一概に「悪」とは言えないのかもしれません
 とは言え、これから高校生が国語の授業を始まろうとしているところ、です。モデルさんがポーズをしているわけでも、タレントさんがバラエティー番組の本番に臨もうとしているところでもありません
 彼女達の前にいるのは、授業を受けようとしている高校生です。そして、その場に立ち会っている人達は、それぞれの立場は違っても、神聖な(私は、つねに人が学ぶ場は神聖である、と考えています)学びの場にお邪魔をしている・・・にしかすぎません。
 それを思えば、彼女達二人の様子は、どう考えても正しい行為とは思えません

 とにかく、その若い女性二人が平気で腰掛けているところは「椅子」ではなく、カウンターであるということ。日頃、生徒達がそのカウンターを利用し、ジュースを飲んだり、パンを食べたりしてる場所なのです。彼女達は、そのことをどのように考え、そこに平気で座る、という行為をしているのか??私はよく理解できませんでした

 授業は始まろうとしていました。私は、彼女達が気になり・・・そして、だんだんと腹が立ってきて、心の中で怒鳴っていました。
 「ねえ、ちょっとあなた達 いったいあなた達は、どんな了見でカウンターに腰をかけてるの?そこは、生徒達がテーブルとして使っている場所でしょう
 その時の私の心の中の映像・・・私がキッと目をつり上げて女性達に注意。シーン替わって・・・次のシーンは、しらーっとしらけた顔をした若い女性が、顔を紅潮させて怒鳴るおばさんをギッと睨み、謝りもせず、ハッとする様子ももちろんなく、ゆっくり無表情のままで、のろのろと降りる・・・というものでした

 その時です
私の後ろの席に座っていた男性が席を立ち、彼女達のほうにツカツカと歩いて行かれました。そしておっしゃったのです。
 「君達、どこに座ってるんだ そこは椅子はなくてテーブルなんだ。すぐに降りたまえ

 ブラーボー すごい 
そうです。その通りです。意気地のない私は、心の中で怒鳴るだけで、実際にはその女性達に何も言えませんでした。でも、やっぱり社会人として言うべき言葉でした
 彼女達は、自分の行為の誤りを認め、謝罪し、あらためて自分達の常識のなさを恥じ、学ぶべきだったのです!(そういう様子は微塵も感じられませんでしたが)

 しかし、彼女達は・・・私が頭の中で思い描いたシーンと全く同じように・・・詫びるわけでもなく、ハッとするわけでもなく、恥じる様子もなく、「おっさん、あんた、だれ?うっせーな!」のような悪意ある一瞥をしただけで・・・降りました。
 そして、驚いたことに、ちゃんとその下にあった「椅子」に腰掛けたのでした(なんだ、座るイスが足りなかったわけじゃなかったんじゃない・・・あなた達は、わざわざイスに座らず、テーブルに座ったってことね・・・)

 私はその男性の行為に感動しました
(じつは、彼は私と夫の親しい友人です。まだ幼いお嬢さんの優しく、そして厳しいパパです。私はその瞬間、まだ幼い彼のお嬢さんのことを思い浮かべました。きっと彼女は、この立派のパパのもと、美しく、正しい行為を行える素敵な日本女性に成長されるに違いない、そう確信したものです
 
 私はその日のことを思いだし、あらためて「常識を学ぶ、常識を身につける」ことの重要さを再認識しています。
 もしかしたら、あの日、私が心の中で罵倒していた彼女達も、実際には大変優秀な仕事人かもしれません 有能で、その道の将来を背負って立つ人材かもしれないですね。
 でも そうであればよけいに、彼女達の非常識な行為はあまりにもったいない・・・見知らぬ人から、多くの人の面前で、注意される・・・言いかえれば「君達、常識がないよ」と発表されたようなものなのですから・・・

 彼女達は、残念なことに、日本人としての常識を学ぶ場に恵まれなかったのでしょう
 ほとんどの場合、様々な常識、美しい所作、正しい言葉使い等、人は子どもの頃から「家庭生活」の中で、両親を通して自然に学んでいきます。
  お行儀良く振る舞いましょう。
  正しく、美しい言葉で話しましょう。
  食事はきれいに食べましょう。などなど・・・
 ナイフ、フォークを上手に使いこなすことを覚えるよりも、まずは正しいお箸の使い方を。流暢に英語を話す前に、正しい日本語が使えることを。
 
 国際化が進んでいく世の中だからこそ、日本人としての常識をしっかりと身につけ、立派な国際派になることが重要なのではないのかな?と私はいつも思っています
 外国語が堪能な無国籍人は、決して立派な国際人とは呼べない、とは思うのですよね・・・

かえるの子は、かえる?!

2007-11-01 22:17:30 | 悪い子、悪い親?
 大騒ぎのKKくんは、単身、メキシコに行くとのこと 才能もあり、真面目に練習に取り組む熱意も根性もある彼のことですから、リードする人によっては、これからもっと、良い方向に導かれていくことでしょう
 ブログの中で、K一家の話題に初めて触れた時も、「好きでも嫌いでもない」と書きましたが、それでも今回の一連の騒動では、「親と子」「その関係」について、感じたり、深く考えさせられたりする、良い機会でした

 例の、彼一人で会見に臨んだ時の様子を見て、私は同年代の子を持つ親として、とても彼を痛々しく眺めました
 我が家の二人の子ども達は、すでに成人したり、成人を目前に控えたりしておりますが、大学生という立場もあり、まだまだ一人前扱いされることもなく、親の庇護のもと、大きな口を叩きながら、安穏と生活をしています
 親元を離れて暮らしている大学生ならば、もっと「一人で生きる」ということを意識もしているでしょうが、それでもなお、18歳から一人暮らしの学生生活をしていた主人の話を聞いていても、やっぱり学生は半人前

 しかし、KKくんは、「一家を代表して」話さないといけない立場に立ち、なおかつ、彼のリーダーであるべき父の非礼を詫び、父を擁護しなければならない・・・
 私は、あの時ほど「親の責任」という言葉を、ひしひしと感じたことはありませんでした

 KKくんがまともな言葉が話せないのも、敬語使えないのも、彼のせいではありません
 あの日、いつもの品のない、ギラギラ成金スタイルを改め、スーツにネクタイ姿で現れた彼は、精一杯、丁寧な言葉で話そうとしていたことがよくわかりました
 しかし、残念ながら彼には、丁寧に話すためのボキャブラリーがなく、その話し方も知らない・・・ あそこにいたのは、まさにKKくんの父親、だったではありませんか?
 彼を育てた父にも、そのボキャブラリーがなく、そういう話し方を知らないからこそ、3人の息子達も、何も知らない できない ・・・当たり前のことですね

いえいえ、世の中には、自分の親がどんな人間であろうと、ある意味、その親を反面教師として、立派に成長する子ども達もたくさんいるでしょう
 しかし、悲しいことにKKくん達のような、親子べったりの一卵性親子では、子どもが親以外の世界に触れ、学ぶ機会さえ与えられなかったのですからね・・・

 日頃、私が接しているご家庭は、K一家、K親子とは、遠く離れた世界の方々です。けれど、私が実感していること、それは、K一家、K親子とは全然違い世界に思われるであろうご家庭でも、実際には、全く同じことが起こっているのですよ ただ、本人達に、その意識がないだけ・・・と言えるかもしれません

 確かに、敬語は使える品格のあるご家庭でも、K一家とは全く違った意味での、「親のミスリード」はあるものです
 たとえば・・・
  KKくんの父親のように、自分の果たせなかった夢を我が子に託す。
  自分の歩いてきた道を唯一無二の最良の世界と信じ、それを我が子に辿らせようとする。

 深い深い愛情の名のもとに、親が我が子をミスリードし、結果的に子どもに可哀想な思いをさせてしまう・・・そんなことはよくあることです

 親の責任
私も一人の親として、常に考え、我が子と自分の時間や生活を、時には立ち止まり、客観的に見ることも大切でしょうね そして、自分を戒めたり、あらためて確認したり、そういうことを怠ってはいけないのでしょう。
 
 私は我が子をミスリードしていないか
私は・・・反省すること、たくさん・・・・あります