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富山城へは十二年振りに訪れる。以前訪れたときには、昭和29年(1954)富山産業大博覧会記念構築物として築造された模擬天守も老朽化が感じられたが、その後に行われた耐震補強と国登録有形文化財化によって生まれ変わっていた。
製鉄、新田開発、製薬を奨励した、二代正甫の像
富山城は室町時代に、畠山氏臣神保長職(ながもと)によって築城された。然し、永禄三年(1560)越後上杉謙信により神保氏は富山城を追われ、富山城は上杉氏と一向一揆の戦いの拠点となった。天正六年(1578)長職の子神保長住が織田信長の臣になることで富山城に入城することになるが、天正九年(1581)長住は上杉方に内応した家臣に背か失脚し、代わって五十四万石で佐々成政が入った。
千歳御門 嘉永二年
関ヶ原以後、越中全体が与えられた前田利長は、城郭の改修を行い金沢城から移り住んで隠居城とした。然し、慶長十四年(1609)建物の大部分を焼失したため、高岡城を築き移り住み、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。寛永十六年(1639)加賀藩第三代藩主前田利常の次男利次に十万石を与えて分家させ富山藩を興す。万治四年(1661)再城郭及び城下町を改修し、前田氏十三代(正甫、利興、利隆、利幸、和興、利久、利謙、利幹、利保、利友、利聲、利同)の居城として明治維新を迎えた。
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