先日、電車に乗り込むと、突然に携帯電話が鳴りました 電話ではなく、メールだったためにすぐに音は鳴りやみましたが、それでも、確かに派手に携帯電話は鳴りました
すっかり言い訳ですが・・・24時間、携帯電話をオンにしている私は、頻繁にマナーモードにしたり解除したりを繰り返します。昨日は、ついうっかり電車に乗る時にマナーモードをオンにするのを忘れたままで乗り込んでしまったのでした
そう、その電話が鳴ったとたん、前に座っていた2年生くらいに見える、ランドセルを背負った男の子が・・・
「マナーモードにしてください」
と、すかさず私に注意をしました
比較的静かだった車内に鳴り響いた着信音で、すっかり動揺してしまっていた私は、すぐに慌てて携帯電話の操作をしながら、
「ほんと、その通りよねごめんなさいね」と応えました。
男の子は、次の駅で降りて行きました
とっても賢そうな、しっかりとした子でした
電車の中では、携帯電話はマナーモードにする!それは、誰もが守るべき極々当たり前のルールです。
大声でしゃべるような女子高生や、傍若無人ないまどきの若者でもあるまいし、ついうっかりとは言えそんなマナーも守れず、車内で大きな着信音を響かせたオバサンは、叱られて当然です
でも・・・どうしてなのか、私の気分はしっくりとはいきませんでした。何と言おうと私が悪いのです それでもなお、何だかすっきりしない・・・
私に注意をした男の子は、間違っていません。ましてや、勇気をもって大人に注意をするなんて、とてもすばらしい行為です でも・・・
同乗していた私の友人も、じつは同じ気分を感じていたらしく、少年が降りた後、「むー、確かに、あの子の言う通りなんだけどね・・・」と言いました。
ああ、彼女も私と同じ気持ちなんだな。彼女のそのひと言で、急に私も、「しっくりといかない気分」について話したくなりました。
物事には「善」と「悪」があります。
時には、その中間、つまり「善でもなければ、悪でもない」という場合は、ほとんどありません まあ、善悪の中間の「どちらでもない」ものもあるでしょうが、実際には、それはその時々の状況によって、条件がつけられたり、例外になったり、注釈がつけられたり・・・ということであり、やっぱり本来は「中間」はないでしょう
しかし、男の子が降りていった後、友人と私がいろいろと話し合った結果、到達した結論は・・・
「正しいことを言う、ということが、いつも『良い』わけではない」 でした。
いかがですか?実際に生活をしていると、こういうことはよくありませんか?
じつは、子供の世界、幼稚園や学校などの団体生活の場では、頻繁にここが「人付き合いのポイント」になっています
たとえば、Aちゃん。とても利発で、先生からの評価も高い ママ達の中でもAちゃんはしっかりとした賢いお子さんだ、という評判です
そのAちゃんは、よく先生にこんなことを報告します・・・
「先生、○○ちゃんは廊下を走っていました!走ってはいけないというお約束を守りませんでした。」
「先生、△△ちゃんがおしゃべりを止めません。~~な時はおしゃべりをしてはいけないのに・・・」
Aちゃんのご両親は、きっと我が子のことを「非常に正義感が強く、悪いこと、間違ったことを許せない子供」だと、秘かに我が子のその部分を長所として自負されることでしょう 確かに、その通りです ご両親が自慢に思われるのは、非常に自然な思いでしょう
しかし、とても残念なことではありますが・・・
子供の世界の中でのAちゃんの評価は、時には「なかなか難しいポジション」ということもあり得るのです
間違いなく、Aちゃんは「一目置かれる存在」です これは間違いのない事実でしょうね。
ただ、時には、正義感強く、何でも正そうとする姿勢は、同年代の世界の中では「鬱陶しい」「うるさい」「煙たい」という存在、として見られてしまうこともあるのです
現代社会の中では、子供の世界でも、たぶん大人の世界でも、ヒーローの存在はいつも「ビニョー・微妙」なのです
換言すれば、勧善懲悪とは、アニメや映画、ドラマの中だけで拍手喝采される対象であり、実際の世界ではなかなかそうはいかない・・・
ただ
親が物事の善悪を教えなければならない、ということは、至極当然のことです。
しかし、問題は、「そのあと」なんですね
ついつい、大人は「善を善」「悪を悪」として評価することをすばらしいこととして感じています もちろん、善悪を正しく認識することは大切です。
しかし、子供がハッピーに団体生活の中で生きていくために、親がもっと力を入れて教えるべきは、「それをどう表現するか?」ではないでしょうか?
先ほどのAちゃんの話しですが。
たとえば・・・Aちゃんが先生に○○ちゃんはいけない、と言いに行くのではなく、直接○○ちゃんに「○○ちゃん、廊下を走っていたら危ないよー、転んじゃったらAちゃんがケガしてしまうかもしれないよ!」と言うとしたら??
少しは言葉の響きは違ってくるでしょう
つまり・・・言葉は生きているのです
言葉の使い方ひとつで、さまざまなものが大きく違ってくるのですね。聞いた人がどのように感じるか?によって、語られたことが、たとえ正しいことであったとして、評価されない、という現実があります
これは親子の間でもそうですね
話した言葉がどんなに正しくとも、相手に伝われないようであれば、それはその言葉は生きてはいないのです
「悪」を感じた時、それをどう伝え、正すか?
自己満足ではなく、話す相手に伝わり、心に響く言葉を話す、とは?
これは、老若何女、すべての人にとって永遠のテーマなのでしょうね
「自分が言われて嫌なこと、されて嫌なことは人にもしない」と言い続けていますが、なかなか、、私もですが^^;言葉って難しいですね。
初めてなのに長々書いてしまい、失礼しました。
お母様として、辛い思いをなさいましたねえ 毎日、気が重く、お子さまを見ているとよけいに辛いお気持ちになられた事と思います。
こういう経験は、「言いつける側」「言いつけられる側」どちらの立場であっても、みなさん多少はお持ちのことと思います。
ただ、私が考えるに・・・
子どもを正しい方向に導くべき親の立場としては、どちら側の親であったとしても、親特有の、「うちの子ってさすがにしっかりしているわ」とか「いつもうちの子ばかり・・・可哀想に」というような主観的な感情に流されることなく、しっかりと事象を捉えて、子どもに教えるべきことを教える、ということだと思うのです。
言いつけるほうにも言い分があり、言いつけられるほうにも言い分がある・・・善悪だけでは割り切ることのできないものがあるはず、ですからね。
車内での携帯電話の件。
やっぱり、マナーモードにしていなかった私も悪いわけですから、これを学校や幼稚園での子どもの世界のことに置き換えれば、「ちょっと困ったことをした」という事実に関しては、叱ったり、教えたりすべきことを怠ってはいけない、わけです。
そして、「困ったちゃんのことを、言いつけてばかりいる子」に対しては、それが相手にどんな思いをさせてしまうか?を教えないといけない・・・
我が子への親としての思い、愛情をうまく感情に流されずにコントロールしながら、子どもに様々なことを教えていく・・・
いやいや、常に親は大変です!!
Kazmanさん、これからもファイト!!!
今も「どうして?」とか「ここでキチンと出来ないと、下の弟妹に示しがつかない」と思って叱って、いえ怒っているような気が…反省です。
またお邪魔させていただいてよろしいでしょうか、、ありがとうございました!
子育ては、落胆、反省 自己満足、自画自賛 この連続ですよ
美しい子育ても、理想的な子育ても、実際にはありません ただ、昨日より今日、今日よりも明日、ちょっとずついろんなことに気づき、学び・・・そして、良い母に、素敵な母に、徐々になっていければいいですよねえ
これは、私も2児の母として、目指している姿です