実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

生活 実戦教師塾通信九百二十二号

2024-07-26 11:39:44 | 子ども/学校

生活

 ~「崩壊」と「安定」の狭間~

 

 ☆初めに☆

九百八号で書いた、主語が何か・誰かで混乱した「お人好し」の日本人、というくだりの評判が良かったみたいです。その時もそれ以前も何度か書いた「普遍性はひとつ」という西欧的嗜好・指向と、自分たちは「勝者」であるという傲慢は、現在の学校や子どもにしっかり根をおろしています。夏休みでもありますし(関係ないけど)、私たちの「お人好し」とばかりも言えない、児童精神医療の問題を考えてみます。子どもを見守る=信じるなのです。

 1 崩壊の危機

 早朝、車道を歩く人の姿をみかける。もちろん郊外の話だ。暑い昼間を避けて散歩するためなのだと分かる。杖を持っていたり、少し不自由な足取りをしているからだ。歩道は車道ほどなめらかではないのである。歩行者の佇まいと道路状況が分かれば、理解できるし承認も出来る。しかしこれが、早朝や郊外でなければ事情は変わって、車道での散歩は出来なくなる。これは、本人の事情が変わったのではない。周辺の事情が、それを許さないからだ。このように、社会通念はどこでも誰にでも通用するものではない。本人のキャパと周囲のキャパが、常にせめぎあっている。今回の「発達障害」を抱える子どものことを考える時、この認識は必要だ。私たちの中で何が起こっているのだろう。

 いわゆる「健常」な状態と言っても、「自分は病気というものを知らない」というものから「病気になりたい(休みたい)」という人まで、主体的判断はさまざまである。「病者」の主体的判断も同じく、「どうして病気という診断を下せないのか!」と食って掛かる人もいるわけだが、これも早朝散歩者と同じく周囲の承認・寛容が大きくかかわる。例えば多動。考えてみればすぐ分かるが、授業中に着席しないで動きまわる、という症例だとする。こんな相談は良くある。聞けば、休み時間は、この動きがみんなの中に紛れてしまうという。別な例では、多動は広範囲に及び、大きな声は何種類かこだわりのある言葉が繰り返されるのである。さて、すべてのケースの「解決」と「困難」のカギとなるのは、担任の「裁量」である。担任が多動を受け入れる・承認することで、その子の居場所が出来る。担任とクラスの子どもたちが目指したことは、多動が「治る」ことではなかった。担任の大らかさは生徒を伴って、いわゆる「ADHD」との共生を可能とした。では、この多動の子に手を焼き/担任自身の不運を嘆き/親を責め/「専門家」の必要を強弁する等の担任はどうか。担任の主張は、多動の子の「生活」、ひいては「人格」の「崩壊」に及ぶ。しかし分かるように、ここで崩壊の危機に瀕しているのは、担任と担任がミスリードしている生徒たちだ。多動の子本人の生活や人格ではない。「この子の生活は崩壊している」と思っている担任の、世界観・人間観が崩壊しようとしているだけである。この認識は大切だ。狭隘な世界観は、言うところの「発達障害者作り」を始める。

 2 さあ、ここが学校だ!

 子どもが教室で困った行動を始める時、混乱した担任がとらわれる思い。多いのが一、二番目。

クラスの習慣・規範が崩れるのではないか/担任は何をしている?と不信感を持たれるのではないか/自分は今まで規律あるクラスを作って来た/幾多の貴重な経験が無駄になるかもしれない等々。

前章の「早朝散歩」で言えば、有無を言わさず「車道を歩くとは!」と声を挙げる人種の仲間入りを果たす。必要なのは「何が起きてる?」「この子は、何をしているの?」という基本的な態度だが、自分はクラスの全能者であらねばならない、という考えは厄介だ。本当は子どもじみた考えなのだが、それらが堂々巡りを始める。でも、基本的な「何をしてるのかな?」という目で「困った行動」の子ども本人を見ると、この子はクラス(学校)に不満は無いようである。授業中に動きまわり、たまに暗号めいたものが口から出て来るけれど、それは現在の状態に強いストレスを感じてそうしているわけでもなさそうだ。行動の源は別なところにあるらしいと、担任は気づく。最初は注意をしても見たが、あんまり効果がないというより、どうやらご本人は別な形でのコミュニケーションを採用しているように見える。クラスの生徒が混乱したのは、最初のうちだった。最初から全く平気だったのは、この子の近所に暮らす生徒だった。次に続いたのが、好奇心の強い生徒だった。そして、次第に「共生」の空気が作られる。

 こういったあり方に水を差しているのが、いわゆる「専門的見地」だ。クラス統括のミッションを偏愛する者どもは「特別な指導をすればもっと伸びる」という、欧米的価値観にすがる。それを「多様性を保証する」なんぞとまくしたてたりする。恐ろしや。「発達障害」なるカテゴリーがはっきりし出すのは、1970年代に入った頃合いのアメリカにおいてだ。移民政策を背景に大量の移民が参入した時、「ウチの子はあんな単純なバカとは違う」とホワイトカラー層が言い出し、「単純なバカ」と自分の子の区別を主張し始めたことをきっかけとする。「単純なバカ」とは、有色の移民・貧困層を指すのだ。「多様性」を自認するこの担任、こういうことぐらい知らないといけない。さて、こういった担任に出会うと、例えば多動の子は、大体においてもっと多動になる。または何種類かのこだわりある言葉のボリュームを上げる。担任はますます抑えにかかるか、頭を抱える。実はこの子は、担任に「僕はこういう子です」と教えている。理解を求めているのだ。担任にチャンスを与えている。それで周囲の生徒が気づいて、担任に進言することも出て来るわけである。担任さん、ここで跳べ!

 保護者の話をしよう。保護者は「この子の普通」を強弁するでなく、恐らく本人との繋がり・コミュニケーションを感じたか、可能とした。だから、普通学級に行かせたいと思った。あとは、行政・校長の裁量、そして何と言っても担任のキャパが全てを左右する。やっぱり「運」が決定することはある。そうであってはいけない、と良く言う。確かにその通りだが、そうなのだろうかとも思う。親が諦めたり諦めなかったりというそのどこかに、やっぱり「運」はあると思う。そんなわけで先生方にエールです。

 さあ、ここが学校だ! ここで跳べ!

 

 ☆後記☆

皆さん、夏休みいかがお過ごしでしょうか。熱中症になった私は、生涯初めて昼間からエアコンを使ってます。体力が戻ったら生活も元に戻しますが、こんなに楽なのかぁと思ってしまった現状を変えられるかなとも感じています💦

さぁて、先週の子ども食堂「うさぎとカメ」は、大盛況●~* 暑い中での冷しゃぶうどんは人気で、とうとう肉なしうどんになってしまった子どもたちや、何もなくなってしまった親子も出てしまって……。でも、お菓子がたくさんあったので、我慢してもらいました👍

 ☆☆

もちろん、土用の丑の日。いつも通りの店で、いつも通りの「大串」をいただきました。食べたい食べたいと思いつつこの日になるので、結局、大体が一年に一度の贅沢です。いただきま~す🍚

月曜に学校で、職員対象の研修講師をしました。今までいろいろな相手や場所でレクチャーしましたが、こんなに手ごたえを感じたのは久しぶりでした


水泳 実戦教師塾通信九百二十二号

2024-07-19 11:33:28 | 子ども/学校

水泳 

 ~教師と学校が示していること~

 

 ☆初めに☆

プールの事故が無くなりません。教員は救命の研修をやっています。人工呼吸やAED操作法を学び、「もしも」の事態に備えています。実際、小学校のブールの授業で児童が溺れ、AEDを使うことで事なきを得たケースもあります。高知の小学校で事故が起きてしまいました。ところで、すでにプールの授業は崖っぷちになっていると言えます。プールの授業時数激減が、それを示している。特に、中学生を相手にする教員は、だいぶ前からブールの授業で悩んでいました。もったいない話ですが、少なくとも学校でのプールの授業は、遅かれ早かれ無くなります。

 1 「金食い虫」

 ご存じかもしれないが、まずはプールを巡る諸般の事情。全国各地で老朽化したプール。改修に大変な費用がかかる上、水の「経費」問題がある。たまに一昼夜知らずに給水し続けるという失態をおかし校長が辞表を提出、という事案は毎年あとを絶たない。続く猛暑のおかげで、水温が体温より高い日のプールの授業は中止か、水温を下げるために注水を続ける。また、プールサイドが熱すぎるため、打ち水を絶やせない等。前も書いたが、小学校のプールは低学年と高学年で水位が違うので、その都度「落とす」「注ぐ」を繰り返す。かくも、水を巡る経費はバカにならない。東日本大震災の時の福島第一原発事故で、生徒によるブール清掃は業者に変わり、新たな経費も登場した。

 次がプール授業の現状。どんなに暑かろうと、中学生、それも女子は及び腰で、だいぶ前からプールサイドは女子の見学者で埋め尽くされ、体育担当者を悩ませていた。夏でも冬服で校内を過ごす生徒のことが話題になってるが、とりわけ女子の「自分の生姿が見える」のを嫌う傾向は今に始まったことではない。「だてマスク」は女子中心の文化だ。学校は成績や調査書など数々の「工夫」で対処を試みたが、流れは変わらなかった。

 そして、コロナ流行はプールにとどめを刺した。学校を休むことさえ、多くが「特欠」扱いとなった。プール見学をどうこう言ってる場合ではなかった。それより、当時出されたプール実施要綱が笑える。なんせマスクを外した授業だ。あいさつ/掛け声/号令(教員は別)一切禁止。返事も無言。そして、隣と横1m・縦2mなるソーシャルディスンタスで、手もつないではいけない。思い切り「プールは禁止」と言ってくれよ、という現場の声を、当時ずい分聞いた。ある自治体の調査によれば、プール稼働率が小学校で12%、中学校では6%である。「金食い虫」なのだ。

 2 「好き」?「怖い」?

 報道されたものをもとに考察した。6日に高知市の小学4年生が溺れた事故は、中学校のプールを使用して起きた。「借用」理由が、自校プールのろ過装置故障だ。プールの老朽化が露呈している。4年生の36人中、女子12名!は見学だった。残りの14人は泳ぎが不得意で、あとの10人は得意だった。にわかに信じ難かったが、不得意グループは、バタ足の前に「けのび(蹴伸び)」をやったという。けのびはプールの縁をつかむバタ足と違って、身体が完全に「陸地」から離れる。あえて、その優先順位は置くとしよう。それでも、ここで行ったけのびは、プールの壁を蹴るものだったという。本当なのか。これは難易度が高い。身体を前方に倒しつつ、足がプールの底から離れる前に蹴るところから、けのびは始まる。蹴る先にはプールの縁というゴールがある。これがプールの壁を蹴る場合、向かうのはプールの中央になってしまう。何よりこれは、プールの底を蹴って上体を浮かせ沈まないうち、後ろの壁を蹴る。難しい。この練習中に、当該男児が見当たらなくなったという。この14人には、ふたりの教員がついている。教員ひとり当たり担当する児童は7人だ。そして報道は、男児が「プールは好きだった」とする一方で、事故前日「怖い」と話したとされる。なに言ってんだ⁉ こんなもの、聞く・読む側に分かるとでも思ってるのか。確かに、報道で見る限り、頭をかしげたくなる指導があったとは言える。しかし前にも書いたことだが、昨今の学校現場を見て来た実感から、もっと気になることがある。

 3 プロの指導?

 猛暑が当たり前になってから、特に小学校で上半身も水着を着用する男子が出て来た。それはびっくりしない。びっくりしたのは、小学校の男子教員がTシャツ着用で指導に当たっていることだ。見たくもない野郎の裸を見せられるのはセクハラだ、という女子教員の告発もあると聞く。子どもから裸を冷やかされると理由を挙げる教員もいた。実際、勇気を振り絞って半裸になった教員は、恥ずかしそうにすぐシャツをはおった姿も見た。もっとびっくりしたのは、授業で「バディ(相棒)!」をしていないことだった。学校は子どもの手助けを得ないと、いや、子どもと一緒にやらないとすべて成り立たない。特に、林間学校での安全なんかは、教員だけでは不可能だ。学校での水泳指導も同じで、組んだ相手と数分ごとに手をつないで「バディ!」と水面に上がるおかげで、安全確認が可能となる。時に100人以上となる低学年のプール指導で、7~8人の教員が目を光らせようと「バディ」にかなうものではない。

 以前の繰り返しとなるが、一番気になったのは、教員の多くが「楽しそうでない」ことだった。途中の自由時間においても、多くが子どもと一緒に遊ぼうとしない。確かに、安全確認・水温計測・ゴミ取り、どれも大切で、特に安全確認は大切だ。しかし、多くの表情に宿っている「仕事感」が、やり切れなかった。「ベテランの先生が、楽しそうに水に入っているのに……」という校長先生の言葉は、その後どうなっただろう。メディアは「先生が忙しすぎる」と、お約束の分析・同情をする。「プロの指導なら先生方の負担が軽減し、子どもも泳げるようになる」などと、スポーツジム参入へと挑発する。何をかいわんや。小学校、特に中学年までは、子どもが「もしかしたら面白いかも!」と思ってもらえることが一番なのだ。水泳に限らないゾ。その面白さを教えてくれた先生と、子どもたちは給食を食べ外で遊ぶのである。この醍醐味を学校自らが捨てるようなことがあっていいものか。撤収しろ!

 と、熱くなってしまったが、無理なものはムリですね。でも、子どもを見失って欲しくない。強く思う。

 

 ☆後記☆

参考のために付け足します。その昔、女子(中学校)は水遊びが好きで、見学のはずのプールサイドと水中の連中と水をかけあった。なんだ、体調不良/風邪/生理じゃなかったのか⁉と苦り切る教科担任をよそに盛り上がる。すると、見学者の体操服から下着が浮き出す。これが見せたいんじゃないか、と疑いたくなるほど水遊びの勢いと下着のスペシャル感は結構なものだった。よく話題になる「ブラック校則集」の中に「下着の色は白」というのを聞く。私はこれを見た時、昔の水遊び大好き女子を思い出した。困った当時の学校が考えた、滑稽な校則が残っているのでしょう。いま、昔のような元気のない女子は、下着が浮き出るような遊びもやりませんね。

 ☆☆

さあ、今日は終業式。って、二学期制となった学校は全校集会。とにかく、いよいよ夏休み🍉 みんなお疲れ様~👊

夏休みスタートは、子ども食堂「うさぎとカメ」🐰🐢 明日だよ~ お菓子がたくさんあるよ🍫 食後にね👌 冷たい豚しゃぶうどんも待ってるよ~🍜 明日発行の通信もお届けしま~す👍


自由 実戦教師塾通信九百十九号

2024-06-28 11:38:54 | 子ども/学校

自由

 ~同居する「孤独」~

 

 ☆初めに☆

学校からの依頼としては久しぶり、研修会で話をすることになりました。職員向けに、生徒指導の話をして欲しいというのです。アンケートで日々の悩みを聞いてもらいました。昔も今も、先生(大人)の悩みは同じです。でも、昔と今とでは、子どもは全く変わってしまった。そのことははっきり伝えようと思っています。今回は子どもや社会の周縁事情を書くことにします。「正解」までは書きません。いつも長い風呂敷拡げですが、更に長くなります。

 1 『隆明だもの』

 吉本隆明の長女・ハルノ宵子が、昨年暮れに『隆明だもの』(晶文社)を出版した。同じ晶文社で刊行中の『吉本隆明全集』に挟まれている月報を加筆訂正したものだ。著者はもともと漫画家だし、掲載されている挿絵は「父親」が言ってた通り味わいがある。吉本ファンにとっても、読み込みを必要とする文章は捨てがたい、のかもしれない。

知られざる吉本の姿は、吉本ファンにとって衝撃的だったのではないか、などと書く書評家もいた。一体なにを分かってるというんだ。さながら自身の身体ではないかのように崩れて行く姿は、晩年の、ほぼインタビューによる著書が示している。だから、おびただしい薬やオムツのこと(写真)も知っているし、雑誌『dancyu』の巻頭・連載エッセイには、思い通りにならない自分の身体がもとで家族にどんな仕打ちをして来たか、控え目ながら書いている。ハルノさん大変だったなぁとは思うけれど、吉本最後の姿が醜悪だったなど思うはずがない。身の下話はともかくも、思想的な「過ち」まで突っ込まれれば、いやぁ、ハルノさん、勘弁して下さいよと半畳を入れたくなるわけである。

 この『隆明だもの』に、今回の記事と繋がるところがある。吉本さんは「自立」(知らない人のために断るが「自律」ではない)を掲げ、揺るぎなく表現者として生きた。知らず知らず群れてしまう私たちの習性が、吉本家の出来事の中に示されてる。これを読めば、ハルノさんは紛れもない「父」の継承者であるのが分かる。

「父に刷り込まれたのは、『群れるな、ひとりが一番強い』なのだ」

ブログの読者のために例を挙げると、いじめる人間にもいじめられる人間にも加担するな、ということだ。「傍観者はいじめる側にいる」考えの学校関係者には、目の玉が飛び出そうなものだろう。白か黒かじゃねえだろ、もっと考えなきゃいけないことがあるだろ、という「当事者」の場所が「自立」なのである。だから、「ひとりが一番」と言う吉本を周囲は決してひとりにせず、常にどこかで反論・議論が絶えなかった。ハルノさん曰く、吉本は「誰にでも懐を開いているように見えて……誰も許していなかった」。かくも、「自由」でいることは「孤独」なのだ。

 2 「ひめごと」という「孤独」

 現在の家族・子どもの土台は、1970年代後半から十年で出来あがってる。本にこそ書かなかったが、好きなだけ話してくださいとレクチャーを依頼された時、初めの部分で必ず言うことがある。固定電話の普及である。その普及率が50%を越えるのが、1974年だ。それまでの地域・家庭・子どもは、どんなだったのか。子どもが学校で蹴飛ばされたと、泣いて帰って来た。母親は剣幕を変え、速攻で我が子の手を引いて抗議に向かう。道々、子どもの話を聞くうち、さっきの興奮が止んでくる。実は子どもの方も、いつの間にやら冷静さを帯びている。さっきと話が違うんじゃないかという母親の問いに、子どもはうなずく。そして、来た道を親子は戻るのである。これが時代をさかのぼった話だ。親子が向かっていたのは、多くが学校ではなく相手方の家だった。電話が登場して、事態は一変する。興奮覚めない子どもから聞いた話に激高した親は、感情が赴くままに話すことが「強いられた」。電話で叫ぶ母親の話を「ホントは少し違ってる」思いで聞く子どもは、母親と共に、もう引き返しようがなくなっている。

 とてつもないスピードで、社会が変容していた。丁寧で時間をかけた、そして「子どもは大人(自分)たち皆で育てるもの」という認識が、この時代まではあった。便利になることと引き換えに、私たちが失うものは大きかった。それまでのコミュニケーションが、根底から崩れようとしていた。その日に必要な味噌や醤油が足りない時、この時代だったらお隣さんから工面していた。「スープを冷めないうちに届けられる」場所に「ご近所」はいた。それらを含め、固定電話は人々の「外に出る機会」を大きく減らした。そして同時に、子どもを巡って起きるいさかいは、エリアが拡大した。そこの仲介役として、学校がおもむろに登場する。「学校」が「学校化」する瞬間を迎えたと言っていい。90年代になるまで、この勢いは止まない。私たちはその中で、幾多の便利と「自由」を手に入れる。しかし、「自由」が意味するものは、単純ではなかった。やはりここでも、人々は大切なものを手放す。

「他の動物には無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ」(『斜陽』)

「ひめごと」が「出来るようになった」小さな子どもを見たら、作者の太宰は「こんなケツの青いガキまで⁉」と笑うだろうか、呆れるだろうか。あれこれと心配し干渉してくる大人がいない「自由」な世界では、「ひめごと」が「ひめごと」ゆえ、処置は自分がしないといけない。それがきついと思う時、人は「孤独」を抱える。今の子どもたちが、年齢に見合わない「孤独」を抱えているのは間違いない。そのことを大人は繰り返し確認しないといけない。

 

 ☆後記☆

例を挙げると、バイクって一番「自由」な乗り物だと思っています。でもあれは、ボディ(車体)という、自分を守ってくれるバリアがないんです。自分の身体は自分で守らないといけない「孤独」を強いられる乗り物なんです🏍

 ☆☆

鹿児島県警を巡るあれこれ、面白いですね~ 盗撮容疑の件は、23年の12月に発生。でも、この警官(巡査部長)が逮捕されたのは半年後。本田前部長が退職後に、フリーの記者に告発資料を送った後のこと。さらに本田前部長は、この盗撮警官逮捕の直後に、同じく逮捕。公文書漏洩とあっては、逮捕も免れない? 現職警官の女性ストーカー事件も「職員を処分し、必要な対応が取られている」と、それがアナウンスされないのも「被害者に迷惑が及ぶのを避けるため」とは、野川本部長必死の会見です。繰り返されている「隠蔽かどうか」のやり取りが良くないですね。決定的なのは、私たちに「一体どんなことがあったのか」分からないことです。それがない限り、私たちは「隠蔽」の有無に到達出来ません。メディアの「何があったのですか?」を待っています。更に面白いことが続いています。大阪地方検察庁でトップの元検事正が、性的暴行の疑いで逮捕されました。5年前の事件の容疑者を逮捕するのは、異例のことなんだそうで。鹿児島の激震をもろにかぶった、と考えるのが自然でしょう。

これは贔屓(と言ってもそれほど通ってない)の和食処『和さび』。開店十周年です。これからも美味しい温かな料理を、よろしくお願いします🍶🐡


放課後 実戦教師塾通信九百十八号

2024-06-21 11:28:05 | 子ども/学校

放課後

 ~用のない子ども~

 

 ☆初めに☆

行き場がなくなる子どもたちの増える心配が、進行しています。原因の一つとして上げないといけないのが、「部活」のことです。ご存知と思いますが、千葉県・柏市は、部活の地域移行に取り組む自治体として、全国から注目を集めています。休日の部活は人材プールに登録した(官民を問わない)コーチが担います。これでブラックと揶揄され批判されて来た部活の問題も解消されればいいのですが、そうではありません。この波を一番に食らったのが、小学校だと思えて仕方がないのです。柏市は小学校での部活(特設クラブ ; 以下「部活」と表記)を廃止します。来年度を目途にするこの事案は、全国初と聞いています。地域にあるクラブに行く、というのが代案だそうです。悔しいです。

 1 子ども好(ず)き、頑張れ!

 小学校の部活は、陸上(駅伝も含む)・バスケットボール・吹奏楽(水泳が加わることもある)で、大体が構成される。過熱傾向にあった部活が、これ以上職員や児童の負担にならないよう大会の縮小・廃止が決まったのは、ついこの間のことだ。その記憶がまだ覚めないうちに、部活そのものがなくなる。確かに、仕方のないものもある。吹奏楽である。高額な楽器の購入と維持管理に加え、指導者の不足があるからだ。多様な楽器に応じた指導は地域のボランティアに頼る学校も多く、その人材が不足しているばかりでなく、ボランティアの高齢化が進んでいる。難しい。

 しかし、その他の部活はどうなのだろう。何より、身体を動かしたい子どもと先生は、なかなかに多いのだ。世の「ブラック」批判の陰に隠れて小さくなっているが、中学校でも部活をしたい教員は多い。忘れてはいけない、放課後も子どもたちと一緒にいたいという先生は、まだ結構いるのだ。もちろん、学校に残っていたいという子どももだ。今回の、小学校における部活廃止は、恐らく半世紀以上に渡って続いている「用のない児童・生徒は帰りなさい」というお達しに拍車をかける。はっきり申し上げるが、残っている子どもは、その必要があって残っている。帰っても恐ろしい家が待っているからなんていうウルトラなものに始まり、まだ遊びたいというものまで理由は様々だが、みんな「必要/用がある」から残っている。しかし、無責任に残すわけには行かない、という学校的事情もある。小学校のケースで考えよう。残りたい子どもの多くは、放課後に塾やクラブという別メニューを持たない、家に帰りたくない、あるいは学校を先生を好きな子である。家を忌避する子はともかく、先生から「そろそろ帰りなさい」と言われれば、子どもたちは素直に受け入れる。そんな中で先生の方も、子どもが抱えるものに分け入る眼差しを蓄積する。信頼関係の上に構築される「放課後」なのである。「残り勉強」もそのひとつだ。すると、その必要のない子も「一緒にしたい」「終わるまで待ってる」と駄々をこねたりする。仕方なく残したり残さなかったり。だからそういう先生は、保護者との連絡を欠かせないし、管理職の理解を得ないといけない。そして、自分だけいいカッコして/何かあったらどうするつもりかね/無責任だ/子どもを甘やかしてる等々の、同僚からの冷ややかな視線・言動をさばかないといけない。大変なのである。でもそういう先生、少なくない。学校、そして子どもの希望だ。頑張れ!

 2 英会話教室

 そんなわけで、小学校での部活廃止は、放課後に子どもたちが残る道が狭くなることを意味する。ここ半年の間に何件か、私のところに学童保育の高学年枠を広げて欲しい、という保護者からの相談が舞い込んでいるのだが、小学校で部活が廃止されることと関係しているのではないかと思えて仕方がない。学童保育での子どもたちの抱える諸問題を知らずに相談したいと思うのだろうが、学童保育は「放課後」の解決策としては慎重に考えないといけない。ことのついでなので言っておこう。この部活縮小(小学校では廃止)は学校のブラック企業批判ばかりでなく、いわゆる「働き方改革」なるお題目から来ている。教員の「授業の準備も出来ない」理由に、部活があげられるからだ。ここに手を付ければブラック批判に対応できるし、何より簡単だと思ったのだろう。しかし、欠けているのは「増えた仕事」の検討の方だ。小学校で削減するべきは英語だ。いや、正確には担任が英語まで教えることだ。真っ先にやめないといけない。初代文部大臣・森有礼の「日本語廃止論」のように、英語が「グローバル世界における必要」というなら、ALTの増置より英語教師を正規に配置することだ。こうすれば、英語の時間は先生の「空き時間」になる。補足すれば、大切なのは「日本語」だ。そう言ったのは、イチローだ。喜怒哀楽を表すのに別な言語を強制されるのは悲しいことだ、と言ったのは柳田國男だ(標準化政策のこと)。英会話教室に、お金を払って!夜!に通っている小学校教師がいることを、知らないとは言わせないゾ。こういう給料の使い方と、こんな「残業」があっていいはずがない。

 3 強引な統合

 最後にひとつ。柏市で義務教育学校計画が、猛スピードで進んでいる。現在の柏中学校と、その学区内小学校が統合されて義務教育学校となるものだ。ふたを開けたら1400人というマンモスの学校は、安倍内閣の時のような閣議決定→議会承認(追随)なるものと酷似している。学区の保護者や教員に対して、計画への希望聴き取りはもちろん計画への参加希望を打診する等は皆無だった。そして遅ればせながら議会で始まった質疑では、いい加減な「ちゃんとやってます」なる回答が乱舞している。まだ十分な余裕を残している柏中学校の敷地と、学区内の柏一小の老朽化が著しいことに目を付けていたのだろう。そして、柏一小は駅から目と鼻の先の一等地。跡地の売却で柏中学校内に校舎が建つという算段である。全国を見渡しても、ワースト3という柏市のマンモス義務教育学校構想は稿を改めて書かないといけないが、今日はひとつだけ。柏中学区のもうひとつの小学校、旭東小学校が統合されることである。この小学校はこのままでいいはずなのだ。そうすれば、義務教育学校のマンモス化も緩和されるし、課題として上がっている「スクールバス」も大げさでなくなる。しかし、旭東小学校の義務教育学校編入を、市当局は譲れない。

 この柏市義務教育学校構想には、ステージが三つある。土台・4年、充実・3年、発展・2年の合計で9年というものだ。旭東小学校が統合される理由はここにある。柏中が現在のままなら、旭東小学校の子どもたちは卒業して柏中に進学すればいいだけだ。ところが義務教育学校となった暁、6年間を修了した子どもたちをどこに編入するか、柏市行政執行部が困惑したのは想像するに難くない。しかし、躊躇を振り切ったようだ。全国に先駆けて、が好きな柏市である。面白い試みもないわけではないが、ここに来ての暴走ぶりは見過ごせない。

 

 ☆後記☆

先週の子ども食堂「うさぎとカメ」ですが、何がって野菜がすごかった。みちの駅や複数の個人の方の寄付に加え企業の協力を得て、仕分けから配布まで嬉しい悲鳴でした。利用者の皆さんの持参した袋が野菜で溢れて、思わず困りませんかと声を掛けたくらいです。でも「こんなにたくさん頂けて」という声。嬉しいです💛

この日は久しぶりの「飾り寿司」。大型のアンパンマンはプロの手作り、感謝です🥐 そしてメインディッシュのワンタンスープはお代わり続出で、こちらも嬉しい悲鳴でした☺

 ☆☆

いやぁ、藤井八冠、ついに崩れました。「(この日が来るのは)時間の問題と思っていた」という藤井君を、また好きになります。また、師匠の杉本先生の「また八冠に挑戦できるね」という言葉もいいなあ☖⛊

そして、オオタニさんは怒涛の21号🥎 頑張るぞ~🙌


柏・その後 実戦教師塾通信九百十四号

2024-05-24 11:17:37 | 子ども/学校

柏・その後

 ~重大事態の顛末~

 

 ☆初めに☆

いずれも先日のこと。地方版もありましたが、東京新聞は全国版(関東版と言えるのかもしれませんが)だったのが市立柏高校の問題。もうひとつが、同じく柏市の中学校で起こったこと。メディアの力では、すくい上げようのないものがあります。どちらもこのプログで、以前に取り上げましたが、私なりの検証と提案をして来たので報告します。

 1 「今度」はどうする?

 要点のみ振り返れば、2018年に「校舎から転落」として報道された市立柏高校の2年生の事件は、2022年に報告書が出される。後に自殺とされた事件の背景の一端は、過度の部活動が考えられると報告された。今回、ニュース上にこの問題が浮上したのは、国の出した部活動の指針を市立柏高校が守ってないと、遺族が文科省に申し入れをしたからだ。一日約2時間・休日3時間・週2日以上の休養日が、国のガイドラインである。現状を言えば、大会前という条件下で変更は可能だし、学校運営上の「調整」はある。そういうものとしてのガイドラインだ。国も恐らく、そこまでの介入をするつもりはないと思う。その結果なのだが、指針を「緩やかに」解釈して、違反ギリギリで部活をやってるところはある。やっぱりと思う学校の、やっばりと思える部活である。市立柏高校の部活動は、一日約3時間・休日6時間以内・休養日が平日は週1日、週末は月二日以上というもの。初めは本当にそんな短くする気があるのかと疑ったが、実際クールダウンしている。盆と正月しか休みがないような活動に、むしろ憧れて入学した生徒の「熱量をコントロールする責任」(遺族の言葉)を、学校は感じているように見える。そのくらいに市立柏高校の活動は、目に見えて少なくなった。それでも、報告書が残した課題に、まだ忘れてはならないものがある。

 勉強も部活もという「文武両道」なる校風を掲げている高校が、多くある。大体(すべてではない)の実態は、部活重視だ。例えば、テストの結果が思わしくないと、活動停止を命じられるからだ。成績が下位になることは許さんぞ、という程度を「学業道」とは言えまい。スポーツ推薦で入学したものが、怪我を負ったら退学がほぼ確実というのと似ている。市立柏高校の報告書は、もう少し実態を掘り下げている。英検を受けたい生徒(複数)の気持ちが、軽んじられたことだ。顧問が問い詰めたのだろうか。そうは思わない。生徒は精一杯の思いと不安で訴えている。休むのか?の確認程度で、生徒の気持ちはくじかれる。これらの不安・不満の多くが、本人からではなく保護者から、顧問にではなく担任に訴えられる。しかし、担任は顧問に訴える力を持たない。代表顧問は、校長より力を持っていた。様々なものが、マグマのように渦巻いていたのだ。これが生徒の死をきっかけにふき出したのである。これだけでも、生徒の死は無駄ではなかったと思う。繰り返せば「生徒の自主的活動」と括っていけないものを、学校・大人は自覚しないといけない。同じ年に起こった所沢の中学生「転落事故」で明らかになった、体力テストのため昼休み等の「自主練」も思い出しておきたい。一方、私が現場や行政で訴えていることは、これらと別なことだ。

 柏の教育行政を担う方の話だ。市立柏に着任した職員に報告書を読みなさいと口を酸っぱくして言っている。それくらいに過去の話になっている。もちろん生徒においておや、である。これに水を差すようだが、切実な「命」を巡る当時のことを、私は蒸し返している。今度あのようなことが(あってはいけないが)あったとして、生徒が倒れていた駐車場にいつも通り車を止めるのか否かは重要だ。「生徒が動揺する」という理由で、結局花も手向けず職員の車を止めたことの是非について結論を出さないといけない。そして、生徒が亡くなってすぐ(10日後)に控えていた大きなイベントの「実施の可否」を遺族に打診した混乱も、まだ検証されていない。柏市のいじめ対策は「教育委員会が主導する」方針がこの件で変わったのは、これらの積み重ねがあったからだと思っている。遺族は途中から代理人を通すようになった。この理由を「人権団体が介入した」と考える管理職がいるのは、残念としか言いようがない。

 2 切実な現実

 もうひとつも要点から振り返る。2015年、柏市の中学生が校舎から飛び降りる事件だ。瀕死の重傷で、起き上がることは出来るようになったが重い後遺症が残った。この時は教育委員会が主導した調査で、報告書は学校・職員の見守りと指導の不十分さを厳しく批判するものだった。怪我を負った元生徒と保護者が提訴に踏み切ったのは、2019年である。前に書いたと思うが、後遺症への補償はずっと続くわけではない。提訴したのは、補償の期限を迎えたからだ。当事者の無念と後の生活補償を考えてのことだ。学校の設置者である柏市との間では和解した。しかし、原告が訴えた元生徒4人との間で結論が出ず、先日(15日)、千葉地裁は「いじめの証拠がない(判決文の表記ではない)」として訴えを棄却した。柏市教委の報告書を読めば分かるが、関係した生徒の被害生徒に対する行動が執拗であったことは容易に推察される。また、当該学校にいなかった教職員でも、あの部活のあの顧問? そうだったら周りの教員のサポートがなければダメだろうと、生徒の非より大人の無能力に気づき嘆いたはずだ。そう考えると、裁判所の決定は「子どもの過ちに対する寛大」にも見えて来る。しかし、被害生徒側にすれば、それで済むはずがない。

 切ないのはそれだけではない。この報告書について責任を負っているのは、提出した設置者・柏市だ。しかし、報告書の公開に柏市(教委)は二の足を踏んだ。個人の特定やプライバシーに及ぶことを配慮してもなお、抵抗があったのである。時を経て報告書は公開される。「当局の隠蔽」と指弾もされたのだが、当事者の事情を知り考えてしまった。公開されることで、学校・大人たちの不手際と無能力があきらかになるのだ。それでも公開によって発生する悲しみがあった。それを乗り越えて公開に踏み切らせたのが何だったのか、そこまでは知らないでいる。

 

 ☆後記☆

先週の「うさぎとカメ」は、市内で運動会が多い中の開催でしたが、こんなに⁉と思うたくさんの人たちが来てくれました💛 50回を記念してのじゃんけん大会、盛り上がりましたよ✊✌✋ 小さい子は必ず後出しで、前にいるお姉さんと同じにするのが笑えました☺ 皆さん、ありがとう! あと50回よろしくお願いします👍

東京・檜原村の敬愛する先輩から、筍が届きました。こんな時期に?と、毎年思います。嬉しいです🌲

昨日から福島にいます。元気をもらって来ま~す🏃