知っている場所。その最も良く知る所ということでは、自身の部屋ということになるのだろうか。あるいは自分の住まい、家。どこになにがあるか、眼で覚えているにちがいない。外に出ている時に、例えば自身が不在の自分の部屋を思い描く。机だとかベッド、床。ひっそりとした空気の中にあるそれらを、眼前に見るかのように思い見ることができるはず。
それは、良く知った街の通りであるとしても、同じ。部屋の中にいて、現在のその場、通りの模様を思い描くことができるだろう。横断歩道の手前で待つ人、通りをどこかしらに向けて歩く男女、若者、中年、もっと年上の人々、その身なり。さまざまにその思い描くところに加えていくことができる。細密なまでにやろうと思えば、できることだろう。
良く知った、ということでは人間の世界一般ということについてもそうであろうし、風景ということでも、われわれ、世界中の風景をさまざまな媒体を通して見、その模様について知識として、既に限りなく持っているということが言えるだろう。遠い昔には考えられないほどに。
ある時期、ワタシは南海の島に出かけることが多かった。などと言い出すと突飛に聞こえるかもしれないけれども、仕事の合間など、自身の眼を数千キロも飛ばせているのである。殆ど全感覚をもってその遠隔地に移行し、その南海の島、海、砂浜の只中にいる。そして強い陽射を避けるように一本の木の蔭に入る。そこに腰を下ろし、至近の砂の様子などを眺める。更にはその小さな一粒にじっと見入り、また彼方へとひろがる海の方へと視線を向けている。ワタシの感覚は、殆どある種熟知した風景の中のもの。
それは、例えばのこと。南海の島は、地上の総ての場所に変わり得る。現実にその地に行くことなく、われわれ、総ての地を体験できるということでもあるだろう。人間に与えられた、そうした能力によって。
短く切り上げるところで、アルゼンチンの作家J・L・ボルヘス(1899-1986)の作品「アレフ」などのことも、思ってみていただきたい。向かえるところは、同じようなもののように思えるのである。誰しも、いつでも好きな場所、土地に行ける。それに、偽りはない。
それは、良く知った街の通りであるとしても、同じ。部屋の中にいて、現在のその場、通りの模様を思い描くことができるだろう。横断歩道の手前で待つ人、通りをどこかしらに向けて歩く男女、若者、中年、もっと年上の人々、その身なり。さまざまにその思い描くところに加えていくことができる。細密なまでにやろうと思えば、できることだろう。
良く知った、ということでは人間の世界一般ということについてもそうであろうし、風景ということでも、われわれ、世界中の風景をさまざまな媒体を通して見、その模様について知識として、既に限りなく持っているということが言えるだろう。遠い昔には考えられないほどに。
ある時期、ワタシは南海の島に出かけることが多かった。などと言い出すと突飛に聞こえるかもしれないけれども、仕事の合間など、自身の眼を数千キロも飛ばせているのである。殆ど全感覚をもってその遠隔地に移行し、その南海の島、海、砂浜の只中にいる。そして強い陽射を避けるように一本の木の蔭に入る。そこに腰を下ろし、至近の砂の様子などを眺める。更にはその小さな一粒にじっと見入り、また彼方へとひろがる海の方へと視線を向けている。ワタシの感覚は、殆どある種熟知した風景の中のもの。
それは、例えばのこと。南海の島は、地上の総ての場所に変わり得る。現実にその地に行くことなく、われわれ、総ての地を体験できるということでもあるだろう。人間に与えられた、そうした能力によって。
短く切り上げるところで、アルゼンチンの作家J・L・ボルヘス(1899-1986)の作品「アレフ」などのことも、思ってみていただきたい。向かえるところは、同じようなもののように思えるのである。誰しも、いつでも好きな場所、土地に行ける。それに、偽りはない。