玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

春の闇

2009年05月05日 | 日々思うことなど
hagakurekakugoさんからご批判を受けた。
決して楽しいことではないけれど、自己防衛のために反論する。

kurokuragawa氏は切断処理なんかしないよ! - 解決不能

誤解あるいは曲解です。

私が指摘したのは、「ここまで来ると思想云々ってより、もはや病気の類ですね。同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです。」というhagakurekakugoさんの言葉が「敵」の人間性そのものを否定するものだということです。少なくとも、人間性(人権と言い換えてもいいでしょう)の存在を否定したいという欲望を公然と認めています。「切断操作がいけない」ではなく「人間性の否定はいけない」が私の真意です。
「人間性の否定」は実に恐ろしいことです。
実際に生きている人間の人間性が誰かによって否定されたとき何がおきるでしょう。企業は労働者を使い捨てにし、軍隊は敵国民を虐殺します。行き着く先はヒロシマでありアウシュビッツです。私は決して大げさなことを言っているつもりはありません。
もちろん私はhagakurekakugoさんをファシスト呼ばわりしたいわけではありません。議論の場で過激なレッテル貼りはたいてい不毛です。ですが、「敵の人間性を否定したいと公然と認める」のは危険であり、そのような主張を見過ごすのは正しいことではありません。
「それならお前はいつでも『正しいこと』をしているのか」と聞かれたら「ごめんなさい」するほかありませんが、だからといっておとなしく引っ込むつもりもありません。


hagakurekakugoさんは私のブックマークコメントを引用して「玄倉川も切り捨てているじゃないか」と指摘します。

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なぜこれが「おまえもやってるじゃないか」ということになるのでしょうか。理解に苦しみます。
私のコメントは「党派性が判断の先に立つ人たち」や「党派性>合理性・一貫性の人」を「同じ人類と思いたくない」と言っているわけではない。それは普通に読解力のある人なら誰でも理解できるはずです。
人間にはいろいろなタイプがあり、異なった考え方があります。社会の中で生きていればどうしても水の合わない人に出会うのは避けられません。そんなとき、無用の摩擦を避けるために「近づかない」とか「言っても無駄」なことは言わないのは普通に行われる処世術です。もちろん、近づくのを避けたり話をしない相手でも人間としての尊厳を認めています。彼らが不当に蔑まれたり迫害されることがあれば私は(私だけでなくほとんど誰でも)「それはおかしい、悪いことだ」と抗議するでしょう。
しかし、もし私が「党派性が判断の先に立つ人たち」は「同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです」と宣言したらどうでしょうか。人間性の存在を否定している(否定したい欲望を公然と認めている)のだから、彼らがどれほど苦しもうと牛や豚がされるのと同じくらいの同情しか感じないだろうと思われても仕方ありません。
「困った人だ、近づかないでおこう」と「同じ人類だとは思いたくない」の間には大きな違いがあります。私にとってはコーヒーと紅茶、いやコーヒーと泥水ほども違っています。「あなたのカップに入っているのは泥水ですよ」と注意した相手から「お前もコーヒーを飲んでいるじゃないか」と反論されようとは、まったく予想もつかないことでした。


hagakurekakugoさんの誤解の原因は、もしかしたら私が「上から目線」で、つまり「hagakurekakugoも酷使も同レベルのクズだ、それを指摘する自分(玄倉川)は清く正しく美しい良心の権化だ、俺を見習え」と説教したように感じられたからかもしれません。
いまさら遅いかもしれませんが、もちろん私は「上から目線」でhagakurekakugoさんにお説教するつもりなどありませんでした。
hagakurekakugoさんに「『同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです』なんて言えばそれこそ酷使様と同じでしょう、違うとしても紙一重ですよ」と言うとき、まさに自分自身が「紙一重」にいる危うさを実感していました。
レトリックでもなんでもなく、ちょっとした偶然によって私がhagakurekakugoさんに批判される酷使様だったり、あるいはhagakurekakugoさんと同じように「酷使様を『同じ人間とは思いたくない』」と公言していたかもしれません。人の心の奥底には常に闇が潜んでおり、いつでも押さえ込んでおけるとは限らない。「敵」を罵倒することは楽しく、自分が強く正しく立派になったように感じられる。一度味を覚えたら容易にやめられるものではありません。仲間同士で「あいつらを人間と認めたくない」「そうだそうだ、連中はクズだ」と言い合ったらさぞ楽しいことでしょう。私にはありありと想像できます。いえ、実際にそういうことをしたこともありますし、これからだってやるかもしれない。
自意識が傷つくので現在の私自身を「酷使様と同じ」だと思いたくはありません。ですが、「連中と自分はまったく違う」と確信することもできない。彼らと自分との差は紙一重だが、だからこそ、障子紙のように容易に破ることができる「人間性の尊重」という最低限の倫理を大事にしなければならない。私が信じているのはそういうことです。
私は自分が正しいから、強いからhagakurekakugoさんを注意したわけではありません。黙って見過ごすと自分が紙一重を破ってしまいそうだから、自分が立派だとは信じられないから、それが恐ろしくて「同じですよ(本当にそれでいいんですか)」と申し上げたのです。

去年の年末、「年越し派遣村」というイベントがありました。
私はあそこに集まった人たちに同情しました。hagakurekakugoさんに批判された酷使様に対して「彼らと自分は紙一重だ」と思ったのと同じように、「自分があそこにいても何も不思議はない」と実感しました。
行き場のない、明日のねぐらと食べ物にも困るような人たちが集まり、ひとときの居場所を作ろうとした。彼らはどんな意味においても恵まれない気の毒な人たちです。広く同情が寄せられるのが当然です。年末なのですから、ディケンズのクリスマス・キャロルじゃありませんが利己的な人も優しさを思い出してくれるだろうと期待したくなる。
ですが、実際はネットを中心に(と言われてますが本当はどうかわかりません)「派遣村バッシング」が起こりました。
ネット右翼とか酷使と呼ばれる人たちははいったい何と言ったでしょうか。「失業は自己責任、クビに備えて貯金しておかなかったやつはバカだ」「彼らは気の毒じゃなくてあつかましい社会の寄生虫だ」。実例をあげることはできませんが、2ちゃんねるやYahoo掲示板のログを調べれば似たような主張がたくさん見つかるはずです。
そのなかに「ここまで来ると思想云々ってより、もはや病気の類ですね。同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです。」という言葉があったとしても何の違和感もありません。いえ、違和感どころか「よく言った!」と賞賛されるのが目に浮かびます。そして、それを書いたのは自分だったかもしれない。

お化け屋敷の闇よりも、夜の闇よりも、人の、いえ、一般論ではなくてまさに自分の心の中にある闇を私は恐れます。


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2 コメント

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Unknown (たまに拝見)
2009-05-05 22:10:54
トラックバックのhagakurekakugoさんの反論も読んできましたが、若さだけで内容のない反論という印象を受けました
自分の年齢故の勢いに頼った考え方、-議論は出来ても、その行為の後の自身を検証することの無いウッカリさを感じました
酷い言い方ですが、彼は論争や議論よりも、扇動家を目指したいのかも?って考えますね…なんていうか、あまりにも玄倉川さんを小馬鹿にしているという印象で、気持ち悪いんですよね
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せっかくですが (玄倉川)
2009-05-06 08:18:49
たまに拝見さん、こんにちは。
私はhagakurekakugoさんの年齢を知りませんし、特に興味もありません。
せっかくコメントいただいたのに申し訳ありませんが、私は誰かを批判するのに「若いから~だ」あるいは「年寄りだから~」式の言い方を好みません。年齢差別がどうこう、とか固いことは言いません。単に好みに合わないだけです。
どうしてもその手の批判をしたければ、批判者自身が「私は○○才ですが」と明らかにすればいいと思います。もちろん自分が「やっぱり○○才は」「○○才のくせに」式の批判を受けることを承知の上で、です。
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