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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

faifai民家公演

2008年06月05日 | 演劇
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下井草の民家を会場にしたfaifaiの公演「Chotto DaKeYOn~」を見た。ストーリーの細部は、彼らからのお願いで(公演後にそのような話があった)書くことができないのだけれど、ぼくは前作「ジンジャーに乗って」でも興味深く感じた、「自分たちについての語り」という形式をいま彼らが選んでいることについて、観劇後ずっと考えていた。基本的に、faifaiメンバーたちの過去の経験や現在の暮らしが話の素材になっていて、彼らはその自分が経験したこと、いま直面していることを観客に話し、その経験を追体験するような一種の遊びを用意する。
チェルフィッチュにとくに顕著な、観客に向けて自分のことを話す、というスタイルが、どんなポテンシャルを秘めたものなのか、ということについて、faifaiは、いま、取り組んでいるのではないか、となんてことなのか?とも思ってみている。チェルの場合には、観客に役者が語ることもあれば、役柄が語るということもあり、そして両者ははっきりと切り離されているわけなんだけれど、faifaiのこの公演や「ジンジャーに乗って」のとくに後半は、自分たちが自分たちを演じつつ、自分たちとして観客に話しかける。演劇の可能性というのが、演劇という形式の内部で更新されようとしているのがチェルのなかで起きている出来事だとすれば、faifaiでは、より現実に出会っている役者と観客との間で、だからもう演劇という芸術ジャンルの形式的なあり方というよりは、それが観客の手にわたり観客との共同作業として成立しつつある出来事が問題になっている。ほとんど、演劇のファンや関係者にとっては「意外」と言うよりも理解不能だろうし、そもそも未知の存在に相違ないchim↑Pomメンバー林が不意に登場したことは(chim↑Pomとfaifaiにある接点って???)、しかし、その点を考える上で、今後、とても重要になってくる気がしている。

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