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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

庭劇団ペニノ『星影のJr.』(@スズナリ)

2008年08月17日 | 演劇
8/15
薄闇の中で、子供が一人。舞台前面にリアルに設えられた畑に向かって水鉄砲を放つ。脇には、演出・脚本のタニノクロウがいて、何かをささやいている。ラヴェルヌ拓海というフランス系(だったか、パンフレットにあったのだが紛失)の子役に、教育を施すという設定。役者はだから教師的存在でもあるようで、だけれど、この教師の教師としての素顔などはまったく示されず、ただ冒頭に、大人の役者たちがスーツを着た状態で台本を読んでいるというシーンが置かれているだけ。けれども、そうした設定が、子供に大人の世界を教えるということと同時に大人の世界を子供の視点から(観客が)見ることを可能にしてもいる。まだ昭和的な一軒家。暗転後、太った男が茶の間に寝ている。父親の弟分のような男。そこに女があらわれ、彼にそうめんを勧める。彼女が妻。貧しいが楽しい家。けれども、そのバランスは、父に子供の弟を求める辺りからどんどん崩れていく。ひとつ、この舞台で大きいのは、性というモティーフだ。子供にとって身近にあり、決して触れられないもの。子供の目線からは、不可解なことだらけ。まるで『ブリキの太鼓』のように、子供とセックスの関係が描かれていく。「描かれる」とは言ってみたものの、舞台にあるのは、子役のみならず観客にとっても、「描写」という穏やかなものじゃなくて、タニノ一流の「遭遇」とでもいうべき出来事の連続。マメ山田は、赤いレオタード姿で奇怪な「赤ウインナー」なる存在で子役の前に立ち、その他にも、屋根に暮らしているという浮浪老婆が、彼の前に立つなどして、それはほとんど納涼妖怪大会みたいだったのだが、そうした異常さは、舞台空間にあるすべての事物を、不確かなものにする。
けど、なんだか、スーッとするのだ。ぼくは庭劇団ペニノを見るたびに、変に聞こえるかも知れないけれど、「カタルシス」を感じる。自分のなかのなにかが浄化されるような気になる。妻であり子役の母である女は、あるとき夫によって犬にされ、終幕まで舞台上で犬として存在する。代わりに、別の妻=母があらわれる。その母はなんだかセックスばかりして、父を翻弄するが母役に熱心ではない。と、ともかく異常事態が連続する、その光景になんだかカタルシスを感じてしまう。それは例えば『アンダルシアの犬』を見ている時のカタルシスに近いのかな、なんて思う。Aと見た後話す。話している内に、これは男性的なカタルシスなのかも知れないと思わされた。男の女へのコンプレックスが主題になっているのは確か。2人の母のそれぞれのなんともいえないなまめかしさも、マメが導く不思議な感覚も、どれもどうしても「好きだ」と言って、言い放ってしまいたくなる。

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