イコールの橋 くれはやし・しゅん

生きていくことの大切さを多くの若者に伝えたい!
そして、一緒に平等の橋を渡りたい・・・。

不倫は公序良俗に反しているか?

2006年09月30日 | 身辺雑記篇
2ch経由で、ニュース23の今月から登場している、山本アナの不倫騒動に、いろいろなコメントがきているという話。

ノールウェー人と日本人のダブルブラッドの中で生きてきた、山本さんを、私は応援したいと思うのです。

そんなことをいうのなら、朝日新聞の校正係をしながら、節子さんに一銭も送金せず、夜な夜な歓楽街に出入りした石川啄木は糾弾されねばならないし、大泥棒であったジャン・ジュネは鉄槌をくだされねばならない。

ちゃらんぽらんな生き方をしていても、世の中のことをきちんと見ている人もあれば、まじめな生き方をしていると他人から評価されていても、世の中で生成している社会的な事件にほおっかぶりして、我関せずと生きている人もいる。

ようは、その人が、ガラスの中の嵐をまともに受けたときに、「人生に相渉るとは何の謂ぞ?」とみずからに問いかけることができるかであろう。

モナさんの眼は、生きている。まあ、恋する女の真剣さがなくて、なんの報道ぞ。

ヒマラヤスギの値段2

2006年09月30日 | 身辺雑記篇
おっとーおっとー、おっとーぷれみんじゃー。
こう書いても、だれもしらん。悲しみよこんにちは?

なんていうのは、もうだれも読まんし、映画もみりゃせん。

おっと、すみませんでした、ヒマラヤ杉はヒマラヤシーダーともよばれて、大きな松ぼっくりのような種が、できる。

同僚に、この木の値段っていくらぐらいと思う? と尋ねると、いろいろな返事が返ってきた。

5万円、10万円、100万円、200万円。

「よし、正解者には、このヒマラヤスギを進呈します。」とかおおぼら吹いてたら、数学の教師が、「50万円」とかほざきなさる。

ぴんぽーん、卓球。「正解です。」

では掘ってもってかえってください!

(持って帰るためには、クレーン車がいるし、掘るためにはプロ必要だし、そんなんやこんなやで、50万円以上のお金を出して移植しなければならないというわけ。)

縄文杉を、自分の庭で観賞したいという大金持ちはいるのだろうか?

写真添付します。

みんなでお好み焼きを作る

2006年09月30日 | 身辺雑記篇
子供たちと、集会所でお好み焼きを作る。美味である。

むかし、大阪に住んでいたOさんが腕をふるう、現在、生涯学習課の嘱託職員のOさんは、すてきな女性である。(女性コーラスの活動もしている)

だれにもこだわりがあって、Oさんのこだわりは、「天かす」と「紅ショウガ」である。

大阪では、たこ焼きやお好み焼きを、ご飯のおかずとして食するとかや。げに、あっぱれな胃袋である。

「食育」という奇妙な言葉が、発明されて、いろいろなチャレンジが始まっているが、ようは、おいしくいただくということが基本にならなければならないはず。

こどもたちも、大喜びで、お好み焼きとたこ焼きをほおばる。にこにこしている。

ちなみに、私は「大牟田お好み焼きクラブ」の会長である。大牟田はお好み焼き屋さんが多い。

大牟田では、お好み焼きのことを「だご」と呼ぶ。
また、人を殴る行為を、「だごにする」という。

あははは、方言は楽し。

大衆芸術

2006年09月29日 | 身辺雑記篇
葡萄狩りに田主丸まで行った。
よか天気。しかし、かなりの巨峰は、台風のせいで、落下していた。が、まあ、ワイン工場の見学や、葡萄棚の下でのバーベキューなどがあり、参加者は皆、喜んでいた。(企画する側は大変やけどねえ)

帰りのバスの中で、俳句をかいてもらった。

30人くらいのひとから、渡してもっらた俳句を清書して、15人くらいの選者に選んでもらった。

最優秀賞は、

「葡萄狩り日頃のストレス吹っ飛んだ」であった。

これでは、桑原さんがいうように、第2芸術とよばれても、しかたなかろう。

大衆的な芸術の底上げが大事なのではなかろうか?

江戸文化まで回帰せよとはいわないまでも、芭蕉のわびさびは、理解して欲しいとも思う。

破戒百年(1)

2006年09月29日 | 身辺雑記篇
中西和久さんが、「破戒」を演じる。声は、三国連太郎さんである。

「破戒」が出て、百年。今年は記念すべき年である。だから、真面目に「破戒」を読む。

でも、いまどき、「破戒」などは、ほとんどの人が読んでいないのではなかろうか?

もったいない話ではある。

ドナルド・キーンさんの本を読んでいたら、こんな風に書いてあった。

「破戒」はもちろん、父親の「を隠して生きよ。」ということが、テーマであるが、むしろ、藤村が描きたかったことは、秘密を白状する経過にあって、藤村は自己内部の問題を仮託しながら、この小説を書いた、というのである。

ドナルド・キーンさんは、いみじくも「被差別の解放の問題」が主要なテーマではなくて、人間内部に巣くっている葛藤の剔抉こそが重要なのであると喝破したのであった。

キーンさんの指摘は、ある意味においては、「破戒」のひもときに、役に立つ様な
ヒントである。

この項、つづく

すこし、時間をくださいな。藤村全集を買って、30年がたった。やっと、全集が役に立つ。


不勉強ということは・・・。

2006年09月29日 | 身辺雑記篇
廊下をすれちがうと、真面目な人は、「教育バウチャー制度」とは何ですかと、私に聴いてくる。

不真面目な人は、どうでもよいという、給料ドロボーが多い。

1955年、アメリカの自由主義経済学者、フリードマンが考えた「教育切符制度」がもとになっている。

アメリカでは、GI法案などができて、連邦政府が、帰還した復員軍人の中・高等教育への参加を促した。1950年代から60年代のアメリカの高等教育への大量のなだれ込み、拡大は、この教育バウチャー制度のおかげである。とかなんとか、知ったかぶりをしていうのだが、ほとんどは、藤田英典先生の、受け売りである。
藤田先生ごめんなさい。

先生には、教育テレビでしかおめにかかったことがない。感謝です。

ナマケモノについて

2006年09月27日 | 身辺雑記篇
ナマケモノは南米にいる。
体重は7キロくらい、1日をハッパを2,3枚食べるだけ。
すこぶる省エネルギーである。
ウンチも、1週間に1ぺんくらい。
森の哲人といわれているし、貧歯目で、ミツユビナマケモノ、フタユビナマケモノがいる。

体は長い毛で覆われているが、背中などは緑色のコケがはえていて、それが樹木の間で保護色になっている。ほ乳類であるが、体温が不安定である。体温は24℃から33℃である。動かないために汗もかかない。そのために、ナマケモノは、動きが鈍い。長い間、このような生き方であるから、独立独歩ではある。

元杉浦法相の話

2006年09月26日 | 身辺雑記篇
杉浦さんは、真宗大谷派だとか。

在任中、死刑執行に法相の印鑑をおさなかった。森山さんとはおおちがいであるが・・。

残忍な犯罪がおおくなると、抑止力としての「死刑」が声高になってくる。

しかし、現在の少年たちの凶悪犯が、すごく増えているという報道がまことしやかに、ささやかれているが、本当にそうであろうか?

1960年代の少年犯罪は、今よりも、もっと凶悪な犯罪が多かった。(これは統計を見れば、たちどころに分かるはずである。)

「私は死刑をしません。」と法相になった瞬間、杉浦さんは抱負を述べた。

マスコミは、いきなりこれを取り上げ、バッシングが始まった。

杉浦さんは、これを日本的な日和見現実主義の表現方法で、かわしていった。

職務遂行の問題として、きちんとしますが、私の個人的な考えでのインタビューでの発言でした・・・と。

杉浦さん、お疲れさまでした。私は、このブログで、杉浦さんへのオマージュを以前書いたが、裏切られることはなかった。

最近、「死刑判決」が相次いでいるが、「目には目を」のハンムラビ法典ではないが、「どうぞ、犯人を死刑にしてください。」という声が、方々からあがる。

殺すことを前提とした制裁願望が、暴力的であるとかの話をしても、所詮、部外の者の遠吠え。相手の生存を根絶やしにしなければならない人間の苦悩を、どのようにとらえればいいのだろうか?

まず、私たちは、死刑に加担していないと、考えることから回帰して、もういちど、死刑執行の加担者を、この日本に住むすべての人がになわなければならないということに気づくべきであろう。

なにも、刑を執行しているのは、刑務官のみではない。われわれが、罪人を執行しているのである。




日ハムの金村投手の発言

2006年09月26日 | 身辺雑記篇
謝罪が公式オフィシャルサイトに、掲載された。

要約すると、「大人げない発言で、ファンのみなさんに申し訳ない。」ということらしい。

投手も人間。感情のコントロールができないときもあろう。

本音で、選手もしゃべりたくなるときがあろう。あれはあれで、よかったのではないか?

何年か経って、「あのとき、あれは・・・。」みたいな話になると、あんましおもろない。

要するに、選手交代は、結果論に過ぎない。金村続投で勝っていたか、負けていたかはわかる道理はない。

つい本音が出るということをファンは期待しているのではないだろうか?

面白い野球というのは、なにもグラウンドの中だけであっているのではない!


当事者抜きの政策決定

2006年09月25日 | 身辺雑記篇
たとえば、「障害者自立支援法」に見られるように、なぜ、政策決定から、当事者が排除されるのか?

合理的な理由もないままに、不利益をこうむっている人たちや差別を受けている人たちを排除して、本当は参画してもらって一緒によりよい政策決定の現場にいなければならない人が、そこにいないという事実をいかように考えるかという問題がある。

当事者はここで、既得権者というラベルを貼られて排除の対象になるのである。
これを、プロバイダー・キャプチャーと呼ぶ。

「政府は、その集団のもつ既得権を理由に、政策に抵抗するであろうと予想されるすべての団体を、意志決定の場から閉め出すことができるのである。たとえ、その既得権が法的に認められていても、プロバイダー・キャプチャーという考えを出すことで、人々の考え方や視点というものが、すべての社会の利害と強く結びつけられ、ある事実認識が妥当かどうかをめぐる判断は、合理性という通常の基準ではなく、その認識がどのような人々の利害を代表しているのかということに依存しているとみなされてしまう。」(ローダー2005年)

現在のところ、「障害者自立支援法」に抵抗する側に、「未来社会像」がないところが弱点であり、単なる現状維持を主張するにとどまっている「福祉擁護派」に対抗して、保守派が将来に対する明確なビジョンを打ち出してきて、大胆な「改革」の必要性を力説しているというのが、最近の現状なのである。

さて、分析はここまで。
当事者の意見や考えを政策決定に盛り込むための条件整備を、どのようにして獲得するかが、これから問われている。

理想主義を放棄しないために

2006年09月25日 | 身辺雑記篇
人間の顔をした社会主義ということばがあった。

しかしだ、「社会主義」、あるいは、「共産主義」と言った瞬間、その手あかに汚れた言葉が連想するものは、マルクスであったり、レーニンであったり、毛沢東主義であったりするのである。あまりにも、二次的副産物的理念が、亡霊のごとく付加してつきまとう。

だが、現在の格差社会を是正(廃棄、あるいは死滅)するためには、アメリカのように、格差を肯定する社会状況を作らないようにしなければならないことはいうまでもないが、いま、求められているのは、格差社会を肯定しないような哲学を構築することである。

まず、乗ってはならないことは、格差社会が良いのかどうかの、2者択一式の選択の問題として、この問題を捉える狭量な哲学の跋扈である。

フーリエ、オーエンは、空想的と評価されたが、人間は、自由と解放のために、その持っている全エネルギーを注ぎこまなければならない。

かつて、石川啄木は、目の前の格差社会のキーワードを、「時代閉塞」という言葉に収斂した。

新しい理想社会を実現する能力を、人間は持っていると考えるのかどうかが、私たちに、問いが投げかけられている。

人類は長い時間をかけて、この世の不平等をなくすために、努力してきたと思う。「人権」という言葉も、「核廃絶」という言葉も、格差をなくすための闘いであった。

階級の問題を最近は、話題にのぼらせないようになったが、すぐれて階級の問題は、不平等是正の問題でもある。

金持ちに産まれたならば、ほとんど苦労もせずに、学歴・財産・快適などを、ただで享受することができる。

しかし、貧しい階級に産まれたならば、その出自が、ほとんどすべて貧しさのサイクルに回帰する。

まれに、マドンナのような階級を突如として離脱するような自由主義社会の申し子もいるにはいる。
が、マドンナも自らを「私は絶望の女王よ。」と語っているわけであるが、それは階級離脱の、緊張感の裏返しでもある。

幸せに暮らすと言うことは、並大抵ではない。








地味な話

2006年09月24日 | 身辺雑記篇
TV番組で何が、一番好きかと問われたならば、こういうけどね。

「世界の車窓から」です。

地味も地味。しかし、石丸謙二郎さんの語りに、ファンは多いはず。

20年近くになっているのではないか?

地味中の地味。でも、好きなんだなあ!この番組。

ずっと、続いて欲しい番組である。

生きる力シンポジウムに行く

2006年09月24日 | くれはやし・しゅん 疾風怒濤篇
東大の広田照幸教授の(新自由主義の教育改革に抗し、公教育の再生をめざして)という 講演を聴いた。昨日のつま恋コンサートは 即日完売で四万人くらいの人が、かぐや姫や吉田拓郎を見に? きたはずである。この人たちは 戦後の民主主義教育の恩恵を受けた世代である。 改悪されるかもしれない 教育基本法に 歯止めをかけるのは、この世代であり、つまり団塊の世代は つま恋の切符を買う人であり、フォークに血の道をあげた団塊の世代は 自由と平等を重んじる集団であるはずなのである。