先日、テーマサロンのトラックバックをきっかけにして、新たな人たちがこのブログを訪問してくれた。やはりブログをやっている以上、来訪者が増えるのは何より嬉しい。
だから、と言っては物欲しげだが、今日もふらふらとサロンをぶらついていたら、11月に出されたテーマの中に、『思い出に残った海外旅行』というタイトルを見つけた。
しかし、僕の頭をまっ先によぎったのは、”思い出にならなかった”ニューヨーク旅行である。
ニューヨークにはずっと行きたいと思っていた。
若い世代にはあまり理解されないが、僕くらいまでが戦後世代の”ある一群”に含まれるのだろうか、そのご多分に漏れずアメリカは羨望の対象だった。僕は英国にも憧れを抱いてはいたけれど、アメリカはまた違った強烈なイメージを提供してくれた。
なかでもニューヨークは特別な都市である。
自由の国アメリカの縮図であり、フロンティアスピリットの始発地であると同時に終着点でもあり、アートの発信地、ジャズの発祥地、映画の舞台、ビジネスの中心地である。思想的にも様々な価値観が混在し、偏向を嫌う僕にとっての理想郷であると思われた。
だが、治安の悪さも全米で群を抜いていた。基本的に小心者の僕は、そのことで彼の地を訪れることに二の足を踏んでいたのである。
一部には「ニューヨークらしさが失われた」と揶揄されたジュリアーニ市長時代を迎え、僕の不安は解消された。この機を逃すわけにはいかない。しかし、最初のチャンスは大統領選の年、2000年だったが、妻との賭けに負け、渡航地はフロリダに決定した。『ゴアが勝てばニューヨーク、ブッシュが勝てばフロリダ』という賭けだったのである。
次の機会は翌年、2001年だ。
今度は妻が譲り、9月のニューヨーク行きが決定した。
待望久しかった旅が決まり、僕は連日数時間を費やしてそのプランを練った。
僕は何をやるにも集中力や根気が欠けているが、旅行の計画を立てることだけには細部に至るまで神経を注ぐことができる。
数冊のガイドブックを買いこみ、インターネットと首っ引きで日程表を埋めていく。
ホテルは贅沢にプラザを予約した。ブロードウェイでの観劇は『オペラ座の怪人』を選んだ。オフブロードウェイでも『ブルーマン』に席をとった。メトロポリタン美術館やホイットニー美術館など、芸術散策には日数が足りなくて調節に苦労した。
自由の女神にももちろん会いにいく。そして、ワールドトレードセンターにも。
出発を2週間後にひかえた 9月11日の夜、僕は何気なくテレビのスイッチを入れた。
あの時、そのスイッチを押しさえしなかったら、運命が変わっていたのではないかとさえ感じる…。
目に飛び込んできたのは、噴煙を上げるワールドトレードセンタービルだった。
翌日、僕たちは旅行代理店にキャンセルの電話を入れた。
そして、アメリカが歪んだ報復作戦を展開している限り、旅行は永久的に延期されることとなった。
このことは結果的に妻との関係の転換期にもなった。
詳細を書くことは差し控えるが、「あの時、ニューヨークに行っていたら…」と考えることがよくある。仮定の話をするのは無駄だが、旅先でのふたりに、違った感覚が芽生える可能性は限りなく高かったのである。
その後、夫婦の間の溝は深まり、修復不可能になった。
逆恨みと言う人がいても仕方がないが、僕はブッシュ大統領に憎しみにも似た感情を抱いている。
個人的な理由を除いても彼に賛同できないことには違いないのだが、それとは別の次元で、彼の存在は、僕や僕たち夫婦の間に漆黒の影を落としているのだ。
「ブッシュが大統領にならなかったらテロ攻撃はあったのか。ゴアが勝っていたら…。テロが起きず、ニューヨークを旅していたら…」そう考えずにはいられない。
大勢の犠牲者への想いや、その後の世界の混沌と不安、そして個人的な理由がないまぜとなり、今では理性的な形で心中にニューヨークを描くことはできないのである。
だから、と言っては物欲しげだが、今日もふらふらとサロンをぶらついていたら、11月に出されたテーマの中に、『思い出に残った海外旅行』というタイトルを見つけた。
しかし、僕の頭をまっ先によぎったのは、”思い出にならなかった”ニューヨーク旅行である。
ニューヨークにはずっと行きたいと思っていた。
若い世代にはあまり理解されないが、僕くらいまでが戦後世代の”ある一群”に含まれるのだろうか、そのご多分に漏れずアメリカは羨望の対象だった。僕は英国にも憧れを抱いてはいたけれど、アメリカはまた違った強烈なイメージを提供してくれた。
なかでもニューヨークは特別な都市である。
自由の国アメリカの縮図であり、フロンティアスピリットの始発地であると同時に終着点でもあり、アートの発信地、ジャズの発祥地、映画の舞台、ビジネスの中心地である。思想的にも様々な価値観が混在し、偏向を嫌う僕にとっての理想郷であると思われた。
だが、治安の悪さも全米で群を抜いていた。基本的に小心者の僕は、そのことで彼の地を訪れることに二の足を踏んでいたのである。
一部には「ニューヨークらしさが失われた」と揶揄されたジュリアーニ市長時代を迎え、僕の不安は解消された。この機を逃すわけにはいかない。しかし、最初のチャンスは大統領選の年、2000年だったが、妻との賭けに負け、渡航地はフロリダに決定した。『ゴアが勝てばニューヨーク、ブッシュが勝てばフロリダ』という賭けだったのである。
次の機会は翌年、2001年だ。
今度は妻が譲り、9月のニューヨーク行きが決定した。
待望久しかった旅が決まり、僕は連日数時間を費やしてそのプランを練った。
僕は何をやるにも集中力や根気が欠けているが、旅行の計画を立てることだけには細部に至るまで神経を注ぐことができる。
数冊のガイドブックを買いこみ、インターネットと首っ引きで日程表を埋めていく。
ホテルは贅沢にプラザを予約した。ブロードウェイでの観劇は『オペラ座の怪人』を選んだ。オフブロードウェイでも『ブルーマン』に席をとった。メトロポリタン美術館やホイットニー美術館など、芸術散策には日数が足りなくて調節に苦労した。
自由の女神にももちろん会いにいく。そして、ワールドトレードセンターにも。
出発を2週間後にひかえた 9月11日の夜、僕は何気なくテレビのスイッチを入れた。
あの時、そのスイッチを押しさえしなかったら、運命が変わっていたのではないかとさえ感じる…。
目に飛び込んできたのは、噴煙を上げるワールドトレードセンタービルだった。
翌日、僕たちは旅行代理店にキャンセルの電話を入れた。
そして、アメリカが歪んだ報復作戦を展開している限り、旅行は永久的に延期されることとなった。
このことは結果的に妻との関係の転換期にもなった。
詳細を書くことは差し控えるが、「あの時、ニューヨークに行っていたら…」と考えることがよくある。仮定の話をするのは無駄だが、旅先でのふたりに、違った感覚が芽生える可能性は限りなく高かったのである。
その後、夫婦の間の溝は深まり、修復不可能になった。
逆恨みと言う人がいても仕方がないが、僕はブッシュ大統領に憎しみにも似た感情を抱いている。
個人的な理由を除いても彼に賛同できないことには違いないのだが、それとは別の次元で、彼の存在は、僕や僕たち夫婦の間に漆黒の影を落としているのだ。
「ブッシュが大統領にならなかったらテロ攻撃はあったのか。ゴアが勝っていたら…。テロが起きず、ニューヨークを旅していたら…」そう考えずにはいられない。
大勢の犠牲者への想いや、その後の世界の混沌と不安、そして個人的な理由がないまぜとなり、今では理性的な形で心中にニューヨークを描くことはできないのである。