音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

デンマーク王子の行進曲

2024-03-31 21:01:00 | バロック
今朝レッスンで、実家に行ったら雪柳が爆発していました。
花嫁さんの冠のよう。
垣根の間から

暖かい一日でした。

レッスンに来ておられる生徒さん。
娘さんが結婚されるとのことで、式で演奏する曲を練習中。
「愛の讃歌」「愛の挨拶」「未来予想図」「逢いたくて今」「ニュー・シネマ・パラダイスメドレー」
などなど候補をCD伴奏付きで演奏してくれました。

花嫁の父
「「ニュー・シネマ・パラダイス」なんか演奏すると泣いちゃうんじゃない?」って聞いたら
「泣きませんよ。」って言っていたけれど…。
暖かい春になりそうです。

ジェレマイア・クラーク(1674-1707年)イングランド ロンドン?

国民伝記辞典には、クラークは「1669年に生まれたと言われている(おそらく日付はもっと早いはずだが)」と記載されています。ほとんどの情報源によると、彼は1674年頃にロンドンで生まれたと考えられています。

クラークはセント・ポール大聖堂


のジョン・ブロウ

1649年2月23日受洗 - 1708年10月1日
の生徒の一人で、1685年にはチャペル・ロイヤルの合唱団員となりました。

1692 年から 1695 年までウィンチェスター大学


のオルガニストを務め、その後 1699 年から 1704 年までセント ポール大聖堂のオルガニスト


を務めました。

彼は後にチャペル・ロイヤル
のオルガン奏者および「並外れた紳士」となり、その職を友人の作曲家ウィリアム・クロフト(1678-1727年)
聖歌隊の少年としてのウィリアム  クラフト
と共有しました。

トランペットボランタリーと呼ばれる「デンマーク王子の行進曲」は1700年頃に書かれました。
この曲はアン女王の夫カンバーランド公ジョージ

デンマーク=ノルウェーの国王フレゼリク3世とブラウンシュヴァイク=リューネブルク公女ゾフィー・アマーリエの次男で、イギリス(イングランドおよびスコットランド)とアイルランドの女王アンの夫
のために作られました。
1878 年から 1940 年代まで、この作品は彼の兄であるヘンリー・パーセルの作とされていました。

この曲は結婚式の音楽として人気があります。

この行進曲は1981 年のセント・ポール大聖堂でのダイアナ・スペンサー夫人とチャールズ皇太子

の結婚式や、1981 年のデンマークのヨアヒム王子とアレクサンドラ・マンリー

の結婚式でも演奏されました。

第二次世界大戦中、占領下のデンマークに向けて、イギリスとデンマーク両国間のつながりを象徴していたため、BBC ラジオで頻繁に放送されました。

1943 年以降、デンマークの親衛隊部隊であるシャルブルグ軍団の本部。占領されている建物は、コペンハーゲンのブレグダムスヴェイにあるデンマーク フリーメーソン教団のロッジです。
ナチス・ドイツの占領の直接の結果として3,000人を超えるデンマーク人が死亡しました。 デンマーク自由軍団と武装親衛隊のさらに2,000人の志願兵(そのほとんどはデンマーク南部の少数民族ドイツ人出身)が東部戦線で戦闘で死亡し、1,072人の商船員が連合軍の任務で死亡しました。

放送は、曲の最初の小節で
「ここはロンドンです。BBC がデンマークに放送しています。」という言葉で始まりました。

こうしてデンマークでは、この曲はナチスの占領とプロパガンダへの反対と強く結びつきました。それは今でも毎年の解放の祝賀行事で行進とともに演奏されます。





聴き合い会と井型の椅子

2024-03-30 21:01:00 | 近代
金曜の午後から、牧野生涯学習センター、音楽室で第10回聴き合い会でした。
批判や指導は禁止。
お互いの演奏を聴きあって励まし合いましょう。ということでプロアマ問わず、参加出演お願いしています。

主にFacebookで呼びかけているのと、ギター練習会やフルートアンサンブルで出会った人たちをお誘いしています。

冒頭はフルートの今川さんとギター鈴木さん。
今回は
初めてサックス演奏の参加がありました。

いつものギター、チェロ
リュートやマンドリン
そしてギターの島崎陶人先生のレクチャーと井型の椅子。
この井型の椅子に座ったら、演奏が変わります。なぜかはわからないと先生は言いますが…。
YouTube、スマホ撮影でも、違いがわかるかな?
普通の椅子に座って演奏。


井型の椅子に座って演奏。

他にもチェロやギターで試してみました。
オカルトではありません。
たぶん、
ユルゲン フランツさんなら柔軟性と固定というところです。

固い椅子に座ることで坐骨が刺激され、脳がバランスを取ろうとして
背筋が伸び、呼吸が深くなります。

柔らかい椅子だと椅子にアジャストしてしまい身体もぐにゃぐにゃ…とまではいかなくても、芯ができません。

固い椅子への反発力で身体は真っ直ぐになり、呼吸が深くなると身体も指も余裕ができ、脳によるコントロールが効くようになる…なんてことかと思います。
もちろん科学的に検証したわけではありませんが…。

ジャン リヴィエ(1896-1987年)フランス

アルメニア紙の共同発明者であるアンリ・リヴィエ の息子である彼は、オーケストラ、室内楽グループ、合唱団、ピアノ、独奏楽器のための音楽を含む 200 以上の作品を作曲しました。

リヴィエは1948 年から 1966 年に退職するまでパリ音楽院で作曲の教授を務めました。1948 年から 1962 年の間、作曲家ダリウス・ミヨーとこの職を共有しました。
サックスのための曲を多く書いてます。

サックス四重奏 グラーヴェとプレスト






川のほとりで

2024-03-29 21:00:00 | ルネッサンス
木曜午後は京都今出川大宮の富久田先生のレッスンでした。
行きは京阪出町柳駅から、バス。

帰りは

四条駅までバス。
さすがに四条駅は人が多かったです。 コロナで空っぽだったダブルデッカーの観光バスもたくさんの人でいっぱいでした。
そしてまだ寒い上に小雨も降ってきたのに、こちらも復活。

鴨川のほとりはやっぱり、こうでなくっちゃね。

川のほとりと言えば…バビロン川のほとりで…不謹慎かな。今に繋がる暴力の応酬の発端。恋人たちの方がずっといいけど

ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ パレストリーナ(1525~1594年)教皇領パレストリーナ生まれ、教皇領ローマ没

16世紀後半ローマで活躍した教会音楽家で、ルネサンス後期最大の作曲家でポリフォニー様式の確立に貢献したと言われています。
彼の作品は非常に多数にのぼり、105曲のミサ曲、400曲以上のモテット、100曲のラテン語の宗教的作品、60曲のイタリア語の宗教的作品、90曲のイタリア語の世俗的作品、オルガン曲などを残しました。

Super flumina Babylonis(バビロ ンの流れのほとりで)は、詩編 137 編 1-2 節がテキスト、モテット集第2巻(1581年)に収録されている代表的なパレストリーナ様式の4声のモテットです。

新バビロニアの王ネブカドネザル 2 世
ネブカドネザル2世(BC642-BC562年)
によるエルサレム陥落
ホアン・デ・ラ・コルテ。
新バビロニア王国のネブガドネザル2世の軍勢に攻め込まれるエルサレム
によりバビロニア地方へ捕虜として連行された「バビロンの捕囚」の一場面を描いています。


ジェームズ・ティソ(1836-1902年)フランス
囚人の逃亡
捕囚され、連行されたユダヤの民が、故郷のシオンを思って膝をつき、涙を流すという場面です。

アーサー・ハッカー(1858-1919)イギリス バビロンの川のほとりで

わたしたちを嘲る民が
楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」
と言うが
どうして歌うことができようか
主のための歌を異教の地で。

エゼキエル書によると、ユダの捕囚民の大部分は、バビロニアにあるケバル川沿いに移住させられたとあります。

バビロ ンの流れのほとりで」
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って
わたしたちは泣いた
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた (詩篇 第137篇 1-2節)



豆ばかり1週間

2024-03-28 21:37:00 | 現代
近所の道の駅でうすいえんどうを買ってきました。
これは豆ごはんと、次男と剥きだしたら…。
「ちっっっちゃ!」と次男。
見たら、驚きました。
大きな莢の中には立派な皮の中に1個だけとか。
たくさん剥いて見たけれど、

「少なっ!」と次男。
豆ごはん好きなのですよ。
私も。
小さ過ぎて豆が少し潰れた、ちょっと残念な豆ごはんでしたが、豆の味はしっかりして美味しかったですよ。

豆と言えば、ベルクの陰鬱な救いのないオペラ「ヴォツェック」の中で、貧しい兵士ヴォツェックは1週間豆ばかり食べさせられます。

豆ではすぐに死にはしないけれど、その強制と監視はヴォツェックの魂を殺し、人生を破壊していきます。

アルバン ベルク(1885-1935年)オーストリアハンガリー帝国ウィーン生まれ、オーストリアウィーン没

1909年24歳

はウィーンで富裕な商家の子供として生まれました。
15歳の時、父が亡くなります。
独学で作曲を試みるようになり、この時の現存する多数の歌曲は1980年まで封印されていました。

1902年にはベルク家の別荘で働いていた女中、マリー・ショイヒル
との間にアルビーネ ジョイフル
アルビーネ・ショイフル
1902年に17歳だったベルクとベルク家の女中マリー・ショイフルとの間に生まれました。マリーは去り、二度とベルクと会わなかった。アルビーネはベルクの葬儀で一度顔を見せました。
が生まれ、翌年にはギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図ります。

1904年、ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込み、シェーンベルクや同門のヴェーベルンとの交友が始まります。

ベルクはギムナジウム卒業後、公務員になりますが、作曲活動に打ち込むため2年で辞職し、ウィーン国立音楽院へ入学します。

1907年、「4つの歌曲」Op.2などの曲で本格的な作曲家デビューを飾ります。

1908年7月23日、喘息を発病します。この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数と決め、この数は以後の作品の構成に組み込みます。

1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。

ヘレーネの母アンナはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われています。

1912年、「アルテンベルク歌曲集」Op.4を完成します。

1914年、ゲオルク・ビューヒナー
1813-1837年
の戯曲「ヴォイツェック」の上演に接したベルクはこの戯曲を基にした無調音楽のオペラの作曲を始めますが、この年に第一次世界大戦が勃発、翌年から兵役に服する事になり作曲が不可能になります。

1917年になって休暇を与えられ、歌劇「ヴォツェック」 OP.7の作曲再開に踏み切ります。「ヴォツェック」の完成は1922年になってからです。


本来、この人物の名はWoyzeck(ヴォイツェック)ですが、筆写の悪筆のためyをzと読んでいたためにWozzeck(ヴォツェック)と誤読したため、ヴォツェックになりました。

作曲中にベルクはこの事実を知りましたが、結局変更はしませんでした。
1914年末に台本の草稿を完成させ、音楽のスケッチもいくつか書いていましたが、『管弦楽の為の3つの小品』を完成させるためにオペラの作業は一時中断し、さらに徴兵などで作曲は遠のいてしまい、全ての完成は1922年4月になりました。

ビューヒナーの戯曲は、1821年に実際に起こったヨハン・クリスティアン・ヴォイツェックという名の元兵士の情婦殺人事件をもとに書かれています。貧しい床屋上がりの兵士が、鼓手長と通じた内縁の妻マリーを殺すという内容の物語です。

オペラの中で
貧しいヴォツェックはマリーと子どものため、生活費の足しにしようと医者の実験体となっています。

今週は咳をせず、豆しか食べてはいけないという指示を出されています。

医者は、咳をしたところを見たと言ってヴォツェックを叱責します。
来週は羊の肉しか食べてはいけないという指示を出します。

ヴォツェックは「太陽がまだ真昼に輝いている時に世界が燃えるようになって、恐ろしい声が俺に話しかけてきた!」などと言い始め、医者は「局部性精神錯乱の第2種だ、はっきり出てきた!」と自分の実験の成果が出てきたことを喜び、「名声は不滅となる。」と恍惚として叫びます。

そこまでして尽くしたのにマリーは鼓手長と浮気し、耐えられなくなったヴォツェックはマリーをナイフで刺殺します。

狂ったヴォツェックはナイフを隠そうと池に投げ入れ、そこではまだ見つかるとナイフを探しに池に入って溺れ死にます。





ユルゲンフランツマスタークラス「ウンディーネ」

2024-03-28 00:33:00 | レクチャー、マスタークラス
昨夜、なぜかいつもやっているアカウントでログイン画面に入れなくなりました。
二段階認証に登録しろというのでやってみましたが、コードを入れても他の画面に入れるのに編集画面には入れずログイン画面に戻るのです。
Googleアカウントに切り替えたら、二段階認証コードも入れないのにあっさり入れました。訳がわかりません。
そこに至るまでに午後4時になっていました。ごめんなさい。

昨夜保存しようとした記事残っていましたので、投稿しますね。

火曜日夜は、梅田ドルチェ楽器て、ユルゲン フランツのマスタークラスとコンサートに行ってきました。

コロナ以来久しぶりに海外からのマスタークラスに参加しました。

CDにサインもらってご機嫌です。
着いたら「久米さん!」と声が、コロナで3年会えなかったフルート友だちと竹代先生でした。

竹代先生は、曽根先生に師事して、ゴールウェイにも指導を受けたという御大です。

気さくに私にも声をかけてくださいます。ご一緒させていただきました。

マスタークラス一人目は大阪音大の村田泰葉さん、ライネッケのフルートソナタ「ウンディーネ」op167

まずチューニング。
アンブシュアのために時間を取ること、先にピアノを聞いてしまうと、どうしてもそちらにアジャストしてしまうので、合ってると思っても、吹き出すと違うと言うことがよくあります。
まず2、3音吹いてアンブシュアを決めてからピアノを聞いて合わせましょう。

日本のホールのピアノは必ず442hzに合っているのでイイなあと言っておられました。

ウンディーネは、人魚で人と恋したら必ず死ぬという悲劇です。
その長いストーリーの中でテンポを決めましょう。

少し遅めに始まってFの前のピアノでテンポを速くします。

それから調性。
Emollのアルペジオで始まります。
Emollのキャラクターは何でしょう?

答えられなくても心配ない。人は知らないことの方が多いのだから。

Emollの曲はバッハのフルートソナタ、シューベルトのアルペジョーネ・ソナタがあります。
そしてイベールのフルートソナタのテンポにはAllegro メランコリックと書いてあります。
メランコリック。
人魚はなぜ不幸なのか? 何かを失っている。何かを探し続けています。人に恋したら死ぬと知っています。

シューベルトアルペジョーネ・ソナタでは、Emollから、Edurに変わります。
すると世界に突然春がやってきます。花が咲いて人生が輝く。
Emollは哲学的な調性です。

調性の感覚を養うには、ゴールウェイがよくやっていることですが、モイーズの「ソノリテ」のロングトーンの練習を使って、開発します。
シラの間にハーモーニーをとり、ドミナントに転調して下がります。
上に行くときにはトニックからドミナントに転調しながら音程をよく聞いて。

そして大事なのはJoy something!

さて、「ウンディーネ」の初めの所。
オクターブの下の音色を確かめて、ゆっくり2拍ずつにして練習しましょう。
次に一拍ずつ、その時に無限大∞の記号を思い描いて滑らかに。
頭を動かさないで、コントロール。
4分音符にして、そして8分音符。

柔軟Flexiblityと、固定Staybilityについて

柔軟性は、固定から生まれます。

唇にしっかりマウスピースを押しつけます。
指を動かしたい時は、動かない指に気をつけると動きやすい。

左手は、人差し指が開くときがあるのでそれは人差し指の付け根で固定しましょう。

右手はまずKeyboard、キーの、配列に沿ってアーチのようにして指を置きましょう。それから親指の位置を探しましょう。
親指はと言って受講生にいいねの形を取らせ、親指を押されました。

「思い切り押して!」それでも動かないためには、管にいいねの形を取って指を真っ直ぐ押す感じ、そうすると反対側の唇がしっかり固定されます。

ピアノをよく聞く余裕を持って、間違いは気にしないで。

2回目のPPはカラーが変わります。感情の変化を表現。
私はなぜ不幸なのか?
ダイナミクスも大切に、2次元の演奏を3次元にしましょう。

和声の変化する時に少し時間を取りましょう。ただ速いだけの演奏は、観客を取り残します。
その先のPは、イノセンス、純粋無垢な少女のイメージで、

8分の6拍子は水を表現する時によく使われています。
ウンディーネもそうですが、モルダウもそうです。
なぜかな?
ここで時間になりました。2曲目はイベールのピース、また今度。

ユルゲン フランツ編曲「トゥーランドット」幻想曲 まだ、彼しかYouTube上がっていません。


30年後に発見された「ララバイ」

2024-03-26 22:39:00 | 近代
今年も子育てサポートの登録をしました。

幼稚園の跡地に建てられた
ファミリーポートひらかたは枚方市の委託で子育て支援を行っています。
私は時々、頼まれてお手伝いをするだけですが、子育てでつらい時は24時間電話で相談を受け付けてくれます。

つらい時というより、つらくなりそうな時に電話すると良いと思います。誰かに話すと気持ちが楽になるし、具体的に休養する方法も教えてくれます。

ジョージ ガーシュウィン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没
 
が、1919年21歳の時に弦楽四重奏として作曲された「子守唄」(Lullaby)は

生前は出版されず、ガーシュウィンの死後30年余りを経て、1968年に発見され、ようやく出版されました。

作詞家として弟ジョージと共に多くのヒット曲を世に送り出した兄のアイラ・ガーシュウィン(1896-1983年)


は「他の有名な作品と同列には扱えないでしょうが、私はこのチャーミングで慈しみを持った音楽が大好きです」というコメントを残しています。


ガーシュウィンは東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれました。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民です。

父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ってきましたが、アイラが興味を示さなかったため、代わってジョージがピアノに親しむことになりました。
13歳の時から正式にピアノを習い始め、ヘンリー・カウエルに和声を習うようになりました。

しかし、少年期はいわゆる不良少年で、女性関係も派手で、交際した女性を妊娠させたりといった騒動もありました。

彼は陽気な性格で、ティン・パン・アレー
ティン・パン・アレーの楽譜出版社
1890年代後半にブロードウェイのミュージカルの音楽に関係する会社が楽曲の試演を行っていたため、まるで鍋釜でも叩いているような賑やかな状態だった。
では、楽譜を売ることにも才能を表していました。

1914年にはそれまで通っていた商業高校を辞めてティン・パン・アレーで仕事をするようになりました。
ジェローム・H・リミック音楽出版社という会社に雇用され、新曲の楽譜を客にデモ演奏するピアニストとして週給15ドルで働くことになりました。

ガーシュウィンはティン・パン・アレーで働いていた時期に、音楽についての職業的な知識や演奏の技巧など多くのものを体得しました。

とりわけ、彼に大きな影響を与えたのは、ティン・パン・アレーからマディソン・スクエア・ガーデン付近にラグタイムをライブで演奏するカフェなどが多く存在していたことでした。

ガーシュウィンはラグタイムに傾倒し、そのエッセンスを自らの作曲家としての自己を確立させる手段としました。

出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザーとの共作になる1919年の歌曲「スワニー」

アル・ジョルソン(『スワニー』の楽譜カバー)
で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となりました。
ここから、快進撃が始まります。
 
その同じ1919年、「子守唄」は作曲されました。
ラグタイムとクラッシックの融合した曲になっています。

弦楽四重奏で作曲されましたが、この動画では管弦楽編曲版です。


パリの生活

2024-03-25 21:03:00 | ロマン派
三木の出張帰りに夫がもう一品。
いちごが美味しい季節です。
素敵な名前がついていましたが、忘れました。
特に白いいちご…思い出せない!
知っている人教えてください。
白いいちごは赤いいちごに比べて甘さ控えめでしたが、食感が繊細でサクサクって感じでした。
赤いいちごは、本当に甘くて美味しかったです。

ヨーロッパでいちごが食べられたのは石器時代。
7世紀にはローマで栽培が始まったていたそうです。
しかし、野イチゴの品種で、今のいちごのようになったのはオランダ18世紀、北米のバージニアいちごと南米のチリイチゴの交配によるものだそうです。
この頃、世界の人々がヨーロッパの都市に押し寄せ、富を謳歌していました。いちごもアメリカ大陸から来た富の1つ。
パリも、そういう街の1つでした。

ジャック オッフェンバック(1819-1880年)プロイセン王国ケルン生まれ、フランス共和国パリ没



1866年オペレッタ「パリの生活」は、黄金期の一作です。
1867年パリ万国博覧会のために書かれました。

パリ万国博覧会のポスター
アンリ・メイヤック


とリュドヴィク・アレヴィ


はオッフェンバック作品のリブレットを数多く担当したコンビで、彼らにより台本が製作されました。

アレヴィはこの作品について
「皇帝の政策は取り返しのつかない戦争への道を歩んでいたのである」、「不安、、、有罪宣告された文明は常に快楽におぼれ、不安を忘れようとする。」と言っています。

パリの生活当時のプログラム

「パリの生活」あらすじ
第一幕
サン=ラザール駅クロード・モネ「サン=ラザール駅」(1877年)

物語は架空の駅から幕を開けます。
プラットホームでは二人の洒落者ボビネとギャルドフーが高級娼婦メテラの到着を待っています。

メテラはかつてギャルドフーと関係を持ちましたが、今やボビネも彼女を狙っています。
親友同士の二人は恋敵でもあったのです。

ところがノルマンディのリゾート地トゥルヴィルからの電車を降りたメテラは別の男を連れていて、二人を見て素知らぬ顔をします。

失恋した二人はメテラを諦め、誰か他の女性を口説こうと、当時パリ有数の社交場として知られたブルヴァール・サン=ジェルマンに赴きます。

ブルヴァールでギャルドフーはかつての従者であったジョゼフと偶然鉢合わせます。
ジェゼフは今や一流ホテル「ル・グランド=オテル」の従業員になっていて、スウェーデンからの観光客ゴンドルマルク男爵とその夫人を案内していました。夫人の美貌に惹かれたギャルドフーはジョゼフを言いくるめて案内人の役割を交代させ、彼女をものにしようと画策します。

一方その頃パリは外国人観光客が大挙して押し寄せていました。中には贅の限りを尽くそうとパリを訪れた金持ちのブラジル人

が「パリでお金を使い果たそう!」と歌います。

第二幕
1900年頃のル・グランド=オテル

案内人に扮したギャルドフーはゴンドルマルク男爵夫妻
ドラネールによるゴルドマルク男爵の衣装
を欺き、「ル・グランド=オテルは満員につき別館へご案内いたします」などと称し、まんまと二人を自宅に案内します。
そうとは気付かない田舎者の男爵は憧れの大都会を楽しもうと、一人繁華街へ散策に出かけます。
好色な男爵は夫人(クリスティーヌ)
初演でクリスティーヌ役を演じたセリーヌ・モンタラン
と二人きりの夕食では飽き足らず、あの娼婦メテラとのアヴァンチュールを求めたのです。

男爵が出かけると早速ギャルドフーは夫人をそそのかし、男爵と別の寝室に案内した上、友人たちの協力によりでっち上げた自らの晩餐会へと招待します。
靴屋のフリックは陸軍少佐を、手袋屋のガブリエルは大佐の未亡人を装い、皆で陽気なヨーデルを歌いながら宴を盛り上げます。

第三幕
シャルル・モット「社交界の舞踏会」(1819年)

ギャルドフーの依頼を受けたボビネは、男爵を欺くために叔母の別荘を使い、偽物の仮面舞踏会の手はずを整えます。
スイス人将校に扮したボビネは女中ポリーヌに男爵を誘惑させます。
鮮やかなドレスに身を包んだガブリエルが場を盛り上げ、ワインが滝のように注がれます。終いにボビネの衣服は破れ、招待客は皆踊りだします。
テンポの速いフレンチ・カンカンにより宴は最高潮に達します。


第四幕

1918年時のプログラムの表紙

ギャルドフーは自宅(偽物のル・グランド=オテル別館)に戻ると、男爵夫人を二人で夕食に誘います。
夫人はパリの景色を楽しみ、ギャルドフーの計画は成功するかに見えました。ところがその時、思いがけない来客がギャルドフーの自宅を訪れます。

ボビネの叔母ケンペル=カデラック夫人とその娘フォル・ヴェルデュール夫人です。二人がパリを訪れてみると自宅が騒ぎになっているというので、何事かと様子を見に来たのです。

さらにケンペル=カデラック夫人は偶然にもゴンドルマルク男爵夫人の知り合いでした。
ケンペル=カデラック夫人に部屋を用意するよう言われたギャルドフーは、その場しのぎに男爵の部屋を充てがいます。そこへ仮面舞踏会での夜遊びを終えた男爵が酔いつぶれて帰ってきます。

第五幕
一方その頃、パリにある別の一流ホテル「オテル・アングレ」では、金持ちのブラジル人が贅の限りを尽くして仮面舞踏会を楽しんでいました。

給仕長のアルフレッドは他の給仕たちを集め、これから起こることには目をつぶるよう命じます。

舞踏会には娼婦メテラの姿もありました。舞踏会を訪れたゴンドルマルク男爵は彼女に言い寄りますが、敢えなく断られてしまいます。

結局メテラはギャルドフーとよりを戻すことに決めます。
ゴンドルマルク男爵も夫人(クリスティーヌ)
アメリー・ディエトルル、ヴァリエテ座で1982年と1911年にクリスティーヌ役を演じた
に詫び、今までの行いを許してもらいます。

それを見ていたブラジル人はガブリエルと一緒に、これまでの出来事すべてを指して「これがラ・ヴィ・パリジェンヌさ」と言ってパリの生活を祝福します。




マスタークラスとバスフルート

2024-03-24 21:00:00 | 楽器
雨の土曜日は、伊藤公一先生のマスタークラスでした。
基礎を徹底的にご指導頂いています。
スケールとアルペジオだけでほぼ終わります。
フルートは音程の幅が取れる楽器なので、あらためて耳の大切さを実感します。
先生は絶対音感は無いとおっしゃっていますが、「今、C#が高かったよ。」と、すぐに指摘されます。
耳を育てる大切さを感じます。

世界中のトップのレッスンを受けたり、聴講してきましたが、こんなに集中して一音を出す人を見たことがありません。

「当たり前の事を当たり前にできるようにやってきただけです。」と先生はおっしゃっていますが、それがなかなか…。
まだまだ、足元にも寄れません。

私はできないから続けているのかもしれません。

上の階でバスフルートをお試し。
GUO(ゴウ)フルートのバスフルートが良くなった。とFBで吹いている人を見て試してみたくなりました。


樹脂フルートも良くなっています。
もう一本はパールのバスフルート。


貝のキーがついています。
やっぱりよくなります。

本当にほしいのはコタトの縦バスフルート。

調べてもらったら2年待ちの1250000円。
待っているうちに上ったら上がった値段で…。
やっぱり買えません。

一人でマルモ食堂でかつおのお茶漬け定食頂いて帰りました。



帰りに珍しく御堂筋線で北大阪急行電鉄車両を見ました。

今日は北大阪急行電鉄が箕面まで延伸したそうです。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

作曲の「アリオーソ」はバッハが教会カンタータ『わが片足すでに墓穴に入りぬ』BWV.156 の1曲目「シンフォニア」として作曲し、その後『チェンバロ協奏曲 第5番 BWV.1056』の第2楽章で「Largo」として転用しました。

「シンフォニア」
墓に片足入れ
いつくしみにより
病める身もイライラも沈めん

わが悩みありし
主来れみこころなら
わが願うごとく
ああもう家ととのえ待ってり
世を去るとき
み手にいこわしめ
わが終わりをよみしたまえ
よき終りたまえ

バスフルートで「アリオーソ」


モネとドビュッシー

2024-03-23 20:56:00 | 近代
先週行った信楽のお店の庭の睡蓮。










大きな鉢に良く咲いていました。

クロード モネ(1840-1926)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ジヴェルニー没

は、1890年頃から自宅のジヴェルニーに睡蓮の池のある「水の庭」


と「花の庭」


を整えていきます。
1898年からは「睡蓮」の絵を描くようになります。

睡蓮
1900年までの『睡蓮』第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図を描き

睡蓮の池と日本の橋1889年
その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていきました。

クロード ドビュッシー(1862-1918)フランス王国サンジェルマン・デ・プレ生まれ、フランス共和国パリ没

1907年ドビュッシー

は、映像 第1集 - 1905年

A.Durand 1905

映像 第2集 - 1907年

Durand et Fils, 1908

を、書きました。第1集には水の反映が含まれていて水を描いています。

そのせいか、ドビュッシーは音楽における印象派のように語られます。

しかし、ドビュッシー自身は
「彼等~画家や彫刻家~は、自然の要素の中の一つ、自然の瞬間の一つしか得られないし、定着できない。音楽家だけが、夜と昼、天と地のすべての詩を捉え、その詩情を再構成し、無限の鼓動に律動を与えるという特権を持っている。」
と言っていて、印象派と一緒にされることには否定的でした。

モネとドビュッシーは20歳の年の差があり、モネは印象派ですが、ドビュッシーはその後に続く象徴主義に属します。

印象派
光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いています。時にはある瞬間の変化を強調して表現。それまでの絵画と比べて、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴です。また、それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描きました。

象徴主義
象徴主義芸術に於いて、自然風景、人間の営み、あらゆる物質的な現象が、そのままの姿で表されることはあり得ないだろう。

象徴主義芸術に於いて、それら事象は、本源の側のものである「理念」とのおのれの秘教的な類似を表象することを、運命付けられた外観なのです。(フィガロ紙「一文学宣言:象徴主義」ジャン・モレアス)

その上、ドビュッシーとモネは生涯一度も会ったことがないです。

しかし、今ではモネとドビュッシーは同時代人として語られることが多く、モネの睡蓮の池の展覧会場の音楽会に使われたりしています。

ドビュッシーは不本意かも知れませんが、20歳の年の差や、印象派と象徴派の差などは、歴史の前にはあまり関係なかったようです。

「中国のロンデル」
コロラトゥーラの技巧が全開の作品で、冒頭から高い声のヴォカリーズが微妙な五音音階。メロディが異国情緒豊かです。

中国のロンデル(抒情詩)
湖はつつじに囲まれ
睡蓮や竹にも囲まれている
上をマホガニー製のジャンク船が通り過ぎる
その舳先は尖っている

眠るひとりの中国娘は包まれている
溢れかえるような薄絹に首まで
湖はつつじに囲まれ
睡蓮や竹にも囲まれている

ギザギザなベランダの下に
中国男が立っている
フクロウの眼でじっと見つめる
ひとり通り過ぎてゆく貴婦人を

湖はつつじに囲まれ
睡蓮や竹にも..



リストの愛したキャベツ料理

2024-03-22 20:57:00 | ロマン派
春キャベツ。
夫とテレビを見ていたら「うまそう。」「うん。」
と言ってたら火曜日、三木の仕事の帰りに道の駅でキャベツを買ってきました。
『家にも1個あるのに〜!』
で、私がスープを作っている間に夫と次男が作ってくれました。

うっすら焼いたトーストにマスタードを塗ってスライスしたサラダチキンをのせます。
ラップかけてレンチン一分のキャベツを絞って、


ペッパーマヨネーズを混ぜます。それをチキンの上に山盛りのせます。
もう1枚のパンにはスライスしたチェダーチーズをのせて、トースト。

それをキャベツの上にのせて、

半分に切ったら

キャベツたっぷりサンドイッチできました。

思ったより食べやすくて美味しかったです。
反省点はレンチン1分ということでしたが、家のレンジの加減では2分したほうが良かったかも。少しキャベツが固かった。
表面の方だったからかもしれませんが…。
そして、水曜日生協さんがまたキャベツ丸々1個届けてくれたのでした。
今夜はお好み焼きか〜!

フランツ リスト(1811-1886年)オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没

オーストリア帝国領内ハンガリー王国ショプロン県ドボルヤーン(現在のオーストリア共和国ブルゲンラント州ライディング)で、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人(ドイツ系)の父アーダム・リストと、オーストリア人(南ドイツ人)の母アンナの間に生まれたリスト。

ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためです。

ワイマールのリストの家1869-1886年住んでいました。


リストのヘビシュタインのピアノが置いてあります。

家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語でした。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていました。このほか数ヶ国語に通じています。

彼はハンガリー人を自認していました。

家名の本来の綴りはドイツ系固有の List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りです。
ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていました。
1859年から1867年までの公式の氏名はフランツ・リッター・フォン・リスト (Franz Ritter von Liszt) でした。

これは1859年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりリッター(騎士)の位を授けられたためで、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もありませんでした。

この称号はカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要でしたが、カロリーネとの結婚が婚姻無効になった後、1867年にリストはこの称号を自身よりも年少の叔父のエードゥアルトに譲りました。

1838年のドナウ川の氾濫のときにウィーンでチャリティー・コンサートを10回も行い、演奏料をハンガリーのブダペストに災害救助金として寄付しています。

また、1867年オーストリア=ハンガリー帝国が成立し、フランツ ヨーゼフ

が皇帝になります。
その時「ハンガリー戴冠式ミサ」が ブダペストマチャーシュ教会

で、初演されます。

1881年〜リストが住んだアパートメント 音楽院として建築されていて、1875年〜音楽院として利用され、1879年〜リストは学長を務めました。
リストが作らせたピアノなども置いてあります。

上段はピアノ
下段はハーモニウムの音が出るそうです。

しかしリストは、生涯ハンガリー語は話せなかったそうです。

そんなリストの好物はロールキャベツ ハンガリー風だったそうです。

パプリカパウダーとマジョラムを入れて、サワークリームをのせるのがハンガリー風。
(「音楽家の食卓」野間浩資著 誠文堂新光社参照)

ハンガリー戴冠式ミサ R.487
1.Kyrie
2 Gloria
3 Graduale
4 Credo
5 Offertorium
6 Sanctus
7 Benedictus
8 Agnus Dei