良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

「危ない!」ではありません!

2007-03-22 10:03:44 | 悪い子、悪い親?
 「ほら、危ない」という親の声。
あれあれ、まただあ・・・と私は思うのです 
 危ない、という声かけ、それは、わが子に「危険だ」と知らせる言葉です、よね 要は、この言葉をわが子にかけるとき、親はわが子の危険を心配して、それを回避させようと思うからの言葉ですね。
 たとえば・・・
  道路に飛び出そうとしたわが子に・・・
  濡れた床を走り出したわが子に・・・
  狭い高所でふざけるわが子に・・・
もし、こういう状況で「危ない」と声をかけるのであれば納得できます。確かに、自動車にひかれてしまう、滑って転んでしまう、高いところから落下して怪我をする可能性がある、からです。この親の言葉かけに、子供たちも咄嗟にわれに返り、びくっとして危険な行動をやめるでしょう
 しかし最近は、「危ない!」という言葉かけが果たして適切だろうか?と疑問に思うことがよくあるのです

 スーパーで買い物をしていると・・・
突然前方から「無人ショッピングカート」が突進してきます 無人?!そう、小さな子供が「遊びの一端」として、ショッピングカートを押しているのです。
 背が低すぎるので、カートの押し手に手は届いても、顔が上には出ない・・・カートは押せても、前は見えない、という状態
 「危ない」と親は叫びます。しかし、待ってください!
危ないのは「私」で、その子供ではありません
 スーパーという公共の場で、遊び心で勝手なことをしているそこ子は、危なくはありません。
 まあ、他にどんな瞬時の言葉かけができるのか?とたずねられれば、ベストの答えはなく、「危ない!」が一番手っ取り早い、と言われれば、一言もありませんが・・・(むー、「ストップ!」はいかがでしょう?

 首都圏では、全私鉄、JR、バスなとで共通で利用できるパスモやスイカのサービスが3月18日からは始まり、駅への入場は今後はタッチパネルが主流になっていくでしょう。それを思えば、これからはこういうことは減少するのかもしれませんが・・・改札口でよく見られる光景。

 自動改札機の切符の差込口に、親の乗車券である切符を入れたい入れたいとせがむわが子に、わざわざ切符を渡し・・・
  「はい、ここ、ここに入れて・・・上手」などと言っている、親バカ親がたくさんいます。あれも、乗客のスムーズな改札の流れを滞らせるとんでもない愚行です
 わが子がうまく切符を入れられず、それに気づかずにそのままで進もうとしたとき、「危ない」と親は言います。
 つまり、切符が差込口からきちんと入っていないため、機械が入場を認識せず、ゲートが突然左右から閉まってくる・・・まあ、確かに小さな子供はそのゲートに顔からぶつかってしまうでしょう
 しかし、だからと言って、とんでもない大怪我をする、というような大事に陥るとは考えにくいものです むしろ、ここでは子供の大怪我ではなく、実際にはそこで人の流れを止め、その親子の後ろをついて歩いている、先を急ぐ多くの人たちに迷惑をかけている、ということが問題にされるべきこと、そう思いませんか

 じつは昨日、私は大阪の実家で、両親と近くのレストランまで昼食に出かけました 
 帰り道、車椅子利用ということで、今では滅多に買い物をするために店に入ることのない父に、いろんなものを見せてやりたいと思い、ロフトに入りました。
 首都圏では、比較的バリアフリー化、ユニバーナルデザイン化が進んできていますが、大都市とは言え、大阪はまだまだです 同時に、そこに暮らす人々の意識も、車椅子などに対して意識が高いとは言えません。

 私が父の車椅子を押して歩いていると、人がどんどん平気で前から歩いてきます まあ、全国津々浦々、傍若無人化している若者のことを思えば、それも仕方のないこととも思うのですが、やはり何より大阪で残念に思うのは、小さな子供を連れた両親達の、ハンディキャップの人たちに対する教育意識の低さです。
 本来は、これから成長していく子供たちの社会性を高めるため、車椅子や盲人用の白い杖の人に出会ったら、「そういう人たちはなぜその状態になり、どんな不自由があるか?そこで、健常者はどのようにすべきか?」などを教える生きたチャンスです
 しかし、実際には、勝手に突き進んでくるわが子に向かって・・・
 「ほら、車椅子とぶつかる 危ない
そのひとことでおしまいで、すみません!のお詫びの言葉もなければ、当然、わが子への教育的な言葉かけもありません

 世の中には、危険がいっぱいです。
幼い子ども達が、そんな多くの危険にさらされている現状を思えば、わが子のことを最優先に考える、という親の姿勢は必然なのかもしれません
 しかし、それでもなお、私は「親の教育的姿勢」はとても大切だと思っています
 何でもかんでも「危ない!」だけで済まさず、今、わが子に何という言葉をかけるべきか?を考え、生活そのものを、もっともっと「子どもの学ぶ場」として捉え、子どもが多くのことを、タイムリーに肌で感じ、学べるチャンスを作ってあげてほしい、そう考えています

親は子の鑑、子は親の鑑

2007-02-23 11:01:43 | 悪い子、悪い親?
 今朝テレビを見ていると、荒川区の「あらかわの心」推進運動の一環である「おせっかいおじさん・おばさん運動」についての話題が取り上げられました この運動の趣旨は、年長者が何事も見て見ぬ振りをせず、どんどんと若い世代に注意をしようというものでしょう。確かに、これはここ数年、よく耳にする話題ですね
 この話題が出たとたん、ゲストコメンテーターはこぞって口を開き、 
 「先日、子どもに注意をしたら、親ににらまれた
 「子どもに注意をするよりも、本当は親にいってやりたい
などなど、現代の傍若無人?!の子どもたちに対してよりも、非常識で無責任な!!親たちに対する、もっていきばのない非難轟々でした
 本当にそうですねえ ちょうど私もつい先日、電車の中で、まさに意を決して親に注意をしようか、と思いながらも、最後の勇気が出ず、黙って電車を降りて悶々としたのでした
 某有名幼稚園の親子2組が電車に乗ってきて、男の子たち二人はドアの前に駆け寄っていきました。そこにはすでに、年配の男性が立って本を読んでおられたのです 子どもたちがそこに行っただけで、じつは、すでに男性の足元を何度も蹴ったりしていたのですが、まあ仕方がないか、という顔をされた男性は何もおっしゃらず、少し車内側に体をずらせて立って読書を続けていました
 男の子たちはまさに傍若無人で、キャーキャーと騒ぎ、ドアの前でふざけ、誰の目にも行儀が良い子たちとは見えず・・・
 ドアが開いて、乗車する客が乗り込んできても、その場を空けようとしません。驚いたことに、その様子を明らかに見ている母親たちも、楽しそうにお話に興じ、なぜか注意をしないのです
 まあ、百歩譲って、男性の邪魔になっているということに気づかなかったとしても、車内で騒ぐ、ドアが開いているのに、その場をどかないなど、当然、わが子の愚行が見えているのに、母親たちは何の言葉かけも叱責もない・・・

 以前、やはりその幼稚園の親子が、比較的すいた電車だったとはいえ、3人分のスペースを使って座り、子どもは靴も脱がずに窓のほうを向いて座り、親子で大声で話していた、ということがありました
 日ごろから、電車通園している方々です。幸いにも、その子どもたちは、幼いころから毎日、公共の乗り物を経験することで、同年代の子どもたちよりも多くを学ぶ機会に恵まれているにも関わらず・・・実際には何も親子で学ばず、何も親は子どもに教えず、ただただ制服を着て、わざわざ幼稚園の恥をさらしているのは残念です・・・

 最近、こんなこともありました。
大きなショッピングモールの混んだエレベーターでの出来事。エレベーターは各駅停車のように、毎階ごとに開きます 当然ですが、これはルールとして、ドア付近に立っている人は、乗り降りする人のことを気遣い、一旦エレベーターを降りたり、少し体をずらしてスペースを空けたりしますよね
 そして、乗り降りの場合は、「降りる人が先」と決まっています。これはルールであると同時に、非常に理に適った行動です
 ところが、結構よい年に見える父親、絶対にスペースを空けないのです もちろん、降りることもありません。
 その父親は妻と二人の幼稚園児に見える子どもたちと一緒でしたが、父親も母親も何の行動もおこしませんので、子どもたちもエレベーターの入り口付近に立ったまま、全く動こうとはしません

 子どもが幼いうちは、親は最も身近な「人としてのお手本」です
お手本が間違っていたり、お手本がお手本の機能を果たしていなかったら、子どもは何も学べません
 親は子の鑑(かがみ)であり・・・そして、怖いことに、子は親の鑑(かがみ)でもあります
 頭脳明晰であるかどうかは、ぱっと見ただけでは判断できかねますが、子どもの行動、言動をほんのわずか見ただけで、その子の人としての立派さ、賢さはある程度は見えるおのであり・・・それは親の立派さ、賢さが見える、ということを意味します

 ここまでわかっていれば、ひいては立派な人を育てるために『子どもたちにとっての』おせっかいおじさん・おばさんになることが、どれほど意味のあることか、ということは十分にわかります
 しかし、自分の精神衛生上、我慢をして、胃が痛くなるよりも、『わけのわからない親に対する』おせっかいおじさん・おばさんになることこそ必要なことでしょう
 でもねえ、オトナは突然にオトナになったわけではなく、毎日、毎日の時間を重ねてオトナとしての今があるわけで。
 困った親たちであるオトナたちは、時間をかけて「困った人」として完成されてしまっているのです・・・

 ヴー・・・やっぱり、どちらにしても胃が痛くなります・・・
 横浜は、荒川区とは遠く離れてはいますが、私は毎日、荒川区にエールを送りつつ、私も「おせっかいおじさん・おばさん運動」を念頭において、生活をしていこうと思います


美容院のキャンディーボウル

2007-01-28 00:10:05 | 悪い子、悪い親?
 先日、行きつけの美容院に行きました いつもお願いする美容師Iさんとは、すでに10年以上のお付き合い。元町の草分け的美容院のオーナーでもあるIさんは、ヘアーアーティストとしての腕もさることながら、しっかりとしたご自分をお持ちのとても魅力的な方で、最近ウッディーに改装された店内も、お店で働く美容師さん達も、当然I氏の厳しい目にパスした上級のもの 月に一度の美容院通いは、とても楽しみな時間です

 そんなIさんとは、いつもカットやカラーをしていただきながら、多方面のお話をするのですが、先日は「最近の親子談義」に花が咲きました
 Iさんの美容室には、乾燥する店内を気遣って、あちこちにキャンディーボウルがさりげなく置かれています おしゃべりの私などは、時々話しすぎて喉がカサカサになり、遠慮がちにではありますが、そこに置かれたキャンディーをいただきます
 今回、そのキャンディーが話題になったのですが、Iさん曰く・・・
「うちのお店は一見さんは少ないのですが、でも時々、ふらりと子ども連れのお客様が来てくださるんです そんな時、お子さんはお母さんのカットが終わるのを、入り口近くのソファで待っていてね、次から次へとキャンディーをバリバリ・・・ お母さんも、それを見ていても平気なんですね。なーんにもおっしゃらない 僕なんか小さい頃、同じように店の人がくださるものをもらう時も、何となく躊躇し、いただいてしまって良いものかどうか心配になり、親の顔を見たものですよ そしたら、父や母が「じゃあ、ひとついただきなさい」って声をかけてくれてね。それでやっと安心していただいたものです 気を利かせて、さあもう一つどうぞ、なんて言ってくださろうもんなら、心の中ではうれしくても、僕自身はもっともっと困ってしまって また親の顔を見て・・・そしたら、親も苦笑しながらお店の方に、すみませんねえ、お気遣いをいただいて、なんて声をかけ・・・僕には「じゃあ、最後のひとつをいただきなさい」なーんてね。ちゃんと静かに釘を刺すって言うんでしょうか そんなもんだったですよねえ・・・そんなことを思い出しながら、何だか、ちょっとバリバリと食べる子も、何も言わない親も、見ていたら悲しくなってしまいます・・・

 私はI氏が話された「そんな様子」を、思い浮かべることができました 私とIさんは、確か10歳ほど年が違うのですが、私が子どもの頃も、まさにそういう感じでした。

 両親と一緒にお邪魔をしたお宅 お茶菓子として出されたお菓子は、気を利かせた亭主が帰り際、「さあお嬢ちゃん、これをどうぞ」と言って、半紙に包んで「ありがとうございます」といただいてしまうのは憚られ、必ず父や母の顔を見て、確認をしてからニッコリとして、いただいたものです

 お店の試食なども、やはりいただくのはお行儀が悪い、と母に注意されていたように覚えています ですから、今の子ども達のように、試食の前に群がって次から次へとパクパクと食べる、などということはさもしいことと思えてしまいます 

 確かに、お店に置かれたキャンディーは、「どうぞ、ご自由にお召し上がり下さい!」ということであり、それがイヤなら置かなければいいんじゃない!という理屈もあるでしょうね
 もしここで、昭和の時代のことは知りません とにかく、今の時代は、「置いてあるものは、自由にいただいて良い」という意味と解釈をするわ!と言われてしまうと、ピシャリと、上手にそれに反論することはできない・・・そうも思うのです
 しかし、お行儀や礼儀云々ではなく、こんな理屈はいかがでしょう?

 そこに用意されたキャンディーは、「お客様向け」のもの。
お客様とは、そこでカットやパーマ、カラーという施術を受け、それに対してお支払いをする人のことを言います
 そういう意味では、母親の付き添いであり、時々フロアをうろうろして美容師さん達に迷惑をかけたり、時には泣いたり、大声を出して他のお客様を不愉快にさせる子どもは、その日の「お客様」ではないのです
 キャンディーのサービスは、オーナーの心遣いではありますが、そこが美容院という有料の施設である限りは、その心遣いは、お客様へのサービスの一環、そういうことでしょう

 この話題は、「たかがキャンディー」の話しですから、ケチなことを言うなよという反感を買ってしまうかもしれませんね。しかし、やっぱり私は「されどキャンディー」の話しであり、キャンディーはあくまで「ひとつの例」であって、この話題の本質は「キャンディー」ではなく、本当は「親の社会への意識」だと思うのです
 
 じつはこのIさんとの話しは、次から次へと「今どきの親子」の新しい話題へと発展し・・その日のカットとカラーは、まるで幼児教育の座談会に出席したかのような充実感がありました

 ちなみにIさんは、ギャングの盛りであるご子息、幼稚園児のパパでもあり、日々試行錯誤をし、いろいろ考えながら育児を楽しんでおられます
 たかがキャンデー、されどキャンディー・・・あなたなら、いかがですか?


どうとくしん・・・知ってます?

2006-10-13 22:57:51 | 悪い子、悪い親?
大声でしゃべる若いお母さんが二人、ベビーカーを押して、各駅停車に乗り込んできました とにかく、乗ってきたとたん、その車両の人達が思わずギョッとして振り返るほど、大きな声なんです

 いやでも、会話の内容は聞こえてきます 確かに・・・彼女達は「母親」なのですが、もし、彼女達が2台のベビーカーの前で立っていなければ、100%、母親の会話であるとは思えないでしょう 2年ほど前、「やまんばメイク」とか言われた渋谷のギャル達が、テレビのマイクを向けられた時に語っていたあの「ことば」です

 各駅停車の電車ですからね、一つ一つ駅に停車するわけです。そして、もちろん、そのたびに乗車する人、下車する人がいるわけで、ドアの前にデデーンと2台ベビーカーと止め、その前で大声でしゃべっている彼女たち4人、お客様の邪魔にならないわけがありません。
 しかし、とっても不思議?呆れる?呆気にとられる?だったのは、彼女達には、完全に乗降客が見えてはいないようだった、ことです つまり、世をすね、世の中の人を敵対視し、反感を持って乗降客の邪魔をしようとしているのではないのです。要するに・・・自分達以外のものは、何も見ていない、見えていなのでしょう

 ターミナル駅に近づいた頃、ベビーカーの男の子「1」が、おとなりのベビーカーの男の子「2」に悪さをしに手を伸ばします 結構、やる気モードで、ぎゅっと掴む、という感じでしょうか
 すると、男の子「2」は、これまた弱いのです 掴まれただけで大泣き オチビちゃんのわりには、ものすごーく大きな声
 ところが・・・「2」のママ、「何やってんのよー、バーカ 弱っちーなあ、なんだよー」と爆笑し、息子の「2」に「泣くのはやめなさい!」とか「わかったわかった でも、大声で泣くのはご迷惑です」などとは、ひと言も言われない・・・

 いやー・・・
道徳心の欠如、なのでしょうね まあ、まわりの人間が見えず、自分の世界をカプセルに入れたままで歩いているような人であれば、道徳心、という言葉さえ、理解できないのかもしれません

 超ミニスカートの制服姿のままで、足を開いて座る・・・公共の乗り物の中で、平気で靴下を履き替える・・・おにぎりを食べる・・・お化粧をする・・・
 このあたりの、「道徳心0娘達」がマスコミで賑々しく報道され、批判を受けるようになってから、そろそろ3,4年、でしょうか。
 その時代に、もし、その子が高3だったとしたら???
 あり得る、あり得る あの時にワルワルの主人公だった少女「A」は、男の子「1」、男の子「2」の母親に成り得る年齢でしょう

 きゃーーーーー 道徳心のない母親では、よほど改心しない限りは、道徳心のある子供に育てることは不可能でしょう

 私は、これから増え続けるであろう「0(ゼロ)ママ」達を想像するだけで、お腹と頭が痛くなりました

うちの子に限って!?は、ありません。

2006-07-20 23:59:33 | 悪い子、悪い親?
先日の帰省中、私は35年ぶりで、母方の郷里である奈良県五條市、というところに法事で出かけました もちろん、今までにも何度も母方の法事はあったのですが、母方の郷里で・・・ということもあり、なかなかその時期に合わせて帰省する、ということができず、こんな不義理をする結果となっていたのでした
 実際のところ、今回も、事前に母から知らされたわけではなく、帰省をしたあとで急に「明日、行く?」などととんでもない提案があり・・・ 私としては、大変トンチンカンな装いの、失礼な参加となったのですが、すっかりご無沙汰の遠来の親戚、ということで、歓迎してもらいました

 小学生だった従兄弟達も、今では「おじさん、おばさん」。
私達は、数少ない思い出話に花を咲かせる苦労をするよりも、新鮮な気持ちでお互いの近況報告をした後は、関東と関西の文化比較など、爆笑に継ぐ爆笑の数時間 お料理教室の先生をしている従兄弟の手料理を堪能する・・・というオマケまでついて、私にとっては、本当に有意義な法事でした。 きっと昔、私を蛍狩りや、蝉取りに連れていってくれた三十三回忌を迎えた叔父も、きっとお仏壇の中で満足してくださったことと思います

 さて。
町のあちこちは、当然すっかり様変わりをしているのですが、それでもやはり、随所随所には当時の雰囲気が残っているところもあり、私はそういうところを見ているうちに、急に、幼い頃、年に数回訪れたこの町でのことを思い出したのでした
 私には、1歳年下の従弟(前出のお料理学校の先生)と、彼の妹である3歳年下の従妹がいます 子供の頃、私は年が近いこともあり、よく彼らと一緒に遊びました
 確かに、「彼らと遊んだ」ということはよく記憶としては残っていたのですが、ここ何十年も、すっかり具体的な思い出としては、完全に忘却の彼方に行っていたのでした。

 しかし・・・今回、彼らと「現在」の話をしながら、私は、なぜか彼らと一緒にやった「とんでもなく悪いこと」を、たくさん思い出していたのでした

 親達が母屋で話している間、従弟達の部屋に入って、みなでお人形さんの髪をハサミでカットしたこと
 小学校低学年の頃、別の叔父のところに赤ちゃん(この従弟とも会いました)が生まれた時、何だか虫のように動く新生児の様子が物珍しく、特に手を触ると、握り替えしてくる反応に驚き、何度もその赤ちゃんである従弟の手を、ぎゅーっと押しつぶしたこと
 お菓子に入った乾燥剤の袋を破り、洗面器の中に入れて遊んでいたこと
 お仏壇の前に座り、手を合わせる振りをして、ろうそくと一緒に置いてあったマッチを擦って、火をつけてみたこと・・・
 そして、とんでもないことに、私はそういう悪事(いたずら、とも言いますが)を首謀者として働いていながら、ほとんどすべて素直に謝らず、何だかんだ言っては、年下の従妹達に罪をなすりつけたり、言い逃れをしたりしていたのでした

 昭和ひとけた、昔ながらのかみなりおやじの父の家庭の中で、一人っ子の私には、「父に叱られること=バシンとぶたれ、30分以上も怒鳴り続けられること」でした
 何か好奇心に駆られていたずらをすることや、悪事とわかりながら、どうしても止められずにいたずらをすることは、父の逆鱗にふれることであり、父に逆らえない母の保護も受けられない・・・ということを意味してました

 そういう状況のもと、母の郷里での、従弟の時間は、すっかり私の「本性がむきだし」になる時間であり、日頃の鬱憤をはき出し、なおかつ「怖い父から叱られない」という安心感から、最もずるく立ち回れる「悪の素顔」が表に顔を出す時間でした
 やったことは、どれをとっても超悪質、というほどのことではありませんが、「いたずら」そのものよりも、それをやったことを隠したり、素直に謝りもせず、人に罪をなすりつけていた自分の行為に、40年経過した今、あらためて当時のことを鮮明に思い出し、すっかり重い気分になっています・・・

 子供は・・・どの子も、とても残酷で、ずるく、汚い部分をたくさん持っているものです そして、我が子に、そういう部分が当然のこととしてあり、条件が揃えば必ずマイナスの顔を出すものだ、ということを、しっかりと自覚している親は多くはありません
「うちの子は、心が優しく、そんないじわるや、いたずらなどは、絶対にしません」そういうことを、平気で、真顔で言う親がたくさんいます。
 けれど、本当にそうでしょうか?

 私の母は、未だに私のことを「しっかり者の、優しい子供。絶対にいじわるをしたり、いたずらをするような子供ではない」と心から信じています
 しかし、それは間違いです。母の勘違いです
 なぜなら、私が母の前では、絶対にヘマをしなかったから・・・それだけに過ぎません


 さまざまな条件が、幸か不幸かピタリと揃ってしまうと、どんな子供達も、とんでもなく悪人になり得る「種」を持っているのだ、ということを、親はしっかりと理解、認識しなくてはいけないでしょう
 「うちの子に限って・・・」そんなありふれた言葉は口にはされないでしょうが、「うちの子も、となりの子も」みんな同じ要素を持っているのですよね・・・