玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

万能の説明

2008年08月03日 | 政治・外交
政治的に議論の分かれる問題に対して、簡単に「文化」を持ち出してほしくない。

保岡法相:「終身刑は日本文化になじまぬ」 - 毎日jp(毎日新聞)
 保岡興治法相は2日の初閣議後の記者会見で終身刑の創設について、「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」と否定的な考えを示した。

 法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。

 終身刑を巡っては、超党派の国会議員でつくる「量刑制度を考える超党派の会」が5月、死刑と無期懲役刑のギャップを埋める刑として導入を目指すことを確認している。

 保岡法相は00年7~12月の第2次森内閣でも法相を務め、在任中の死刑執行は3人だった。【石川淳一】


文化、それも形のない精神文化を自説の正当化のために持ち出すのは嫌いだ。卑怯なやり方だと思う。もちろんこれは日本文化とやらが私の口を借りて言わせているのではなく、自分がそう思うのである。
精神文化を持ち出して対立意見を批判するのは「神様がお許しにならない」とか「そんなこと言う奴は非国民だ」といった類の押し付けでしかない。追い詰められての苦し紛れならともかく、世論の圧倒的支持を受けている(はずの)死刑制度について文化を持ち出す必要はないはずだ。

形のない精神文化を持ち出せば、たいていのことは正当化できる。
例えば年金問題や医療問題。「老人を敬い大事にするのが日本の文化だ」ということもできるし、「若者のために年寄りが我慢するのが日本の文化だ」と主張することだってできる。どちらにも具体的な根拠はまるでなく、単なる言いっぱなしである。
なんにでも使える万能の説明には意味がない。無意味なことをもっともらしく主張するのは議論の邪魔だ。

とらえどころのない精神文化ではなく、形のある文化的行為ならまだしも具体的な議論ができる。
たとえば演劇文化について語るのであれば、能や狂言、歌舞伎や新劇、宝塚や小劇場を持ち出していろいろなことが言える。逆に、具体的なことを何も知らずに「日本の演劇文化とは~」とぶつような手合いは演劇通から見下されるだろう。

保岡法相が終身刑の問題に対してどうしても「文化」を持ち出したいのであれば、一般的すぎて具体性のない「日本の文化」ではなく「刑罰文化」について語るべきだった。
「刑罰文化」という言葉を検索してもほとんどヒットしないけれど、ここでは「刑罰の歴史・精神史」という意味で使う。
日本の刑罰文化において本当に「終身刑は日本文化になじまぬ」のかといえば、ずいぶん異論がありそうだ。かつては流刑が死刑に次ぐ刑罰だったが、10年とか20年で娑婆に帰れる者もいれば、一生帰れない者もいた。公的な刑罰ではないけれど、座敷牢で死ぬまで飼い殺しにするようなことも行われた。
現代の人権意識からすれば流刑や座敷牢が非人道的なのは間違いないが、行われた当時はどちらも「殺すよりはマシ」な温情的刑罰・措置であったはずだ。保岡法相の「終身刑は日本文化になじまぬ」という説には大いに疑問がある。

そもそも「死刑の代替としての絶対的終身刑」を批判すること自体が「藁人形論法」なのかもしれない。
死刑を廃止・停止した国の多くで「仮釈放の可能性のある終身刑」が最高刑となっているそうだ。日本では「絶対的終身刑」導入を目指す動きがあるけれど、死刑廃止・停止派のなかで必ずしも主流ではない。「死刑か、絶対的終身刑か」という二者択一の論法はレトリックの罠である。

終身刑 - Wikipedia
仮釈放の可能性のある終身刑
終生という刑期の途中で、仮釈放による社会復帰の可能性があるものをいう。相対的終身刑(相対的無期刑)と呼ぶこともあり、ヨーロッパにおいては、多くの国でこれが最高刑となっている。

日本における絶対的終身刑の論議
日本においても、死刑廃止論に関連して、死刑の代替刑として絶対的終身刑の導入が議論されているが、死刑存置派の一部から「人を一生牢獄につなぐ刑(絶対的終身刑)は最も(緩慢な死刑であり)残虐である」といった意見[1]や刑務所の秩序維持や収容費用といった面からその現実性を疑問視する意見[2]もあり、国民の大多数の支持を得るには至っていない。

終身刑と無期刑
終身刑とは、刑期が終生に渡るものをいい、その刑期の途中での仮釈放の可能性がなく一生を必ず刑務所で過ごさなければならない刑のみを終身刑と呼ぶわけではないが、日本では仮釈放の可能性のない終身刑(絶対的終身刑)のみが終身刑と認識されることが多く、このため、「無期懲役は期間の定めのない懲役であり、終身刑とは別のものである」といった誤解が生じている。しかし、無期懲役の「無期」とは「期間を決めない」という意味ではなく、「満期が存在しない」という意味であり、満期が来ることがない以上、刑の執行は終生に渡って続くため、言葉の本来の意味としては、両者は同じである[6][7]。

同じ刑罰であっても、アジア圏のそれは「無期懲役」と訳されることが多く、欧米のそれは英語の life などに相当する語句が用いられているため「終身刑」と訳されることが多いことも、誤解や混乱を招いている一因である。



保岡法相は死刑の代替としての絶対的終身刑について「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」と言ったそうだが、海外で自分の言葉がどのように報じられるか想像しなかったのだろうか。
死刑に批判的な海外メディアが「日本の法相『死刑は日本の文化』と発言」という見出しをつける可能性は高い。厳密に言えば誤解なのだが、かといって完全に間違っているわけでもないのが厄介だ。
10年ほど前に石田純一が「不倫は文化だ」と発言したとされて大いに顰蹙を買ったが、あれも実はマスコミによる歪曲だった。

石田純一 - Wikipedia
1996年10月、自らの不倫を非難するゴルフ場での芸能レポーターの取材に対して「文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある」と発言、この発言がマスコミによって歪曲され「不倫は文化」発言として報道される。そのため石田自身は「不倫は文化」とは言っていない。

一度誤解されるとその影響を完全に消すことはできない。石田純一もいまだに「不倫は文化だ」と言ったことにされている。
「死刑」と「日本文化」のイメージを重ね合わせて伝えられるのは非常にまずい。「日本文化」は今や大事な輸出商品なのである。死刑という「多くの国で残酷な刑罰として否定された制度」を、繊細で美しい「日本文化」と結びつけるのはネガティブキャンペーンに等しい。
せっかく日本のマンガや料理、「カワイイ」ファッションやオタクカルチャーが輸出商品として育ちつつあるのに、「死刑は日本の文化だ」と誤解されるようなことを政治家に言ってほしくない。悪質な営業妨害だ。


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (南郷力丸)
2008-08-04 02:36:38
 日本語の「文化」の用法には、刺身包丁・出刃包丁・菜切包丁の役割の「文化包丁」、炊飯にも煮物にも使える「文化鍋」と、本来ではないが万能という意味があります。なので「文化論」も本来ではないけれども、万能なのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2008-08-04 08:49:45
いや、別にかまわないと思いますが
返信する
Unknown (Unknown)
2008-08-04 23:21:17
> 「死刑」と「日本文化」のイメージを重ね合わせて伝えられるのは非常にまずい。
> 「日本文化」は今や大事な輸出商品なのである。死刑という「多くの国で残酷な刑罰
> として否定された制度」を、繊細で美しい「日本文化」と結びつけるのはネガティブ
> キャンペーンに等しい。
> せっかく日本のマンガや料理、「カワイイ」ファッションやオタクカルチャーが輸出
> 商品として育ちつつあるのに、「死刑は日本の文化だ」と誤解されるようなことを
> 政治家に言ってほしくない。悪質な営業妨害だ。

ま、同じ事がクジラ論争にも言えるね。でも、あまり影響受けてない。
と云うか、そんな程度で妨害されるようなヤワな文化なら自ずから自然消滅するだろう。
つうか、これからの大口儲け先である中印にはウケが良いから絶好の販売促進になるかも
返信する