籠  太  鼓 

     ろ  う  だ  い  こ

夭折の画家、石田徹也。~~炎上する寂しさ~~

2006年09月19日 00時50分30秒 | 学習
先日、NHK教育『新日曜美術館』において、画家・石田徹也の作品の紹介をしていました。代表作品の参照はこちらから。

この『新日曜美術館』は欠かさず見ていまして、美術関連なら古今東西を問わずに好きなこの百八軒ですが、この画家の名前は恥ずかしながらまったく存じておりませんでした。
今回、作品の紹介を見て「あー、見たことあるかも」くらいの人物でしかありませんでした。まったく、自分の勉強不足に反吐が出ますわ。(苦笑)

石田徹也は1973年に静岡県焼津市に誕生。幼少から絵の才能を発揮。当初はアートデザイナーを目指して武蔵野美術大学に入学。しかし、徐々に絵画の世界に興味を持ち始め、その才能を認められると、本格的に画家になることを決意。卒業後もアルバイトを重ねながら画業に専念し、22歳で毎日広告デザイン賞優秀賞を受賞。24歳で日本ビジュアル・アート展グランプリを受賞。28歳でVOCA展で奨励賞を受賞するなど、輝かしい受賞遍歴を重ね、海外からも注目を浴びていた途中、踏切事故によって31才の若さで他界した。

31才といったら、今のわたくしの年齢と同じなんですよ。

寡黙な人で存在は地味だったそうだけど、画業に欠ける情熱は人一倍。朝起きればすぐに絵筆をとり、休むことも忘れて作業に没頭。食事はカップラーメンなどの簡単なもので済ませ、生活費を削りに削って、そのほとんどを絵の具などの画材に当てるという信じられない生活。
アルバイトで見た光景や、趣味の映画で得たインスピレーションをヒントにして描かれた絵は、日常を生き急ぐ人間の「常識の中の不条理」「平安の中の底知れぬ不安」を鋭く切り取ったものになっています。
写真にある『回収』という作品は、だれかの葬儀に業者がやってきて、その遺体を分解、役目を終えた機械のように箱詰めして回収していくというシニカルなユーモアを描いたもの。
ほかにも、面接官が顕微鏡になって、試験に臨む人間を事細かにチェックしようとする風景を描いたものや、建設現場にある猫車になった人間が無造作に使い捨てられているところなど、どれをとっても「悲しさ」とも「怒り」とも「せつなさ」とも取れる不思議な空間をかもし出しています。
その描写は繊細にして大胆。段ボール箱の箱書きの説明から、鉄さびの剥落まで丁寧に書き込みながら、そこを押し込んでいるように感じさせない淡いタッチ。淡いながらも見る人を引き込んでやまない力強さを感じます。

とくにわたくしが感じたのが「炎上する寂しさ」というべきものでした。

寡黙で引っ込み思案な彼は、独りでいても人ごみにいても、よそ様がなんとなくしか感じないよう寂しさを、よりひしひしと感じていたのではないでしょうか。それは近しい友人や親族などといても、あまり変わらず、理解しあえはするけれども、彼からしてみればものすごく遠くにいる人の便りを得ているような気分に相違ないのでは……。
支えにする人がいて、実際に海外留学を志していたのもその友人たちの進言があったからだそうだけど、いざ創作に臨んで一人でキャンバスに向かえば、枯野のど真ん中に立ったような孤独感が襲いかかったと思います。
だれでも創作するときは一人で、わたくしも俳句という違うジャンルですけど、創作するときはまったく一人の世界になってしまいますが、彼の場合はその寂しさを燃料としてもくもくと絵筆を走らせたのではないでしょうか。
わたくしもよく「さびしさ」を題材として俳句を作ります。でも、そのとき「あー、さびしいよー。さびしいよー」という自分の気持ちが勝ったような俳句を作ると必ず失敗します。

夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣

「寂しい」という言葉は俳句の中では危険な言葉で、まずはそういう言葉を入れるなと習います。
永田耕衣のこの句は、「どうして寂しいの?」という意見と「捉らえ方が素晴らしい」という意見とで今でも評価が分かれています。
わたくしは、「葱を作る」という言葉で辛うじて拾われているような気がします。降りかかる雪の中、ぬかるんだ畑に入って、一人で作ったあまり太ってもいない葱をあらためて客観的に捉えたのです。食べ物を収穫するという日常ではなくて、あくまでも「葱という存在」と対峙してみたのです。育てられて寒風に耐えながら茎を葉を伸ばして成長しても、あえなく食べられてしまう葱。その葱を精魂こめて育ててみても、不作のときもあれば、災害に遭うときもある。そういう人間の無力さ。しかも自分ひとりではどうしようもならない苛立ち。重たく降りかかる雪と、足元にすがりつくような畑の泥の中、先人が繰り返して言った「この世は所詮は夢」という思いをただの文章の一文ではなく、まさしく自分に近しいものとして捉えなおしている……。そういう句だと思うのです。

「夢の世」という現実が近しくなるような、そういう寂しさが燃え上がるとき、その孤独感は「孤高」という境地に至るのではないでしょうか。

石田徹也の絵は、まさしくその孤高にあって描かれたもののような気がしてなりません。
彼が提示するシニカルさは、まさしく俳句における孤高の境地にそっくりです。
俳句においては「俳諧味(はいかいみ)」というようなものだと思います。

喪服着てラーメンすする梅雨晴れ間 草間時彦

他人の葬式に出て、その帰りに喪服を着たまま、陽気がいいのでラーメンを啜っている。葬式の悲しみもひとしお過ぎると、人間というものはまた自分の生活に戻ってしまう。人間の死も寂しいですが、人間の薄情な生活自体も寂しいものなのです。


石田の絵画を見て、あらためて自分の俳句に対する心構えを新たにしたような気がします。



その静かなる炎は、自分の俳句にあきらかに飛び火したように感じ取れました。

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