(1988年11月7日の日記から)
東名高速を西へ向かう。米原JCT以西を通行するのは18年振り、つまり大阪万博以来ということである。然し記憶は無い。
完成して間もない西宮名塩SAで一休み、そして中国道を縦断。この辺りは6車線工事が進み、渋滞対策が進んでいる。
美作ICを降り、吉井川を下って最初の訪地、岡山城、後楽園に到着。
後楽園は貞享四年(1687)十二月、池田輝政が津田永忠に命じて着工した大池泉廻遊蓬莱様式の庭園である。
続いて濠として利用された「旭川」を渡り、別名「金烏城」といわれた岡山城へまわる。時間が無く天守には登城できなかったが、昭和41年に戦災復興された天守を眺めながら、当時の様子を感じ取った。然し現状ではかつての六十二万石の重みはそれ程無く、庭園の方に負けている感があった。
今夜の宿泊地、倉敷へ向かう。
東名高速を西へ向かう。米原JCT以西を通行するのは18年振り、つまり大阪万博以来ということである。然し記憶は無い。
完成して間もない西宮名塩SAで一休み、そして中国道を縦断。この辺りは6車線工事が進み、渋滞対策が進んでいる。
美作ICを降り、吉井川を下って最初の訪地、岡山城、後楽園に到着。
後楽園は貞享四年(1687)十二月、池田輝政が津田永忠に命じて着工した大池泉廻遊蓬莱様式の庭園である。
続いて濠として利用された「旭川」を渡り、別名「金烏城」といわれた岡山城へまわる。時間が無く天守には登城できなかったが、昭和41年に戦災復興された天守を眺めながら、当時の様子を感じ取った。然し現状ではかつての六十二万石の重みはそれ程無く、庭園の方に負けている感があった。
今夜の宿泊地、倉敷へ向かう。
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