犬の眼

『日記』卑しさから清浄なることまで

相撲! その2

2006-05-28 17:52:23 | Weblog

一週間のご無沙汰である(すみません…)。またもMacが不調、今日は外付けハードディスクから起動している。ついこの間OSを入れ直したのに、今回はダメになるのが早かった。いかんな、Mac…。

それはさておき、相撲観戦の続きを書こうと思いつくことを書き出してみたら、きちんと文章として構築するには分量が膨大になりすぎた。これだと大長編になってしまう。
だから、いつもの”困ったときの箇条書き”ということで、そのまま書き連ねてみようと思う。

『力士のぶつかる音』
映画『007は二度死ぬ』では、ジェームズ・ボンドが相撲観戦に行く(といっても、任務の中で。その当時は蔵前国技館)。
ボンドはまず、支度部屋の横綱佐田の山を訪ねる。ボンド役ショーン・コネリーに「サダノヤマ?」と声をかけられた佐田の山(本人出演)は、少し照れくさそうな感じでそれに応える。そして付き人に席まで案内させる(なぜ横綱が諜報員の世話をするのかは分からない)。
そして、取り組みの場面、立ち合いで力士がぶつかる時に、「ガツッ!」というくらい、すごい音がする。僕がテレビで相撲を見る限りでは、そこまでの音は聞いたことがない。でも確かにあれだけの体躯を持つ力士がまともにぶつかるのだから、それだけの音がしても不思議ではない。だから僕は、本当にそんな音がするのか、ナマで聞いて確かめたかったのだ。
しかし、2階の後方の席で聞く限りでは、そんな音はしなかった。ぶ厚い脂肪に吸収されて、音はそんなに出ないのだろうか。

『外国人力士』
話には聞いていたが、モンゴルからやってきた横綱朝青龍を筆頭に、現在の角界は外国人力士の花盛り…。今回優勝したのも、モンゴル人の白鵬だ。彼らはまだまだ若いから、これからも長い期間、時代を担っていくことになるのだろう。そして、観戦して驚いたのは、モンゴル人ばかりではなく、ロシア、エストニア、グルジアそしてブルガリアといった、白人系の力士もかなりいるということだ。
昔、白人力士といえば、ショボイ感じの人ばかりだったような印象だけど、今いる連中はけっこう強いようである。旧ソ連系の国情の安定しない国が多いようだから、かつての白人力士(カナダなどの出身)と比べて胆力みたいなものが違うのだろうか?
純血主義なんてことを言うつもりは毛頭ないけれど、相撲界がこうまで外国人力士に席巻されているを目の当たりにすると、国技として、さすがに寂しいような気はする。強い日本人力士は出てこないんだろうか? 高見盛などは人気があって、勝っても負けても見てて面白いけど、やっぱりもうちょっと強くないとな、なんて思う。
とくに、モンゴル勢はすごい。こうなるとモンゴル相撲って、日本の大相撲より強いんじゃないかとさえ考えてしまう。騎馬民族として戦いに長け、かつては大陸を征服した先祖を持つモンゴル人。身体能力はすごいものがあるんじゃないだろうか。そういう素地を持つモンゴル人が、ぞくぞく日本に上陸したら、やがて日本人力士なんか追い出してしまうんじゃないだろうか。

ところで、実物を見て(遠かったけど)、角界のベッカム、琴欧州はやはり(というか、もちろん)ベッカムには似ていなかった。さりとて、ジョン・ベルーシにも、”少ししか”似ていなかった。歳をとって、顔がポッチャリしてきたら、もっと似るかもしれない。

『朝青龍』
僕は詳しくは知らないんだけど、今知ってる限りでは、朝青龍はけっこう気になる力士だ。もちろん、ただ一人の横綱で、しかもモンゴル出身ということで露出が多いからってこともあるが、イキが良くて、(やり過ぎのところも多々あるみたいだが)いい意味で”やんちゃ”なところがあると思う。
この”やんちゃ”という言葉、よく不良とか若い頃にワルさをしてきた人のことをやんわりと表現する時に使うけれど、僕はそういう使い方には賛成できない。僕は原則的にワル自慢は嫌いだ。人に迷惑をかけたことは恥じるべきであって、おもしろがってとりあげることではない。”やんちゃ”というのとは本来意味が違う。だから個人的には暴走族だったりしたことで有名な千代大海は、(今知る限りでは)あんまり好きになれない。

以前書いたように、僕はそんな朝青龍が”イキの良い”うちに、相撲を観たいと思っていたのだ。
先日述べた”伝統文化としての相撲を鑑賞する”という側面のほかに、相撲という格技を見に行くというよりも、朝青龍を観に行く、ということがさらに重要だったのである。
ところが、ご存知のように朝青龍は場所が始まってすぐに休場ということになってしまった。
しかし僕は(観戦に行く場所にもかかわらず)テレビを見てなかったから、それを知らないで国技館に出かけたのである。電光掲示板の休場の枠に、「朝青龍」の文字を見つけた時の僕の気持ちを察してもらいたい。
自分の目を疑って、何度も何度も見直したものだ。
…朝青龍を見に来たのに!
じつは、以前に、五月に相撲観戦に行くことをここで告知した時に、最後に「朝青龍、観られるかな…?」という一文を書いたものの、思い直して消しておいたという経緯があった。いつも、なぜか悪い想像をしてしまうクセがあって、「休場しなきゃいいがな…」なんてことが頭をふとよぎったのである。歌丸の落語を見に行く時も休演が心配だったが、その時は大丈夫だった。でも今回は悪い予感が当たってしまったのだ。
でも、朝青龍はまだ25歳(思ったよりかなり若いのでびっくりした)。また観られる機会はあるだろう。
(くやしいから『朝青龍弁当』を食べてやった!)

『祭り』
相撲はそのしきたりや礼式、マゲ、まわし、行司の装束、国技館の建物などの意匠、先日書いたような神社や神道との類似点、歴史の古さなどから、そして裸の男衆が汗をとばしてぶつかり合うということから、祭りの雰囲気が感じられる。荒っぽくて無愛想な男が仕切る世界であり、観客の熱狂も合わせて、会場はまさに祭りのような空気が漂っていた。

『客席』
枡席というのも”祭り”のイメージを盛り上げるものだが、値段がべらぼうに高いので、ちょっと意味合いが違ってくる。”とても贅沢な見せ物”という感じだ。そこに陣取るのは、日本髪を結った妙齢の(?)お姉さんや、何の商売をやってるのかと勘ぐりたくなるようなドレス姿の女性とか、お大尽風のオジさんとか、さすがン万円を支払って観戦している人たちだなあという風体である。
そうかと思えば、いい席に座っていた中年の男女が、後から客を連れてきた案内係に促されて席を立ち、グルッと大回りして、べつの空いてる枡席に座るのを目撃した。きっとその連中は、枡席のチケットなんか持っていないのに、空いている席を渡り歩いて観戦しているのであろう。なんてセコいヤツらだ…。

ついでに言えば、イス席だって高い。一番安い席でも3,600円だった。あとは9,000円くらいの席である。
これじゃ気軽に見には行けない。人気が下落するのもしかたないかもしれない。
こうしたらどうだろう。枡席に金を出せる人は少しくらい値段の違いなんか気にしない連中だろうから、ちょっと値上げをし、その分、一番安いイス席をせめて1,500円~2,000円程度に抑える。そうすれば子どもだって、僕みたいな庶民だって、たまには相撲鑑賞ができるんではないかな。

そんななか、安い席には外国人客が多く来ていた。なかには外国人力士の私設応援団みたいな人もいて、その力士の取り組みでは旗を振り、声援を送っていた。力士も気づいたふうではあったが、そこはしきたりの厳しい相撲界のこと、まさか手を振り返すわけにもいかない…。何の反応も返さず、そのまま引き上げていった。

でも、この日、何となくの印象だけど、客席の声援の多い力士のほうが、ことごとく負けたような気がする。
高見盛しかり、琴欧州しかり…。
三役の取り組みになると、番狂わせな勝敗には、興奮した客が座布団を投げる。
テレビではおなじみの光景だったが、実際見ると(想像するよりも)あれはとても危ない。後ろからくるくる旋回しながら飛んできた座布団が、いきなり年配の女性に当たり、びっくりしているというところも目にした。
あれはほんとに危ない…。投げる快感も分からなくはないが、絶対やらないほうがいい。

かつては、花道を通る力士の体を、観客がパチパチ叩く光景が見られた。
でも今は、女性警備員がガードしていてその場所には行けないようになっていた。
インタビューなどで、相撲取りは一様に、客に叩かれるのが嫌だと言っていたから、その気持ちに配慮したのだろうか。

『物言い』
相撲には、行司という立派な専任の審判がいる。 木村庄之助、式守伊之助といった立行司を最高位に、由緒正しい行司家から経験を積んだ行司が土俵にたつ。
ところが、それにもかかわらず、微妙な判定に対しては、土俵下に控えている元力士からなる勝負審判が物言いをつける。
つまりはクレームをつけるのだ。
僕が観た日も何度か物言いがつけられた取り組みがあった。
5人の審判が土俵上にのそりのそりとあがってきて、行司を取り囲む形で協議が始まる。
当然審判は元相撲取りだからでかい。行司は一人だけ小さくて、周りから見下ろされているような感じである。
「(立行司は)軍配の差し違え(判定ミス)の責任を取って切腹するための短刀を持っている」くらいだそうだから、権威とプライドを持っているはずなのに、今まで裁いていた対象であるはずの親方衆からクレームをつけられるのだから、これはバツが悪かろうし、釈然としないとも思うし、表情を見ていると、どうも落ち着かないふうである。まるで先生に叱られている生徒のような感じだ。
僕の席からはもちろん声は聞こえない。
正面席なので、行司の顔ははっきり見える。その周りを黒装束(紋付)の大男が取り囲み、仁王立ちしたまま微動だにせず、向かい合って協議をしている…。
とても不思議な光景だ。
常人なら、スポーツの判定を協議する場合、どうしても身振り手振りが入ったり、口調に熱が入ったりすると思うのだけど、この人たちはほとんど無表情なのである。
相撲界というのは、こういう細かいところまで、想像の及ばない世界なのだろうなあ…。

ちなみにこの日の審判長は元大関増位山だった。協議結果をアナウンスするためにマイクを持っているのを見たら、「増位山、歌ってくれよ!」と、思わず声をかけたくなった。彼は『そんな夕子にほれました』というヒットを持つミリオンセラー歌手でもあるのだ。
でも正直、千秋楽を(久しぶりに)テレビで見た時、審判長が元横綱千代の富士だったので、「ああっ、増位山もいいけど、やっぱり千代の富士を見たかった!」と思った。

『呼び出し』
呼び出しって、もっと上手かったような記憶があるのだけど、なんか調子が外れている気がした。気のせい?
ちなみに、呼び出しの人の名前って、ただ単に”秀男”とか、”次郎”とか、そんな感じなのだ。
とても軽い扱いの、馬鹿にしたような名前だと思った。

『横網』
ところで、両国国技館は両国じゃなくて墨田区横網1丁目にある。
そしてこれ、信じられないことに横綱(よこづな)じゃなくて、横網(よこあみ)なのだ!
よく漢字を確認してみてほしい。
僕もてっきり、というか、すっかり、というか…、絶対に”よこづな”だと思いこんでいた。
それを初めて知ったとき、「へえ!」って思うよりも、なんか意地悪されたような気がした。絶対に素直じゃない、屈折したものを感じた。
どういう由来があるのか知らないが、相撲の会場である両国国技館があるのに、”よこづな”じゃなくて”よこあみ”…。
何だよ、それ…!
今からでも遅くない、地名を横綱(よこづな)変えたほうがいいよ。

『観戦後』
地図を見ると、近くにいくつもの相撲部屋があるようだし、芥川龍之介文学碑もあるそうなので見てみたかったが、時間がなくてすぐに帰った。ちょっと残念…。

『テレビで観戦』
その後、千秋楽をテレビで見た。相撲をテレビで真剣に見るのは10年以上ぶりのことだ。白鵬と雅山の優勝決定戦にもつれ込む熱戦…、僕は素直に手に汗を握り、勝負の緊迫感に息をのみ、そして感動した。
いつもスポーツや格闘技に対して冷淡な僕も、たまにはこういう気持ちを抱くこともあるのだ。
まだ21歳の白鵬の優勝。モンゴル相撲の横綱だったという、彼のお父さんも観戦に来ていて、その姿が映し出された。
僕はこういうのを見ると、「親孝行な息子さんだなあ…。立派に育って成功した息子を持って、幸せなお父さんだなあ」と、何の他意も持たずに感動する(ただし、白鵬に嫌なイメージを持っていないから)。
そして、全く親不孝で、全くだらしない息子である我が身を思い、すこし涙ぐむのだ…。

ブログの合間に。

2006-05-21 16:44:28 | Weblog
今朝、表に出たら、初夏のさわやかな日差し、気持ちの良い空気に、さすがの僕もウキウキ…。どこかへ出かけたい気分になった。
でも、今日は予定としては、長らく書けないでいたブログにあてるつもりでいた…。
しかし、部屋へこもっているのも良い天気がもったいない。
こんなときはどうしたらいいんだろう?
晴耕雨読と言うとちょっとニュアンスが違うけど、そういう感じが理想ではある。
けれども、いきなりの予定変更には、僕の精神は融通が利かない、追っつかない…。
どこへ出かけたらいいかも、突然には思いつかない。

とりあえずフトンを干して、パソコンに向かった。

…そうしたら、なんとしたことだろう。
モニターに向かったとたん、風船がしぼむみたいに、あるいは、花が枯れていくみたいに、良い気分はあれよという間に消えていってしまったのだ。
数分のうちに、だるい、重い心持ちに変わってしまった。

これはなんなのだろうか?
パソコンって、それほど良くないものだということか。
電磁波の影響? それとも、機械という無機質なものに対する拒絶反応?
確かに、自然の気持ち良さに比べたら、機械とか電化製品なんて卑小で薄暗いイメージはある…。

結局、そのあと出かけるでもなく、ブログをするでもなくだらだらと過ごして午後も遅くなってしまった。
(おっと、前回とおんなじこと書いてる…。悪い兆候だね)
僕は、最近は以前にも増して、取捨選択というか、二者択一というか、決断し、何かを選ぶことができない。優柔不断なことこのうえない。とくに、今日みたいに臨機応変な対応というのがことさらに苦手だ。
そして、迷ってるあいだは何も事が進まないということだから、これはすごい時間のムダになる。
結果として、陽光も、ブログも、良い気分も、何も得られないどころか、失うものばかりだ。

それで、今はこうしてブログに向かっているわけだけども、こんな出だしでは、このあと何を書いたってつまんなくなってしまいそうだ。
だから、一度ここで切って、また新たに書き直す事にする。

(ということで、『相撲! その1』を書きました)

相撲! その1

2006-05-21 16:36:19 | Weblog

前に予告した通り、先日、相撲を見に行ってきた。
大相撲五月場所、もちろん、両国国技館だ。
僕にとって初めての相撲観戦である。
前にも書いたかもしれないけれど、僕がよくテレビで相撲を観ていたのは、輪島、北の湖、貴ノ花の時代から、千代の富士が引退する頃まで…。
そのあとは、オヤジは好きだったけど大嫌いな息子たちの若貴ブームが来てしまったし、大人になるにつれて相撲界の暗部というのも見聞きするようになると、なんか嫌になってしまい、ずっと遠ざかっていた。今だってテレビも見ていない。

でも最近、落語、歌舞伎などを鑑賞するなかで、これも日本の伝統文化である相撲も、一度ナマで観ておきたいという気持ちが強くなってきたのである。
つまりどちらかというと、スポーツとか、(僕が苦手な)格闘技というよりも、そういった視点からの鑑賞と言える。

相撲は、なんと、朝9時頃から観戦できる。
もちろん、まだマゲも結っていない、子どもみたいな力士の取り組みから始まるのだけど(行司だって足袋もはかず、裸足でやってる)、それを含めると、午後6時まで、たっぶり9時間は楽しめる。
でも僕は、寄席の4時間でも意識がもうろうとしてきたくらいだから、そんなにもつきあってられない。一番楽しみな結びの一番を、元気なままで迎えたいから、せいぜい頑張って十両の取り組みが始まる3時くらいから入場することにした。

この前の国立演芸場に歌丸を見に行った時と同様の雨模様。
また雨男がぶり返して来たのか…。
両国までは家から2時間近くの道のりがある。ほとんど行く機会のない方面なので、余計に遠い気がする。
JR両国駅は、改札を出ると、化粧まわしを締めた力士の肖像が額装され掲げられているし、外に出たところにはちょっとかわいらしい感じの石の力士像があったり、ちゃんこ料理屋が軒を並べていたりして、いやがうえにも観戦気分が高まる。
そして、すぐ目の前に両国国技館があり、色とりどりのノボリがはためいている。
国技館のすぐ裏手、駅から行くと右奥に、江戸東京博物館があって、皆そちらに向かっていくし、そちらから人が流れてくる。僕も何気なくそっちに歩いていったのだが(僕は通常、付和雷同することはめったにない)、歩けど国技館に入れるところがない。結局、雨に濡れながら国技館の建物の周囲をぐるりと回って、ほとんど一周したところに正面入り口があった。
両国駅から来たなら、向かって右へ行ってはいけない(苦笑)。

正面木戸でチケットをもぎってもらって入場。
ここの係の人は、元関取の親方衆だそうだ。有名な人がいることもあるそうである。
でも、館内の係員も元力士らしかったけど、彼らは接客が本職ではないから、くちゃくちゃガムを噛んでいたり、そもそも圧迫感のある体格だし、態度も良いとは思えない。ところどころに案内所があって、彼らが腰掛けているんだけど、どことなく威圧的で声をかけがたい。熱狂的な相撲ファンならまだしも、僕のような人間にはちょっと違和感…。元力士以外にも、案内係の女の人は感じが良かったが、たっつけ袴(というらしい)姿の男性スタッフもあんまり態度は良くなかった。

木戸をぬけると、今度はセキュリティチェック。そのへんはニューヨーク並みになってる。とは言っても、おざなりに、形ばかりのものだから、あんまり効果はないんじゃないかな。

いつもながら、そんな批判的なところから始めてしまったけれど、場内に入り、土俵を見下ろすと、何とも言えない、静謐で凛とした空気が伝わって来た。
土俵上につり下げられている屋根の形状や、紋を染め抜いた幕などが神社を思わせるのか、礼式や威厳を感じさせるのだ。
会場のちょうど真ん中に土俵が位置していて、四方から観客の視線が集まっている。その中央の空間に、神がかりなパワーが集約され、凝縮されて宿っているかのような、そんな印象を受ける。

(その2へつづく)

扉の向こうはまた扉。

2006-05-14 15:06:46 | Weblog

本気で書けば3時間もかかるかと思うと、なかなかブログに手がつけられない。

そろそろ、きちんとした仕事に就きたいのだが、そうは問屋が卸してくれない。
僕の年齢とスキル、それに人間性を考えれば、無理からぬことではあるのだけど…。

この暗い扉が開く時がいつか来るのだろうか…。

この写真は、ニューヨークで泊まったホテルの部屋のドアを、内側から撮ったもの。
なんか、とても陰気で、ただならぬ気配さえ漂うが、実際はこの写真ほど不気味ではない。
創業は1919年だそうだけど、まさかその当時のままとも思えないが、古いことは古い。
どことなく、旧式の冷蔵庫を思わせる、曲面を描いた意匠の板は、何度もペンキで重ね塗りされていて、漆喰のような質感になっている。

この写真を見ていると、『バートンフィンク』のジョン・グッドマンが、いきなり入ってきそうな気がする。

…あれ? 何を書こうとしてこの話を始めたか、忘れてしまった。

最近、以前に比べて仕事がさほど辛く感じなくなった理由のひとつに、仕事をしている間の記憶がぼやけている、ということがある。
いまだって、その瞬間、瞬間は、「イヤだなあ」と思いながら仕事をしているのだけど、あとで思い返してみたら時間も早く過ぎたような気がするし、辛かったような気がしない。
これはきっと、記憶が消えている、もしくは記憶がとんでいるからに違いない。
決して精神的に強くなったということではないと思う。

いいのか悪いのか、よく分からないことだ。

…あ、また何を書こうとしたか忘れた。

とにかく、アルバイトをやりながら仕事を探そうと思っていたのに、数か月経ってもこう着状態だから、また以前のように焦燥感がわき起こってきた。そして、そのことが気持ちをかき乱し、かえって何かを行動に移すことを妨げる。
今日だって、やろうと思えばいろいろとやることはあるのだけど、思考がまとまらずにすでに3時になろうとしている。これじゃ、前とおんなじだ…。

手の届きそうな扉…、すぐそこに見えているのに、なかなか開くことはできなかった…。
やっとこさで開いたのに、またつぎの扉に出くわして戸惑ってる。

なんとか街

2006-05-09 02:24:08 | Weblog

地方から出てきた人間である僕にとって、東京の街って、それぞれ独自のカラーがあって面白い。
オフィス街とか、繁華街とか、工場地帯とか、そんな大きな区別ではなく、もっと専門化、細分化されていて、しかも、通りを一本隔てて、くっきりと境界があるからすごい。
ちょっと調べたところ、有名な秋葉原の電気街、合羽橋の道具街、神田の古書街のほか、
浅草橋の問屋街、
お茶の水の楽器街、
小川町のスポーツ店街、
田原町の仏具店街、
御徒町の宝飾専門店街、
日暮里の繊維街、
上野のバイク街、
飯田橋の印刷街、
西荻窪のアンティークショップ街などなど…。
細かく探せば、もっともっといろんな”なんとか街”が出てくるんじゃないだろうか。
例えば青山界隈はブティック街と言えなくないし、骨董通りというアンティーク街もある。環八の世田谷界隈はカーショップ通りって感じだ。
もっと言えば、銀座はクラブ街、新宿歌舞伎町はフーゾク街、渋谷円山町はブティックホテル街、吉原はソー●ランド街なんじゃないかな…? 確かにそういうのは地方にも似たような場所があるけど、規模やレベルが全然違うよ、きっと。

地方はたいてい、ひとつだけ大きな街があって、そこに何でも雑多に詰めこまれている。
キャパが限られてるので選択肢が少ないし、欲しいものがもしそこになかったら、それはどこにもないってことだ。
だから東京はとても便利なんである。「あれが欲しかったらそこに行けばいい」という街がある(銀座や新宿のような総合的な街も存在するし)。
東京しか知らない人はあたり前だと思ってて、そんなこと意識したことないでしょう? 
あなたはある意味とても恵まれているんですよ。

確かに現在、アホな行政やデベロッパーや、そんな連中にのせられて視点のズレた地元民もふくめての再開発とやらで、思いのほかあっさりとそんなカラー(と歴史)が消えて、オセロの駒をひっくり返すみたいに、ひとつ、またひとつと画一化された街に変わっていってる。
それでもまだ、地方には見られないそういう東京の面白さは残っているんだなぁ。
だから早いとこ、東京を楽しんでおいたほうがいいよ。地方からきた人間である僕が提唱いたします。

闘争心のあるひと、ないひと。

2006-05-08 01:09:48 | Weblog
皆さんもおそらくご存知の、某人気ランキングNo.1ブログの記事に触発されて(触発ってほどたいそうなものでもないけど…)、僕がいつも感じてる疑問を書いてみようと思った。
最初にひとこと断っておくが、今日書く記事は、僕のまったくの個人的な考え方、感じたことを記しているのであって、決してその善悪、優劣などを決めつけるものではない。その点はご承知おき願いたい。

そのブログの記事は、ボクシングのK兄弟と、その試合の酷さ(八百長だと断じている。僕は見てないから何とも言えないけど)、マスコミの姿勢について批判している。
僕も詳しくは知らないんだけど(だから先入観でものを書くのは良くないかもしれないが)、ちょっとテレビで見た限りではK兄弟とそのオヤジは、生理的に受けつけないタイプだ。ここに実名を書くのもあまり気分が良くないし、検索に引っかかって彼らを支持する人が来られても支障があるのでイニシャル扱いにした。
そしてやはりそのブロガーと同様、なんで人気があるのか分からない。
もしあんな親子が近所に住んでたら、めちゃめちゃうっとおしいと思う。絶対に品行方正な人たちではないんじゃないかと思うので、何らかの迷惑を被ることが予想される。…いや、きっと歩いているのを見るだけでも威圧感を覚えるだろう。
なぜって、僕にはチンピラにしか見えないからだ。
例外はあれど、ボクサーの多くがそんな感じだ。例えば、チャンピオンも数多く輩出している某有名ジムが、同時にソー●ランドを経営しているというようなことが、業界の性格を象徴的に物語っているようにも思える。つまり、堅気の世界とは言いがたい雰囲気があるということだ。

ボクサーは、スポーツというより、もともとのきっかけはケンカ好きで好戦的、強くなりたいという意識からボクシングを始める場合が多いんではないか。僕だってボクシングそのものは決して嫌いなわけじゃないし、強くなりたいという願望はやはり持っているので、若い頃は「ボクシングやろうか…」などと考えたこともなくはない。
でも、ボクサーは強くなって功成り名を遂げても、人間的に洗練されたふうには見えないことが多い。チャンピオンでさえ、違法行為で捕まることもある。
言うなれば、”名の上がったワル”という感じだ。
そりゃあもちろん、トップクラスのボクサーは、すごい練習を経て、凡人には想像もできないテクニックを持っているんだろうけど、でも、そのモチベーションが「ケンカに勝ちたい」ということからきてるんでは、個人的にはかなり違和感がある。
いや、当然、そういった、ご清潔ではない、荒ぶる闘志がボクシングの大きな魅力のひとつだってことも理解できるが、僕にはどうしてもガラが悪く見える。
このブログでもたまに書くけど、僕は人を判断する時に、「何ができるか、何をなしたか」ではなく、「どのような人間性なのか」を重要視する。だから、ボクシングが強いからなどというだけでは、その人を支持することはできないのだ。これは他のスポーツのみならず、どのジャンルのことでもあてはまる。

僕は闘争心、競争心に乏しい。
世の中、そして人生、ただでさえ過酷な競争、闘いを強いられるのに、なぜわざわざ好き好んでしなくても良い闘いをするのだろうか…? しかも肉体的な闘いなんて、もっとも一次的、原始的な本能に基づくものなのではないか。現代にもそれは必要なのか? これは格闘技そしてスポーツ全般に言える。
もちろん、趣味とか楽しみ、身体的および精神的鍛錬のためにという理由でなら理解できるが、しかし彼らは生業とし、ショーとしてそれを行う。生活の中心にそれが置かれている。本来は、護身のためとか、家族に危険がおよんだ時に緊急回避的に使用されるべきことだと思うのだが、彼らは日常的に闘っている。
これは僕なんかのような牙をもたない、かよわい羊のような人間と違って、闘志が有り余っているのだろうか。
猛りたつ魂を抑えきれないのだろうか?
彼らの目はとても挑戦的だ。常に闘いを挑んでいる。そのはけ口として、ボクシングという擬似的な闘争へと向かわせるのだろうか。
言うまでもなく、闘争本能が、戦争や、殺人、私的な暴力といった非道な行為に向けられることを思えば、擬似闘争というのは至極理性的ともとれるのだが…。

ボクシングやスポーツを観て喜ぶ人たち、K兄弟のファンである一般の人たちは、なぜそれらを支持するのだろうか? 自分の闘争心の向かうべきところを持たないから、代替行為としてそういった競技に熱狂するのだろうか?
僕なんかからすると、自分より絶対的に強い人、はるかに身体的優位にたつ人の存在は、動物的な怖れを抱かずにはいられないから、脅威であって、好ましからざることとしか思えない。
もし仮に、K兄弟とどこかで接することがあって、例えばの話、何か侮辱的な扱いを受けたり、自分の大切な人に危害を及ぼすようなことがあったとしたら、僕にはそれに対処し、大切な人を守り通す自信はない…、いや、間違いなく無理だろう。そういう圧倒的な力の差の前には、理屈とか法など何の意味もない。
人間は”考える葦”なんだろうけれど、考えない、原始のままの動物的な部分も確かにあって、この文明社会においても、弱肉強食がまかり通っている。
肉体的能力の差は、やはり現代でも人対人の優位性を決定する重要な要素だと思うのだ。そして例えばボクシングが強ければ、他の人間を制圧することができる場合が多い。それは実力を行使しなくとも、精神的な圧力(威圧感)みたいなものを持ちうる。
僕は他人を明らかに自分より優位に感じたり、人に制圧されたりはしたくない。だから、絶対にかなうはずのない相手に対して、なかなか無邪気な好意を抱くことはできない。それは、テレビの中のプロボクサーとて同じことなのだ。同じ理由で、武術、格闘技全般が苦手である。まあ、たまに観て興奮を覚えることもなくはないが(子どもの頃はプロレスなどもけっこう観ていた。ミル・マスカラスや、テリー・ファンク、スタン・ハンセンらが活躍していた時代だ)、のめりこむほどではない。なぜみんなあんなに好きなのか、(皮肉でも嫌味でも何でもなく)知りたいくらいだ。

ちなみに、元ボクサーの赤井英和は相当なワルだったらしいけど、僕が見る限りにおいては今のところ気持ちの良い人物に思えるし、僕の父親にも似てるし、自分自身も似てると言われたことがある、というようなこともあって、だからけっこう好きである。

カーディーラー雑感

2006-05-06 00:42:23 | 客商売
車関連の話題が続く…。

以前から感じていたのだけど、車のディーラーについてまず思うのは、ショップとして”アカ抜けてない”ってことかな。
新車、中古車、国産、輸入車問わず、そして、そのメーカーのブランドイメージなんか関係なく、どこの車屋さんも洗練されていない。
テレビコマーシャルの、さわやか、楽しい、清潔、上質、高級、なんてのは、ありゃ虚像だ。
車そのものは別として、お店はやっぱり、車の販売をしている人の本質的な部分が滲み出しちゃってるんだろう。だいたい、その本性は、峠を攻めたり、夜の街をカッ飛ばしたり、なかには暴走族まがいの青春を送ったような感じの人も多いんじゃないかな。ちなみに、僕が洋服屋だった頃の販売員は、かつてヤンキーだったような人が多かったよ。そんな連中がシラーッと高級ブランドなんか売っているのだ。
偏見と言えばそれはそうなのかもしれないし、そういうのを人間的に劣っているなんて言いたいわけじゃないけれど、やっぱりそんな人たちに、イメージ的な上質感なぞは伝えられないわけだ。そもそもスタイルが違うのだから。
例えば僕なんかスピード出すのは苦手だし、機械はチンプンカンプンなのに、そんな話しかできない営業マンもいる。こっちが運転は苦手だって言ってるのに、「リアを滑らさせて走ると楽しいですよ~」なんてことを勝手にしゃべりまくったりする…。僕にはそんなことできないっつうの。一般的に、車を走る楽しみに使う人って、割合としてはそんな多くないと思うよ。
それから、営業なのにきったない服を着ていたり、爪が伸び放題だったり、歯に青のりをつけていたり、始終ボリボリ体をかきながら話してるようなやつもいる。
車はただ単に工業製品ではなくて、ライフスタイルに関わってくるという性格も強く持っているものだから、そんな連中に僕の”ライフ”に関わってほしくない。
だから、ショップ全体がどことなくよどんだ空気感があって、田舎臭くて、(日差しは当たっているにもかかわらず)明るさがない。

これは自動車業界全体にあてはまる。ディーラーだけじゃなくて、カー用品店とか修理工場もそうだし、カー用品を作るメーカーそのもののセンスがアカ抜けてない。だから、僕が自動車に関しては極端にノーマル、純正品志向で、社外品をつけるのを毛嫌いするのは、気に入る市販品がないからということも理由のひとつにある。
そもそもが自動車メーカーだってひと皮むけば、似たようなもの(だと思う)。TOYOTAや日産なんか、広告代理店の助けを借りて、きれいにブランドイメージの化粧を施してるけど、おそらく、本質的にはそんなたいそうなものでもないと思うよ。もっと下位のメーカーなんか、貧相な感じを隠しきれてもいない。

ひとつには、販売を別会社に任せてるってこともその現れだと思う。100%子会社ならまだしも、完全に資本がべつの会社に代理店として売らせている場合もあるわけだ。しかも、表向きは本体の大看板をしょわせてるから、お客は、TOYOTAだったり、日産だと思い込んで買いに行くことになる。
実はそんなところからも、いろいろと歪みが生じるんじゃないかな。
僕は、気分的に、モノを買うのはなるべく直営店、最低でも正規販売店じゃなきゃ気持ちが悪いタチだ。
まあ確かにそういう別会社だって正規販売店なんだけど、なんかダマされてるような心持ちなんだよね。その会社の名前じゃなくて、完全にメーカーの看板揚げてるわけだから…。
パリに行った時に、香水を買うのに免税店じゃなくて、わざわざシャネルの本店に行ったようなほどの(ちょっとおかしな?)人間(それは僕)にとっては、釈然としないことだ。
たいていは地元の会社が、地元の人間を雇ってることが多いので、視野が狭いし、向上心がない。地元のお客に甘えてる。言葉は悪いけど、”田舎商売”になっちゃってる。
それに、同じメーカー、同じ車種の新車を買うってのに販売会社によって支払い方法やローンの金利が異なっていたり、営業時間や休みが違ったりする。そうそう、今回ゴールデンウィーク中に休む店が多いのを知って、正直ビックリこいてる。客商売に携わったことがある人間としては、信じられないね。これが個人店ならまだしも、大手メーカーがそうなんだから、神経を疑っちゃうよ。かつては日曜日が休みだったらしいね。そんなの、頭がどうかしちゃってるよなあ…。
とにかく、ただでさえ車選びはいろいろと面倒なのに、そういう販売会社の違いで、さらに比較したり確認する事項が増えて困るのだ(とくにTOYOTAはひどいなあ、ネッツだの何だのと販売店がいろいろあって…)。

また、もっとひどいのは、商品知識の乏しい販売員が多いことだね。
確かに、多岐にわたって膨大な知識が必要で、しかも常に流動しているから、その大変さは理解できるけど、質問しても答えられなかったり、しょっちゅう間違ったことを説明される。そのへんは気をつけなきゃいけない。お客はネットやカタログを熟読して、確認しとかなくちゃまずい。とくに国産車はグレードの構成が複雑でとても分かりにくいから、販売員も客にとっても難しいのだ。でもだからこそ、きちんと説明してもらわないと、購入の際に失敗するおそれがある。

さらに困ってるのは、ショップに行ったら、実質的に、こちらに販売員を選ぶ権限がないってこと。
最初に店に入った時に空いてる人がついてしまう。
「この人イヤだなあ」と思っても、よっぽどの理由がない限り、「この人気に入らないから、チェンジね」なんてことはできない。僕だって人間だから、そこまでの冷徹さはないし、僕自身が居心地が悪くなっちゃう。でも、やっぱりそんなイヤな人からは買いたくないから、その店が家から近くて便利でも、同じメーカーのよその店を探さなくちゃいけいハメになる。
年齢がいってるからって質がいいとは絶対言えないけど(すごい態度のでかいオヤジとかいるよな)、最近はとくに若いヤツが全然ダメだね。なんかやる気がないっていうか、ボーッとしてるというか…。お客に対してまったくと言っていいほど、敬意や誠意、熱意が感じられない。笑顔のひとつも見せない。自分の部屋にいるのと感覚的に変わらないような感じなんだよ。何で客商売やってるのかな…? ニューヨークに行って感じたことだけど、そんなところはアメリカナイズされてきてるってことなのかねえ? 向こうでは、客との関係は対等だ、って態度だったから…。そりゃ確かに、人間としては対等かもしれないけれど、商売ってそんなもんじゃないだろ? アメリカ的な思考に毒されるんじゃなくて、日本的な良さを大事にしてほしいなあ。まあ、そういう考え方の違いが今の若い世代との齟齬になっているのかもしれないね。

逆に、自分にあたった販売員はすごく気に入ったのだけど、店全体、あるいは他の販売員が気に入らなかった場合…。これも困る。その人から買いたいのに、しかしこんな店に利益をあたえるのはシャクだって感じなのだ。
大金を払って買うのだし、車っていうのは、ショップとその場だけのつきあいじゃない。点検とか修理とか車検とか、これから長期にわたっておつきあいするわけだから、気持ちのよい相手であってほしいのだ。

そんなこんなで、車を買うのもタイヘンだよ(って僕だけかなあ…)。
…僕は、多くを期待し過ぎなんだろうかね?
そして、嫌な客?

ところで、個人的には最近の車って、規格が大きくなりすぎて好きじゃないな。
つまりデカすぎるってこと。3ナンバーサイズが多くなったね。
シビックが3ナンバーだと知って驚いたよ。僕なんかいまだに70年代の”豆タン”みたいなイメージをひきずっているから、やたらラグジュアリーになっていたのでビックリした。
3ナンバーだとかなんだとかいう、税金をとってやろうって規格は、とても嫌だな。
車が大きくなったというのは、安全性に配慮してという面もあるのだろうけど、変に車体の厚みが増したり、ダッシュボードが広くなって運転席からフロントガラスが遠くなったり、窓が小さくなったり、かえって危険だと思う。車両感覚がつかみづらくて…。
パッシブセーフティも大事だけど、未然に事故を防ぐアクティブセーフティの観点からすれば、良いことだとは思えない。僕なんか車両感覚をつかむのがとても苦手だから、今の車じゃぶつけそうで怖いな。

現実的な線

2006-05-05 03:59:55 | CAR
マセラティへの懺悔をした舌の根も乾かぬうちから、こんなことを書くのも心苦しいが、これから挙げるのは、購入の候補として考えている車である。
フェラーリが欲しいとかいった大それた気持ちは、胸の奥にしまい込んでおくことにする。人生に、ひとつケリをつけるのだ。ありていに言えば、自分を見限り、夢をあきらめたことになる。
だから、候補に挙げている車は現実的な選択をしている。まあ、それでもかなり頑張らないといけないのだけど、なんとか手の届く車を選んでいるのだ。

それから、一台をのぞき、中古車は対象から外した。
新車なんて贅沢、と思われるかもしれないが、それにはいくつかの理由がある。まず、中古車を買うのは、たいへんな労力を要するのだ。一台ごとに状態が違っているから、価格と照らし合わせながら、あちこちのディーラーを巡って必ず実車を見て比較検討しなければならない。しかも、すぐに決めないと売れてしまうから、じっくり考えている暇がない。数多く出回っている車種だと、その作業はさらに面倒になる。フェラーリやマセラティなどのような特殊な車なら個体数が少ないから、かえって中古車としては探すのが楽だ。それに、探す作業も楽しい。
中古車は信頼できる店を選ぶのがとても重要になってくるのだけど、それを見極めるのはとても難しい。
ヘタな店から買ってしまうと、とんでもない不良車をつかまされることになりかねない。その点、新車ならほとんど問題がないのだ。
それに、先日書いたように「余裕もないのだから、趣味性の高い、手のかかる車はもうあきらめて、(僕なりの最低限のこだわりは残しつつも)お金がかからず快適な、道具として便利な車を選ぶ」としたら、そのような一般的な大衆車は趣味性の高い車と違って、どんな人が所有していたか分からないという不安もある。オーナーから愛情を注いでもらっていたかどうかも怪しいものだ。マセラティなんかだと、少なからず同好の士という意識が働くけれど、大衆車にはそれがない。変なやつだったら嫌だな、と思う。僕は潔癖性気味だからなおさらだ。
それから、大衆車はコストをかけていないので、長く乗るには耐久性にも問題があるかもしれない。僕も必然的にこれから何年ものローンを組んで乗ることになるのだから、もってくれないと困るのだ。手のかかるのを嫌って好きな車をあきらめたのに、妥協して選んだ車が壊れたりしたら意味がないのである。
また、新車なら車検まで3年の猶予がある。中古車だと登録からすぐに手放したのものでもない限り、たいてい2年以内に車検をとらなくてはいけない。そうすると、初期費用がかさむことになってしまう。

新車にはそんな利点がある。

以前欲しいと言っていたローバーミニはやめることにした。
いい車なんだけど、ハンドルがとても重いこと、中古車として不安が拭いきれないということ、何度か見に通っていたショップの店長が気に入らなかったこと(担当の販売員は良かったのだが…。同じようなことを先日書いたが、またべつのショップである。店長というのはどうしようもないな)、それに、やはり残念ながら僕のキャラクターにそぐわないんじゃないかと思ったのが理由だ。粗雑な僕にはちょっとオシャレすぎるかも。

プジョー206


最有力候補だったが、試乗してみると、アクセルが軽すぎる。ふわふわだ。それに反応が鈍い。踏み込んでもそれが動力に伝わるのがワンテンポ遅れる。僕の使い方だと状況によっては、それが危険に繋がるようなこともあるかもしれない。
また、206はプジョーの下位モデルなので、全体に造りが安っぽい。内装も質感が良くない。それでも輸入車のなかでは割安だし、デザインとかブランドイメージは悪くないから、完全に候補から外すことはふんぎりがつかない。
この車はもうすぐ生産終了となり、後継車はひとまわり大きくなってしまうので3ナンバー仕様となる。デザインも僕は好きじゃない。
チャンスは残りわずかだ。

プジョ-206CC


基本的に、オープンカーが大好きだ。輸入車のオープンカーで、しかも電動のハードトップ付き…これはたのしい! おまけに4人乗りでこの価格というのは破格である(メルセデスのSLKの半額以下)。さらに、確か5ナンバーに収まってる。こんなお買い得な車も、今を逃すと、そろそろ生産中止になるから、本当は迷ってる暇はない。
しかし、これも試乗してみたけれど、やっぱりアクセルに違和感がある。206よりはましだが、全体的にチープな感じは否めない。低価格だから眼をつむるべきか…。もっとも、それでも僕には少し予算オーバーなのだが(汗)。
ボディカラーは、カタログで見た限りでは「プジョーに黒なんて…」と思っていたが、実物を見たらそれがすごく良かった。

日産ティーダ


以前の僕なら考えられない選択である。
保守的な、国産車。完全に道具としてとらえての候補だ。まあ、僕はTOYOTAは絶対に選ばないだろうから、ティーダという車のどこかに、僕のスタイルに合う部分を見つけたのだろう。
そして、乗ってみたら非常に良かった。快適。運転しやすい。初めての車なのに、まるでずっと自分のものであったかのようにリラックスできる。アクセルも適度な重みがあり、走りもスムーズ。「モダンリビング」というコンセプトにたがわず、室内のデザイン性と質感は高い。とくにシートは最高である。いい車だ。
でも、道具としては素晴らしいが、愉しさを与えてはくれなさそうだ。コストパフォーマンスに優れていて、プジョーとくらべたら段違いにお買い得だと思うのだが、所有することに喜びが感じられない。
でも、捨てがたい車である。

アルファロメオ147


唯一の中古車、しかも趣味性の高い、以前の僕がセレクトしそうな車だ。でも僕は、アルファロメオはあまり趣味ではなかった。だからこのコンパクトな147は、ある意味妥協を含んだ選択である。
とは言っても、そのデザインはかなり気に入っているし、試乗してみたら愉しい車だった。
ただし、いくら近年改善されているといっても、イタリア車、そして中古車はやはり不安だ。予算も少しオーバーだし、選ぶコンセプトからも外れてる。
これまでイタリア車、ドイツ車、日本車と乗ってきたから、おかしな理由だけど、つぎはイギリス車かフランス車が順当な線だという気持ちもあって(アメ車には適当な候補がない)、よほど有力な理由がなければ、この車を選ぶ可能性は低い。でも、このなかでは一番僕の性格に合ってるかもしれない。

マツダ・ロードスター


覚えている限り、おそらく10数年ぶりにマニュアル車を運転した。それがこのロードスターだ。
もともと運転が得意ではないこともあって、操縦はぎこちなかったけれど、プジョー206のオートマ車なんかと比べものにならない、スポーツカーらしい走りが愉しかった。反応が良くて、グイグイ走ることができる。
僕は乗ったことを後悔した。なぜなら、欲しいという気持が湧いてきてしまったから…!
値段が安いから、内装はプラモデルみたいな部分もあるが、ボディはすごくしっかりしている。遊ぶのに最高の車だ。外観は、前のロードスターはあまり好きではなかったが、今度のはデザインも気に入ってる。
しかし、ソフトトップで2シーターというのは、あまりにも実用的でない。それにATもあるけれど、これはやはりマニュアルで乗りたい。そうするとなおのこと実用には向かない。本当に走るためのオモチャである。
これに乗ったせいで、またも気持がぐらついている。(運転はヘタくそだけど)やはりオープンカーやスポーツカーに乗りたい…!

スマート


ずっと前から気になっている車である。色もこの配色がいい。小さいながら、国産車のようにかわいいだけでなく、洗練されている。
でも、座席は広いものの、ふたり乗りで、トランクも狭い。これも用途が限られる車だ。小回りが利いて便利な部分もあるけれど、ファーストカーとしては厳しいだろう。それから、ミッションがちょっと特殊で、クラッチペダルはないが、坂道発進はマニュアルと同様、ハンドブレーキを引いての操作が必要となる。それがかなりの減点である。

こうやって候補車を挙げてはみたが、車を買える身分ではないことも自覚している。だから、買わないという選択もあり得るのだ。念のため、その点も書き加えておく。

ひとつ見れば同じこと

2006-05-04 13:11:11 | Weblog
例えば芸術家は、なぜ同じような作品を創りつづけるのだろう?

どういうことかというと、先日ここで話題にした画家のミロについてちょっと調べたら、似たような絵ばかり描いているということにあらためて気づいたのである。
もちろんミロだけではない。
有名な画家は誰も、同じような作品ばかりを残している。
ピカソのように、「青の時代」だとか、キュビズムに移行したりとか、作風がガラッと変わる人もいるけれど、同時期には同じテーマ、同じ技法で描いている。
違った画風を同時に使い分ける人はあまり見かけない。

これは画家に限ったことではなくて、彫刻家、音楽家、前衛芸術家、小説家、デザイナー、映像作家などにも同様のことが言えると思う。
表層的に見てとか細かい部分に変化はあっても、本質的には同じことばっかりやっている。
受け手側も飽きないのだろうか?

また、もっと視野を広くとると、一般の人たちの趣味、趣向にもそれはあてはまるかもしれない。
例えば服装ひとつをとっても、トラディショナルが好きな人、アバンギャルドが好きな人、ブランドものが好きな人、古着が好きな人、和風、アメリカン、エスニックなどなど…。
自分が意識しているかどうかは別にして、たいていはその人それぞれのアイデンティティに沿ってまとめられている。
どっちつかずの人もいるけれど、違うジャンルのスタイルを明確に使い分けることはしないはずで、どっちつかずの人は、どっちつかずのスタイルというアイデンティティを持っている。
ライフスタイル全体を見ても、エリート志向の人もいれば、「オレの人生はロックンロールさ!」なんて人もいる。それは様々だけれども、やはりその方向性は、ある程度定まっているものだ。

でも僕は、それをちょっと不思議に感じる。
そして、うらやましいとも思う。

同じことばかりやってて飽きないものなのか、という疑問と、ひとつのものに打ちこむことができ、思考がぶれないという強さや安定性に対する羨望が、同時に湧いてくるのだ。
もちろん、芸術家とかクリエイターの場合、世に出るためには他との差別化、ひと目でその人と分かるような独自性が必要だ、ということも理解できる。
だからもしかしたら、そういう社会的、戦術的な意味で、意図的に同じような作品を創り出している場合もあるかもしれない。
また、作品に高い完成度を求めるなら、同じテーマをくり返して探究していく必要もあるだろう。

しかしやっぱり、よく飽きないな、と思う。
そして、だからこそ、飽きっぽい人間である僕は、何事も成功しないし、人間としても流動していて完成せず、”強さ”を手に入れることができないのだろうかとも思う。
また服装の話になるけども、僕は和装にも興味があるし、アルマーニとかいったブランドものも好きだし、粗野なカウボーイスタイルみたいなものにも憧れを持っている。オーセンティックなきちんとしたトラッドも良いと思う。あるいはまた、そんなことにはとらわれずに、自分の人間性が自由に服装に滲み出せばそれで十分だという意識もある。
まったく志向が一定しないのだ。
あれもいいし、これも好き、という、悪くいえば八方美人的な傾向が強い。
でもそれは、本人からしてみたら八方美人ではなくて、「良いものは良い」という気持ちなのである。
世の中には、ありとあらゆる、それぞれ特長を備えた事象が存在しているのだから、ひとつの方向に決められない。どれかに絞れ、なんてことは難しいのである。

それに僕は、ニュートラルでいたいと思う人間だ。偏ってしまうのを避けたい。
それは、自分の方向を明確にすることによって突き当たる困難に対しての恐怖心も含んでのことなのだが、広大無辺な世界にいて、ほんの米粒みたいな知識しかもっていない小ちゃな存在でしかないのに、そのなかだけで固まってしまうというのがもったいないという気持ちもある。
自分が知らないところに良いものが存在してる可能性はとても高い。ある物事に接して、それが気に入ったとしても、もしかしたらそれは、そのジャンルではレベルの低いものだったりするかもしれない。本物ではなく、本物の模倣にすぎないのかもしれない…。

…これは難しい。
しっかりとした自己を確立したい、明確なスタイルを持ちたい、という思いも強く持っているから…。
まあ、冷静に、客観的に判断すれば、まず最低限のアイデンティティを確立することが先決なのだとは思う。まずそこに到達しないと、何も始まらないのだろう。
とにかく、緩く、無為に流動し続けているだけの僕なんかでは、問題にもならないには違いない。

僕のマセ。

2006-05-03 12:19:15 | CAR

”マセ”というのは、イタリアの車、マセラティのことである。

僕はこのブログでは、個人を特定できるような情報はなるべく出さないようにしてきたが、今日はひとつ明かしてみようかと思う。
それは、マセラティに乗っていたことがある、ということだ。
10年以上前に、20代も半ばを過ぎてから、生まれて初めて購入した車がマセラティだった。
もちろん、新車なんか買えない。中古も中古、すでに絶版のモデルの、10数年落ちの中古車である。
でも、当時の気持ちとしては、新車のモデルよりも、僕が買った車のほうが好きだった。決して金がないからとかいった妥協などではなかったのだ。

ただ、今思えば、マセを買ったことはやはり”若気の至り”というほかないと思う。
イタリア車、とくにマセラティは壊れる、というのは定説みたいに言われていたし、そのことを含めて、税金だとかもろもろ、維持がたいへんである。TOYOTAのディーラーに勤めていたという人に、なかば嘲笑ぶくみで、「やめたほうがいいんじゃないの?」と忠告されたこともある。
僕は、お金があればそんなことは、好きな車を所有するためには問題ではないのだが、結果としては、自分の甲斐性がなかったということに尽きる。
しかも、今考えると本当に恥ずかしく、反省と後悔の気持ちで胸が苦しくなるほどなのが、当時、まだ結婚前だった妻の存在がなければ、その車は所有できなかったということである。もちろん、直接購入資金や維持費を出させたことはないけれど、家計全体のことを考えれば、無意識的にでも、明らかに”あて”にしていたことは間違いない。依存していたと言わざるを得ない。
若い僕にしてみれば、「今に倍にして返してやるから」という感じだったのだろうけど、結局はそれは自信というより、根拠のない、妄信だったのだ。
ずっとこのブログを読んでくださっている方がいるとすればご存知の通り、その後は経済的困窮、そして結婚生活の破綻という途をたどる…。考えてみると、マセラティの購入が、象徴的にではあるにせよ、その端緒、元凶だったのかもしれない。

しかしもちろん、マセラティには何の罪もない。
そして、マセはいい車だった。

僕のマセは黒の222Eというモデルなのだが、ビトゥルボ系と呼ばれるシリーズ特有の、少し角ばった形をしている。ボーラやメラクといったスーパーカー世代のモデルとも全然違うし、現在のマセラティはフェラーリ傘下となり、スタイルに面影を残していない。
しかし今見ても、だんぜん僕のマセのほうがいい。
現行モデルのようなスポーツカー然とした感じではなく、一見地味で、昔の国産車と間違えそうなデザインなのだが、よく見ると、例えば横から見たフォルムはまるでサメのようで、うちに秘めた熱情をクールな外観に隠しているかのようだ(ちなみに、マセラティオーナーである作家、北方謙三は、それをサメではなく『羊の皮をかぶった狼』と表現している)。
後継モデルではバンパーあたりのデザインが変わって、その”サメのような”精悍さが薄れてしまったので、もともと流通量の少ないマセラティであるが、僕のマセはますます希少性の高い車と言える。

”ビトゥルボ”というのは確かターボの意味で、この222Eもターボチャージャー装備である。
僕は、感覚やイメージ的なところを優先させてしまう質(タチ)だし、機械が苦手なのでそういった類いのことは詳しくないが、スペックは車を判断するための必須事項だろうから、ちょっと書き出してみようと思う。
222Eは1987年に誕生。”E”というのは日本仕様車につけられるコードネームとのこと。
全長×全幅×全高はそれぞれ、4155×1714×1255ミリ。
エンジンは、水冷V型6気筒SOHC3バルブ、水冷式インタークーラー付ターボチャージャー。排気量2790cc。
パワーは、225HP/5500r.p.m。
トルクは、37.0kg-m/3500r.p.m。
トランスミッションは4段ATだ。
ネコ・パブリッシングの本に掲載の資料を丸写ししただけなので、正直僕にはちんぷんかんぷん…。本当は、ここに書いたことくらいは意味を理解しておかなきゃとは思うのだが、パワーやトルクとなると読み方さえ分からない。きっと、”まっとうな”車ずきからしてみたら、僕みたいなヤツにはイライラしてしまうんだろうな…。
でも、運転すると、ターボがどんなものかだけは、体が覚える。
昔で言う「どっかんターボ」というやつで、アクセルをグッと踏み込んだら、ひと呼吸のタイムラグがあったあと、いきなりギュン!と加速するのだ。文字通りシートに体が押しつけられて、快感が体をつき抜ける(陳腐な表現だけど、ホントにそんな感じ)。
ある雨の日に、信号待ちをしていて、青に変わったので発進しようとしたら、おそらくアクセルを踏みすぎたのだろう、一瞬、リアタイヤがなかば空回りして、後ろからせっつかれるような形になり、車体が斜めになった。反射的にカウンターをあてて、車体を左右に振りながらもなんとか無事に発進することができた。
購入する際にディーラーの営業から、「パワーがあるから気をつけろ」と注意されていたことが起きたのだ。
タイヤはミシュランだったのだが、そろそろ交換してもいい時期に来ていたこともあり(それに、マセのサイズのミシュランは近所では売っておらず、しかもバカ高い…)、それを機にブリジストンに替えた。ただ、グリップは良くなったと思うけど、デザインがマセに合わなかったというミソがつく…。

それから、良きにつけ悪しきにつけ、ビトゥルボ系マセラティと言えば、そのインテリアが話題にのぼる。
僕のマセはベージュ(白に近い)の本革シートで、表革とスウェードのコンビになってる。そして、ステアリングホイールをはじめ、各所につややかなウッドが使われていて、ダッシュボードにまで貼られた革とのコンビネーションが美しい。
計器類、スイッチは整然と並べられ、真偽のほどは定かではないが、カルティエ製と言われる時計が、中央に据えられている。
このインテリアを、「いやらしい」と感じる人もいるかもしれない。それに、細かいことを言えば、手入れも大変だ。
でも、シブめの外観との対比が、いい味わいを醸し出していると思う。僕には品悪くは感じられなかったし、すごく好きだ。

じつはこのマセ、まだ手元にある。

愛する車なのに、経済的破綻、離婚、失業、精神の不調など、(自業自得はいえ)人生の苦難の怒濤のうねりのなかで、数年前に当然のように廃車(登録抹消)となり、何年も風雪にさらされ、サビが浮いてすでにボディが腐りはじめ(最初の三年間は大丈夫だったのだが…)、ボロボロの状態にしてしまった…。
だから本当は、”愛する車”なんてセリフは、ちゃんちゃらおかしくて、言ってはいけないことなのだ。
まるで根をはった雑草みたいになって置きっぱなしになってるマセのことを想うと、とても辛い。
そして、その辛さゆえに眼をそむけてきたようなところがある。でも胸の中では、妻に感じるのと同質の罪悪感を抱かずにはいられない。
僕のマセは、確かに細かい不具合はあったが、エンジンそのものは元気だったし、とても良い子だった。
一般的なマセラティの評価からすれば、奇跡のような個体だったのではないだろうか。
それなのに、だらしない親のせいで、屍をさらしているような始末になっている。
もちろん、まだ状態のいいうちに売ることも考えたが、そこは昔から評判の悪いイタリア車、引き取り手は見つからない。希少車とは書いたけれど、それはつまり、一般的には人気がないということでもある。これがフェラーリなんかだとまだ道があるのだろうけど、マセラティは知名度さえ低い。タダでもいいから、と思っても、自走できないから引き取ってもらうのにもかなりの費用がかかるのだ。
スクラップにするのは忍びない。できれば、(パーツとしてでもいいから)どこかでまたふたたび走ってくれれば、とも思う。
それに、頭の隅で、「いつかは僕が復活させたい…」ということが捨てきれないでいた。
たぶん、そのためには最低でも200万くらいはつっこまなければいけないと思う。だからどうしても無理だったのだけど、そんな生半可な未練が、かえってアダになってしまったと言える。今となっては、どんなにお金をつぎ込んでも、復活できる見こみは少ないと思う。
以前、マセラティの世界ではその名を知られたショップに電話をしてみたが、そこのオーナーにも叱られてしまった。無理からぬことだ。マセを愛する人にとって、僕のしてきたことは、許されざる所業だろう。
その店が近ければ良かったのだが、遠方にあるので、自走できないということもあるし、宙ぶらりんになったまま、また月日が過ぎた…。

なぜ僕が、マセのことを書こうと思ったか…。
それは、最近、車を買おうかと、なかば本気で考えるようになったからである。
ちょこちょことディーラーに出かけては車種をしぼり込む作業をしていたが、そんななかで、新しい車にかけるお金を用意できるのなら、マセを復活させることが可能だとしたら、そちらに使うべきだろうか…。そう思ったのだ。
でも、最初に書いたように、マセラティの維持は難しい。
マセは意外にロードクリアランスが低いので、底を擦ってしまいやすいから、おいそれとどこへでも出かけられない、ということもある。
そもそも、車の購入を考えはじめた当初は、「余裕もないのだから、そういった趣味性の高い、手のかかる車はもうあきらめて、(僕なりの最低限のこだわりは残しつつも)お金がかからず快適な、道具として便利な車を選ぼうか」というところから始まった。
しかし、それにしたところで、客観的に見れば無謀なことである。
定期収入ができたとはいっても、しょせんはアルバイトだ。金額もたかが知れている。
これは僕の”消費依存症”が発症しているのだろうか…。
それに、若気の至りならまだいいが、この歳になっては、何の言い逃れもできない。
同じ失敗をくり返すのか…!?
しかし、冷静に状況を判断できる自分がいるにもかかわらず、そこに歯止めがかけられない…。
なんなのだろう、このおかしな力は…?

それに、使い勝手が良くて値段の手頃な車は、どうしても造りがチープな場合が多い。確かに、最近はコンパクトカーでも質感の高さが売りになっているような車種もあるが、基本的にはスポーツタイプの車が好きだということもあって、徐々に気持ちがズレてくるのだ。
そんななか、マセのことを思い出すにつけて、
「いい車だったなあ」
「復活させてやりたいなあ」
「罪滅ぼしをしたいなあ」
という気持ちが湧き出してくるのである。
今日この記事を書いたのは、ひとつの懺悔という意味もあるのだ。

いまもマセは、じめじめとした暗い木陰で、創傷の痛みに耐えながら、孤独な眠りをつづけている。