犬の眼

『日記』卑しさから清浄なることまで

1968年2月の枠

1968-02-28 12:12:12 | コラム
『コバラが空いたらコラム』 [ 目次 ]

1968年2月の枠は、コラムになっています。
日記もプロフィールも、かなり濃い内容になっているはずですが、それでもまだ読み足りないとか、「コバラが空いた」とおっしゃる方のために、コーナーを設けました。名づけて『コバラが空いたらコラム』
そのまんまですけど、もっといいタイトルが浮かんだのですが、よそ見したら頭から消えていました。

日記のほうも、日記というよりコラム的ですが、本音を言えば、書きたいことが多すぎて日記が膨張するのを防ぐための処置でもあります。ほんとうは、コバラが空いてるのは僕なんですよね。
日記との違いは、『日常の小さな1点に話題を絞り、簡潔に書く(ようにする)』ことでしょうか。

『犬の眼』というタイトルのブログなのに、表紙のコラムのアイコンが「羊」なのは、
「コラム = 子・ラム = 子羊」
という、僕のちょっとだじゃれ的なセンスからです。
コバラの空いた子羊が、紙を持って食べようとしているところです。





10.『映画の挿入歌のタイトルを、画面にでかでかと入れることについて』

1968-02-02 00:00:10 | コラム
やっと『イージー・ライダー』を見た。
このトシ(37歳)になって…。
2005年になって、やっと…。
(公開は1969年)
でもこれで、僕の恥がひとつ雪(そそ)がれた。
映画の内容について語るのはよす。
でも、まだ見てない人で、まっさらな状態で見たい人は、念のためここから先は読まないほうがいい。

※薄くネタばれ注意

最初に出演者のクレジットが出るでしょ?
ジャック・ニコルソンの名前が出た直後に、斧(オノ)を持った人の形のでっかい看板が映る。
なんとなく予言的じゃない?

映画には直接関係ないのだけど、とても腹が立つことがあった。
この作品には、多くのロックナンバーが挿入されている。
それが字幕版で見ていると、曲がかかるたびに、でっかい文字でアーティスト名と曲名が入るのだ。
画面の4分の1が隠れるかと思うくらいでかでかと、しかも腰砕けな安っぽい書体で…。
例えば、

ステッペン・ウルフ
ワイルドでいこう


なんてふうに。

オリジナルの映像には、アーティスト名や曲名は入っていない。
だからオリジナリティを損なってもいる。

映画は、画像と音楽が融合して成り立っているものだ。
曲は物語の一部として生きているはずだ。
いちいち不必要な字幕スーパーなんか出されたら、気分が殺がれるし、心ならずも曲だけに気がいってしまい、音楽が映像から剥離してしまう。
そのために映画の流れがぶつぶつ途切れる。

作家(製作者)が期待した効果を阻害してしまうのだ。

この作品に限らず、日本の制作会社(配給会社?)は、ご親切にいろいろと、字幕とか、オリジナルにないセリフを足してくれる。
至れり尽くせり、というわけか…?
視聴者をバカにしているのか…?
それもあろうが、ただセンスがないだけだろうな。

ついでに言えば、邦題のつけ方、キャッチコピー、広告もひどい。水野晴郎が広告マンだった時代(1960年代)のセンスを脱していないんだもの

9. 『パワフルフレンド』

1968-02-02 00:00:09 | コラム
妻には「相手が返答に困るから言うな」と言われてるが、このブログは僕の心情を吐露する目的で書いているからあえて言う。
僕には
友達がいない
いままでの人生のなかで何人かいたことはあるけど、いま現在、友達と呼べる人はいない。自分の基準でそう思っているだけでなく、実際にいない。この何年か妻以外の人と個人的なつきあいで会ったことは数えるほどしかない。
一般に、誰も友達を持っているものだから、友達がいないのは僕自身に問題があるのだろう。
考えるに、ひとりのほうが好きだということは確かにある。
友達がいると楽しいこともあるし、自分のためにもなるだろうけど、煩わしく感じる場合が多い。
僕は人と好みや感覚がずれていて、思考も偏っているようだし、あまのじゃくな部分が強いから、誰かと一緒にいても迷惑になることが多いのだ。
自分の気分で欲しい時に求め、いらない時は拒絶するような、都合のいいことはしたくないし、「友達がいると、なにかと便利(ごく狭い例えで言えば、引っ越しの時手伝ってもらえるとか、仕事を回してもらえるとか)」といったような打算でつきあいたくはない。

それから僕は、好意を持っている相手のことを気にかけすぎる。
その人にトラブルや不幸がないだろうかとか、ふだんからそんなことが起きる心配をしてしまう。それが度を過ぎると精神的な負担になるのである。
よくアメリカ映画で、敵対する相手に「オレには
”パワフルフレンド(頼れる友達)”がいるんだ」というセリフが出て来るが、僕は誰かにとっての”パワフルフレンド”になれるような力は持っていない。
面白いやつでもないし、その人のためになる人間でもない、それを補うほどの厚い友情も持てない。
友達がいのない人間だ。

こうやって生まれてから30数年間、まともな友達関係(ついでにいうなら恋愛関係も)を築いた経験がないから、人とのつきあい方を知らないままだ。
ひとりが好きだとは言っても、正直さびしい時もあるし、もったいない人生だな、と思う。

ネットのなかでこうやってブログを書いたり、ほかのブログと交流を持ったりして、匿名のおつきあいをしているが、そんな関係なら実生活での人間関係よりうまくいくかとも思ったが、やっぱり僕は人に嫌な思いをさせたりしている。
実生活で友達ができない人間は、やはり
ネット上でも同じことなのだろうな。
だからといって、本来の自分を偽って、別の人間になりすますような気はないのだけども…。

8. 『イチゴがあま~い!』

1968-02-02 00:00:08 | コラム
くだものが甘い。
あたりまえだ、というかもしれないけど、僕が子どもの頃くらいまではそうとは限らなかった。
いまはほぼ100%、甘い。ハズレが無い。

野菜も甘い。
トマトなんか、くだものみたいだ。

でも、いまでも僕は
『いちご』と聞くと口の中が酸っぱくなるし、スイカだって、青さの残った味を覚えている。
冬にこたつの中で食べるみかんも、段ボールのなかから甘そうなのを選り分けて食べていた。

これって、農業技術の進歩と、単純に喜んでいいの?

確かに、大昔から野生の実に改良を加えて、人間が食べやすいようにしてきた歴史はあろうけど、100%甘いなんて気色悪い。
その作物特有の匂いも消えてしまった。
若い人は
トマトキュウリの本当の匂いを知らないだろう。

現代の農作物は化学製品なんだな。

こう書いていながら、僕も昔のことを忘れそうだ。
このあいだ、某大手お菓子チェーンのケーキを食べたらイチゴが酸っぱかったけど、なんか腹が立ったもの。僕も毒されてきているらしい。

7. 『栗きんとんの怪』

1968-02-02 00:00:07 | コラム
小学3年生くらいの頃、ある日給食に見たことのないものが出た。
サツマイモと思われる、茹でてつぶしたもののなかに、栗が入っている。
それはおそらく、今考えると
栗きんとんなのだが、当時ぼくは栗きんとんを知らなかった。
それに、その盛りつけ方はおせちの中でのおしとやかさはなく、まるでマッシュポテトをオタマかなにかに思いきりすくって「ボトッ」と投げ落としたかのような、豪快きわまりないものだった。

先割れスプーンですくって食べると、最初のふた口みくちは美味しい。
しかし、調子に乗って食べていると、いきなりあぶら汗がじっとりと浮かんできて、胸の奥から嫌なものがこみあげてきた。
それからは手がつけられなくなった。
当時、出されたものは好き嫌いなく残さずに食べさせることが教育であり、子どもらも先生が怖い時代だったので、給食時間を過ぎても食べきれない者は、居残って食べ続けなければいけない。
まわりを見ると、僕を含め10人ばかりが栗きんとんを目の前にして悪戦苦闘している。
30人のクラスで、その割合はかなり高い。
なかには途中で洗面所にいき
「吐いてきた」などと言う者も現れたが、本当に嘔吐したかどうかは分からない。
しかし、皆が食べるのに苦しんでいたわりには、ほかに具合を悪くする者はいず、ぼくももどしたり下したり熱が出たりといった、食中毒の症状などはいっさい出なかった。

あれはいったい何だったのだろう。
味つけのせいではないし、量を食べ過ぎたということなのだろうか。
給食は牛乳だったから栗きんとんとは合わなかったのだろうか。それとも、ほかのおかずとの食べあわせが良くなかったのか。

そのときに限らず、小学生はよく具合を悪くしたり、急にもどしたりする。
そして、それは給食を挟んで前後の時間帯が多いのだ。僕もたびたび吐き気をもよおして、いちど
精密検査を受けたことがあるが、異常はなかった。
今でもたまに学校のそばを通って給食の匂いをかぐと、そんな記憶が呼び覚まされ、淡々と日常をこなしながらも異様な危うさを漂わせていた小学校の教室が、脳裏に浮かぶのだ。

6.『字面、字づら、字ヅラ?』

1968-02-02 00:00:06 | コラム
皆さんは、『字面』(じづら)というものを気になさいますか?
デザインの仕事に関わっているから、ということでもなく、以前から文章を書く時に気になっていることなんです。
ここまで書いてきたなかにも、字面を気にして、迷ったり、心中穏やかでない部分がすでにいくつか出てきました。

まず、冒頭の『皆さん』。
「みなさん」と平仮名で書くか、漢字で書いたほうが良いか迷います。
同様に、『書く時』の「時」も、平仮名で書く”とき”があります。
『ここまで書いてきたなか』の「なか」もそうです。字面を「字づら」にするか「字ヅラ」にするか、といった片仮名使いで悩むこともあります。また、カッコと鍵カッコの使い分けも気になるところです。

「自体」(じたい)という言葉がありますよね。
「言葉自体には問題がない」などと使うのですが、この「自体」という漢字の字面が気にくわない。
かといって、「言葉じたいには問題がない」と平仮名にすると幼い印象がありますし、意味が瞬時に伝わりにくい。「与える」とか「私達」の「達」、「気付く」の「付く」いう漢字も、同じく字面が気に入りません。いつももどかしく、ジレンマを感じている言葉たちです。
国語的に正しいかどうかは分からないのですが、たいていは感覚的に、周囲とのバランスや(漢字が重なる場合はどちらかを平仮名にしたりします)、相手にあたえるニュアンスを想像して対処しています。

それから、ブログの場合は色やポイント(字の大きさ)を任意に設定できるので、字面の範囲が広がってしまいます。行間までを含めると、とても悩ましい問題なのですが、適当なところで切り上げるようにしてはいます。
これが、仕事となるともっともっと気を配らなくてはなりません。
デザインする、ってかなり細かい思考が必要なんですよね。

5.『オヤジの顔』

1968-02-02 00:00:05 | コラム
いつか日記にも書いたのですが、僕はオヤジとの関係が希薄です。
仲が悪いわけではないけれど、さりとて良くもないのです。
『血は水よりも濃い』といいますが、僕らの父子関係にはが流れているのではないかと思うくらいです。オヤジとはもう何年も会っていません。

でも最近、60も半ばを越えて老境にさしかかったであろうオヤジを思うと、少し複雑な心境です。
ただ、長い間疎遠で、いきなり会って、思いのほか老けこんでいたらどうしようかとか、生活に困っていたりしても僕が面倒見ることもできないし、とかいろいろ考えてしまいます。
中学生の時に両親が別れて、オヤジは親権を放棄しました。でも、
「息子を捨てたオヤジだ」という理由にかまけてその関係を断ちきるのは、何だか責任逃れのような気もするし、気持ちの底に違和感が残ります。それがやっぱり”血”なんでしょうか。

ちょっとシリアスになってしまいましたが、今、オヤジの顔を思い出していたんです。
オヤジは、
石立鉄男菅原洋一赤井英和を足したような顔をしています。
僕も赤井英和に似ていると言われたことがありますから、やっぱりオヤジに似ているんでしょうね。

オヤジは僕に、人間として男として、ほとんど何も教えてくれはしなかったけれど、やっぱり僕のなかに棲みついているんだなあ…。

3.『トラッド柄のハンカチ』

1968-02-02 00:00:03 | コラム
洗濯物をたたんでいて思った。
トラッド柄のハンカチは、よれよれだと冴えないことこのうえない。
オーセンティックな英国製トラッド、バーバリーやアクアスキュータムのチェック柄などはとくにそうだ。

無地系のものとか、ポップな柄のハンカチだって、そりゃあアイロンがあたっているほうが気持ちがいい。
でも、トラッド・ハンカチはよれよれだと目も当てられない。
それがアイロンをかけて、
パリッとさせると、目が覚めるように見違えてくる。
トラッドのチェック柄やレジメンタル柄はもともと、貴族の家系や軍隊の識別を目的とした起源をもつ。
だから、かっちりとして厳しいイメージなのは当然なのだ。

イメージをいえばシャツも同様。
トラッド系メーカーのシャツは、シワのひとつも許されない雰囲気がある。
ワイドスプレッドカラーや、クレリックなどのシャツは、
清潔感 が命である。
もちろんデザイナーズブランドのシャツだってよれよれでは仕方ないが、生地の柔らかさともあいまって、少しルーズな着こなしでもおかしくない。

最近ではトラッドも柔らかい生地を使用したり、着こなしも堅さがとれてきている。
それでも本筋は、格式張ったルールにしばられた世界。
でも、そこがトラッド服の良さでもある。
伝統 に身をゆだねる心地良さがある。

でも何だな、トラッドの似合う日本人のなんと少ないことか…。
(よその国のトラッド(伝統)だからね、そもそも)

2.『しもやけ治療法』

1968-02-02 00:00:02 | コラム
ちょっと荒療治ですが、高校時代に同級生のマラダくん(仮名)に教わった、ばっちり直るしもやけの治療法を伝授します。薬で治らない頑固なしもやけ、とくに足のしもやけに有効です(医療法や薬事法にひっかからなきゃいいんですけど…)。

ご注意
民間療法なので、あわない方もいらっしゃると思います。何か問題が生じた場合に、「おぅ! 責任とらんかい!!」とおっしゃられても困るので(責任とれません)、あくまでもご自分の責任とご判断でお願いします。
※個人差があると思います。※正攻法(市販の薬を塗る、マッサージしたりして血行を促す、など)で治療しても治らない方の最後の手段としてお試し下さい。


『治療法』

1. まず、唐辛子(鷹の爪)を用意します。生に近いほうがいいと思います。

2. 朝、その唐辛子を適当な小片に切り分けて、絆創膏などで患部に貼りつけます。その時、エキスをこすりつけるようにします。

3. 日中はそのままお過ごし下さい。

4. 夜、唐辛子を剥がして、熱めの風呂に入ります。すると患部がカーッと熱をもち、ぐぐっと痛んできます。かなり激しい刺激ですが、耐えて下さい(もしも、この状態にならない時は、効果がありません)。

5. それを数日くりかえすと、腫れていた患部がしぼんできて、治ります。


警告
● ジュクジュクしたしもやけや、あかぎれ、傷などのある方、皮膚の弱い方は、この治療はしないで下さい。

● 唐辛子のエキスが手についていた場合、その手で顔や他の部分を洗うと、その部分も激しい刺激と傷みがおきます。とくに眼や唇はとてもしみますので、お気をつけ下さい(といっても、なかなか避けられません)。
さらに、性器や肛門(はっきり書きますが)はとくに気をつけて下さい。その辺りを触るのは、よく石けんで手を洗ってからにして下さい。

● 治療後、患部はしばらくガサガサの状態になります。元の状態には戻るはずですが、その点はご承知おき下さい。

● しつこいようですが、この治療法についてのクレームは一切お受けできません。


市販の薬では全然治らなかったしもやけがこの方法で初めて治りました。とくにかかとなど、皮膚の厚い部分におすすめです。マラダくん、ありがと!

1.『もどかしい』

1968-02-02 00:00:01 | コラム
僕はこの言葉が好きです(日記内でも時々使います)。
ポール・マッカートニーのソロアルバム第一作『マッカートニー』に収録されている『Maybe I'm Amazed』の邦題が、『恋することのもどかしさ』でした。ファンはもうたぶん、そんな題名では呼んでませんけどね。でも、とても人気の高い名曲です。僕はその題名から好きになったのです。
ほかにも『男はとっても寂しいもの』とか『出ておいでよお嬢さん』とか、シャレた、とはいわないまでも、風情を感じさせるタイトルがいっぱいありました(80年代になると邦題のセンスが一変しますね。マイケル・ジャクソンの『今夜はビート・イット』の、「今夜は」っていうのが何かいじましい)。

「もどかしいような恋」、なんて今もあるんでしょうか?
「恋してもどかしい人」なんてまだいるでしょうか。
おなじみ広辞苑では二番目の意味として、「思うようにならないで、気がもめる」「はがゆく思う」「じれったい」とあります。
今は直接的であっけらかんとした恋が主流なんでしょうかね。そもそも、「恋」という文字が、現代にそぐわないような気がします。(そんな悲観的でもないですか?)
気持ちが通じなくて、ひとり心のなかでもどかしく思う…。
なんか素敵だと思いますが、ノスタルジーでしょうかねえ…。