実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

警戒区域の「絆」 実戦教師塾通信五百一号

2016-06-24 11:25:13 | 福島からの報告
 警戒区域の「絆(きずな)」
     ~「コミュニティ復活」の軽さ~


 1 東電調査委員会報告

「舛添とおんなじか!」
読者も「炉心溶融(メルトダウン)」発表が二カ月遅れた、原発事故の検証結果に注目したはずだ。楢葉の酪農家・渡部さんは、吐き捨てるように言った。
 第三者委員会の、
「メルトダウンを認めてはいけないと、官邸/政府の指示があった」
という報告書だ。「官邸からの指示があった」にも関わらず、当時の官邸関係者に聞き取ることもしなかった報告書である。それを作った第三者委員会とは、事故を起こした大元である東電が選出したメンバーなのだ。そのことを、意外にも渡部さんは知らなかったようだ。
 都知事の政治資金流用について調査する弁護士を、あろうことか、渦中(かちゅう)の舛添本人が決めた。渡部さんはそのことを、東電の調査委員会と並べて吐き捨てたのだ。
  遅ればせながら東電は、
「社長個人の考えはどうなんですか」
という記者の突っ込みに会い、「隠蔽です」とつぶやくこととなりました。これって、もう面倒になったし、みたいな投げやりな姿勢に、皆さんは見えませんでしたか。

 私たちは、いくつかのことを押さえておきたい。
(1)「メルトダウン」報告マニュアルを、東電内で共通理解されていたかどうかという調査だが、それを要請したのは、新潟県/泉田知事である。規制委員会や、ましては政府ではなかった。それで、新潟県/柏崎原発を抱える東電が、渋々(しぶしぶ)腰を上げた。
(2)この報告書に対して、すぐに当時の首相・菅直人と、枝野幹事長が反論した。しかし、二点思い出しておこう。

○原子力安全・保安院が、震災翌日の3月12日、
「メルトダウンが起きた可能性が高い」
と、記者会見で発表している。私の記憶が正しければ、こう言ったのは中村審議官で、この発表を最後にカメラの前から姿を消している。まさかこのことを、あの時の首相も官房長官も、
「官邸/政府は関知していない」
とは言うまい。あの時の検証は、まだされていない。
○当時、記者会見の席上で、
「緊急事態宣言は『万一の備え』で、心配はない」
「ただちに健康に被害を及ぼすものではない」
「5(10)キロ圏内から外にいれば大丈夫」
と繰り返したのは、事故当時の官邸/政府である。スピーディ(放射能影響予測)を公表しなかったため、放射能が拡散する方へと避難した浪江町の馬場町長は、
「このこと(公表しなかった)は殺人行為に匹敵する」
と言った。
東電報告書への菅/枝野の反論を、そのまま受け入れていいかどうかためらうのは、私だけではないだろう。

「でも、このタイミングで発表だ」
「政府の思惑(おもわく)は7月の選挙だよなあ」
渡部さんは、そう言ってため息をつくのだった。

 2 「コミュニティの復活」?

これだけ見れば「絶景」と言っていい。天神岬から見たいつもの景色。海の靄(もや)が、広野の火力にかぶさっている。

しかし、その脇にひしめいている、指定廃棄物の山。なのだ。

渡部さん宅のブルーベリーが元気だ。熟(う)れて地面に落ちているのを少し食べた。大きくてうまい。向こうに広がる畑は「ひまわり」だそうだ。大きくなったら地面と混ぜて「肥料」にするらしい。

「いつも世話んなってっからさ」
「今日はお昼を食べに行こうよ」
渡部さんはそう言って、私を誘ってくれた。私たちは、天神岬総合スポーツ公園の、海を眺望(ちょうぼう)するレストランに出向いた。

図々しく、刺身定食を頼んだ私の後に、渡部さんはビールを注文。
「昼間っからビールなんてよ」
「今日は雨だって言うから、野良(のら)の予定、入れなかったんだよな」
まぁいっかとぼそぼそ言った後、コトヨリさんよ、
「あいつも、楢葉に戻ったらダメになっちまった」
なんて思ってねえか、と言葉を継(つ)いだ。意外なことを言うと思った私に、渡部さんは東日本大震災の話に、この間の熊本地震の話をつないだ。東日本大震災というより、原発事故と地震による災厄(さいやく)の違いだ。原発事故ってのは人災だよ、酔いが回って来た口が何度も語る。

 以下は、同じく楢葉の方が話してくれたものだ。
○一人当たり月十万の補償金は、五人家族だと、月五十万の収入
なんにもしないで、働かないでだ。給料が五十万の仕事って、そんなにあるもんじゃない。
○事故前まで生活保護を受けていた家族は、さらに加算される
保護を継続していいもんか、普通はやっぱり考えるよ。
○それで、おかしくなる人も出てくる
補償金を賭け事や投資につぎ込んで、多くの家族が解体した。
○地震や津波で被害にあった人たちは、おれ達を悪く言う
使い込んだ人たちのことを、
「何もしないで、買い物とパチスロだ」
と言う。そして、こつこつ貯(た)めて家を建てれば、
「補償金で豪邸を建てた」
と非難する。その通りなんだ。津波で家を流された人が、家を建てられるかって。
○おまけに、発生した補償額の差で、地元同士が険悪になる
そんなことでケンカしてもしょうがねえって誰も言えねえんだ。

これに似た話を、前もどこかで聞いたと思ったが、思い出した。2011年、塩屋崎灯台近くにあった避難所でだ。ホテルが楢葉の人たちの避難所になっていた。そこで雇(やと)われの受け付けをやっていたのが、「ニイダヤ水産」社長だ。社長が言っていた。
「この補償金てのがやっかいだ」
という言葉。

 渡部さんたちは、原発を目当てに福島に「移民」して来た人たちではない。菩提寺(ぼだいじ)も楢葉にある、根っからの住民である。そんな人たちの思いを聞いて、私はじっと黙っているだけなのだ。
 復興の要(かなめ)は、コミュニティの復活だという話を最近よく聞く。しかし、分断され、不安や憎しみまで交錯(こうさく)するものを「コミュニティ」とくくれるものだろうか。渡部さんたちの出口/入り口は、どこにあるのだろう。


 ☆☆
広野二つ沼の直販所で、おばちゃんたちと浪江の馬場町長のことをほめたりしていた時のことです。
「たまにこちらにいらっしゃるんですか?」
と、私に話しかけるお客さんがいました。きっと、どこかの避難所か仮設住宅でお会いした方なのでしょう。どちらでお会いしたのでしょう、とストレートに聞けば良かったのですが、うまく言葉が見つからず、申し訳ない思いでした。

 ☆☆
学校、やっぱり楽しいですね。今週、何となくそんな気分になって、現役時代にやってた、給食の「残菜配り」をやってしまいました。
「ください」「少し」「たくさん」
という子どもたちがかわいい。この時間の「いい感じ」を思い出します。
それにしても、はっきりしない天気は、仕方のない梅雨ですからね。プールに一度も入ってませんよ。

技術ではなく(1)  実戦教師塾通信五百号

2016-06-17 11:24:08 | 子ども/学校
 技術ではなく(1)
     ~「堂々巡り」との確執(かくしつ)~


 1 志(こころざし)を同じくする人たちに

 このブログも五百号という節目を迎えた。我ながらすごいものだと感心する。でも、五百号ということで、特に大見得(おおみえ)切った記事にはならない。自然な成り行きということで、「子ども/学校」を書きます。

 私のところに来る大人(教員/親)は、大体が「相談」を抱えてくる。そのせいだろう、大方は問題の「分析(ぶんせき)」に終始する。ああせいこうせい、という方向になるのはあんまりない。一体どうなっているのか、ということの後は、しばらくの静観(せいかん)が不可欠だからだ。または、静観出来るゆとりが生まれるからだ。
 しかし現在、非常勤という立場になって、子どもたちの様子と同時に、先生たちの動向をひとつひとつ見て行くというのは、また違うのだなという感じを、私は受けている。
 最後の勤務校で、私は最初にして最後の「サブ(副担)」というものを、2年間だけ経験した。私はいま、あの時の自分の立ち居振る舞いを思い出している気がする。

 今お邪魔している学校の、若い先生たちがとてもいい。いろいろ言う私の言葉が、まるで砂にしみ込んで行っているように、私は感じている。彼らの熱意と、多分なのだが、目には見えないところから、私へサポートがあるからなのだろう。
 そんな先生方と、そして、おそらくは同じ志を持っている教員/親たちへのエールとして、今回のテーマを設定した。テーマ「技術ではなく」は、きっと多岐(たき)にわたる。連載とはしないが、何回かにわたって書くつもりである。

 40年前の運動会のスナップ。木製の椅子に注目!

 2 禁止事項
 初めて私が教職について、意識せずにやっていたこと、それは「禁止事項」を少なくすることだった。注意することを控(ひか)えたというのではない。
「○○してはいけない」
ことを決まりとすることと、○○を注意することとは、似ているようだが、まったく別物なのだ。たとえば、
「おしゃべりしてはいけない」
という時に、それが「決まりだから」というのでは、省エネが過ぎるから。ではない。それは「それぞれの事情」を理解する道が閉ざされるから、である。間違って欲しくないが、「おしゃべりしてはいけない」と注意するのはいいのだ。子どもたちは「他愛のないおしゃべり」に迷い込むのを生業(なりわい)とするし、中学生ならば、「無視していい教科担任」にあてつけるかのような、「悪意をはらんだおしゃべり」にいとまがない。「聞きなさい」と注意するのは当たり前だ。
「これは約束(決まり)のはずよ」
と言うのがいけないのである。
「一体何をしゃべっているんだ」
という態度を失ってはいけない。探(さぐ)りをいれるか、様子をうかがっていれば、その中に「事情」が見えてくる。また繰り返すことになるが、それで、自分の授業の展開の間違いに気づいたり、友人間の変化や事件/事情を知ることになる。
 そんなことをしながら、
「他愛のない/悪意をはらんだ」おしゃべりの間に漂(ただよ)う様々な要素を、私たちは毎日のように発見している。この七面倒くさい作業を、私たちはやっているのである。「決まりに依存する」先生も、本当のところ、この道を断念しているわけではない。しかし、多くの困難な現実を前に、自分のキャパを狭(せば)めて行ってしまう。曰(いわ)く。
「決まりです」
「校則で決められてます」
そしてまた、
「いじめは犯罪です」
等、生(なま)の「豊かな現実」を切り離し、切り抜けようとする。このように私たちは、常に教師としてのキャパが問われている。
 少し脱線します。前前回のブログの「」印で言いましたが、
「五輪招致の規定に『買収はいけない』というものはなかった」
なんてのは、この「決まり」の生活にどっぷりと漬(つ)かってきた連中の言葉です。
 たまにいる中学生の話で言えば、
「(ガラスを割っちゃいけないって)校則にないし」
と同じレベルだということです。「決まり」からは、低レベルの「逆襲」もあるのです。

   同じくこれも40年前の遠足の風景。暑い日だったみたい。

 3 「我慢は禁物」
 そんなこんなで、私たちの毎日は我慢/忍耐の毎日である、と言える。しかし、
「我慢は禁物」
なのだ。
「オレが我慢してるのが分からんのか!」
という叫び、家庭でも夫婦でも男女の間でも、どこでも聞けるこの叫びは、非常によろしくない。まず大切と思えるのは、

○我慢は美徳ではない

領域があるのを知ることである。
 これは実際の場面ですぐに証明される。

 怒る/怒鳴る/手が足が出る

というように、だ。これらはすべて我慢が過ぎた結果だ。「我慢は美徳ではない」のだ。こちらが我慢していることを、「相手」は知らない。親子だろうが、恋人同士だろうが、ましては、相手が生徒/子どもだったら、
「伝えないことには分からない」。
まずひとつ、「言わなくても分かるはずだ」という言葉、それは相手に対しての「甘え」である。私たちはきっと、子どもたちに何度も口を酸っぱくして同じことを言っている。しかし、私たちはまったく同じ情況を、目の当たりにしているのだろうか。

○同じくそうじはしなかったが、昨日はさぼり、今日はケンカだった
○今日も忘れ物をしたけれど、前回忘れたものを今日は持っている

私たちにとってはどうでもいいように見えることが、子どもたちには重要なことなのだ。そして、子どもたちの日々は目まぐるしい。面倒なことだ。子どもたちの世話することを、「面倒を見る」と言う。名言ではないか。こんな面倒を見ている事自体が、「我慢」でなくてなんだろう。我慢がやっかいなのは、
「知らず知らずにしてしまう」
からだ。

 だから、私たちが出来る事、それは、その時その場で、
(1) 自分の「我慢がならないこと」を自身が把握(はあく)すること。
である。そして次は、
(2) それを相手に伝える事。である。出来るだけ速やかに。
しかし、それが出来ないときがある。伝える言葉や方法が見つからないかららだ。その時私たちに、もう一度「我慢」と呼ぶものがやって来る。このように、我慢はいつも「堂々巡り」を押しつけて来る。でも、私たちに残されているのは、「1」「2」の道に立ち返り、「面倒を見る」ことだろう。この現実を私たちは承認しないといけない。日々、私たちが「知らず知らずにしてしまう我慢」は、自覚することでさばいて行く以外にないのだ。
 何も分かってない「評論家」や「ベテラン/指導者」は、
「絶対不変/普遍」の「方法/技術」
を、説いて訳知り顔をする。しかし、そのことが、子どもを理解する場所から撤退する行為だとは、気がつかないのだ。


 ☆☆
さて、プールの季節となりました。まさかこの年でプール指導をするとは思わなかった。そして水着を買おうとは思わなかった。
楽しみですよ。

     あっと言う間にこんもりと、手賀沼蓮畑です。

 ☆☆
イチローすごいですねえ。嬉しいです! 雑誌Numberでイチロー特集を組むと、必ず私は買って熟読するのです。そして、やっぱりひと通りでない胸の内を知り、感動するのです。頑張るぞ~

アリ逝く  実戦教師塾通信四百九十九号

2016-06-10 11:37:04 | 戦後/昭和
 アリ逝(い)く
     ~またひとつ「戦後」が終わった~


 1 朝日新聞対日刊スポーツ



 初めの写真が、朝日新聞のトップを飾った記事。次が日刊スポーツのぶち抜きの写真である。もう、まったく態度が違う。何が「モハメドアリさん」ですか。知り合いか友人に言ってるような軽さだ。この際に言いたい。コメンテーターや司会が、よく「漱石さん」だの「聖徳太子さん」などと言ってる。相手は「一休さん」や「(吉田)類さん」ではないぞ。双方ともに庶民から愛されたから、というつもりか? 下がれ、無礼者め! 私たちはしかるべき時、その人物を尊敬するため、あえてその人物を「敬称抜き」にしているのだ。
「アリよ さらば」(日刊スポーツ)
だ。当たり前だ。

 2 ベトナム戦争
 ブログのジャンルで、一瞬迷った。もちろん「武道」ではない。「エンターテインメント(興行/娯楽)」とすべきか、と。しかし、同時代に生きた私たちだったではないか、と恥ずかしながら、そして思い入れたっぷりに「戦後/昭和」で書かせてもらう。
 読者もニュースでたくさん目にしただろう。1967年、アリはベトナム戦争に反対し、
「ベトコン(南ベトナム民族解放戦線の蔑称(べっしょう))が、オレをニガー(黒人の蔑称)と差別したことはない」
と言って、徴兵(ちょうへい)を拒否する。その後、それがもとでヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪(はくだつ)される。
 アメリカの1960年代とは、黒人差別(正確には「有色人差別」)がまだまだ顕著だった。たとえば、アランパーカー監督の『ミシシッピーバーニング』(1988年)を見ただろうか。黒人の公民権運動を押し進める若者が殺されるという、実在の事件がもとになった映画だ。手洗い場の「colored(有色人用)」と書かれた蛇口から水を飲む黒人の少年。その冒頭シーンは、見るものの目を引きつけた。そして同時に、ナチス時代の「ユダヤ人専用ベンチ」を思い出したはずだ。
 アリが、当時こんなことをバックに、
「なぜオレが、罪もない有色人の頭上に爆弾を落とす必要があるんだ」
と言った意味の重さと価値はとてつもなかった。

 アリが発言して半年がたって、当時の日本の総理佐藤栄作が、南ベトナムを訪問する。日本が南ベトナムへの支援を約束する、というのだ。総理が訪問する南ベトナムとは、この時、南ベトナム民族解放戦線(以下、「解放戦線」と表記)に「手を焼いていた」南ベトナム政府のことだ。1965年に北ベトナムの爆撃を開始したアメリカが、その南ベトナム政府を支援していたのはもちろんだ。

1967年10月8日、総理佐藤の南ベトナム訪問を「阻止」する、学生中心のデモ隊が羽田に向かう。写真の奥に羽田が見える。ヘルメットと「ゲバ棒」が初めて登場したデモとして注目された。京都大学の山崎博昭が、機動隊の装甲車に轢(ひ)かれて亡くなっている。当時、私たちは「ベトナム戦争の真っ只中」にいたのである。
 そして、この日と同じ日、

ボリビアで捕まったゲバラが、処刑された。

 3 差別撤廃と平和のシンボル
 再び、アリ逝去(せいきょ)を伝える両紙に戻ろう。アリが徴兵を拒否した顛末(てんまつ)のとらえ方である。まずは朝日。アリ入隊拒否直後の世論に視点を置き、
「批判も多かった」
とする。日刊スポーツはこうだ。アリは、
「たった一人で米国に拳(こぶし)を向けた」
アリは戦った、というのだ。この違いは大きい。このあと、その違いがもっと鮮明になる。つまり、ベトナム戦争が長期化する中で、全米/全世界で反対運動が広がる。それで、
「アリさんの姿勢も支持を集めるようになる」(朝日・国際面)
などと間抜けなことを書く。引っ込め。
「アリの闘いは『聖戦』として支持されるようになる」(日刊スポーツ)
のだ。違いをはっきりさせよう。アリをみんなが支持したというよりは、アリが全米/世界のリーダーシップを取った、と言うべきだ。日刊スポーツの表現はそうだ。
 ダラス支局の記者らしいが、この朝日の記事は、
「信念を通した姿勢が米国でも評価されるようになった」
とかいう、ふにゃふにゃ路線で結ぶ。しかし、正確には、
「ついにアリは連邦最高裁で無罪を勝ち取り、差別撤廃と平和のシンボルとなる」(日刊スポーツ)
のだ。繰り返すが、世論がアリを支持して守ったのではない。アリが世論を作り出したのだ。スポーツのことはスポーツ紙にかなわない、などと言い訳を言うなよ。アリは戦後世界をリードしていた。アリのすごいところは、このあとだ。無罪を勝ち取っただけでは「シンボル」にはなれない。それでは「反戦活動家の一人」となる。しかしこのあと、アリのパンチは当時無敗だった最強のフォアマンを倒し、「キンサシャの奇跡」を起こす。1967年のタイトル剥奪から7年が過ぎていた。その姿は、
「オレは正しかったんだ!」
と言っているかのようだ。アリは世界を制覇(せいは)した。

 1996年のアトランタ五輪を忘れない。あの震える身体で、精一杯聖火を支えたアリの姿を。パンチドランカーによるものかと思っていたが、パーキンソン病だった。そのことを、ここでやり玉にあげた朝日新聞で知った。朝日に連載されている、沢木耕太郎の小説『春に散る』に書いてあった。取り上げたついでに言うと、この時のアリの姿を、パンチドランカーだとあざ笑った通りがかりのチンピラを、路上で殴り倒し服役(ふくえき)した元プロボクサーが、この小説に出てくる。多分、この元プロボクサーは、アリがパンチドランカーだとされたことに怒ったのではない。アリをあざ笑うことを許せなかったのだ。アリはこうして語り継がれている。

不可能とは、自分の力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉だ。
不可能とは、現状に甘んじるための言い訳にすぎない。
不可能とは、事実ですらなく、単なる先入観だ。
不可能とは、誰かに決めつけられることではない。
不可能とは、可能性だ。
不可能とは、通過点だ。
不可能なんて、ありえない!

アリが死んだ。感謝を込めて。



 ☆☆
この解放戦線(蔑称として「ベトコン」)は、今だったらきっと「テロリスト」と呼ばれるのでしょう。しかし解放戦線は、北ベトナムと手を結んでアメリカと戦い、ベトナムをひとつにしました。そして社会主義政権を樹立します。今、中国と対立している、そしてアメリカと和解したベトナムがそうなんです。
つくづく歴史から学び、歴史を追わないといけないと思うのです。

 ☆☆
北海道の事件がきっかけで、「しつけ」論争がずいぶんと姦(かしま)しいですね。「しつけ」とするから、それが正しいかどうかという不毛な議論になるのです。それでまた、潔(いさぎよ)い態度をとれない、みっともない大人が増えるのです。
「腹が立ってやってしまった」
とは言えない社会になってしまったのですね。こう言える大人は虐待などしない。この言葉を発した時点で反省しています。

大統領の英断  実戦教師塾通信四百九十八号

2016-06-03 12:26:03 | 戦後/昭和
 大統領の英断
     ~私たちの「戦後」~


 1 「大統領のカバン」


27日の夕方、知らずにテレビをつけたら、この場面に遭遇(そうぐう)した。忘れていたわけではなかったが、歴史的瞬間を生で見る幸福を得た。
 オバマ大統領が歩み寄ると、被爆者のひとり坪井さんが熱く語り、森さんが泣き崩れた。こんな瞬間が来ると思わなかったと、池上彰が号泣(ごうきゅう)したとは、あとで知った。
 いつでも核攻撃が出来る「大統領のカバン」をこの日も持っていた、という批判は、アメリカのいわゆる「ダブルスタンダード(建前と本音)」への批判なのだろう。核ミサイルのボタンが、迎撃(げいげき)のためのものなのか報復のものか、両方なのか知る由もないが、このカバンを手放せない現実を、大統領は否定していない。
 考えてみよう。今回の出来事は、並のことではない。とりあえず、真珠湾の「不意打ち」作戦を、また南京での事件を、そして東京大空襲を、私たちが思うほど、世界は注目してはいない。これらのことを、それぞれの国々が一定の時期に、あるいは唐突に取り上げるのだが、周囲(世界)が、とりわけ欧州(ヨーロッパ)は思ったほど反応しない。おそらく、
「戦争なんだから」
という理由からだ。戦時中、どの国でも似たことを起こしている、あるいは起こっているからだ。しかし、広島/長崎は違っている。核兵器が、
「mankind possessed the means to destroy itself(人類が自らを破壊できる手段を手にしたことを示した)」
からだ。
 間抜けな「大統領のカバン」批判は、
「日本自身も核の傘に守られている」
矛盾(むじゅん)を抱えるという浅はかなコメントと、ほぼ同じ意味だ。ここには、語る当事者の核に対する決意や勇気はない。
「核兵器に殺されるよりも、核兵器に反対 して殺されるほうを私は選ぶ」
と言ったのは、その昔、自民党の重鎮(じゅうちん)として活躍した宇都宮徳馬である。こういうのを決意や勇気というのだ。安全なところから語る無責任な連中とは月とスッポンだ。
 この最終兵器の出現とは、これを所有するもの(国)が、
「戦争をすることなく、相手国の人々を捕虜にした」
ことを意味する。私たちの北朝鮮核開発への恐れとは、私たちが捕虜になることの恐れを意味する。相手の懐(ふところ)に収まることへの恐怖が、私たち内部に発生しているということだ。ここに、核兵器の究極性がある。
 オバマ大統領が核ボタンを携帯している、という批判はたやすい。しかしそれを放棄するのは、大統領自身が言う「courage(勇気)」を持った決断が、世界的/歴史的にされていかなければならないという話なのだ。

 2 ユダヤ人問題
 原爆が話題の折り、よくアインシュタインが顔を出すので、少し違和感を抱く人がいるのではないだろうか。

1937年、ルーズベルト大統領に原爆の開発を訴(うった)えたのは、アインシュタインである。アインシュタインがユダヤ人で、ドイツからアメリカに避難していたこと、この時ドイツが、核兵器を急ピッチで開発していたことを思い起こせば当たり前のことではある。しかしこのあと、ルーズベルトのあとを引き継いだトルーマンに、
「日本に原爆を落とすのはやめて欲しい」
と、アインシュタインたちは願いを出すのである。日本は多くのユダヤ人を助けていた。(少しそれるが、確かあの満州に、ユダヤ人の集落を作る計画もあったと記憶している)。原爆投下反対の願いは、多くのユダヤ人科学者によって、必死に訴えられたという。
 この出来事は、日独伊三国同盟の内実は、普遍的なものではなかったことを示している。また、ユダヤの人達が思うように、日本が、
「人種差別的イデオロギーにとらわれない」
国だったのか、考えさせる出来事でもある。私たちは、依然として「戦後」の真っ只中にいるのだ。

 3 私たちの「戦後」
「沖ノ鳥島は『岩』である」
とは、つい先だって元台湾総統・馬英九の主張である。5月の選挙で新しい総統(ツァイインウェン)が生まれ、この発言を撤回したので、もうこの時期の生々しさは薄らいでしまった。しかし、沖ノ鳥島海域で活動する台湾の漁船を守るために、馬英九前政権が軍艦を送ったことは記憶に新しい。
 親日(しんにち)国として上げられる台湾である。台湾での世論調査で、日本に好感を示す人々は、依然として7~9割だという。だから私たちは、沖ノ鳥島を「岩」とする馬英九に対して、ずいぶん唐突な印象を持ったはずだ。
 「台湾独立派」への選挙対策として持ち出された、この窮余(きゅうよ)の策は置いとくとしよう。私たちの検証の出発点は、台湾が日清戦争(1894年)後に日本の統治下に入るところだ。当然ながら、総督府(そうとくふ)の大臣たちはみんな日本人で、台湾での公用語を日本語とした日本である。台湾の人々から憎(にく)まれないはずはなかった。反日運動は激しかったのだ。
 その後、台湾の日本統治はいくつかの時期を通過して、変化を遂(と)げたと思われる。分かりやすい例で言うと、台湾で「尊敬する人物」を調査した(1930年)結果によると、昭和天皇が蒋介石をしのいでいる。この時期は、蒋介石が率(ひき)いる国民党軍が、中国共産党軍を制圧したあとだ。反日の気運は穏(おだ)やかだった。
 そして、劇的に変化するのは、おそらく「戦後」だ。敗戦国日本は、台湾を「本国」に返還する。しかしその時、「本国」は国民党と共産党が激しくしのぎを削(けず)っていた。その後、共産党に破れた蒋介石(国民党)に、アメリカは台湾を任(まか)せた。アメリカは中国大陸を制圧した共産党に、台湾を任せるわけにはいかなかったのだ。
 そのあとだ。台湾に、
「まだ日本の方がましだった」
ことが続けざまに起こる。日本への好感度が膨(ふく)れ上がる。

 台湾の向こうに中国大陸が、そしてその中に「満州」がある。中国は、今回のオバマ大統領広島歴訪に際し、
「日本に被害者面させてはいけない」
と言った。
 おそらく、人種(ユダヤ人)問題や戦争の過去を乗り越えるべく、大統領はやって来た。オバマ大統領と同じ発言がある。

「私たちの運動は、むしろ今日が出発点であります。……世界平和への望みは未来に輝いています」(第一回原水爆禁止広島世界大会宣言/1955年8月8日)


 ☆☆
2億円を上回る金額が五輪招致に使われたという話、どうなるのでしょうか。
「五輪招致の規定に『買収はいけない』というものはなかった」
という関係者の話に開いた口がふさがりません。なんとかならんでしょうか。玉木さん頑張れ!

 ☆☆
今日は全校集会でした。子どもたちの前で話しました。「新しい先生の紹介」だったのです。たまたまだったのですが、「駒形どぜう」のTシャツを着ていたので、
「うなぎが好きなんです」
と話しました。
        
   読者(母親)から送られてきた、運動会のお弁当です