生活
~「崩壊」と「安定」の狭間~
☆初めに☆
九百八号で書いた、主語が何か・誰かで混乱した「お人好し」の日本人、というくだりの評判が良かったみたいです。その時もそれ以前も何度か書いた「普遍性はひとつ」という西欧的嗜好・指向と、自分たちは「勝者」であるという傲慢は、現在の学校や子どもにしっかり根をおろしています。夏休みでもありますし(関係ないけど)、私たちの「お人好し」とばかりも言えない、児童精神医療の問題を考えてみます。子どもを見守る=信じるなのです。
1 崩壊の危機
早朝、車道を歩く人の姿をみかける。もちろん郊外の話だ。暑い昼間を避けて散歩するためなのだと分かる。杖を持っていたり、少し不自由な足取りをしているからだ。歩道は車道ほどなめらかではないのである。歩行者の佇まいと道路状況が分かれば、理解できるし承認も出来る。しかしこれが、早朝や郊外でなければ事情は変わって、車道での散歩は出来なくなる。これは、本人の事情が変わったのではない。周辺の事情が、それを許さないからだ。このように、社会通念はどこでも誰にでも通用するものではない。本人のキャパと周囲のキャパが、常にせめぎあっている。今回の「発達障害」を抱える子どものことを考える時、この認識は必要だ。私たちの中で何が起こっているのだろう。
いわゆる「健常」な状態と言っても、「自分は病気というものを知らない」というものから「病気になりたい(休みたい)」という人まで、主体的判断はさまざまである。「病者」の主体的判断も同じく、「どうして病気という診断を下せないのか!」と食って掛かる人もいるわけだが、これも早朝散歩者と同じく周囲の承認・寛容が大きくかかわる。例えば多動。考えてみればすぐ分かるが、授業中に着席しないで動きまわる、という症例だとする。こんな相談は良くある。聞けば、休み時間は、この動きがみんなの中に紛れてしまうという。別な例では、多動は広範囲に及び、大きな声は何種類かこだわりのある言葉が繰り返されるのである。さて、すべてのケースの「解決」と「困難」のカギとなるのは、担任の「裁量」である。担任が多動を受け入れる・承認することで、その子の居場所が出来る。担任とクラスの子どもたちが目指したことは、多動が「治る」ことではなかった。担任の大らかさは生徒を伴って、いわゆる「ADHD」との共生を可能とした。では、この多動の子に手を焼き/担任自身の不運を嘆き/親を責め/「専門家」の必要を強弁する等の担任はどうか。担任の主張は、多動の子の「生活」、ひいては「人格」の「崩壊」に及ぶ。しかし分かるように、ここで崩壊の危機に瀕しているのは、担任と担任がミスリードしている生徒たちだ。多動の子本人の生活や人格ではない。「この子の生活は崩壊している」と思っている担任の、世界観・人間観が崩壊しようとしているだけである。この認識は大切だ。狭隘な世界観は、言うところの「発達障害者作り」を始める。
2 さあ、ここが学校だ!
子どもが教室で困った行動を始める時、混乱した担任がとらわれる思い。多いのが一、二番目。
クラスの習慣・規範が崩れるのではないか/担任は何をしている?と不信感を持たれるのではないか/自分は今まで規律あるクラスを作って来た/幾多の貴重な経験が無駄になるかもしれない等々。
前章の「早朝散歩」で言えば、有無を言わさず「車道を歩くとは!」と声を挙げる人種の仲間入りを果たす。必要なのは「何が起きてる?」「この子は、何をしているの?」という基本的な態度だが、自分はクラスの全能者であらねばならない、という考えは厄介だ。本当は子どもじみた考えなのだが、それらが堂々巡りを始める。でも、基本的な「何をしてるのかな?」という目で「困った行動」の子ども本人を見ると、この子はクラス(学校)に不満は無いようである。授業中に動きまわり、たまに暗号めいたものが口から出て来るけれど、それは現在の状態に強いストレスを感じてそうしているわけでもなさそうだ。行動の源は別なところにあるらしいと、担任は気づく。最初は注意をしても見たが、あんまり効果がないというより、どうやらご本人は別な形でのコミュニケーションを採用しているように見える。クラスの生徒が混乱したのは、最初のうちだった。最初から全く平気だったのは、この子の近所に暮らす生徒だった。次に続いたのが、好奇心の強い生徒だった。そして、次第に「共生」の空気が作られる。
こういったあり方に水を差しているのが、いわゆる「専門的見地」だ。クラス統括のミッションを偏愛する者どもは「特別な指導をすればもっと伸びる」という、欧米的価値観にすがる。それを「多様性を保証する」なんぞとまくしたてたりする。恐ろしや。「発達障害」なるカテゴリーがはっきりし出すのは、1970年代に入った頃合いのアメリカにおいてだ。移民政策を背景に大量の移民が参入した時、「ウチの子はあんな単純なバカとは違う」とホワイトカラー層が言い出し、「単純なバカ」と自分の子の区別を主張し始めたことをきっかけとする。「単純なバカ」とは、有色の移民・貧困層を指すのだ。「多様性」を自認するこの担任、こういうことぐらい知らないといけない。さて、こういった担任に出会うと、例えば多動の子は、大体においてもっと多動になる。または何種類かのこだわりある言葉のボリュームを上げる。担任はますます抑えにかかるか、頭を抱える。実はこの子は、担任に「僕はこういう子です」と教えている。理解を求めているのだ。担任にチャンスを与えている。それで周囲の生徒が気づいて、担任に進言することも出て来るわけである。担任さん、ここで跳べ!
保護者の話をしよう。保護者は「この子の普通」を強弁するでなく、恐らく本人との繋がり・コミュニケーションを感じたか、可能とした。だから、普通学級に行かせたいと思った。あとは、行政・校長の裁量、そして何と言っても担任のキャパが全てを左右する。やっぱり「運」が決定することはある。そうであってはいけない、と良く言う。確かにその通りだが、そうなのだろうかとも思う。親が諦めたり諦めなかったりというそのどこかに、やっぱり「運」はあると思う。そんなわけで先生方にエールです。
さあ、ここが学校だ! ここで跳べ!
☆後記☆
皆さん、夏休みいかがお過ごしでしょうか。熱中症になった私は、生涯初めて昼間からエアコンを使ってます。体力が戻ったら生活も元に戻しますが、こんなに楽なのかぁと思ってしまった現状を変えられるかなとも感じています💦
さぁて、先週の子ども食堂「うさぎとカメ」は、大盛況●~* 暑い中での冷しゃぶうどんは人気で、とうとう肉なしうどんになってしまった子どもたちや、何もなくなってしまった親子も出てしまって……。でも、お菓子がたくさんあったので、我慢してもらいました👍
☆☆
もちろん、土用の丑の日。いつも通りの店で、いつも通りの「大串」をいただきました。食べたい食べたいと思いつつこの日になるので、結局、大体が一年に一度の贅沢です。いただきま~す🍚
月曜に学校で、職員対象の研修講師をしました。今までいろいろな相手や場所でレクチャーしましたが、こんなに手ごたえを感じたのは久しぶりでした