梅様の教室

独り言

再び女子柔道について

2013-02-26 15:01:33 | Weblog
  今日の朝刊に、柔道の全日本女子前監督による暴力問題で告発した15選手が全日本柔道連盟の「柔道女子暴力・パワハラ問題「第三者委員会からの聞き取りの要請を拒否したとありました。
  先日委員長の笠間氏が就任に当たっての記者会見で、「この委員会は暴力問題の全容を徹底究明しようというものではない。」と発言していましたが、こんな風に言い放ってしまった以上、女子選手たちが第三者委員会頼むに足らずと判断したのもやむをえないと思います。私もその発言を聞いて、ああ、この人たちは程よいところでお茶を濁して痛み分けにする気だなと感じた位ですから、当事者たちがそれ以上に落胆したことは想像に難くありません。

  しかしそれでも私は思うのです。彼女たちは女子柔道の世界を改革したいという意識など皆無で、ただひたすら自分たちの身が守られればそれで良しとしているのだと。同時に選手側の代理人も、選手たちの言っていることをおおむ返しに伝えるだけで、改革の一翼を担おうという意識が感じられません。やる気のない当事者と、その下請けをしているだけの代理人、ほどほどで済まそうという魂胆が丸見えの第三者委員会では、今後も何一つ進歩はありますまい。

  女子選手たちが自分たちの身を守りつつ全柔連に何もさせない方法はただひとつ、以前にも私が書いたように、テレビ画面に15人が雁首そろえて登場し、堂々と顔を見せた上で自分たちが監督にされてきたことを逐一白日の元にさらし、全国民を見方につけてしまうことです。

  それをあえてしない理由はどこにあるのか・・・・。まさか、準強姦罪で有罪判決を受けたあの人のような出来事が実は全日本の前監督との間にもあったのではないか、それも一人や二人ではなく何人も・・・と疑念の念を抱いてしまいます。合意の上でとみなされ、自分達の名誉が地に落ちてしまっても仕方ないケースがなければ良いのだがと・・・・。これが思い過ごしであれば良いのですが、そうでもないと、ここまで逃げ隠れしなければならない理由が私にはわからないのです。

登山靴

2013-02-25 14:05:24 | Weblog
  
27回目の筑波山。雪はほぼ解けていますが、油断すると落ち葉や踏みつけられた薄い土の下が凍結しています。しかし明日くらいから最高気温が10度を超え出すので、もう時間の問題です。ただし遅めに行くと霜解けがひどいので、やはり融けないうちに下山という早朝登山には変わりありません。

  ところで、このところ私は膝に少々不安を抱えています。整体の先生からも山は膝に来るから気をつけるようにと警告されてはいるのですが、中断は即後退につながるので、そう簡単には休めません。

  写真左はアディダスのトレイル・ラン用のシューズです。御覧の通り、見た目はジョギングシューズそのものですが、ソールがやや滑りにくくなっています。しばらくはこれで筑波山登山をしていたのですが、このシューズ、登りは良いものの、下りに問題があります。底が柔らかいので、急な斜面(がほとんど)で着地した時、一度踵がぐっと沈み込みます。その際ふくらはぎに急激に大きな負担が来て、下山した後、部分的にかなりの筋肉疲労が残ります。走ってしまえばちょうど良い衝撃吸収になるのですが、岩が多く急斜面の筑波山を駆け下りる気には到底なれません。

  そこで購入したのが右側の登山靴。後で調べたら、筑波山で着用するにはもったいないくらいの本格仕様の靴でした。以前書いたように重いという点を除けば(実は左のシューズより500グラム重かった)かえってトレーニング効果が上がって問題ないと思っていたのですが、この靴、岩場での使用も視野に入れて、ソールが相当硬いのです。当然下り斜面でのショック吸収を靴に期待することができません。左のシューズの衝撃吸収力に合わせてガンガン下山する癖がついていた私は、地面からのショックをまともに膝で受け止めることになり、膝周りの筋肉に猛烈な疲労がたまってしまいました。今日も膝のすぐ上の筋肉はこりこりに固まっていて、階段を下りる時にやや不安を感じさせるほどになっています。

  そろそろ一日の内に続けて二回連続筑波山登山に移行したいのですが、この靴に慣れ切るまでは大事を取った方が良いのか、いっそ左のシューズで一気呵成にやりきってしまうべきか、迷いつつある今日この頃です。

知ったこと

2013-02-23 15:06:17 | Weblog
 いや、大した内容ではないのですが、この数日で知ったいくつかの事実から、人がいかに意外な思い込みや勘違いをしているかを知ったので、書いてみます。それぞれは何の関連性もない事柄ばかりですが。

  最も意外だったのは、楽聖ベートーベンのあの有名な曲、なぜか日本人がミーハー的にと言っても良いほど好むあの曲が、実はドからソまでの狭い音階の範囲で出来ているということでした。そう言えばうまい下手はともかく、私でもなんら無理なく歌うことができます。あの「喜びの歌」という曲です。名曲中の名曲と言われながら実は誰でも歌える音階だから毎年年末になるとあれほど大勢の人たちが集まって歌おうとするのですね。

  「さよなら、さよなら、・・・・もうすぐ外は白い冬・・・・」というあの曲も、歌っている本人が高音の持ち主なのでさぞや広い音域を駆使しているのかと思いきや、実はそんなことはないのでした。意外なことに、最も広い音域を駆使して歌っていたのは、ジュリーこと沢田研二がソロデビューした時に歌った曲だったのです。

  歌の話になったついでにもうひとつ付け加えると、洋の東西を問わず、大勢の人の支持を受けた曲に共通するある特色がありました。ラジオで言っていたことの受け売りなのですが、とある共通のメロディーが、良く売れた曲の出だしに多く見られるのだそうです。ラジオで挙げていた例とは違うのですが、「おどまぼんぎりぼんぎり、ぼんからさきゃおらんど」の「おどまぼ」の部分、「二人を夕闇が包むこの窓辺に・・・(加山雄三「君といつまでも」)の「二人を」の部分、「Love me tender,...」(エルビス・プレスリー「ラブミー・テンダー」) の「Love me」の部分・・・・・。いやあ、気が付きませんでしたね。

  もっと真摯な話に触れると、中学生の全国学力テストで日本一の件はどこか? 秋田県。残念ながら秋田県には高等教育機関が充実していないために、その後のケアが全くなされていません。秋田県・・・・学力日本一、美人の数も日本一・・・・。もっとなんとかならないものでしょうか・・。
  ちなみに秋田美人という言葉に違わず、秋田県にはこの上なく美しい女性がたくさんいます。日本人にありがちなのっぺりとした顔ではなく、それはそれは美しいのです。私は秋田県を旅した時に、「透き通るような肌」とはどんなものなのか、始めて実物を見て、思わず息を飲んだ記憶があります。関東以西に暮らしていたのでは絶対に見ることのできない種類の美しさです。

  最後に私の得意分野?朝鮮史から。韓国人は高句麗が何度も隋からの侵略を退けて隋が滅びるきっかけを作ったと自慢しがちですが、高句麗の歴史を見ると、実情は少し違いました。

  隋は、高句麗が隋の勢力範囲にちょっかいを出して来るので、こらしめのために30万という大軍を送り、一気に制圧を図りました。しかし、隋から高句麗へと向かう道中は食糧の調達が難しい地域である上、持参した食糧が腐ってしまったりしてどうにも思うように行かず、ほぼ全滅に近い状態で引き上げたのでした。すると高句麗は隋に対して使者を送り、以後このようなことはいたしませんときっちり詫びを入れます。隋はそれなら許してやろうと寛大な対応をするのですが、しばらくするとまた同じようなことを繰り返します。そしてまた同じように詫びを入れ、隋はそれを認めてやり・・・といいうことが繰り返されていたのでした。隋は信義を重んじる国だったらしく、百済が隋に使者を送り、自分たちが道案内をするから高句麗を攻めてくださいと申し出たのですが、隋は既に許すといったのだからそれには及ばないと百済の申し出を拒否します。
  つまり、高句麗は汚い言葉でいうなら隋とタイマンを張ってこれを退けた強国というわけでは決してなく、案外根性のせこい国だったのでした。

  全く脈絡のないことを並べてしまいましたが、要は常識と思われることでも時々角度を変えて眺めてみると、案外真実は他にあることに気がつくものだという、ささやかな感想でした。

西出雲町の出来事

2013-02-20 17:36:06 | Weblog
  少々ニュースとしては古くなりますが、先日島根県西出雲町という小さな町でちょっとした騒動があったことを覚えているでしょうか。そもそもは会社社長かなにかという人物が町に対する感謝の気持ちを込めて、古代ギリシャのダビデ像とミロのビーナス像(かなりでかい)を贈呈し、町がこれを町民が集まる公園のような場所に設置したことに発しています。これに対して町民の間から、素っ裸の像を誰からも見えるような所に建てられて困っているという苦情がかなり出て来たというものです。

  どちらの像も美術の教科書に写真が掲載されている全世界的にポピュラーなものではあるのですが、いざでーんと日の当る所に鎮座している姿を見ると、思わず眼をそらしてしまう人もまあ、確かにいるのではないかと思います。

  ただ今回の騒動の報道を見て感じたのは、これらの像は芸術作品なのだから問題ではないと主張する人の口ぶりの裏に、「芸術がわからない奴はこれだから困る。」という傲慢さと軽蔑の気持ちが透けて見えたのは問題があるということでした。

  私は不幸にして芸術を解さない人間なので、ダビデやビーナス像を見れば、芸術としての美しさを感じ取る以前に、真っ裸の男と女の像が立っていることに違いはないではないかと思ってしまいます。第一あれは古代ギリシャ人が考えた、いわゆる白人の体型の理想像であって、我々モンゴル人種には到底届かない姿です。あの像は日本のどこにおいても、風景に溶け込める代物ではありません。

  私が思うに、問題なのはギリシャ芸術を解さない住民がいることではなく、保守的な気風を持った田舎町にあんな外人さんの裸の像を持ち込んだ、会社社長という人のセンスのなさです。町に感謝の意を表したければ、他にいくらでも方法はあったはず。一番望ましいのは、感謝の気持ちを込めて何か形ある物を寄贈したいので、町として希望する物はないか、直接問い合わせることでした。さもなければ島根県という古事記の舞台になった由緒ある土地柄を踏まえて、スサノオの尊の像でも贈呈しておけば何も問題はなかったのです。

  芸術を解さない人はこれだから困るとでも言いたげに胸を張っていた人々の猛反省を促したいと思います。像の設置に反発した人には何の落ち度もありません。

私見:この種目はいらないのでは?

2013-02-18 16:10:20 | Weblog
Kさん、コメントありがとうございました。この騒動で国際レスリング連盟の会長が交代させられる騒動に至りましたが、果たしてガレリンの実力でレスリングの五輪復活なるかというところですが・・・。

  今回の騒動を考えながら、オリンピック種目について少々考えてみました。そして、数ある種目の中で、個人的に?マークが付くものを並べてみます。

  その最右翼がセーリング。大体海で行う種目は観客が見ることもかなわず、盛り上がりも身内止まりに終わるという気がしますが、セーリングなんて一体何をやるんだ?という人も多いはず。マイナー中のマイナー種目でしょう。何ゆえこの種目がオリンピックに存在するのかと思ったら、現在のIOC会長と副会長がこの種目の出身者なのですね。身びいきから採用しているならぜひ廃止していただきたいものです。これが廃止の候補にもならず、古代からの由緒ある種目を廃止するなど言語道断というものです。

  昔からあるものの中で私がなくても良いと感じるのは、馬術と近代五種。いずれも極めて限られた人間しか接することのないものです。いずれも選手自身以外の要素が大きく成績に影響するので、その意味でも本来の意味での競技とは性質が異なるものだと思います。その意味では射撃も廃止すべきだと思いますし、その仲間である冬季のバイアスロンもなくすべきでしょう。これに近い種目としてアーチェリーがありますが、アーチェリー選手の体つきを見ていると、他の種目の選手に見られるような、全身全霊を上げての鍛錬の跡が見られません。今回銀メダルを取った日本女子選手を見た時、思わずえー?と声を上げてしまいそうになりました。

  同様の理由で、実施予定であるゴルフについても異議があります。日本国内のツアーで優勝を重ねる韓国女子選手の体型を見ると、やはり肉体的鍛練の跡が見られません。第一、何とかプロ、という風に名前の後にいちいちプロをつけてアマチュアと区別して来たスポーツはゴルフとボーリングだけです。オリンピック種目にふさわしいとは思いません。

  次に廃止しても良いと思われるのはテコンドーです。テコンドーの大元になっている空手を採用するというならまだしも、テコンドーを引き続き正式種目として行い続ける意味が理解できません。この種目については全くナンセンスとしか言いようがないでしょう。

  その他に廃止しても良いのではないかと思うのは、テニス・サッカー・ビーチバレー。ビーチバレーは完全に色物に見えますし、テニスとサッカーはオリンピックよりも権威ある大会が他にあるのですから、無理にオリンピック種目に入れておくこともありません。

  冬季オリンピックで言えば、フリースタイルスキーは必要ないと思います。スノーボードのハーフパイプがあれば十分です。類似した種目は増やさずに整理すべきです。また、ショートトラックのスピードスケートも要りませんね。あまりにも実力以外の要素がからみ過ぎます。意図的にラストを滑走していた選手が、他の選手がもつれ合って転倒した隙をついて優勝したりするのは情けなさすぎます。
  
  また、カーリングも競技スポーツとしてはどうなんだろう?という気がします。肉体崩壊の一歩手前まで自分を追い込まなければならない他種目と比べると、何か決定的に不足しているものを感じます。選手には申し訳ないのですが、どこかレクリエーションの域を出ていないという気がしてなりません。
  ボブスレー・リュージュ・スケルトンといった種目も乗物に乗って滑るという点では共通しているので、3種目も行う必要がないのではないでしょうか。

  いずれにしても、IOC会長や役員の個人的嗜好が反映されたり、スポンサーの利益を優先しているのではないかと疑われるような種目の選択は止め、純粋に鍛錬した肉体の持ち主同士が公明正大に競い合うオリンピックであって欲しいと願わざるを得ません。

まだまmだ雪

2013-02-17 12:01:09 | Weblog
 本日の筑波山。下山途中の風景。まだ上の方はかなり雪が残っています。私は6時半に登り初めて9時前に下山を終えてしまいますが、私が下山した後からどんどん登る人数が増えてゆきます。雪の無いところが霜解けでぐちゃぐちゃになっていると思います。寒くても、登るなら夜明けと共にがベストです。

  今日もいつものおばちゃんたちとしっかりすれ違いました。何曜日に行こうが必ず出会います。彼女たちは絶対に毎日登っているに違いありません。印象的なのは、おば(あ)ちゃん3人組の後ろにはいつも同じおじいちゃんが一人続いていることです。一人だけぽつんと離れ、しかし御一行様の一人であると知れる距離で後ろを歩いてきます。元気にしゃべりまくるおば(あ)ちゃんたちの後ろから、申し訳なさそうにおずおずとついてくるのです。何が良くて・・・いや、一応毎回女性達と登山しているのだから良しとすべきか・・・・。しかし会話の輪にも入れず、どこから見ても疎外されたおじいちゃんにしか見えないのですが・・・・。

  話変わって、日曜日の登山は原則として嫌いです。理由がくだらないのですが、家からの道中で聞き流すのに適当なラジオ番組がないからです。「男は黙って文化放送!」という主義なのですが、日曜日の文化放送の早朝番組は、ズバリ「宗教の時間」なのです。仏教系の番組とキリスト教系の番組が立て続けに3つ放送されます。ちょうど家から筑波山までの時間ぴったりにこれが放送されています。土曜日は「千葉真子ランニングクラブ!」等、私向きの番組なのに・・・・。

レスリングが消える

2013-02-14 12:45:26 | Weblog
  KTSに勤務してK君の担任をするまではレスリングには全く関心がなかった私ですが、あれやこれやのいきさつから関心なしとはいかなくなってしまいました。当初はどうしたらポイントが入るのかすらわからないまま関東大会の引率をするくらいの無知ぶりでしたが、現在はレスリングの概観くらいはわかるようになっています。

  それにしても、古代ギリシャの元祖オリンピックから延々と命脈を保ってきた種目、かつ世界の大体の国で行われているレスリングという種目がオリンピックの種目から外されるなどと、いったい誰が想像できたでしょうか。I気がふれたのかと言いたくなるほどの狼藉だといって差し支えないと思います。

  大体五輪種目の中にはとうてい意味不明の種目が存在します。テコンドーなどただの空手の亜流れに過ぎず、見ていて面白いものでもありません。(これと空手を入れ替えると言うならまだ納得もいきますが。)更にくだらないと思うのは、ビーチバレーなる代物。女子選手は大きさが(小さい方向へ)制限されたビキニでプレーしなければならないという、ほとんど色物めいた規則に加えて、大方の選手は6人制バレーボールでナショナルチームに入れない、いわばあぶれ者ではありませんか。こういう文句をあげればきりがないのですが。

  つまるところ、オリンピックがその精神を失い、スポンサーの歓心を買えるような種目を中心に運営していこうという商業主義に毒されてしまったことが原因なのでしょう。アマチュアレスリングは確かに素人が見ていて面白いものではありません。なんだかわけのわからないうちに時間が来て、勝者の手が挙げられてしまいます。しかし、詳しく知ればなかなか面白いスポーツなのです。

  すべてがキャッシュに結びつく世の中。あの瀬古選手がかつてロンドンマラソンに出場したとき、招待選手ではなかったにも関わらず、申し込んで出場したら、400万円の出場料が支払われたといいます。今のところアマチュアレスリングの選手が試合をしたら400万円もらえたという話は聞いたことがありません。かつてカール・ルイスという選手は100メートルを一本走るだけで1,000万円の収入を得ていたとも聞きます。

  すべてが金銭に換算されて決められていく世の中では、夢はありません。オリンピックすら夢の世界でなくなるとしたら、人間の品性がとことん堕落したのだというしかありません。それとも、スポーツを通じて大金が稼げるということが夢といえば夢になるのでしょうか・・・??

Hさんのこと

2013-02-10 14:25:03 | Weblog
 だいぶ以前に少しだけこのブログにも登場したことのあるHさん。東亜学院の同級生です。年のころは30代半ばと思える女性。登校時に皆さんからかかる「おはようございます」の声にも応えることはありません。皆さんが真剣に文章の内容を考えている時にただ一人、「先生、この単語の品詞は動詞ですか?」と、極めて少数派の質問をして初めての人をどぎまぎさせる、あの人です。懇親会には絶対に来ないし、実力不足と思われる先生の時間には脚を組み、斜めに座ってそれとなく不満感を態度に出す、厳しい人でもあります。しかし熱心さにおいては誰にも負けず、まず休むことはありません。真面目な人だということは万人が認めています。

  彼女はほとんど他人と口をきかないので、話をしたことがある人は皆無に近いと思います。その中で私は唯一、毎回短時間ながら会話をする機会に恵まれています。教室は4階にあり、多くの人が階段を利用する中で、私と彼女はエレベーターを使います。まず間違いなくエレベーターで一緒になるので、一階に着くまでのわずかな時間だけが私たちの対話の時間です。

「今日は暖かいですね。」
「え?死ぬほど寒いです。今日もカイロを3つも入れてます。」

  どちらが彼女でどちらが私だかはお分かりになると思います。

  その人に最近とみに遅刻が目出つようになりました。80分しかない早朝講座に、毎回20分ほど遅れて来ます。何回かそんなことが続いたある日のこと、やはり下りのエレベータ内で。

「最近顔色が悪いですね。体調が悪いんですか?」
「この時期は仕事で帰るのが遅くて・・・・。今日もさっき帰ったばかりです。」
「お疲れ様です。」
「いえ、ありがとうございます。」

  彼女はエリート中のエリート、財務省に勤務するキャリア官僚です。冬から春にかけては来年度の国家予算を扱う仕事に追われ、平時でも終電で帰宅する生活だったのが、始発で帰宅する生活に変わる、そんな季節なのです。

「3月まではこうんな感じなんですね?」
「いえ、残務処理があるので4月が過ぎないとだめなんです。」

  とかく官僚は悪しき存在として目の敵にされるものですが、その実態は彼女のようにプライベートな時間もなく連日業務に追われる日々を送っているのです。私も、役人と言うものを批判ばかりしてはいられないな、と感じた30秒の会話でした。

女子柔道

2013-02-08 16:19:43 | Weblog
 どうやら園田監督追放には成功した女子柔道の15人の選手たち。新聞に彼女たちの主張と称する文章が掲載されていましたが、どう見てもあれは選手たちが書いたものではなく、代理人を務める弁護士がゴーストライターを務めているものとみました。この間のいきさつが当事者らしからぬ客観的な冷静な筆致でまとめられています。

  彼女たちの当初の思惑は実は大したものではなく、にっくき園田監督を追放できればそれで良していたのではないでしょうか。自分たちに対して理不尽な暴力を振い暴言を吐く男をこらしめ、自分たちの目の前から消えてもらえばそれで気が済むものだったものと私は受け止めています。ところが肝心の園田監督は監督からはずされるどころか継続が決まり、全柔連に出した自分たちの要望は全く受け入れられなかった・・・・その時真っ先に彼女たちの脳裏をよぎったのは、今度は監督からの復讐が始まる・・という恐怖ではなかったでしょうか。このままでは以前より更にひどい目にあわされるに違いない・・・。

  となればこの恐怖から逃れる手段はただ一つ、全柔連より更に偉い人たち、つまりJOCに訴えることしかありません。JOCは彼女たちの訴えを無下に退けることもできず、また強豪高校バスケットボール部の部長が顧問の暴力に耐えかねて自殺するというショッキングな事件があったこともあって、彼女たちの訴えは大きく取り上げられることになりました。更には国際柔道連盟にまで全柔連の代表が事情説明と謝罪に出かけるという、おそらく彼女たちが当初予想もしなかった、世界的な大事件となってしまいました。更には東京五輪の招致に悪影響があるのではないかとまで言われています。

  元はと言えば、不適格な人物を監督にしていた上に、この事件を大したことではないと流してしまおうとした全柔連の面々の感受性の鈍さと古色蒼然たる頭脳が原因なのですが、15人の女子選手たちも、自分たちの要求がここまで大きな社会的問題になるとは思ってもいなっかったに違いありません。

  それにしても、訴えた当事者が誰なのかもわからないまま事態がいたずらに進展していくのはいかがなものでしょうか。氏名を公表したら彼女たちを守れないとする考え方も随分おかしなものがあります。なぜなら彼女たちを守るべき立場にあるのは直接的には全柔連であり、どう考えても一般の日本人は全員彼女たちの味方です。ましてや大学の女子柔道部員に対するレイプ事件で金メダリストに有罪判決が出たばかりです。彼女たちに対する攻撃などあるはずがありません。

  全柔連が恐れているのは、彼女たちの口から生々しい現実が暴露されること、場合によっては園田前監督以外にも同じような事件があって、それを隠ぺいしていることが暴露されてしまうことなのではないでしょうか。
それでもいずれ週刊文春あたりが突破口を見つけ出して、15名すべての名前を暴き出す日も近いでしょう。そうなることはわかっているのですから、さっさと氏名を明かし、彼女たちにもそれなりに責任のある立場になってもらうことが最善だと私は考えています。

  それにしても人間が深い考えもなく取った行動が意外な展開を見せることはあるものです。AKB48の峰岸みなみが坊主頭になったことは世界的反響を呼び、彼女は日本の「ポップ・スター」として紹介されているのだとか。15名の女子柔道選手も、峰岸みなみのように禍転じて福となしてくれことを願うものです。

姿を現しなさい

2013-02-05 12:14:05 | Weblog
  ちょっと乱暴なタイトルになってしまいましたが、私の正直な気持ちです。全日本女子柔道監督だった園田氏を告発した女子柔道の選手15名について私は正直なところこう思っているからです。このところこの件を巡って紛糾が続き、JOCが第三者委員会を作るなどの動きが(ずいぶんとろとろやっているという気がしますが)出ていますが、最も肝心なことが行われていないと思うのです。

  それは、今回の告発騒動を起こした張本人である15人の女子選手たちの顔が全く見えて来ないことです。彼女たちのやり方を見ていると、ああ、この子たちもまた「悪しき女性的」部分が大きい人たちなのだと感じます。「悪しき女性的」という言い方をしたのは、もちろんそうでない女性もたくさんいるからですが、女性の中には自分が誰かを責め立てて破滅に追い込みたい時に、自分の手を汚さずに、相手よりさらに強い者の手を借りる、いや、相手より圧倒的に強い権力を持つ人間に問題を押しつけることによって自分が当事者になることを避けるというやり方を取る者がいます。具体例はここでは触れませんが、同僚の女性たちがそういうやり方で自分の身を絶対安全圏に置きつつ相手を激しく責め立てているのを何度も目にしたことがあります。私はそういうやり方は狡猾過ぎると思っているのですが、いかがなものでしょう。

  いや、ここでJOCという権威の後ろに身を隠して自らは姿を現そうとしない、正々堂々と明るみに出て自分の意見を表明しようとしないような姑息な人たちでは、到底オリンピックで金メダルを総なめにすることなどできますまい。今彼女たちが記者会見を開くなりワイドショーに出演しても良いと言えば、いくらでも自分たちの正当性を主張する場が与えられるではありませんか。もしかしたら、そんなことをしたら今後自分の選手生活にどんな災いが起きるかと疑心暗鬼にかられているのかもしれませんが、本気で改革を望んでいるのであれば、自分の代ではもうオリンピックに出場できなくても構わないから、我が身を犠牲にしても、次世代の選手たちのために改革に取り組むという強い信念を持つべきです。

  先ほどテレビニュースに取り上げられていた少女は、女性が学習する権利を求めて運動を始めたために銃撃を受け、頭部の大手術を受けたそうです。それでも全くひるむことなく登場し続ける姿に、私は胸をうたれる思いでした。女子柔道の選手たちは、この程度の素朴な要求を実現するために命をかけている一人の少女を、見習うべきです。今の彼女たちは、改革者でもなく理想を求める先駆者でもありません。本気で改革を求めるなら、捨て身の投げを打つ覚悟が必要なのではないでしょうか。

園田氏・橋下氏

2013-02-04 15:22:01 | Weblog
 またまた橋下大阪市長の話で恐縮です。最近橋下・曽野綾子のお二人を軸に私のブログが回っている部分があるようにも思いますが、言うべきことは言っておかないと・・・。

  大阪市立高校体罰自殺問題で真っ先に思ったこと:自分が最高責任者である大阪市の高校で起きた事件です。橋下市長がテレビカメラや新聞記者の前で真っ先にするべきことは、自分の管轄下にある市立高校でこのような事件が起きてしまったことに対して、最高責任者として深々と頭を下げることではなかったのだろうか・・・。

  彼のやることはいちいちあまりにも明快で、判り易いのですが、反面、ひたすら現場に責任を押し付けて、問題を更に複雑化しているような気がします。自分が起こしたヒステリーの結果、多くの受験生や在校生が被るであろう精神的・進路上の被害について思いが及ぶほどの想像力と広い感受性はお持ちでないとみました。当該高校の全職員を総とっかえしたり、体育科の入試を行わないなどの処置をとれば問題が本質的に解決するものではないということは教育界以外の人間でも容易に想像がつくことです。

  体罰で更に思い浮かぶのは、女子選手に対する暴言・体罰で全日本柔道女子の監督を辞退せざるを得なくなった園田氏のことですが、私が思うに、橋下氏が万一法曹界ではなく体育系に進んでいたら、もしかしたら園田氏のようなタイプの指導者になっていたのではないでしょうか。

  「そんなんじゃオリンピック代表から外すぞ!」(私はこれが暴言の範疇に入るとは思いませんが。)という発言と、
  「言う通りにしないと当該高校の入試に関わる予算は付けないぞ!」という発言は、質的に全く同じです。
いや、代表問題は言われた選手だけの問題ですが、入試はこれから受験しようとする多くの中学生の利益を大きく損ねるものです。にもかかわらず、予算に関する問題は知事の専決事項で、自分の一声で決めて構わないのだと公言するにいたっては、もはや大阪市の市政を私物化してはばからない姿勢だと言って差し支えないと思います。

  「もっと迅速に審議を進めなさい!大阪市民のみならず全国民が納得してくれるような結論を出してください!」 と、教育委員会をせっつくところまでが市長の仕事です。百歩譲って、記者会見で自分の希望を述べるのは勝手ですが、個人的に決めた結論を押しつけるのは本人が小物である証拠です。

  教育委員会も、橋下市相手に怖気づいて、言われるままに結論を出すことはないのです。市長の強権発動とその内容に抗議して全員辞任するくらいの根性がなければ教育改革などできません。教育委員の皆さんも橋下市長に輪をかけた小物ばかりだということですね。

ヒーロー

2013-02-03 15:54:24 | Weblog
  マツダ車は下取りが安い・・・。そうでしょうねえ。ちなみにレガシーは、13年乗っても一度のトラブルもなく、私がぶつけさえしなければまだまだ乗れたような気がします。13年物の、変形してボンネットが開かなくなったレガシーでしたが、11万で引き取ってもらいました。
  トヨタ車はよく言われるように優等生でした。ハイエース。ディーゼルターボは本当に名車だったと思います。加速も良く、160キロで走っても少しも不安がありませんでした。(取締りに会いさえしなければ)。ただ一つ、運転していても何の楽しさも味わえないことを除いては・・・・。まさにバスの運転手になった気分だったのです。

  スバル車を続けたのは、車に個性があり、かつ信頼性が高かったからです。何よりスバル社の前身は中島飛行機。ゼロ戦と並ぶ名戦闘機、陸軍のエース、隼のエンジンを製造していた会社なのです。



さて、本日もあきもせず筑波山へ行って来ました。朝出るまでは嫌で嫌でしかたがないのですが、いったんハンドルを握ってしまえば気分も変わり、Let’s go! となります。

  皆さんもう雪も融けてなくなったはずと見込んだのか、これまでよりも人出がかなり多くありました。特に目立ったのが、いかにも弱っちそうな男の子を引き連れたお父さんたちの姿。本人の意志でついてきたのではないことは、一目でわかります。うちの子たちは筑波山へ連れてくると、岩場がゲームみたいだと喜んでいたものですが・・・。

  無理やり連れて来ても期待通りには行きません。何より感じたのは、このお父さんたち、日頃息子からヒーロー視されていないな!ということでした。ヒーロー視されていてこそ、男の子は無条件でお父さんと同じことがしたいと思って喜んでついてくるものです。それにしても、小学生の息子からヒーロー視されていないお父さん達・・・。そんなお父さんたちが気の毒である以上に、ヒーローが必要である大切な時期にヒーローを見つけられない男の子たちがとてもかわいそうに思えた私でした。

マツダは買わない

2013-02-02 17:39:12 | Weblog
  ホンダ・シビック(3か月)→マツダ・ボンゴ(4年)→トヨタ・タウンエース(10年)→トヨタ・ハイエース(4年)→スバル・レガシー(13年)→スバル・インプレッサ(6か月)というのが私のマイカー歴です。

  この中で最も活躍したのはタウンエース。家族を載せて北は青森から西は鳥取まで、日本列島の東半分を走り回りました。乗客は家族全員のこともあれば子供たちだけのこともありましたが、とにかく10年間、全く問題ありませんでした。陸上部の大会などにもスクールバス同然に活用したりもしていました。

  次のハイエースは、レガシーに買い替えるにあたって下取りに出したら、ディーラーの人が「こんないい車を手放すとは信じられない」という表情をしていたことが忘れられません。大きくて重い車体にも関わらず、豪快に走るディーゼル・ターボ車でした。あまりの快調さにいい気分で飛ばしていたらあっさり捕まって、罰金を食らったこともありました。(罰金刑は懲役の代わりなので、私は刑事罰を受けたことがあることになります。履歴書を書くとしたら最後に「賞罰あり」と書かないと履歴詐称の罪に問われます。)

  そんな良い車を手放したのはスキーにこりはじめて、4WDが欲しくなったことと、子供たちが成長して私と旅行など行きたがらなくなったからです。(やつらはそこはしっかりしていて、海外旅行にはついてきましたが・・。)
レガシーには13年乗りました。ギヤ比の関係でスタートダッシュが私の要求に答えてくれないことを除けば申し分のない車でした。この車ではずいぶんスキーに行ったものです。

  最初のシビックは、免許取りたてで、暮れのボーナスで買える車、ということで7、0000キロ以上走った中古車を購入したのですが、知らないということは怖ろしいもので、夜が開けて乗ってみると、タイヤはつるつるの丸坊主状態、高砂橋(わかる人はわかる)の手前で信号停止すると、坂道発進できないほどの素晴らしいタイヤがついていました。どうやら前の持ち主は同じタイヤで7,0000キロ走り切ったようでした。

  さて、本題のマツダ車ですが、今から思えば、9人乗りのワゴン車とはいえ、貨物車の荷台に座席をつけただけ、という代物だったように思います。後輪がポンポン跳ね上がり、乗り心地は最低でした。タウン・エースに乗り換えた時は、同じ値段であるにも関わらず、子供の三輪車からロケットに乗り換えたくらいの差を感じたものでした。とはいえ、そのことが問題なのではありません。

  マツダという会社、社員教育がとことんできていない会社だったのです。ボンゴを買った店に用があって出向き、私が購入したセールスマン名前を告げると、「●●は退社しました。」との一言だけ。会社をやめたという意味なのか、今日は既に退勤したという意味なのかすら定かではなりません。そんな曖昧な返事に戸惑ってその場にたたずんでいても、店内にいた従業員の誰一人として、「ご用件は何でしょうか?」と聞きに来る気配すらありません。私はあきれt、だめだこりゃ!と早々に退散してしまいました。

  やがて6か月点検の日が来て、私も真面目にボンゴを点検に出しました。点検が終わって車を受領し、帰宅してからなに運転席の天井を見ると、まっ黒いオイルが一面に吹きあがってこびりついたのを雑巾かなにかで拭き取った後が残っています。馬鹿野郎、エンジンを止めずにオイルキャップを開けたな!と直感しました。

  すぐに戻って抗議しようかとも思いましたが、先の店での基本もわきまえない接客態度といい、ありえない作業ミスの不始末を黙ってごまかそうという態度といい、これ以上の関わりを持つのはごめんだという気持ちが先に立ってしまいました。以後マツダとは一生関わり合いを持たないと心に決め、トヨタ車に買い替えることにしたのでした。

  一つの店だけならともかく、二つの店にわたって不誠実な接客を見せ付けられた私は、これはこの店だけの問題ではなく、マツダという会社の体質そのものに問題があったのだと思っています。言うべきことではないのかもしれませんが、私はいくつかの自動車会社に卒業生を就職させていました。はっきりいって、やはりトヨタに入社した子とマツダに入社した子では、在学中から物が違っていたのです。元々物が違う新入社員であるにも関わらず、社員研修においてもトヨタの方が格段に優れていることを感じさせた出来事でした。

  今マツダはなかなか良い車を作っているように、自動車雑誌などには書かれています。しかしマイカー初心者時代にマツダが私に与えたトラウマは深々と胸に突き刺さったままです。おそらく生涯もう一度だけ車を買い替えることがあるかと思いますが、しかしやはりマツダの車に手を出すことはないと思います。一生の最後に乗る車で嫌な気持ちは味わいたくないですからね。