イコールの橋 くれはやし・しゅん

生きていくことの大切さを多くの若者に伝えたい!
そして、一緒に平等の橋を渡りたい・・・。

散らかし屋

2005年06月29日 | 身辺雑記篇
  1. 私は、妻と長男と同居している。しかし、疎まれてもいる。 妻と息子は、遊牧民の血を受け継いでいるらしい。私は、農耕土着民族の血を引いている。 私は散らかし屋で、妻と息子は、いつでも、手軽に移動できるように常に、身の回りは清潔で、あまりごたごたと、物を持っていない。 私は、ものぐさで、なんでも、取っておくタイプ。やはり、同居するのが、なかなかむつかしい。 昨日も、夜遅くメールが階下に寝ている私に届いた。「明日は、朝早く起こさないで。遅くまで眠りたいから・・・。」 2階で寝ている妻からだった。

新しい学校の校舎へ登る

2005年06月28日 | 身辺雑記篇
大牟田市は、吉野。ここへ総合学科の「ありあけ新世高校」ができて、はや3年目。
やっと、校舎もできあがりつつあり。まだ、工事中ではあるが、完成した本館管理棟へ登る。1年2組の教室。五階である。エレベーターがついている。障害者も学びに来ることができる。よしよし。
眺めはよし。運動場の向こうに、甘木山県立公園が見える。
ちょうど、テスト中で、生徒さんは、だれもいない。クラブ活動もなし。

職員室横の、テストの一覧表を見ると、
「パン職人の技、ペット入門」????

まあ、選択科目の多い総合学科だから、このような試験もありか?

カボチャの花

2005年06月28日 | 身辺雑記篇
大きくて、どうどうとしていて、くっきりと黄色なるかぼちゃの花。圧倒される、かぼちゃの花のおおきさといったら、地球を思わせる花だ。
まあ、義父に言わせると、戦時に、かぼちゃばかり食していたから、かぼちゃだけは、ごめんこうむりたい、ということであった。かぼちゃの花の天真爛漫さが好きだ。

ガーデニング

2005年06月26日 | 身辺雑記篇
私の通っている教会は、大牟田フレンドシップキリスト教会という。
牧師先生は、叶 昌全牧師である。
牧師は長いこと患って、目が見えない。糖尿である。また4年ほど前からは、脳梗塞を患って、車いす生活を余儀なくされている。下半身不随であるが、力の限り、命の限り、献身しようとの見上げた覚悟である。
教会の前の民家には色とりどりの美しい花々が咲き乱れている。
そこの奥様が、信者でもなんでもないのだけれど、教会の入り口に、花を飾ってくださる。ありがたい。
汝の隣人を愛しなさい。感謝はつきない。

最中を食べる

2005年06月26日 | 身辺雑記篇
大牟田市は橋口町に小さな和菓子屋がある。
中学生の、インターンシップを積極的に受け入れてくれる、ちっちゃな町の菓子司である。
腕はいいが、お客さんは、あんまし多そうではない。
第15回の全国菓子大博覧会にて名誉大賞牌を受領したくらいだから、品質は保証済み。
私が食べたのは、「不知火最中」と食べやすい「どら焼き」である。

大牟田市橋口町4 (有)相川総本舗 電話 0944-52-3470

ミスッテックリバーを読む

2005年06月26日 | 身辺雑記篇
おおかたの人が、この映画には、救いがないという批評であった。
概して、日本人というのは、結末が、ハッピーエンドを期待しがちだし、私だって、ハッピーエンドであれと、願って映画を見る場合が多い。
読書もそうだ、やはり、読後感というものがよくないと、本を読んでもつまらない。

この映画は、キリスト教の下地がない日本人には、あまりにも暗い、救いが無いという風に、とられるのではないだろうか? 
日本でいえば、因果応報の輪廻感が下敷きとして、全編を覆っているのだが、それはアメリカと日本の微妙にちがう宗教的風土を理解できない限り、分かりにくいものではないだろうか?
そもそも、日本人には、欧米人の抱く原罪意識が欠如している。
映画を見るのか、それとも、映画を読む解く作業をするのかで、評価の在り方もちがってくる。
この映画は、見る側のたしかに、成熟を要求される映画である。
経験知に従って、映画の見方が変わるということもあり得る。

自らの人生と他者の人生を重ね合わせて見ぬ限りにおいて、この映画は何も語りかけてはくれぬのである。玄人好みの映画ではある。

大村はま先生

2005年06月26日 | 教育批評試行
ブラジル対ドイツのコンフェデ杯を見ながら、チャンネルを変えつつ、スカパー!で「ミスティック・リバー」(監督:クリント・イーストウッド、主演:ショーン・ペン、ケビン・ベーコン、ティム・ロビンス)を見て、昼からキリストの偉大な生涯「キング・オブ・キングス」を見て、今、大村はま先生の、御著書をひもとく。 『教室に魅力を』(国土社刊)を読む。オビを紹介する。 「教室に魅力を」これは私の願いである。そして、この本を読んでくださるかたがたに、呼びかけて共にしたい願いである。 大村さんの願いは、「力の弱い子を救い、力のある子も生き生きとして学び、語り合い、豊かな力を出し、頬をほてらせている教室」なのである。 大村さんは、教育界の泰斗であり、爪のあかを煎じて飲むしかないが、また、大村先生の最盛期、40を過ぎても、1週間に27時間の国語の授業時間を持っていたとか、すらりとおっしゃるのを見ると、なかなか浅学非才のわれわれは、近寄りがたく雲上人である。大村単元学習恐るべし。 点鬼簿に入った大村先生の最後の言葉は、「教えひたり、学びひたる」という言葉であった。

良書はこころのビタミン剤

2005年06月25日 | 身辺雑記篇
現代日本の哲学者で、いま一番の旬は、池田晶子さんと、西 研さんであろう。
そのニシケンさんが、教育学者の苅谷剛彦さんと共著で出した本がこれである。
本のタイトルは『考えあう技術』(サブタイトル:教育と社会を哲学する)筑摩書房、780円である。
本の紹介をするよりも、まず読みなはれ!としかいいようがない。

本のオモテ表紙の文言を紹介しましょう。
「・・・知識というのは共有を前提にした情報であって、しかもそれは教えあったり学びあったりすることもできる。いわば「考えあう」というようなことが・・・・。

良書は悪書を駆逐する。

水田讃歌

2005年06月25日 | 身辺雑記篇
水が張られた田圃は好きだ。
まだ、生物が見あたらないが、もう少し過ぎると、いろいろな生物が、田圃の中で動き出す。
水の張った田圃の上を通り過ぎてくる風は、本当に涼しい。ヒノヒカリが植えられている。
満月が映る田の面もすがすがしい。

野球少年たちの健闘を祈る!

2005年06月25日 | 身辺雑記篇
野球小僧というのは無礼。
野球少年たちである。日焼けした顔、大きな声、グラウンドに巻きあがる砂埃。
今時は、甲子園を目指して、どこの高校生も、白球を日暮れまで追っている。
三池工業高等学校は、いまから40年ほど前、甲子園で優勝したのである。
その当時に生まれたお父さん・お母さんが産んだ子どもたちが、今、高校生となって、甲子園を目指しているのだ。