犬の眼

『日記』卑しさから清浄なることまで

『ニューヨークへの想い』

2005-01-31 15:38:40 | Weblog
先日、テーマサロンのトラックバックをきっかけにして、新たな人たちがこのブログを訪問してくれた。やはりブログをやっている以上、来訪者が増えるのは何より嬉しい。
だから、と言っては物欲しげだが、今日もふらふらとサロンをぶらついていたら、11月に出されたテーマの中に、『思い出に残った海外旅行』というタイトルを見つけた。
しかし、僕の頭をまっ先によぎったのは、
”思い出にならなかった”ニューヨーク旅行である。

ニューヨークにはずっと行きたいと思っていた。
若い世代にはあまり理解されないが、僕くらいまでが戦後世代の”ある一群”に含まれるのだろうか、そのご多分に漏れずアメリカは羨望の対象だった。僕は英国にも憧れを抱いてはいたけれど、アメリカはまた違った強烈なイメージを提供してくれた。
なかでもニューヨークは特別な都市である。
自由の国アメリカの縮図であり、フロンティアスピリットの始発地であると同時に終着点でもあり、アートの発信地、ジャズの発祥地、映画の舞台、ビジネスの中心地である。思想的にも様々な価値観が混在し、偏向を嫌う僕にとっての理想郷であると思われた。
だが、治安の悪さも全米で群を抜いていた。基本的に小心者の僕は、そのことで彼の地を訪れることに二の足を踏んでいたのである。

一部には「ニューヨークらしさが失われた」と揶揄されたジュリアーニ市長時代を迎え、僕の不安は解消された。この機を逃すわけにはいかない。しかし、最初のチャンスは大統領選の年、2000年だったが、妻との賭けに負け、渡航地はフロリダに決定した。『ゴアが勝てばニューヨーク、ブッシュが勝てばフロリダ』という賭けだったのである。
次の機会は翌年、2001年だ。
今度は妻が譲り、9月のニューヨーク行きが決定した。

待望久しかった旅が決まり、僕は連日数時間を費やしてそのプランを練った。
僕は何をやるにも集中力や根気が欠けているが、旅行の計画を立てることだけには細部に至るまで神経を注ぐことができる。
数冊のガイドブックを買いこみ、インターネットと首っ引きで日程表を埋めていく。
ホテルは贅沢にプラザを予約した。ブロードウェイでの観劇は『オペラ座の怪人』を選んだ。オフブロードウェイでも『ブルーマン』に席をとった。メトロポリタン美術館やホイットニー美術館など、芸術散策には日数が足りなくて調節に苦労した。
自由の女神にももちろん会いにいく。そして、ワールドトレードセンターにも。

出発を2週間後にひかえた
9月11日の夜、僕は何気なくテレビのスイッチを入れた。
あの時、そのスイッチを押しさえしなかったら、運命が変わっていたのではないかとさえ感じる…。
目に飛び込んできたのは、噴煙を上げるワールドトレードセンタービルだった。

翌日、僕たちは旅行代理店にキャンセルの電話を入れた。
そして、アメリカが歪んだ報復作戦を展開している限り、旅行は永久的に延期されることとなった。
このことは結果的に妻との関係の転換期にもなった。
詳細を書くことは差し控えるが、「あの時、ニューヨークに行っていたら…」と考えることがよくある。仮定の話をするのは無駄だが、旅先でのふたりに、違った感覚が芽生える可能性は限りなく高かったのである。
その後、夫婦の間の溝は深まり、修復不可能になった。

逆恨みと言う人がいても仕方がないが、僕はブッシュ大統領に憎しみにも似た感情を抱いている。
個人的な理由を除いても彼に賛同できないことには違いないのだが、それとは別の次元で、彼の存在は、僕や僕たち夫婦の間に漆黒の影を落としているのだ。
「ブッシュが大統領にならなかったらテロ攻撃はあったのか。ゴアが勝っていたら…。テロが起きず、ニューヨークを旅していたら…」そう考えずにはいられない。
大勢の犠牲者への想いや、その後の世界の混沌と不安、そして個人的な理由がないまぜとなり、今では理性的な形で心中にニューヨークを描くことはできないのである。




なぜに人は働く。

2005-01-31 11:30:08 | Weblog
まずい。
また仕事に穴をあけそうな感じだ。
情緒が不安定で、まったく集中しない。

少なくとも僕にとって、仕事というものは
手段であり、絶対的な価値を有しない。
ましてやその目的が生活の糧を得ることであるなら、そこにはしっかりとした自制力と責任感が不可欠になってくる。生という対価への課役なのだ。否応のない義務なのである。
大半の人が、あたりまえのようにこれをこなしている。
いや、おそらく皆、もだえ苦しみながらではあろうが、なんとかそれに耐えている。
しかし、僕にはそれができない。

仕事ができないことも苦しい。
自分を責め、他人からも責められ、理解されることはない。
いや、そもそも理解されるに値するのか、ということもある。
「甘えるな」と言われる。自分もそう思う。
不遇や不幸にあえぐ世界中の人々に比べたら、なんと恵まれた境遇にあることか…。
それも承知している。
これを読んで、苛立ちを覚える人も多いに違いない。

「生きるために仕事は必要」
当然、理屈では理解している。
「自分と、愛する人を幸せにするため」
甘美な目標として掲げたこともあった。
しかし僕の魂は
怠惰をむさぼる。

僕は欠落した人間なのか?
僕だって仕事をこなしたい。
一人前の自己を築きたい。

好きなことを仕事にしていたって、仕事は仕事。僕は拒絶反応を起こす。

以前、何かの雑誌で読んだことがある。
フランスのテレビ局が、ホームレスにインタビューをした。
リポーターはその男にこう尋ねた。「なぜ、働かないのですか」
するとホームレスの男はこう答えた。
「オレは奴隷じゃねえ!」
何とも貴族的な返答をしたものだ。それが本当に誇りからくるものなのか、負け惜しみまじりの中途半端な思想なのかは、紙面からは読み取れなかった。

しかし、僕はその男とも違う。
確かに彼は何ものの奴隷にもなってはいないが、僕がその立場なら、人間としての尊厳を保つことはできないと思うからだ。
なぜに人は働くことができる…? 誰か教えてほしい。

スキーファンにお詫び

2005-01-31 08:36:36 | ブログポリシー
土曜日(29日)のアクセスがグッと上がっているのだが、もしかして『白馬コルチナ国際』と『裏磐梯猫魔』の記事を、タイトルを見たか検索でヒットするかして、スキー関連の内容と思って来た人がいたのだろうか?
もしそうなら、たいへん申し訳ないことをした。
ずっこけて、気を悪くして帰っていったことだろう。もうここには来てくれないと思うが、重ねてお詫びします。

白馬コルチナ&裏磐梯猫魔

2005-01-29 22:46:52 | Weblog
僕はスキーをしないので実際にどんな場所なのかは知らないが、『白馬コルチナ国際スキー場』という名称には興味をそそられる。
その言葉の響きに、ヨーロッパの、しかも60年代終わりから70年代初頭頃の映画のような、ロマンチックな雰囲気を漂わせている。
しかし、その反面、インチキな、バッタもん臭さを併せもつ名前でもある。
両極端なイメージを連想させる、危ういネーミングと言えるかもしれない。

もう一カ所、以前から気になっているのが、『裏磐梯猫魔』である。
”裏””猫””魔”と、たたみかけるおどろおどろしさが、かえって小気味よい。
( "猫魔"ってなんだ… !? )

例によって、今回もこれらの名称について、何も調べていない.
インターネットというものはたいていのことは分かるし、図書館などに足を運ぶ手間が省けて大助かりなのだが、想像を膨らませる愉しみに欠ける。
『白馬コルチナ国際』と『裏磐梯猫魔』の由来については、いずれぼちぼちと調べることにしよう。

『魚をからかうな』

2005-01-29 15:23:50 | Weblog
また母親との思い出話になるけれども、子どもの頃、釣りをする際に魚の生命(いのち)について話したことがある。
僕は、殺すのは嫌だと思ったので、多少得意げに「釣ったらまた逃がせばいい」と言った。
今で言う
『キャッチ・アンド・リリース』の考え方だ。
そうしたら母は、「いらまかされな」と答えた。
故郷(くに)の言葉で、「からかうな」という意味だ。
褒められると思っていたのが、まったく逆の反応が返ってきたので驚いたことを覚えている。

食べもしないくせに、遊びやスポーツ感覚で鋭い針を引っ掛けておいて、人間の勝手な理論でまた離す、というのは魚にしてみれば本当に
いい迷惑 には違いない。命が助かったからいいというものでもない。
以前、所ジョージが言っていて失望した言葉がある。
「魚には痛点(痛みを感じる部分)がないから関係ないんじゃないの?」
確かにそうなのかもしれないが、本当のところはどうなのか、魚になった人間はいないので誰にも分からないし、デリカシーのないことを言うものだと思った。
彼のセンスには感心するところが多いので意外だったし、残念でもあった。

それ以来、僕は『キャッチ・アンド・リリース』は
偽善だと考えている。
今日、それについて書こうと思い、ブログ検索してみたら、20件ほどヒットした。
そして、そのほとんどが「悪」として論じている。
他の人が既に僕と同様の論点で書いているのなら、書くのはよそうかとも思ったが、乗りかかったものは仕上げてしまおう。ただ、僕は釣りや環境問題、『キャッチ・アンド・リリース』という概念や歴史について特に詳しいわけではないので、その点はお断りしておく。

まず、『キャッチ・アンド・リリース』の概念は、自然保護の観点から言われ始めたが、日本ではバスフィッシングを中心に広がったものらしい。しかし、バスは外来種であり、日本の
生態系を壊しているという事実がある。だから釣り人は、後々の楽しみを残しておくという意味でリリースしているのであり、エゴであって、なんら環境保護などではない、という理由。

もうひとつは僕と同じく、それは生命を弄ぶような行為であって、保護とは認められないという理由。
バスなら
強靭な魚だから『キャッチ・アンド・リリース』に耐えられるが、ほかの品種では命を落とす可能性が高いとのことである。

最近の英国でのキツネ狩り禁止騒動にも似た議論なのであるが、両者とも欧米の論理であるという共通点がある。狩猟民族の歴史の流れの中で、スポーツや文化に形を変えていったという経緯がある。
僕はハンティングやフィッシングに多少の興味は持っている。
趣味や文化として熟(こな)れており、惹かれる部分は多々ある。でもやはり、動物を手にかける、命を奪うということに、実際には二の足を踏んでいる。釣りも高校以来やっていない。
個人的には、生き物の命を奪うのは、自分たちの血や肉にする場合に限って、真摯に行うべきだとは思っている。
ただ、鞄や靴や洋服など、動物を犠牲にした商品にお金を出し、愛用しているという
矛盾を抱えていることも事実だ。だから、一方的にハンターや釣り人だけを責めるわけにもいかない。
つき詰めると、僕だってやりたいと思っている「ペットを飼う」という行為も、広義では『いらまかして』いることではないかと懐疑してしまうのだ。

『アイ・ミー・マイン』

2005-01-29 11:32:39 | ブログポリシー
ある人がご自分のブログに、僕のこのブログをブックマークしてくれた。
光栄に感じたし、認められたようで
純粋にうれしい。
さらにキャプションとして『ここまで自分に向き合えないです』という言葉が添えられていた。
きちんと読んでくれているんだな、という感動と、ある種の気恥ずかしさと、そしてまた他者によって見えてくる自分というものを感じた。書き散らかしているようでいて、なにがしかのアイデンティティをくみ取ってもらえるのだという驚きもあった。

またその言葉は、自分について別の見方をするきっかけともなった。
それについて書くことは、その人に誤解を与え、気遣いを生じさせるおそれもあるが、僕としては自分を見つめ直す
布石 を与えてくれたことへの感謝のほかに、他意はないということは断っておかなくてはならない。
(けっして曲解して受け取ったわけではないので、お気を悪くなさらないでください)

それは、
『僕は外界に目が向いているのか?』 ということである。
僕の日記は、”自分”に終始している。右を向いても左を見ても、「オレがどうした、オレがこうした」というテーマで書き連ねられている。

(ジョージ・ハリソンがポール・マッカートニーを揶揄した『アイ・ミー・マイン』という曲を書いている。ポールも『オレが、オレが』という性格らしい。それを思い出した)

日記だからそれで当然と言えば当然なのだが、ブログというコミュニケーションの可能性を秘めたツールを使っている以上、ただ単純に日記を書いていていいものか、という
疑念 もわいてくる。

実際、多くのブロガーが、政治や経済情勢、世界情勢、事件、事故、あるいは頻発する自然災害について、感想なり意見なりを熱く書き残している。
とくに、
新潟やスマトラ の大地震と津波の被害は、人語に尽くしがたい衝撃を与えており、僕も心の隅では、「これに触れないことは人道にもとるのではないか」という不安を感じていた。
しかし、それについて書くことは、大海原に漕ぎだす一粒の小舟に乗っているような、いい知れない
不安と無力感 をともなう。
新たな視点で論ずることができればその価値もあろうが、本職の物書きを含めて何万もの人が書いている事柄を、きちんと取材することもなく通りいっぺんに書きなぞることに、はたして意味があるのだろうか。

今の僕に、その悲惨な出来事に接していく精神力がないことも理由のひとつである。
このブログのどこかに書いたかもしれないが、現世の不条理やそれに対する怒りや悲しみに耐える力が、今の僕にはない。だから、ニュースもほとんど見ることができないし、結果、何かを語ることもできない。
目を見開けば、心が
悲鳴 をあげる。しかし、目を閉じていれば何も進歩はない…。
生きることはジレンマだ。

『オレの顔』

2005-01-28 12:04:03 | Weblog
コラムに、親父の顔について書いたのだけど、自分の顔についても書いてみる。
こんなとき、謙遜して「いやあ、十人並みですよ」とか、「全然です」なんて言っても始まらないから、独断と偏見で好きなように書かせてもらう。どうか適当に、話半分で読んでみてください。

僕の顔は、ランク分けすれば「中の上」あたりだと思う。
近ごろ太って、サングラスから顔が横にはみ出てしまっているから、昔にくらべれば落ちたのかもしれない。でも一方から見れば、くたびれた中年男の哀しさをそこはかとなく醸しはじめたので、良くなったとも言える。

僕はモテるほうではないのだけれども、黙ってればたまに(ほんとにごくたまに)女の子が言い寄ってくることもある(昔の話です)。だから、外見的にまったく魅力がないとは言えないだろう。
でも、僕が「似てる」と言われた有名人をあげてみると、さほどカッコいいとは思えない人も含まれている。ということは、たぶん、どっちつかずなんだろうな。


「似てる」と言われたことがある有名人
・原田大二郎(俳優)
・近藤真彦(歌手・レーサー)
・江口洋介(俳優)
・長島清幸(野球選手 広島カープ 背番号0)
・原辰徳(野球選手 読売ジャイアンツ 背番号8)
・織田裕二(俳優)
・鳥羽一郎(演歌歌手)
・赤井英和(ボクサー・俳優)
・ブラッド・ピット(俳優 アメリカ)
 ほか


めぼしいところでこんなラインナップなのだが、長島選手を除けば(失礼)どちらかというと二枚目系がそろってるなあ、という(好)印象。原田大二郎にしても、今はうっとうしいキャラクターで有名になってしまったが、もともとは二枚目俳優である。
そして、大金星というか、僕の自尊心をくすぐってくれるのが、ブラッド・ピットという名前。
昔、デパートで働いていたことがあり、隣の売り場の女の子がやたらに「ブラッド・ピットに似てるね」と話しかけてくる…。
その頃既に結婚していて、自分では現役を退いていた気分でいたからまったく気づかなかったけれど、今思えばアプローチをかけてきてくれてたんだね。

まあ、僕がハンサムかどうかはともかく、どんな系統の顔かは想像がついたとは思います。

いつかペラペラ

2005-01-28 08:42:32 | Weblog
昨日も少し触れたように、僕は英語ができない。
(多くの人が言うように)やりたい、やらなければ、と思いながら、歳月だけを重ねている。

車を運転していて、唐突にある場面が脳裏に甦ってきた。
小学3年生くらいの僕が、母親に英語を教えてくれとねだっているのだ。
田舎のことだし、当時、近隣に英会話教室などなかった。
習い事といえば習字かそろばん、まれにピアノがあるくらいだった。
そもそもそんな施設があったところで、わが家は通わせてもらえるほどの余裕はなかった。

いや、そういえば僕は習い事や塾に行かせてくれと頼んだことがない。
もしかしたら、僕がきちんとお願いすれば、行かせてくれたのかもしれない。
ただ、小学生向けの通信講座(なんとかゼミというやつ)をやりたいと言った時は、にべもなく断られたのだけれども。

そんな状況だったから、英語が習いたいと思えば、講師は母親以外にいない。
母は、夕食後のひとときを、英語講座に割くことに同意してくれた。
しかし、母はべつに英語が得意なわけではない。いまにして思えば、中学1年生のレベルにも満たなかったかもしれない。だから当然、その講座の内容は、アルファベットから「ジス・イズ・ア・ペン」どまりであった。

それでも初めての回に、ぼくはわくわくしてこう尋ねた。
「いつ頃ペラペラになるかなあ!」
まったく僕らしい言葉だ。未来への期待あふれる、無邪気な子どもらしい台詞ではあるのだが、いまとなっては、この言葉に僕の忌まわしい性質が集約されている。

僕には”現在”というものがない。
未来や結果ばかり目がいってしまい、いまその時を生きていない。
今を大切に育んでいかなければ、当然未来はないのに、それをせずにこれまでの人生を過ごしてきた。”現在”に集中できず、いろんなことを未来へ先延ばしにして、その結果何ものをも得ることがなかった。仕事だってそうだ。今現在その仕事に真剣に取り組むこともなく、明日の自分に押しつけている。

英語は、ついにペラペラになることはなかった。
母親との英語講座にしてから、何回受けたのか定かには覚えていない。
おそらく3、4回でフェイドアウトしていったのだと思う。
簡単に結果は出ない、というのが見えたからだろう。

”現在”に集中できなければ、この先も僕の未来はない。
ただ無為に人生を浪費するだけだ。

僕は独善的?

2005-01-27 12:36:42 | Weblog
フロリダのディズニーワールドで、ベンチに腰かけてモノレールを待っていた。
平たいスチール製の椅子なので、しばらく座っていると尻が痛くなってきた。
僕はそばに立っている白人のオジさんに、
「座りませんか」と手のひらをベンチの方へ向けて、ジェスチャアで示した。
ところがそのオジさんは、バカにするな、とばかりに、一緒にいた仲間と、
「オレはそんな年寄りじゃねえよなあ」と言って笑った。

「いや、そんな意味じゃなくて、僕は椅子が必要なくなったので、一番そばにいた目上のあなたにお譲りしただけなんです。”お年寄り”ということではなくて、年長者に対する敬意と、単に順番の問題ですから…」と、説明するには僕の英語力はお粗末だった。

先日も地下鉄のなかで、目の前の席が空き、僕は座りたくなかったので、誰かに譲ろうと周りを見回した。もちろん、まず高齢者や身体の不自由な人や、妊婦、乳幼児を抱えた人がいないかを確認した。
僕のすぐ近くに、目を閉じて眉間にかすかにしわを寄せ、うつむき加減の女の人がいた。年の頃は、30代後半から40代半ばといったところか。
その様子からすれば、疲れているのだろうと思って不思議はない。だから僕は
「座りませんか」と、今度は使い慣れた日本語でその人に声をかけた。
すると彼女は、
「いいえ」とひとことだけ発して、また目をつむったのだ。
すぐに降りるからだろうかと考えたが、しばらくは降りずに乗っていた。

僕は、何か気に障ることをしているのだろうか?
独善的な、親切の押し売りをやってるだけなのだろうか。
彼らが座らないことはその人たちの自由だから、僕が気分を害したりする筋合いのことではない。
でも、僕は自分の行いが正しいのかどうか分からなくなってくる。
ある程度高齢でないと、席を譲ってはいけないのか。
「年寄り扱いするな」と言われても仕方ないことなのだろうか。

最近はモラルとか差別意識が、その本質を超えて拡大解釈され、過敏になっており、何かしたり、言葉を発することにおよび腰になってしまう。より高度な社会へ移行する過渡期だと思いたいが、人と人との関係がぎこちなく、不自然な気はする。

モノは壊れる。

2005-01-27 09:16:36 | Weblog
どうやらサーバ増強作業は無事終わったようですね。
良かった、また頭に血がノボるような事態にならなくて…。


僕が買った物は、まともに機能しているものが少ない。
つまり、どこかしら壊れたりするっていうこと。

電気製品はとくにひどい。
初めて買ったパソコンはブッ飛んじゃって
再起不能だし、次に買ったこいつ(eMac)も、先日から書いてるように半年で早くも調子が悪い。
SONYのテレビは、しょっちゅう音が出なくなるし、CDラジカセも電源を落としているのに突然ついたりする(いや、これは電波障害かな)。
ドライヤーは何回買い替えてもダメで、いま使っているヤツも、"HOT"で使っている最中に断続的に
冷風が出る。
風呂釜も修理が必要だし、洗濯機は水漏れを起こし、床を
水浸しにする(さすがにこれは替えた)。
家電以外だと、洋服は虫に喰われるか、必ず汚れる。

洋服はともかく、家電などのモノが壊れるって、ふつうのことなんだろうか?
みんな修理したりしながら、
折り合いをつけてつきあっているのかな。
それとも、ぼくがババをひいてしまう巡り合わせなのかね。
使い方も悪いんだろうか。
ただ、確かに言えるのは、家電は昔にくらべて耐久性がなくなっているのは事実だね。
2、3年したら壊れるように
プログラムされているんじゃないかと思うほどだ。
いや、半ば本気でそう信じている。
デリケートな電子部品を使用しているから壊れやすい、ということもあるし、コストのかかっていない商品ばかりだからだろうけど、それだけじゃない気がする。穿った見方だろうか?

もうひとつ思うのは、僕の住んでるこの土地が悪いんじゃないかということ。
妻の実家の土地なんだが、彼女の先祖が僕を嫌ってるんじゃないかと思うんだ。
僕を追い出したがってる…。
どこかに出かけて、たまに気分よく帰ってきても、家が近づいてくるにつれ胸の辺りが
重くなる。
ただ、追い出したいんなら、お金持ちにしてくれたらすぐにでも出て行くんだから、いろいろ苦労を降りかけるよりもそっちの方が手っ取り早いんだけど。
ご先祖じゃなくて、
自縛霊かな?

…いや、やっぱり電磁波かも。この辺はきっとすごい磁場が通っているんじゃないだろうか?
(いけませんね、そんな受動的な思考では…。自分で運命を切り開かなきゃね)

ブログはネコ好きが多い?

2005-01-26 08:41:37 | にゃんこ
他のひとのブログを見て回っていると感じるのですが、ブログ世界にはネコ好きが多いようですね。
僕もそうだし、いま2、3件まわったけど、全部ネコでしたよ。

僕が興味をそそられるタイトルをつける人は、ある部分僕と同じようなセンスを持っているということだから、同じくネコ好きである可能性が高い、っていうことでしょうか?

それとも、ブログや日記を書く人って、どちらかというと内省的で、そんな人はネコ好きなのでしょうか?

ネコ派、イヌ派って、血液型と同じくらい、人の性格を分けるものだという気がします。
またその中でも、長毛派 vs 短毛派、血統種派 vs 雑種派、犬に限っていえば、小型犬派 vs 大型犬派というのもあるんでしょうね。
僕はプロフィールにも書きましたが、犬は完全なる大型犬派です。小型犬(チワワとかヨークシャーテリアなど)も可愛い時も稀にはあるけど、通常はとても苦手です。小型犬好きの人とも、何か波長が合いません。


僕のブログ、アクセスが下がってます。
最近、説教じみた記事が多いからでしょうか?
このあいだ書いた女性についての記事が、女性の逆鱗に触れたのでしょうか?

ところで、今日、gooブログはサーバ増強作業があるはずですよね。
何時からかな…。
データ紛失しなきゃいいですけど。無事に終了することを祈っています。

控えめリッチ??

2005-01-25 17:56:18 | Weblog
最近、押し出しの強いものが敬遠されている。
バブル期にもてはやされた、キンキラ、ハデハデなモノたちである。
例えば、車なら真っ赤なフェラーリや、大きなメルセデス。
洋服なら柔らかい仕立てで色気たっぷりのアルマーニとか、ベルサーチ。
腕時計なら、金無垢のロレックス…。
確かに一歩まちがえると悪趣味に陥りがちな商品であるには違いない。

男性のライフスタイル誌でも、
「控えめリッチで差をつける」「悪目立ちしないように」
などといった見出しが躍ってる。
よくわからない日本語だけれども、つまり、一見して高価な品物と分かるようなものは駄目で、さりげなく上質なものを選ぶのが上級者であり、今のトレンドだ、ということだ。
車や装飾品で自分のアイデンティティを誇示するのはダサイ、などとも言われて久しい。

しかし、心からの信条としてそんなスタイルを実践するならともかく、本当はフェラーリに乗りたいくせに、
「雑誌がそう言うからボルボにする」
なんていう輩は、もっともっとダサイ。
チマチマと、適当な記事を真に受けてはいけない。
確かにその「控えめリッチ」とやらの考え方に基本的には賛同するが、かなり高度な概念であり、経験もいる。もちろん、経済力は必須だ。
なまじつけ焼き刃でそんなスタイルを取り入れたりしたら、キンキラ、ハデハデと結局は同じことなのだ。
いや、難易度が高いぶん、もっと惨めな結果を招くに違いない。

ハリウッドのセレブや、大企業のトップなら、そんな論理もあてはまるだろうし、セキュリティを考えても控えめなほうがいいだろう。
でも、一般庶民の僕らは、好きなものを買えばいいのだ。
お金持ちのサル真似をして、気持ちを偽っていることのどこがカッコいいのか?
横並びのコンセプトを垂れ流すだけの雑誌をうのみにして”上級者”とは…。
片腹痛い。

コマンド・ゼットの恐怖

2005-01-25 15:45:53 | Weblog
またパソコンの調子が悪い。
何回か初期化、再インストールをしたが、不安定だ。
いったい何だろう? ウィルスによるアタック? 製品不良? システムの異状?
何にしろ、仕事がたてこんできたとたん、これだ。
僕のやる気は、いつも出ばなをくじかれる。

ところで、そら恐ろしいニュースを聞いた。
中学3年生までを対象にしたアンケート(どういう機関がどんな方法で行ったかは失念)で、15%あまりが、
「人間は死んでも生き返る」
と、答えたというのだ。
ぞっとするのは、その根拠として「映画やゲームでそうだったから」とか「リセットできる」と答える者がいたという事実だ。
子どもたちがどこまで真剣に答えているか疑問であるし、このことをすぐに「凶悪犯罪の低年齢化」や「自殺の多発」などと関連づけて考えるのはいささか短絡的かもしれない。
しかし、軽く受け止めるわけにもいかないと思う。

映画やゲーム、パソコンなど、ヴァーチャルなものが影響を及ぼすという点では、僕にも思い当たることがある。
例えば、テトリスというゲーム。これに熱中している時期があった。ご存知のように、数種類の凹凸を持ったブロックをうまく積み上げていくゲームである。
その頃、本を読んでいて段落を下げた行に出くわすと、その1文字開いたところに、頭の中で
架空のブロックをはめ込んでいた。ある程度規則正しく並んでいるものに隙間が空いていると、勝手に脳が反応し、そこをブロックで埋めないと気が済まなくなっているのだ。チャップリンが『モダンタイムス』のなかで演じた機械工の症状に似ている。

それから、僕は絵を描くことが好きだったのだが、最近はパソコンの影響で手描きすることができなくなってしまった。パソコンソフトの便利さに慣らされたという部分もあるが、もっとも意識を浸食しているのがundoコマンドである。
パソコンのショートカットキーのひとつで、なにか実行したあとでも前の状態に戻すことのできる機能だ(これを読んでいる人はご存知だとは思うが)。Macで言えば、コマンドキー + Zの組み合わせ、俗に”コマンドゼット”と呼ばれているショートカットである。
絵を描くという作業は、(少なくとも僕にとって)ものすごく集中力を要するものだ。
とくに鉛筆画や水彩画の場合、二度描きはできない。失敗が許されない、一発勝負の世界だ。
ところが、簡単に
やり直しのきくパソコンを使っていると、そういった一発勝負の物事にも、コマンドゼットが効くのではないかと、脳が思い始めてしまう。
その結果、真剣さが薄れ、集中できなくなってしまったのだ。

これは僕の性格的なものだろうか?
いや、今回のアンケートでも「リセットできるから」という答えが見られる。コマンドゼット、すなわちリセットである。子どもたち、いや僕たち大人も含めて人間の脳は、殺人や自殺をも”リセット”できる、という危険な構造に組み換えられてしまいつつあるのだ。しかもそれは、まるで薬が浸透していくかのように、徐々に音もなく進んでいる。

死んだ者は二度と生き返らないことは、もちろん僕たち大人は知っている。
でも果たして、本当に
心底から理解していると言えるだろうか?
輪廻転生はいろいろな宗教でも言われてきたし、現代の隠蔽体質の社会の中で、直接的な”死”を目の当たりにすることはほとんどない。戦争や災害による”死”もマスコミによって届けられており、ヴァーチャルの匂いは拭いきれない。それでもあなたは、死を理解していると言えるか。このアンケートを笑うことができるだろうか?

アニメ界のドン

2005-01-24 12:14:40 | Weblog
みなさんは「本橋浩一」という名前に見覚えはないだろうか。
おそらく、アニメファンにとっては愚問なのだと思うが、一般の視聴者のひとりとして、その名前に興味をそそられるのである。
この名前、僕が今までに見た、めぼしいテレビアニメのほとんどに、製作者としてクレジットされている。
テーマ曲が始まり、最初に目にするのがこの名前である。
しかも、もう少なくとも30年はそんな状況なのだ。

ネットで調べればおおかたのことは分かるだろうが、それもいささか味気ない。
謎があっさりと明らかにされるのもつまらないものだ。
僕のなかで、この人のイメージが膨らんでいく…。

日本アニメーション株式会社の代表取締役だということは、何となく知っている。
しかし、この長い年月、大量のアニメに関わってきたということは、おそらく実務的な仕事はやっていないのではないだろうか(あくまで想像です)。
その名前を冠すれば、作品にあらゆる便宜が図られ、彼が眉ひとつ動かしただけでプロジェクトの生死が決まるというような、権力をほしいままにするアニメ界の首領<ドン>であるに違いない(それはたぶん事実)。
マホガニーの机の後ろで、革張りのチェアのなかに身を沈め、秘書に支持を出す。
「声優どもが騒いでるそうだな」
凍りつくような恐ろしい声から、その冷たい怒りが冷気を発している(想像です)…。

…いくら想像とはいえ、こんなことを書いていたら、僕のブログなんか抹殺されてしまいそうだ。
このへんでやめとこう。
みなさんも余計な詮索をしないほうが身のためだ。
無邪気に彼のアニメを楽しんでいればよろしい…。


※くりかえしますが、本橋氏についての描写はすべて想像ですので、誤解なきよう

男子トイレの秘め事…?

2005-01-23 19:49:56 | Weblog
やってる方、多いと思うけれど、
公衆の男性用トイレで、用を足しながら小便器に
を吐き入れることは止めていただきたい。
傍目にも様子が悪いし、トイレがなんとも言えない芳香を放ち始める。
アンモニア臭に統一されているところに唾液が混じると、これはたまらなく嫌な臭いとなる。
イメージとしても、『ミソもクソも…』といった風でよろしくない。

気を悪くしないで欲しいのだが、なぜこれをするのかよく分からない。
小用が済めば、そこには
洗面台があるというのに、なぜわざわざ便器に吐き入れるのか。
自分の身体に引っ掛からないようにするには、体勢的にも苦しいと思うのだが。

今日はずいぶん汚い話題になったが、ついでにもう少し話してみよう。
とくに女性の方に
耳寄りの情報だ。

50代以上の男性の7割近く(場所によっては9割に達する)が、トイレで用を足しても
手を洗わない。
そして、その世代のオジサマに限って、よく人の肩なんかを叩く…、握手をしてくる…。
どうぞお気をつけ下さい。


※『犬の眼』公衆トイレ調べ