シリーズⅡ <子ども>の現在
~解決篇 その4~
罪と罰
保護者が学校に抗議に出向いてきた、という話が私のもとに入ってきている。
教室(授業)で、忘れ物チェックを多くの教師がやっている。しかし、このブログの多くの読者はご存知ない。その忘れ物を「点数」にしている教師がいる。少なくないぞ。今もこのやり方、健在なのだ。ワークといって教科書に準拠した問題集や、もちろん教科書も、忘れてなんぼの「減点」となる。このことがきっかけで、保護者が抗議に出向いたという。こういう保護者は今、モンスターペアレントなる愛称で呼ばれている。しかしこの保護者の場合、よく聞くと、このことだけで出向いたわけではなさそうだった。あれもこれも、といった鬱憤が重なっているようだった。
さて、こういった教師のやり方に、私は、あんまりほめられたやり方ではないですよ、とやんわり言ってきた。これは何せ、担当教師の考えに介入するわけだから、相手が青く(赤く)なって、
「私の教育方針に干渉するのですか!」
などと興奮するので、ついやんわりとなる。
しかし、結論から言えば、こんな間抜けなやり方は、いよいよこれから壊滅的な打撃を受けるはずだ。こんなことを点数化してどうなるんだ? こんなバカなことをやる連中の理由は、
○成績というものは、テストだけで測られるものではない
○私たちは授業で「勝負」している。そのことを軽く見ることは許されない
○必要なものを用意して授業に臨むことは大切で当然のことだ
というあたりだ。
思い切って言おう。この言い方、全部認めます。しかしとりあえず、この先生どもは「成績というもの」は「テストだけで測られるものではない」が「点数によって測られる」ということを実践していることに多分気付いていない。また、点数をつけ方が、自分の「主義/ポリシー」であることに気付いていない。
そして、肝心なことが抜け落ちている。過ちを犯したものには、それを責められる必要がある。そして、その過ちを本人に認識させること、これが肝心だ。それが抜けてるよ。「罪」を犯したものは「罰」を受けないといけない。
「はい、それじゃ2点引くから」
みたいな対応が「罰」だって言うの? これって「成績は点数でつけるものだ」って意味のことを後押ししてるだけだって気付いてる? 過失へ課す「罰」が「点数」とはお笑いだ。運転免許かよ。警察か、オマエは。
面白い話がある。ボクはもう塾で勉強してあるから、と授業中に本を読んでる生徒がいた、という。こいつから、教科書とワーク忘れの点数を引いた教師がいる。生徒も大馬鹿だが、この教師、救いようがない。
必要なのは、黙って名簿に「-2点」とかのチェックではないだろう。まず、
「どうして忘れた!」
と言わないといけない。例えば辞書なんかだったら、
「オマエ、辞書ぐらい(隣のクラスの奴から)借りられなかったのかよ。オマエ、友だちいねえんだろ」
と、それぐらいは言われてもいい。また内職に関しては、
「授業中だ、何をしている!」
と言われないといけないはずだ。点数を使って、こんな「教師としての威厳」にしがみついてる奴らは、ガムだの携帯だの、これから先どう対応するのかね。まあ、「(生徒が携帯やってるのに)気がつかなかった」とかいうやり方を使っている教師もいるのだが。
点数でしばるやり方で、確かに「生徒を怒らない」利点がえられるかも知れない。しかしもう、こういった教師連中の行く末は知れたものだ。
え? ボクはそんな生徒を怒っているって? だったらそれで終わりにするのが「指導者(先生)」だよ。それが「罰」ではないのか。それでも相手が反省しないなら、自分の怒り方や怒る理由にどこか問題があるはずだ。あるいはその生徒の胸の内が分かってない。出直すしかないのだ。
この機会に断るが、私は生徒に「優しく、思いやりをもって接する」教師である。しかし、同時に「全く容赦しない」教師でもある。ブログ上でしか私を知らない人たちは、私を「甘い」教師と思われるかも知れない、とこのシリーズの記事を書きながら思っている。そうではない。遅刻に関しては厳密に、そしてピアス/携帯に関しては厳しくて定評のあった私だ。ゼロ・トレランス(厳罰主義)と勘違いされて、市教委からの評判が良かった時期もあった。違うな。遅刻のようなものでは、その「手続き」をこっちがきちんとしていれば、生徒はそのチェックがどんなに厳密でも納得する、あるいはあきらめる。ピアス/携帯のようなことは、
「『したい』ことと『出来る』ことは違う」
ことを生徒に承認させないといけない。生徒は「子ども」だからだ。これは生徒それぞれ事情があるので大変だが、出来るし、しないといけない。
これを展開するとなるとまた大変な分量を必要とするので、この辺でやめとくが、とにかく私は「甘い」わけではない。
(主(母)のいなくなった家の庭です。小さなツリーにも注目ください)
「今がすべて」という大切さ
客観的な根拠のある成績の出し方、という手法は、注意してかからないと、厳密という流れに拍車をかける。そうしてエスカレートして、「証拠」を見せるという道に追い込まれる。この「証拠」を相手に示して納得させる、という方法は、本当は学校では「やってはいけないこと」だ。先日、横浜市教委がはしなくも暴露したことがこのことだ、と言ってもいい。通信簿の遅刻や欠席を、生徒に手渡す前に、保護者にチェックさせる、というものだ。
普段、
「教室(学校)は間違うところだ」
などと、子どもたちに言っている連中が、間違いは許されません、なる生活をしている実態が暴かれたということだ。今回のことで、大人になったら間違いは許されないことなのだ、ということを子どもたちが学んだだろうか。いや、市教委(先生たち)の卑屈なまでの慎重な姿勢に、子どもたちは不信感に近い違和感を持ったことは間違いない。過ちに気付いたら正す/謝るということをこそやるべきだった。「その時」が訪れた瞬間だった、と言える。過ちは同時に「納得」や「和解」というものの存在に気付く、いいチャンスなのだ。今回、学校が学んで欲しかったのは、根拠/証拠というものは、人を追い込むということだ。そういうやり方は、人を遠ざけることはあっても、お互いを近づける力を持ってないということだ。前半の「忘れ物減点」でも、このことが言える。
だいぶ長くなってしまった。本当はこれからが本題なのだが、また次回か次の機会とする。要点だけ言う。
○その時しか出来ない
○その時しか分からない
○その時しか得られない感動がある
○その時決定的な傷を負う
ことがある、ということだ。
ギムナジウム(寄宿舎)のマルティンは、
「クリスマスイヴはあさってなんだ。間に合いっこない」
と、悲しみにくれて言った。母親の愛情に満ちた手紙も、マルティンには、
「大人になれば分かります」
というようにしか受け取れなかったに違いない。
「いつかきっと」という気持ちと「今、ここで」という世界の両方を私たちは生きている。そこを幸せに生きることは、出来る。
(再び母の、そして私たちが育った小さな家の小さな庭です)
☆☆
母の家に行って、掃除と草むしり(冬は楽です)をしてきました。草取りをしていた私に、塀の向こうから声をかける小さな影。
「エビハラさん!」
私は思わず叫んでしまいました。何十年と見ない顔なのに、故郷に出会った気持ちとは、こういうのをいうのですね。広場の向こうの家で、もうひとりになってしまった気丈なお婆さん、庭のクリスマスなんとかいう木を株分けしてくれというのです。目だけはいいのよ、九十を越えていると思われるエビハラさんは可愛らしくそう言いました。でも、腰もしゃんとしていました。
☆☆
「聖教新聞」のCM、いいですねえ。私は別に公明党ではありません。でも、そば屋の夫婦が、いつもそこに食べに来るカップルの、とうとうプロポーズの瞬間まで立ち会うって、あり得ねえ~ なんだけど、目頭熱くしちゃいます。
~解決篇 その4~
罪と罰
保護者が学校に抗議に出向いてきた、という話が私のもとに入ってきている。
教室(授業)で、忘れ物チェックを多くの教師がやっている。しかし、このブログの多くの読者はご存知ない。その忘れ物を「点数」にしている教師がいる。少なくないぞ。今もこのやり方、健在なのだ。ワークといって教科書に準拠した問題集や、もちろん教科書も、忘れてなんぼの「減点」となる。このことがきっかけで、保護者が抗議に出向いたという。こういう保護者は今、モンスターペアレントなる愛称で呼ばれている。しかしこの保護者の場合、よく聞くと、このことだけで出向いたわけではなさそうだった。あれもこれも、といった鬱憤が重なっているようだった。
さて、こういった教師のやり方に、私は、あんまりほめられたやり方ではないですよ、とやんわり言ってきた。これは何せ、担当教師の考えに介入するわけだから、相手が青く(赤く)なって、
「私の教育方針に干渉するのですか!」
などと興奮するので、ついやんわりとなる。
しかし、結論から言えば、こんな間抜けなやり方は、いよいよこれから壊滅的な打撃を受けるはずだ。こんなことを点数化してどうなるんだ? こんなバカなことをやる連中の理由は、
○成績というものは、テストだけで測られるものではない
○私たちは授業で「勝負」している。そのことを軽く見ることは許されない
○必要なものを用意して授業に臨むことは大切で当然のことだ
というあたりだ。
思い切って言おう。この言い方、全部認めます。しかしとりあえず、この先生どもは「成績というもの」は「テストだけで測られるものではない」が「点数によって測られる」ということを実践していることに多分気付いていない。また、点数をつけ方が、自分の「主義/ポリシー」であることに気付いていない。
そして、肝心なことが抜け落ちている。過ちを犯したものには、それを責められる必要がある。そして、その過ちを本人に認識させること、これが肝心だ。それが抜けてるよ。「罪」を犯したものは「罰」を受けないといけない。
「はい、それじゃ2点引くから」
みたいな対応が「罰」だって言うの? これって「成績は点数でつけるものだ」って意味のことを後押ししてるだけだって気付いてる? 過失へ課す「罰」が「点数」とはお笑いだ。運転免許かよ。警察か、オマエは。
面白い話がある。ボクはもう塾で勉強してあるから、と授業中に本を読んでる生徒がいた、という。こいつから、教科書とワーク忘れの点数を引いた教師がいる。生徒も大馬鹿だが、この教師、救いようがない。
必要なのは、黙って名簿に「-2点」とかのチェックではないだろう。まず、
「どうして忘れた!」
と言わないといけない。例えば辞書なんかだったら、
「オマエ、辞書ぐらい(隣のクラスの奴から)借りられなかったのかよ。オマエ、友だちいねえんだろ」
と、それぐらいは言われてもいい。また内職に関しては、
「授業中だ、何をしている!」
と言われないといけないはずだ。点数を使って、こんな「教師としての威厳」にしがみついてる奴らは、ガムだの携帯だの、これから先どう対応するのかね。まあ、「(生徒が携帯やってるのに)気がつかなかった」とかいうやり方を使っている教師もいるのだが。
点数でしばるやり方で、確かに「生徒を怒らない」利点がえられるかも知れない。しかしもう、こういった教師連中の行く末は知れたものだ。
え? ボクはそんな生徒を怒っているって? だったらそれで終わりにするのが「指導者(先生)」だよ。それが「罰」ではないのか。それでも相手が反省しないなら、自分の怒り方や怒る理由にどこか問題があるはずだ。あるいはその生徒の胸の内が分かってない。出直すしかないのだ。
この機会に断るが、私は生徒に「優しく、思いやりをもって接する」教師である。しかし、同時に「全く容赦しない」教師でもある。ブログ上でしか私を知らない人たちは、私を「甘い」教師と思われるかも知れない、とこのシリーズの記事を書きながら思っている。そうではない。遅刻に関しては厳密に、そしてピアス/携帯に関しては厳しくて定評のあった私だ。ゼロ・トレランス(厳罰主義)と勘違いされて、市教委からの評判が良かった時期もあった。違うな。遅刻のようなものでは、その「手続き」をこっちがきちんとしていれば、生徒はそのチェックがどんなに厳密でも納得する、あるいはあきらめる。ピアス/携帯のようなことは、
「『したい』ことと『出来る』ことは違う」
ことを生徒に承認させないといけない。生徒は「子ども」だからだ。これは生徒それぞれ事情があるので大変だが、出来るし、しないといけない。
これを展開するとなるとまた大変な分量を必要とするので、この辺でやめとくが、とにかく私は「甘い」わけではない。
(主(母)のいなくなった家の庭です。小さなツリーにも注目ください)
「今がすべて」という大切さ
客観的な根拠のある成績の出し方、という手法は、注意してかからないと、厳密という流れに拍車をかける。そうしてエスカレートして、「証拠」を見せるという道に追い込まれる。この「証拠」を相手に示して納得させる、という方法は、本当は学校では「やってはいけないこと」だ。先日、横浜市教委がはしなくも暴露したことがこのことだ、と言ってもいい。通信簿の遅刻や欠席を、生徒に手渡す前に、保護者にチェックさせる、というものだ。
普段、
「教室(学校)は間違うところだ」
などと、子どもたちに言っている連中が、間違いは許されません、なる生活をしている実態が暴かれたということだ。今回のことで、大人になったら間違いは許されないことなのだ、ということを子どもたちが学んだだろうか。いや、市教委(先生たち)の卑屈なまでの慎重な姿勢に、子どもたちは不信感に近い違和感を持ったことは間違いない。過ちに気付いたら正す/謝るということをこそやるべきだった。「その時」が訪れた瞬間だった、と言える。過ちは同時に「納得」や「和解」というものの存在に気付く、いいチャンスなのだ。今回、学校が学んで欲しかったのは、根拠/証拠というものは、人を追い込むということだ。そういうやり方は、人を遠ざけることはあっても、お互いを近づける力を持ってないということだ。前半の「忘れ物減点」でも、このことが言える。
だいぶ長くなってしまった。本当はこれからが本題なのだが、また次回か次の機会とする。要点だけ言う。
○その時しか出来ない
○その時しか分からない
○その時しか得られない感動がある
○その時決定的な傷を負う
ことがある、ということだ。
ギムナジウム(寄宿舎)のマルティンは、
「クリスマスイヴはあさってなんだ。間に合いっこない」
と、悲しみにくれて言った。母親の愛情に満ちた手紙も、マルティンには、
「大人になれば分かります」
というようにしか受け取れなかったに違いない。
「いつかきっと」という気持ちと「今、ここで」という世界の両方を私たちは生きている。そこを幸せに生きることは、出来る。
(再び母の、そして私たちが育った小さな家の小さな庭です)
☆☆
母の家に行って、掃除と草むしり(冬は楽です)をしてきました。草取りをしていた私に、塀の向こうから声をかける小さな影。
「エビハラさん!」
私は思わず叫んでしまいました。何十年と見ない顔なのに、故郷に出会った気持ちとは、こういうのをいうのですね。広場の向こうの家で、もうひとりになってしまった気丈なお婆さん、庭のクリスマスなんとかいう木を株分けしてくれというのです。目だけはいいのよ、九十を越えていると思われるエビハラさんは可愛らしくそう言いました。でも、腰もしゃんとしていました。
☆☆
「聖教新聞」のCM、いいですねえ。私は別に公明党ではありません。でも、そば屋の夫婦が、いつもそこに食べに来るカップルの、とうとうプロポーズの瞬間まで立ち会うって、あり得ねえ~ なんだけど、目頭熱くしちゃいます。