徒然刀剣日記

刀剣修復工房の作品・修復実績と刀剣文化活動のご紹介

インドネシア刀剣紀行(その3)

2015-04-22 17:07:33 | 徒然刀剣紀行
本日、インドネシアの首都ジャカルタでアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の60周年記念首脳会議が開催されています。日本からは阿部首相が参加しています。

かなり時間が経ってしまいましたが「インドネシア刀剣紀行(その2)」(2014/10/03)の続きを投稿します。


アジア・アフリカ会議会議場

インドネシアの地方都市バンドンは、国中の高等教育機関が集中していて学園都市の様相を呈しています。標高が高いことから日中でもすごしやすく、日本よりも若干涼しいぐらいの気候です。イメージ的には軽井沢をご想像頂ければシックリきます。


バンドン工科大学のキャンパス

車で数時間移動すれば、手付かずの自然や一面広がる茶畑の絶景を満喫する事も出来ます。


タンクバン・プラフ火山の噴火口


見渡す限りお茶畑

ここバンドンは、戦時中に日本軍が司令部を置いたこともあり、日本との関係も濃厚です。現地の駐屯地には軍事記念館が併設されており、日本兵の刀剣類も数点展示されていました。


展示品の刀剣、一振りのみ造兵刀を確認

山中には、日本軍が作った地下要塞なども残っており、観光地として地元の人にも人気があります。



繁華街には、日本でもお馴染みのカフェや飲食店が立ち並び、コンビニの品揃えはほぼ日本と変わりません。



今回は軍隊の協力を得て、インドネシア軍の元大佐のご自宅へお邪魔しました。もちろん、残留日本刀の調査が目的です。


若かりし日のご老人。日本軍より教練を受けた遊撃隊の最後の生き残りという。

拝見したお刀を、日本製と断言することは出来ませんでしたが、拵えの工作に関しては、間違えなく刀剣の知識を持った人間による柄巻きが施されていました。刀剣職人が従軍していた可能性は否定できず、先輩職方の足跡に触れることができました。


持ちやすい柄成をした一貫巻きの柄前

かの地では、終戦後も自由意志で現地に残り、インドネシア独立のために戦った日本兵がいました。約千名の日本人が西ジャワから中部ジャワを拠点に独立戦争を戦って大半が戦死したそうです。ちなみにインタビューをお受け頂いたご老人は、その後の人生でも常に上官から教えられた言葉を胸に生きてきたと言います。その言葉とは「死ぬまで戦う!」。流暢な日本語でした。
また、終戦後に帰国を夢見て引揚船に乗った2000名の日本人が、オランダ軍に撃沈され非業の死を遂げた事実を日本に伝えて欲しいと懇願されました。

イベント最終日に愛好家が持参してくれた日本刀です。
関鍛冶の真面目な作品で、大切に保管されてきた経緯を考えると考え深いものがありました。


濃州住氏房作の昭和刀、錆身なれど兼房丁子の美しいお刀でした。

この度のイベントでは、武家文化の紹介事業としてはインドネシア初の試みでした。今後も両国が文化交流を重ねてよりよいパートナーシップを結んでいくことを願って止みません。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿