「いじめ問題の一面」
画像の本の表紙は間違って紹介したのではありません。
この本の172頁
一人ひとりの可能性が大きな運動となるとき(いじめ問題の一面)をここに転記します。
(著者はきっとお許しくださるはずですので)
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いじめ問題がエスカレートして自殺など悲しい結末になったとき、マスコミは学校の先生と学校の
指導性を批判するのがいつものの伝です。
生徒からの信号を見逃したのではないか。
(中略)
そして ときの政府の首相は大あわてで「いじめられている子にぜひ伝えたいことがある。
あなたは一人ではなく、あなたを守ろうとする人は必ずいる。誰でもいいから相談してほしい」
とこうした事件が起こるまで死に直面するいじめ場面を想像さえしなかった人が、それでも組織は
万全だと言わんばかり、場当たり的に声をかけるだけで問題が解決するほど、いじめは底の浅い問題
ではありません。
じつのところ いじめは学校だけでおこることではありません。
会社など大人の集団でも頻繁に起こります。これが表面化しないのは、いじめられた人間が競争社会
のなかでの負け組としてその場を去っていくからです。
社会の制度が劣化しているのは、人間の質がくずれているせいと考えてまちがいないのです。
生きることそのものに価値を見いだし、生徒自身が自ら自立的な人格を得て、文化の場を作る
主体にならなければなりません。
そのためには 外部のさまざまな雑音を遮断する番人がいります。それが指導者(公文)です。
人の可能性の伸長の阻むものをくい止める番人に当たる務めをもつのが指導者です。
生徒一人ひとりがみずからの可能性を追求しやすくするために、一種の指導運動の番人になり、
「ちょうどの学習」の場をきずく活動を展開し、ささえて雑音に対抗すべきです。
やがて生徒自身が指導者の後についてこの番人の役を果たします。
私たちの敵は、いがみあう仲間ではなく その仲間もふくめてこどもたちの可能性の伸長を阻む
ものすべてなのです。
自学自習の教育は、少なくともいじめ事件に顕著な問題への抑止力にむけてのきっかけになる
のではないでしょうか。
人の思惑を気にして、うつ状態になったり、もたなくてもいい被害者意識つのらせたりするのは、
やはり 自己の主体性の意味をとことん掘り下げることをしないで他人の評価を第1にする他人
本位の行動になっているからでしょう。
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思い当たることがある恭子先生です。
学校でのいじめの場をみた直子ちゃん(当時小6)が、いじめている子に向かって
「そこまで言わなくてもいいんじゃないの」と言った時、
いままで無関心を装っていた他のこどもたちが集まってきて、直子ちゃんの隣にならびました。
その後 いじめは収まったというウソのような話がありました。
自立した生徒が、子どもだけの文化の中で番人の役を果たしたのです。
直子ちゃんは優秀な生徒でした。
自習する能力がなければ高教材まではいかれない公文式の醍醐味がここにあるのを見ました。