( 左上は、北園街からみた開元寺大門。
右上は、開元寺三川門の梁に描かれた装飾。
色使いがきれいで、図柄もすっきりとしている。 )
「 台南の古跡のなかでも、あまり日本人に知られていない開元寺について
日本統治時代から第二次大戦前後にかけて起こったことを書いてみよう。 」
と思って書き始めた開元寺の話だが、
やってみたら、全3編になり、これまでで一番長い話になってしまった。
内容が、歴史年表みたいで
読むのには結構骨が折れるけれど、
色々興味深い内容もあるかと思うので
最後までがんばって読んでくれるよう、是非お願いする。
( 開元寺三川門の門扉に書かれた天部の絵 )
( ” 開元寺 ” 周辺地図 )
さて前回は、
1930年(昭和5年)に日本留学から帰ってきた證峰が、
得圓法師を助けて開元寺の管財権を守ったところまで書いたので、
今回はその続きから。
1930年(昭和5年)、
開元寺の管財権を確保した證峰は、その年に
全台湾の仏教者が参加する ” 南瀛佛教會 ” の講師に選任され、
自身、修行に励むと同時に、
台湾仏教会の思想的リーダーとしての活躍を開始した。
そしてこの後、
(1)” 真心白話直説註解 ”、” 仏説堅固女経講話 ” など多数の著述。
(2)” 台湾工友総連盟 ” へ参加、” 赤道報 ” の創刊。
(3)” 南瀛佛教會 ” の講師としての活動。
(4) 開元寺内での ” 仏学研究会 ” 開催。
等の精力的な活動を通じて、仏教改革・社会改革を実践していった。
前回、證峰の宗教活動を
” マルクス主義を仏教に融合させる ” と書いたが、
実際の所、證峰が主張していたのは
” 階級闘争 ” とか、” 抗日本帝国主義 ”
のような狭義の社会主義思想では無く、
唯物論的な立場から仏教を実践していくことや、
弱者を救済し、公平な社会を実現すること を重視したものだった。
證峰の思想の特徴は、
(1)人間浄土思想
仏教の目的は、来世浄土を頼むばかりのものではなく、
積極的に社会活動に参加し、現世に公平で快活な世界を実現させるよう
働くのが菩提心である。
(2)一仏的思想
仏は本来一つの超越した存在で、宗教が色々あるのは、
仏のことを人間が色々な名前で呼んでいるだけで、
人間のこだわりの部分を除けば、宗教の合作ということは
自ら問題はないものである。
(3)女人成仏思想
男だけが悟りを開いて仏になる というような従来の仏教思想は
自然ではなく、男女は平等で、女性もまた仏になるものである。
( 證峰は、女性解放論者でもあった。 )
というような所に、表れていると考えられる。
( 左上は、開元寺後殿・大士殿の外観。ここと僧坊は二階建てになっている。
右上は、大士殿一階の釈迦如来像
( 実はこの仏像が釈迦如来なのかどうについては良く判らなかった。
印相が法界定印なので、釈迦如来と思うが、
衣服が菩薩型だし、髪型も螺髪ではない。
ただ、背景が川なのを見ると、釈迦がネーランジャー川のほとりで
悟りを開いて如来になったばかりの時の像なのかもしれない。
あとで開元寺の人に確認の上、この部分訂正することとする。 ) )
1934年(昭和9年)、
この年の10月10日、稀代の俊才・證峰法師 林秋梧は、
若干31才の若さで、肺結核により他界してしまった。
その活動は、わずか数年というごく限られた期間のものだったが、
證峰が台湾仏教会に与えた影響や業績は、多大なもので、
台湾大学の楊恵南教授はその著述の中で
” 日本統治時代の台湾仏教会に、もし林秋梧がいなかったなら
それは、暗闇に何の灯りもないのと同じことだっただろう。 ”
と述べている。
( 左上は、大士殿2階に安置されている観音像。
一般の参拝客はここまで入れないので、望遠で外部から撮った写真。
右上は、開元寺で育てている花や草など。 )
1943年(昭和18年)、
證峰が亡くなってから9年後、
得圓法師が引退し、證峰と同じく日本の駒澤大学に留学していた
證光法師 ( 高執徳 ) が、開元寺の住持に選任された。
證光の思想も證峰と同様の進歩的なものであり、
著述も多く、仏教学者として立派な業績を残しながら
仏教改革を推進していった。
1945年(昭和20年)
終戦。
日本による台湾統治は終了し台湾は中国に返還された。
翌年には南京に国民政府が樹立され、
台湾人の国籍も中国籍となることが決定された。
この頃から、国民党と共産党の対立が激しくなり、
内戦の結果敗走した蒋介石と国民党が、台湾に移動してきた。
1949年(昭和24年、民国38年)
中華民国が成立し、台北が首都になる。
この2年前には2.28事件が起きて、
国民党による白色テロが始まっていたが、
この年には、” 仏教概論事件 ” と呼ばれる
政府による一連の宗教者弾圧が起こった。
1953年(昭和28年、民国42年)
證光は、学習活動の一環として
中国の左派僧侶巨贅を台湾に招待しようとしたが、
崗山派の僧侶がこのことを通告したことにより、
中華民国保密局に逮捕・投獄されてしまった。
1955年(昭和30年、民国44年)
前年の裁判の結果、無期懲役の刑が決まっていた證光だったが、
蒋介石が 「 刑が軽すぎる。 」 と判断し、
量刑は死刑に変更され、
この年、銃殺刑に処せらた。
證峰と同じ宗教改革路線を実践していた證光だったが、
同様の改革活動を実施していても、
時代が、もう證峰の時のものとは違ってしまっていた。
( 左上は開元寺に隣接する ” 開元慈愛病院 ” の観音像。
右上は、開元寺が経営する ” 開元慈愛病院 ” 。 )
1953年(民国42年)、
證光が逮捕された後、開元寺の住持には印相法師が選任された。
1958年(民国47年)、
台湾政府は ” 施耕者有其田土地 ” 政策を実施し、
開元寺は多くの所有地を手放さなくてはならなくなり、
結果として財政危機の為、税金も払えない状態になった。
1959年(民国48年)、
開元寺は、竹渓寺の住持であった眼浄法師を兼任で住持に迎えた。
眼浄法師は高徳の僧で人望もあった為、
債務処理が順調に進行し、募金なども集まり、
開元寺は財政危機を乗り越えた。
1969年(民国58年)
眼浄法師が他界し、後任の住持に悟慈法師が選任された。
これ以後、
開元寺は悟慈法師の方針に従って
宗教活動を行うと同時に、
開元寺に隣接して、病院、幼稚園、老人ホームなどを開設し、
一般市民に対する地域密着型の寺の運営を行い、
- そして、現在に至っている。
さて さて 、
本当に長い話になってしまったが、
やっとこさ、戦後~現在までたどり着いたので、
” 日本統治時期前後に開元寺に起こったこと ”
のオレなりのまとめも、
この部分をもって、おしまいにすることとする。
長いこと我慢して読んでいただいた人達に、大変感謝します。
どうもありがとうございました。
--------- 以下オレの個人的な話 ---------
先日 ( 10月8日 )、
このBLOGの為に、開元寺に写真を撮らせてもらいにいった所、
左上の写真のように、一人の僧が鉄の板を
” ガン ガン ガン ” と叩いて
” お斎 ( 食事 ) ” の時間を、寺中に報せていた。
オレは、大士殿で釈迦如来の像を見ていたが、
尼さん達が、オレも含めて一般の参拝客に
「 食事をしていきなさい。 」
と薦めてくれたので、
開元寺の僧侶に混じって、お寺の食事を頂いた。
( 下の写真 )
料理は、肉・魚・卵・ネギ類・香辛料を使わない
本筋の精進料理で、種類も量も多いし、
やさしい味わいがなかなか美味しいものだった。
誰でも、その時間に開元寺にいる人には
無料で振舞って頂けるものの様なので、
” お寺の食べ物 ”
に興味がある人は、開元寺にはただ参拝・見学に行くだけでなく
精進料理もご馳走になりに行ってみると良いゾ。
( ちなみに、開元寺が開いているのは朝4時から夕方7時までで、
オレがお斎をご馳走になったのは、午前11時過ぎ位だ。 )
いい忘れたけれど、
食器は自前が原則みたいなので、
使い捨てで良いから、お碗と箸は持っていった方が良いゾ。
それと、変に中国語や英語を使わなくても、
開元寺のお坊さんや、尼さんは日本語が話せる人が沢山いるので
判らないことや聞きたいことがあるときには、
日本語で説明が聞けて、とてもありがたい。
-------- 個人的な話、おしまい ---------
- ということで、
長い長い ” 開元寺 ” の話も、本当にここでおしまいだ。
そでは、みなさんご無礼!
・・・・・・ 結局最後は、食い物の話になってしまったナ ・・・・・・
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一昨日は、練習は休みでした。
昨日は、朝ジムでウェイトをして、夜は事務所から家まで歩きました。
今日は、朝ジムでウェイトをして、夜は事務所から家まで歩きました。