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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

新城城

2008-01-15 01:00:44 | 城郭・城下町
(新城陣屋 愛知県新城市 市指定史跡)
 私が幼い頃から訪れている新城は、「山の湊」と呼ばれ、江戸時代にその政治的役割を担ったのが新城城(しんしろじょう)である。
 天正三年(1575)長篠の戦いで織田徳川連合軍が勝利し、長篠城主奥平貞昌は信長の一字を賜り信昌と名乗った。そして家康の娘亀姫を室とし、翌年新城城を築城した。
 天正十八年(1590)家康の関東移封に伴って、奥平氏は上野富岡へ移った。代わって新城は吉田藩領となり、池田輝政臣片桐俊元が新城城に入って、隣村石田村にも石田城を築いた。「関ヶ原」以後は天領となったが、慶長十一年(1606)尾張緒川より水野分長は新城城へ入城した。そして正保元年(1645)水野元網のとき上野安中に移封、新城は再び天領となったが、慶安元年(1648)には菅沼定実が七千石で入城、以後十一代定長まで菅沼氏が続き、廃城となった。
(1983年撮影)
 新城城は、豊川と田町川、幽玄川を自然の外堀とし、そして本丸周囲に堀と土塁を築いた城である。明治2年(1869)の廃城後は新城尋常高等小学校となり、本丸跡は運動場となった。そして昭和6年(1931)運動場拡張に伴って、北東部土塁を崩し、堀も埋められた。更に昭和22年(1947)には西部土塁を崩し、また堀も埋められた。現在は豊川付け根の東西土塁の一部が残るのみで、堀も豊川に面した側に痕跡を残すのみである。
  (大正11年建造の校舎)
 平成16年からは街路整備計画により、新城城裏門のあった、亀姫の墓のある大善寺前の道路拡幅工事が始まっている。
(大善寺境内1983年撮影)
(裏門跡2007年撮影)

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