「上関原発をストップ!」ー 広島、山口・柳井から祝島へ。そして自分のこと

2011年02月25日 | 脱原発

昨年の11月末、広島、柳井を経て、山口上関田ノ浦、祝島に行った。
左の写真は祝島から見た瀬戸内の朝焼け。右は夜の広島原爆ドーム。
65年前に火の海と化し、その中に多くの人が身を投げた川に、祈りの
塔のように白磁の光を水面に映していた。





ドイツで暮らすようになって約30年。
日本にもドイツにも社会的に帰属することなく、世の中で起こる
ことを横目で見ながら、毎日の多くを傍観者として生きている。

何故、今、祝島の人達に関わろうとしているのか。上関原発反対に
関わろうとしているのか。

日本で今起きている理不尽な社会的行為、市民に対する資本・権力の
明らかな抑圧に対して、何故、これほど多くの人達が無関心なのか。
それに対して何故、自分が大きな違和感を持つのか。
下記は、そのようなことを自分に問いかけながら、今後のために
書き記した文章です。



(田ノ浦の原発予定地。現在、強行工事が進められている)



今、リビアでは次々に人が殺されている。

人は「正義」の名の下に、人の生活を奪い、命を絶つことが出来る。

世界では、この瞬間にも、何人もの人が生まれ、死んでいく。
僕の生命もその中の一つ。

だからこそ「正義」や「暴力」や「独善」、無力感にさらされて
生きていきたくはない。
日本でもドイツでもそういう時代があった。
僕は根が臆病だから、子供の時からそのことが
とても怖かった。

それでも正直に言うと、
涙が流れ出すような、体が揺さぶられるような感情は、
僕の生きた想像力は、リビアまではとどかない。

自分の父、母が生まれ育ってきた日本、その自然。
自分の生命が直接つながる祖母、親戚。
僕の生まれる前のこと。
会うこともなかったその人達。
日本と米国、二つの国家の「正義」の下で
夏の日に突然、焼け死んだ。

生涯訣別した父。それでも自分の中に流れる血。
父親が生まれ育った広島、山口、柳井の土地。
瀬戸内海、上関田ノ浦の海岸、祝島の人達。
ここで今、再び「正義」や「独善」が沢山の命を、
海を、島を、人の暮らしを奪おうとしている。

日本は壊れた国だと思ってきた。
本当にそう思っている。
でも、なんとかあきらめずに声を上げよう。
僕達の毎日は、本当は過去にも未来にも
つながっているのだから。
子供達に伝えよう、人々に声をかけようと思う。

無力感に流されないように、
毎日しっかり早起きし、ご飯を作り、
毎日、少しの声を上げよう。
そこから次の一歩が始まる。
そして、また次の一歩が踏み出せる。

僕たちの生命が良いことを残せるように。





随想ー「壊れた国の男と女」

2011年02月10日 | 随想
ある夜、日記を書こうとしていると、幾つかの言葉が数珠を
つなぐように自分の指の先から流れ出していた。

その後、最初の想いの先を探りながら、少しずつ書き加えたり、
時々横に置いて眺めたり、消したりしている内に、散文と詩の
合いの子のような奇妙な文章が生まれてきた。それでも、
自分にとっては、一つの意味のまとまりになったような気がする。





「随想ー壊れた国の男と女」

街に住む女の人たちは、誰もが知らない過去を持っている。
時々、箪笥や抽斗から取り出して、まるで
懐かしい古い着物を眺めているよう。

可愛い話ぶり。素敵だね。
僕なんかは遠い春のことばかりが気にかかる。

互いを呼び合う声の中、自分の声だけを聴いている。
夏の緑、雪風。背中合わせの声。
壊れていなかった過去が、壊れていなかった国が
あったかのよう。

僕達は建前と本音の国。
僕達は壊れた国の男と女。
壊れた国に、見果てぬ夢だけが留まるのだろうか。

男も女も一緒になって、壊してきた。
夏の緑や人の結びつき。

玉葱を剥くこと。生きること。
壊れた国にある希望と絶望。

2011年1月、パリでのメモ

2011年02月03日 | 随想
先週、フランスの出張から戻ってきた。
その時々の断想の枠を出ないが、自分にとっては大切な考えの
メモである。このようなことを落ち着いて考え、行動を伴って
深めていくことが中々出来ない。
僕の日常の中の大きなジレンマである。
小さな一歩であっても、ともかく書き留めておこう。

2011年1月20日(木)パリで今日から仕事



もう夜の7時。メッセ会場から地下鉄の駅に向かう途中。
何故こんなに寒いのだろうか。
先週はつかの間の春。今日、また冬の大将軍が舞い戻って来た。
どこにいても足元から寒気が這い昇って来る。

たくさんの国々の人が集まるヨーロッパ。此処が僕の住むところ、
住んできたところなのだろう。どこか、日本よりずっと見慣れた
風景にも思える。

日本の暮らしから離れて約30年。ドイツにいても日本にいても
異邦人であることには変わりがない。その土地や言葉にいくら
馴染んでも、帰属感がない。自分の居場所がないという感覚が
常につきまとう。





日本にいても親近感と疎外感は常にないまぜでである。自分の国で
ありながら、ほぼ全てのことが他人事である。何処にいても傍観者
として、孤独な観察をしていることが多い。

ここ数年、このことを考えることがよくあった。ドイツと日本、
二つに一つ、これからの人生をどちらの国で送るのだろうか。
そんなこともよく考えていた。この問いかけが最近、自分の中で
違う表現を取るようになった。
昨月のノートにはっきり記されている。「二つの国に住もう。」





このメモには自分でもまだ、具体化の内容がともなっていないと思う。
けれでも、指し示すところは明らかだ。
このことを毎日イメージし、それに従っていこう。


2011年1月24日

朝10時。メッセ会場に向かう途中。
パリは生活者の視点からは決して綺麗な街とは言い難い。
むしろ、荒んだ雰囲気や汚なさがあちこちで目につく。

花の都パリ。遠く明治の昔から多くの日本人の強烈な憧憬、羨望の
対象だった。西欧文化の広大な山脈の中、ひときわ高く聳え立つ。
まことに富士山のような存在である。

遠景の中に浮かぶその姿は高貴、優美にして雄大、豪壮。
全ての人を魅了する。近づけば、近寄り難し。
美しきその姿は火山石の塊、緑の麗しさなく、荒々しく、
灰色の岩石が連なる。悠久の歴史の中、マグマの躍動が風化し、
永遠の時間の中に風化したようである。

バリの街にも随分とその様なところがある。
もう歴史を動かす街ではない。社会の旧弊や硬直化。
相変わらずの階層差と社会的な分裂。歴史的没落の過程。
成熟した文化が暗い闇を秘めながら、長い夕闇の中で
その残光を輝かしている。

昨年の10月、パリに行った時にも折に触れてそのような考えが
浮かんできた。似たような印象が強かった。
ツイッターにも下記のような記録を残している。

「フランスの美や理想は、ちょっと威張るのが得意。
昔も今も多くの人がほだされる。千両役者だ。少し用心
した方がいい。」

「パリ北駅の夕景。外から見ると本当に美しい。
過去と現在、光と陰の姿。
ヨーロッパの文化は美女と野獣の積層体のように思う。
フランスはその中でも香水の国。芳香は淫靡なもの。」





「秋の陽光に輝くセーヌ川。 栄光の残照。この絵葉書の風景を
支えたのがパリの貧民街やアジア、アフリカの植民地だったのだろう。
現在の僕達の暮らしの中でも、このようなことは所と形を変えて
繰り返されている。日常生活の中で直接関係していないようでも、
僕達の営んでいる日常が、構造的な搾取の側にあることは確かである。
僕達の同時代者としての責任もそこにある。
傍観者として、無力な一市民として何も出来なかった、ということは
繰り返したくない。」





「大正の昔、フランスの西欧文化がまだ隆盛を極めていた頃、
それに身体の芯までほだされながら、常に反発を感じ、死ぬまで
違和感を抱き続けた画家も居た。その葛藤自体が彼の半生の
アイデンティティだったのだろうか。
雪国秋田の出身。その名を藤田嗣治と言う。」