Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ブログの投稿は今後こちらで行います。

2011年05月07日 | 身体と映像
ということで、こちらに移行します。よろしく。

Notes on Dance

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See Dance開催中

2011年02月11日 | 身体と映像
ひとりでダンスのことをぶつぶつつぶやくイベント
See Dance
を開催することにしました。10日間、1日複数回、投稿し続けるつもりなので、
ぜひ、(1日1)アクセスしてみてください!

タイトルはちょっと似ていますが、横浜のあのイベントとは、とくに関係ありません。

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ちょこちょこ

2011年01月25日 | Weblog
1/20、昼に会議を終えると、新百合ヶ丘でIと妻とをつかまえて大倉山へ。ギャラリーかれんで、念願かなって、川戸由紀さんの作品を購入した。

1/21、卒論の面接と定期テスト(小田急線が遅れたことで、遅刻する学生が続出。大変だった。)の試験監督を終えて、夕方、3331へ。island Mediumにて、遠藤一郎のライブパフォーマンスを見る。はじまる前に時間があったので、北かまへ。美味いし、テーブル席があって子ども連れにはいい店だったのだけれど、お客が少なかった。秋葉原はラーメン激戦区なのか。ライブパフォーマンスの後、ある方からこのパフォーマンスは音楽的だという感想をうかがい、とても納得した。んー、遠藤の表現はもっと批評されて然るべき、とあらためて思う。

1/22、一日、卒論の面接。今年は15人ほどの学生を受け持った。就活のせいで卒論に取りかかったのが遅くて、みんな苦労したけれど、結果的に完成したものを読むと各人らしい論文が多くて嬉しくなる。「ヘタリア」の擬人化を論じた腐女子論が木村ゼミのとりあえず一番と言うことで、この学生に一週間後の卒論発表会で頑張ってもらうことにした。

1/23、遠藤一郎の展示を見にBeamsに行く。さらに歩いてトーキョーワンダーサイト渋谷にも行って、わくわくShibuyaとカオス*ラウンジの展示を見た。2時に、あるダンスグループの方たちと西武の地下でお話し合いをした。ちょっと数年活動が地味になってはいたけれど、メンバー内のミーティングは週2で行っていたのだそう。かなりはちゃめちゃにも思える構想だけれど、はちゃめちゃじゃない芸術表現なんて何の意味がある!と思っているので、基本的に賛成し、応援してゆくことになった。ダンスの新しいコンセプト。4月半ばになにかがあります、よ。

1/24、今日はお留守番。Iはとても元気。よくしゃべる(まだ言葉はしゃべらないけど)。「おかあさんといっしょ」が大好き。あそこに他のテレビ番組にはないどんな成分が含まれているというのか、とても気になる。寝る隙を突いて「glee」の一話〜三話を見て、さらに「ロシェフォールの恋人たち」も見た。ジャック・ドゥミでまだ見ていなかった一本。とてもとても素晴らしい。ちょっと前にこのブログで「ダンスと色」について書いたけれど、ゴンドリーのルーツに当たるものが恐らくこの色世界なのではないか(憶測だけど)。大事なのは、これがスタジオセットではなく、ロケで撮影さていることで、ミュージカル的シーンが展開されている近景とは別に、遠景では普通に車が走っていたりひとが歩いていたりする。ほんとの日常のなかで非日常が展開されているのだ、日常とは別に、ではなく。日常/非日常の境界は明確ではあるけれども、なにやら日常へと非日常が浸食しているようにも見える。その端的な例が服の色なのではないか。服は服のまま、でも色遣いがとても非日常的(とはいえ、まったく奇抜というのでもない)。色はゴンドリーほどではないにしても、リズムを生み出し、人間関係を映し出している。こんな色世界に、そういえば遠藤一郎がライブパフォーマンスで用いる絵の具が似ているような気もしてきた。遠藤のあのシンプルだが鮮やかな色は何を示唆しているのだろう。

1/25、今日は一日採点。サッカー日韓戦がはじまるまで。と、いいながら、読みたい本についつい手が出る。"Duchamp in Context"がともかく面白い。いままで読まずにすいませんでした!ベルグソンの「笑い」論とデュシャン「レディメイド」概念との関係、、、など。今日は、Kupkaとデュシャンの類似性と相違点について書いてあったところを、ちらちらと。それにしても、Kupka、むちゃくちゃいいなー。テレパシーとか電磁波とか、目に見えないものについての物理学に随分影響を受けているのだそう。そのあたりのことも、いまとても気になっている。

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artscapeのレビュー更新されました。

2011年01月19日 | 身体と映像
12〜1月のレビューです。

年始の挨拶みたいなものも載せてもらいました。

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Rube Goldberg

2011年01月15日 | 身体と映像
作品集『ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス』刊行記念!で、先週末一緒だった泉太郎がトークイベントに参加するらしい。フィシュリ&ヴァイスも泉くんも、広義のRube Goldberg Machineの作家と考えることも出来るんですよね。今読んでいるMachine-Age Comedyという本に、Rube GoldbergとMarcel Duchampとの関連が論じられていて、このあたりにいま注目しているのです。あまり知らなかったのですが、Rube Goldberg MachineとYou Tubeで検索すると厖大にでてきます。

「さまよえる三つ子の魂」も、Rube Goldberg的なところがあった。現代美術とRube Goldberg Machineとの相関性、あらためてちゃんと考えてみたい。

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天安門

2011年01月15日 | 演劇
昨日(1/14)は、王子小劇場でシベリア少女鉄道スピリッツ「もう一度、この手に」を見た。必見ですよ!(下記はネタバレ有り)

シベ少、結構久しぶりに見た。3年は前だ。面白かった。なんとなく、岡田チェルフィッチュがロスジェネ(死語?)世代の演劇代表と考えがちなんだけれど、5年前くらいを思い返せば、他にも若い面白い演出家が一杯横に並んでいて、いろいろな可能性のるつぼ状態だったわけで、そんなだったなあと思い出しながら見ていた(これはあくまでもぼくの問題、忘れていました)。

8本のショートが次々と上演される。暗転があり、タイトルがプロジェクトされる。けれども、かっちりと切れているわけではなく、ゆるくつながっていて、とくにそのつながりをつくっているのが、半分架空の「役者」の設定。後半からの町田マリーによる「ナレーション」によって明らかにされるのだが、この芝居には、役者に「役A」のみならず「役を演じる役者」という「役B」が与えられている。「役B」は、「ヨーロッパ企画の役者で京都出身」というリアルな内容の場合もあるし、「アンドロイド」とか「整形手術をした元男性」(これを女優・篠塚茜が演じている)とか、まったく非現実的な場合もある。「ヨーロッパ企画の役者で京都出身」は、さらに「台本がぐずぐすだし関西のお笑い感からしたらこれのどこがおかしいと感じて不満を抱いている」といったキャラ設定がされているので、「その不満から舞台に身が入らず携帯をいじったり漫画を読んだりする」ことになる。

それぞれの「役者=役B」は、「役A」を演じながらそれぞれの悩みを抱きつつ、舞台のストーリーとは別にその解決を模索する。だから、この「もう一度、この手に」は「8本のショート」作品ではなく、実は〈2階建て〉になっていて「8本のショートを演じることになった八人の役者たちのリアルストーリー」の作品なのだった。もちろん「リアルストーリー」ではないのだけれど、半分は実話なので、なんとなく錯覚も起こす。このあたりが本作のきわめてすぐれたところで、一緒に見に行ったKATの学生たちも、どこまでがリアルでどこまでが仕掛けられた(台本にある)演技なのかが分からなくなっていた。

それにしても土屋亮一は「伏線の名手」だ。冒頭の1話は、遺産争いをする異母兄妹がいつのまにかTV番組「ごきげんよう」をやってしまっている、というものなのだけれど、そのきっかけが四角い遺骨の箱を怒りに乗じて投げてしまうというところにあって、その瞬間、あまりのことにぞっとするのだが、そのあと「遺骨の箱」=「サイコロ」か、とわかるとその安堵とともに爆笑する。そこには充分「お笑い」の要素が含まれているのだけれど、実は、シベ少のすごさは、笑いよりもその手前にあった恐怖の方にあるのかもしれない。

前半から、「なんとなく」役者の動きがぎこちない。「整形手術をした元男性」は、後から見れば「女性としての自信がないのでもじもじとしてしまう」という人物設定がなされていたのかと分かるのだが、前半ではただもじもじとした演技が不自然に遂行されていた。「タネ」が明かされれば、安堵するにはするが、実は見せたいのは、「ネタ」が明かされる前の不穏さなのではないか。伏線の魅力というのは、伏線があるということに乗じて、ありえないおそろしいリミックスを平気で実行しうるところにあるのではないのか。

それにしても、篠塚茜はいいなあ。以前よく見ていた時にも思っていたのだけれど、声や振る舞いの漫画っぽさ。独特の抑揚があって、抑揚を曲線になぞらえれば、その曲線にはなぞるとひっかかり(フック)があったりして、そのひっかかりがとてもいいかんじなのだ。篠塚に匹敵するのは、ぼくのなかでは安めぐみ。金曜の夕方東京FMで彼女の司会番組があるんだけれど、いつも帰宅中の車で聴きながらひとり声真似しちゃってます。ポップなのだ、このポップさはとても貴重。

タイトルの「天安門」は、観劇後、KATの学生たちと行った中華料理屋。リアル中国が体感できる店。北東京はユニークないい店が多いとあらためて思う。

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「驚愕と花びら」

2011年01月14日 | ダンス
1/9に大橋可也の振付作品「驚愕と花びら」という公演を見た。

ぼくは、根っから舞踏的方法が好きなんだとあらためて思わされた。大橋作品というのは、暴力的だったり、厭世的な雰囲気が感じられたり、近づきがたいところがあるようにも思うのだけれど、それは大橋可也の外見と似ていて「外見の話」であって、中身に注目してみれば、とても繊細な振付による繊細な出来事が狙われていて、ぼくは大橋作品のそういうところが好きだ。今回は、「疾駆する身体」ワークショップで選ばれた若いダンサーたちが多く起用されていた。若いダンサーたちは、まだ感度の悪いところもある。「感度」は大橋作品では重要で、なぜならば振付はおおよそ自発的に動くことよりも、受動的に動かされることが意図されているので、動くのではなく動かされなくてはならない、つまり自分を動かす他者の存在をダンサーたちはちゃんと感知していなくてはならないのだ。そこに不在の他者が浮かび上がってこそ、大橋作品は輝きを放つようになる。

何度もいろんなところで書いてきていますが、土方巽のダンスの思想のとても大事な部分というのは、ぼくはこの受動性だと思っています。例えば、土方はこんなこと書いてます。

「これは前にも話したことなのですが、悪寒というものがあります。何か気の中に、気息の中に含まれているもので、何か悪寒がする、あるいは何か悪い感じがする、あるいはそれを通り越して〈何かある〉という感じです。以前、二十年位前のことになりますが、私にはそれらの悪いものや予感に敏感になって、それら空気の中に含まれているものが私をうかがっているという感覚が大変敏感な一時期がありまして、「来るゾ」と言うと必ず来るようなことがありました。」(「風だるまの話」『土方巽全集 鵺』p. 151)

ぼくの目には、とりたてていうような新しい試みはなかったように思われた。むしろ大橋は、いままでに培ってきた方法やイメージの精度を高めようしているように見えた。冒頭に、場内アナウンスを大橋自ら行ったときのなんだか「陽気」とも形容できそうな軽快なしゃべりが一番印象に残った。あとは、最後の最後に、パイプ椅子を舞台内に放り投げ、横たわっているダンサーたちの上に載せ、しかばねの山のようなものが出来ると、今度は、床に向かって、貼ってあった黒いシートを思いっきり、びゃーっと引きはがしたシーンが印象的だった。

四日前にi phoneを買った。ようやくスマートフォンを手にするようになった。どんどん自分の身体が、なにかをじっくりと味わうことよりも瞬間の快楽の方にむかっているのを感じる。80年代にはトーキング・ヘッズのような身体性が注目を浴びたわけだけれど、ここにも今日的な受動性の身体があらわれているように思う。この痙攣性は、ポップになり得た。舞踏のよいところでもあり、難しいところでもあるのは、見る者がその動きの妙に没入しようとすれば時間がかかる、ということにあるように思う。

以下は、公演を見た翌日に大橋さんに送ったメールの一部です。

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「驚愕と花びら」。興味深く拝見しました。

とくに、なにより印象に残ったのは、大橋ダンスの方法というのが、ある程度、ダンサーズではないダンサーたちでも遂行しうるということでした。もちろん、最後の組、がはじまるとテンションがぐっと高まり、やはり身体の状態が違うとは思いましたが。とはいえ、見られないものではないというのは確かで、まだまだアイディアに対して感度が不十分なのは事実であっても、その動作から見る者が感知すべき踊りのありかというのは、感じられました。夏の枇杷系スタジオでも感じたことなのですけれど、大橋さんのいまというのは、方法の錬成というところにあると思っています。ダンスとして味わいのあるポイントを緻密に練り上げ、仕上げてゆくこと。それは、バレエにも匹敵するような強い方法を編みだすことでしょう、それが可能なのは、舞踏というアイディアがそもそも強さをもっているからだと思いますし、大橋さんの行っているのは、舞踏がどこまで方法的に洗練されうるのかということだと認識しています。そのステップを確実に進んでいると感じました。

あと、舞踏の面白さというのは、身体の状態(の変容)にあるのだと再確認しました。ぼくは最近、アニメーションのダンスと人間のダンスを等価に見るとしたら、どんなことが考えられるのかということに興味を抱いているのですけれど、人間のダンスにしかできないのは、この身体の状態の変容を見せることです。こんな状態にもなりうるんだという発見は、解放となって充実した鑑賞体験になりうる。そういうことは、ときどき忘れてしまうのだけれど、大橋作品に触れると思い出します。(なので、定期的に上演して下さい。)

その上で思うのは、大橋作品には、一定の真面目さが貫かれているのだけれど、室伏さんや和栗さんを見ていると、むしろ一定の不真面目さが貫かれていて、対照的だということです。和栗さんの「肉体の迷宮」見たのですけれど、和栗さんの身体で起きていることはつねに面白かったです、いや、和栗さんの身体以上に和栗さんの頭のなかで起きていることといった方がいいかも知れません。ふざけているようにしか思えない不思議な状態は、舞踏ならではで、舞踏の面白さのひとつだなと感じたわけです。そうした和栗さん(ぼくはあの公演をほとんど和栗さんのソロとして受けとっています)と比べると、大橋作品はバレエに近い。ゆるぎない美学の展開に感じます。どっちがいいというのではなく、そこが興味深く思います。
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Iはすくすく成長中。昨晩、帰宅すると、挨拶の代わりなのか、おそらくそらみみではない「ぱぱ」を口にした!もうすぐ1歳。

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ダンスと「結び目」 「編むこと」と「解くこと」への愛着

2011年01月12日 | 身体と映像
「ダンスと色」という話を書きましたら、そこそこ好評だった(気のせいかも知れませんが、、、)ので、さらに。

ダンスと「結び目」について。

エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」(全集9)より。

エイゼンシュテインは、人間の本能として2つの原理が捉えられると見なして、その一つを追跡のうちに見る。この追跡の本能について、主な典拠にしているのは、ホガースの『美の分析』のなかで展開される考察である。(ホガースのことは、「舞踊学」に以前書いたこともあるし、このブログ(昔のHP)でちょくちょく書いてます、チェックしてみて下さい)

「追跡にあたって日々直面する困難及び絶望が絶えず増大していくことがないならば、狩猟、射撃、釣り、その他多数のゲームの魅力は、一体、何に支えられるのか?兎がその巧妙な狡さを十分に発揮する可能性を与えられぬならば、兎狩りのスポーツ愛好者は、どれほど退屈なことか!」「このような追跡への−−追跡そのものへの−−愛着は、人間固有の本能であり、疑いもなく、必要かつ有用な目的に役立っている。」「理性は、複雑な問題の解決に立ち向かい、それと苦闘することを好む。つまり寓意や謎は、いかに無意味でつまりらぬものであっても、常に理性を引きつける。理性は、筋立ての複雑な戯曲あるいは小説の、多数の事件の糸が絡み合った過程を追跡して楽しむ習性がある。最後に謎が解けてすべて明白になるとき、理性の喜悦及び充足感は、非常に大きい!」(p. 58)

そして追跡と並んで、人間の本能としてあげられるのは、編みそして解く本能。追跡が男性的本能であり、女性のものとして編み籠の本能は構想されているようだ。エイゼンシュテインは、次の文章を引用しながら論を展開している。

「デューラーが描線にたいして非常に愛着した源泉は、さらに深部に探さなければならない。つまり、それは、古代ゲルマンの遺産である。デューラーのそのような愛着は、形の絡み合い及び相互吸収の作用(プレイ)、交差しながら発展する帯状の紐の絡み合い(プレイ)、及び自由に運動する線の果てしない旋律の遊戯(プレイ)などに北欧人が味わった原始的な喜悦及び充足感を、後期ゴシック的ヴァリエーションにおいて復活したものであった……」(ヴェツォルト『デューラーと彼の時代』1935、p. 62)

そこでエイゼンシュテインが注目しているのは、デューラーの「六つの結び目模様」という六枚の版画。レオナルドの「有名な網目模様」が元になっているこうした表現を集めた著作を愛好するものたちについて、「全く単純な「縄紐」を複雑に絡み合わせたりといたりするゲームに愛着をもつ相当多数の読者層の存在を物語っている」といい、エイゼンシュテインは、こうした読者というのは、「さまざまな形式のミステリ小説にも愛着をもっている」のではないかと推測している。

デューラーの結び目模様の例

そうして具体的に、縄紐の図を書きながら、紐の進行が、結び目を作るそのループによって、一旦反対方向へと進み、そして戻るという運動を行うところに注目する。その結び目には、一直線に進んでいく運動のなかに潜んでいる「潜在的な」流れの存在が意識されるのだとエイゼンシュテインは捉える。

「引き締められた縄紐の結び目は、常に、複雑に絡み合ったその線条の、一点に圧縮された「潜在的な」流れでもある。つまり、結び目を解く場合には、交叉及び絡み合いなど、複雑な縄紐の動きがあるので、それを一直線に伸ばす−−「結び目を解く」−−ために、複雑な過程を必要とする。結び目とは、そのようなものである。」(p. 63)

また、エイゼンシュテインは、この結び目というものが、結ぶ際に反対方向からの力を加えることで出来上がっていることにも着目する。「縄紐の両端に反対方向の二力を加える」ことで、結び目は締められている。面白いのは、そうした結びのように、スリリングな物語の展開というものは、複雑に絡み合っているのではないか、と物語論へとこの結び目が展開されているところで、

「真のドラマツルギー的結び目とは、複雑に絡み合うドラマチックな出来事の何本もの縄紐の複雑な交錯及び交叉の可能性を多数はらんでいるものである。」(p. 64)

こうやって、具体的に、紐の結び目として、時間の進行を考えてみるというのは、いいのかもしれない。どこに力の拮抗を作るか、力の拮抗をどういうものとして作るのかで、運動にスリルを与える(エイゼンシュテインが思うところの人間の本能に訴える)ことが出来る。けれども、さらに大事なのは、結び目を作ることのみならず、結び目を解くことなのかもしれない。解くのには、反対の2つの力に第三の力が介入する必要がある。

「結び目は、その内部で葛藤する反対方向の力が強く働けば働くほど、それだけ堅く結ばれる。……結び目を解くことができるのは、複雑な過程のみである。それは、ほとんどの場合、反対方向に働く基本的二力に打ち克つ「第三の力」の介入によって行われる。」(p. 64)

エイゼンシュテインの議論は、ここから小説の事例をあげ、フーディーニという奇跡的脱出のプロの話に移り、さらにバッハやピラネージの内に「フーガ」(追跡から逃れること)へと進んで行くのだけれど、このあたりで、ダンスに戻すと、たとえば、こうした「二力」の話でぼくがとっさに思い浮かべるのは、舞踏の方法論で、なかでも鈴木ユキオの踊り。

こうしたものとか。

あるいは黒沢美香。この映像で考えるならば、20秒くらいで前進をやめて反対方向へ行く(それは2つの力の存在を暗示することになるだろう)。そして、24秒くらいで反対方向に進みながら右腕を後ろにした状態で手のひらを返しなどしている(ここにも2つの力の存在が感じられる)。黒沢の動きは「ため」が利いている。この「ため」こそエイゼンシュテインのいう「結び目」だろう。面白いのは、黒沢の場合、きっちりと拮抗した力の関係を発生させながら、同時に、「第三の力」を置くことで、それによってそこにあった緊張が一瞬解け、魔法から解放され、別の魔法に吸いこまれていく(52秒ごろの「トントントントン」)。

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ダンスと色

2011年01月10日 | 身体と映像
昨日、大橋可也振付による「驚愕と花びら」を見に都心へ向かうなか、電車でエイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」(全集9)を読んでいた。エイゼンシュテインは、ウォルト・ディズニーを友と呼び、とくに「シリー・シンフォニー」について高い評価をしている。この点について研究したくて読んでいるのだけれど、そのなかで、気になる文章があった。

「私自身、かつてのマリィンスキー劇場の舞台でフォーキンによって演出されたバレエ『ショピニアナ(レ・シルフィード)』を記憶している。三十年以上も古い記憶であるが、今でも銀色から紫色、白色から空色へ向かう色彩の変化と音楽の変化との完全な融合の感覚が想起され、光と色彩とがバレリーナの白い衣裳をかすめて、バレリーナの眠気を催すような緩慢な詩的運動をなぞり反復する光景が眼に浮かぶ……。」(全集9 p. 175)

エイゼンシュテインは、文章中で、音楽や風景が俳優と融合する必要性をとき、その方法を説いている。ちなみに、ディズニー作品は「子どもっぽく下手に色彩された背景と、主要な前景の動くキャラクターの運動、及び描線の驚くべき完成度との間の完全な文体亀裂が欠点となっていた」とされ「ディズニーは、線の独立した運動と音楽の内的過程(リズムばかりでなくメロディさえも!)の線画的解釈とによって音楽にたいする視聴覚的等価物を創造する、驚くべき巨匠であり、またとない天才である」とエイゼンシュテインは、個々のキャラクターの運動がもつ音楽性についてきわめて高い評価を下す一方で、ディズニーにはそのキャラクターと風景を融合させる才覚が欠けていると批判している。「風景及び色彩の完全な非音楽性」。ディズニーを批判する一方で、彼が連想しているのは、フォーキンの「レ・シルフィード」。

ところで、ここで出てきた「音楽性」とはなにを意味するのか、これはこれでとても重要なのだけれど、いまは飛ばして、ぼくが昨日この部分を読んでいて思い浮かべていたひとつのPVを紹介しておきたい。ダンスと色彩の関係について。

Mia Doi Todd "Open Your Heart"

これは、ミッシェル・ゴンドリーの最新PV。どうでしょうか。パフォーマーは、いわゆるダンサー的な身体ではほぼないのですが、ご覧のように彼らが身につけているTシャツの色が利いていて、その色のグラデーション、補色関係などがリズムをつくっています。エイゼンシュテインに戻ると、彼は前述した文章のあたりで、

「移行が可能なのは、色彩だけである。色彩は赤色から青色に、緑色から紫色、緋色、オレンジ色に、容易に移行することができる。色彩であって、ビロードではないのである。」(p. 174)

と述べて、「ショパン」という映画で用いられた「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」に対して批判しつつ、必要なのは色彩の移行関係であり、おそらくこういってよいとおもうのだけれど、色彩によるリズムの生成であるとエイゼンシュテインは考えています。

なるほど、色彩によるリズムの生成か。こうした文章を読むことで、ぼくはダンスと色彩の関係、あるいはゴンドリーのように、色彩をいわばダンスさせるという可能性について、蒙が啓かれた気がした。色彩のリズム性(ダンス性)を無視しないこと。たとえば、ゴンドリーのさっきの作品を見た目からは、パトリック・ドーターズという監督がとったこの映像は、正直「「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」」と思わずにはいられない。

Feist "1234"

どうでしょうか。うーん、でも、これはこれ、という感じもします。あるいは、これを見ると、やや統制が取れすぎている(マス・ゲームみたいだ)とむしろゴンドリーを問題視したくなるひともいるかもしれない。

一方は、色を用いつつ、そこに自由さを演出する(そしてダンスとしてはさほど目新しくない)。一方は、色を用いることから生まれるダンスの可能性を追求している。一方は色を象徴的に用いている。一方は色をリズムの生成に用いている。少なくとも、2作を見て、ダンスに色を用いる2つの可能性に気づかされる。

もしぼくが大学の舞踊学科の教員だったら、さっそく課題を学生たちにだしてみようと思うな。

「色で/色のダンスを作りなさい」

色というのは、とても直接的にぼくたち見る者を束縛してくるので(意味機能としてもリズムの機能としても)、「色については問題にしません!」と宣言することで、この危うさを回避するというのが、いまどきのダンスでは定石になっているのかもしれない。あるいは、定番でまとめる、みたいなね。「舞踏はモノクロ」とか、「コンテンポラリーダンスはパステル」とか。それ、じゃあやめてみたらどうなるんだろう。定番をやめてみると同時に、色をダンスとして用いるという縛りを作ったら、どんなダンスが生まれるんだろう。なんて、夢想します。

世間じゃどうかといえば、AKB48は、そうとう色の問題にこだわっている、と思う。新曲は徹底的に「白」で行く、とか。でも、まあ意味機能としてですよね、これも。そして、AKBは基本的にモノトーン。同じ色の同じデザインの衣裳を同じような髪型のメンバーが身につける。AKBの魅力(麻酔作用)って、そうした同化圧力だと思うなー。「同じゃなきゃ」プレッシャー。

AKB48「チャンスの順番」

これに比べるとモー娘。は、個性尊重型。AKBの「白」とは対照的にカラフルっちゃカラフルです。「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」ですけどね。新曲。

モーニング娘。「女と男のララバイ」

この曲のダンス、見れば見るほど面白い!一瞬、ベジャールの「ボレロ」みたいな振りが出てくるし。AKBよりいま注目すべきはモー娘。なのでは。

誰か面白い「色のダンス」つくってくれないだろか、、、

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さまよった

2011年01月09日 | 美術
昨日は、Iをお風呂に入れると、まずは原宿へ。蓮沼執太「ニューイヤーコンサート」。Iが生まれて間もない頃、妻は実家に戻っていて、車で毎日三十分かけて、実家に通っていた。その頃、よく聴いていたのが「wanna punch!」で、このアルバムからの曲がはじまると、あのときの生まれたての赤ん坊を湯浴みさせていたときの湯気の感じとか思い出してしまった。猛烈に明るく前向きな世界。新生児によく似合うなあとあらためて思う。今回、ユーフォニュームやビオラ、バイオリンが加わった演奏で、生音によって引き出されているのだろう生命感がいつもよりも輝いていた。蓮沼くんの音楽は、ぼくにとってはだから生まれたての生命みたいに感じるのだ。蓮沼くんが「さん、はい!」と演奏中に声をあげると、それはまるで、音楽という生き物がその瞬間だけ人間の口を宿して、声をもらしているみたいだ。フレーズがいいんだよなあ。キャッチーでポップで、けれども、初めて聴くフレーズ。絵画で言えば、線のかたちみたいなフレーズは、丹念に鍛え上げられた末に出てきたもののようにも、呼吸をするように自然に生まれたもののようにも思われる。

その後、まだ時間があるな(とはいえ、さすがに神村恵の昼の回は終わってるし)と思って、裏原宿を久しぶりにぶらぶらしている内に、ワタリウム美術館まで来てしまった。藤本壮介「山のような建築 雲のような建築 森のような建築」を見ることにした。ぼくは「山のような建築」よりも山が好きだな、と基本的には思う。都会でそういう建築でヴァーチャルに(理念的に)山を楽しむくらいなら、リアルな山に行って、登ったり下ったり、汗かいて、けがして、その多様性を堪能したい。ピュアな理念を夢想して、それを建築というかたちで具体化してゆくというのは、リアルな場所でもまれずしてイメージに耽溺する童貞性を感じる行為だなどと思いながら(2階の透明な円筒形のパーツを雲のように造形した建築は、こわれそうで、すわってもいいよ、ってなっているところはじっさいすわれない感じだったりした。なんて無知なまま書くと、建築の専門家に怒られそうだけれど。養老天命反転地はすきなんだけどな。あれは「山としての建築」というより、隠喩的ではなく山の建築だった。)、そういう理念を仮設してその仕組みを試演して行くというのがモダニズムだとすれば、それはそれでありなのかもしれないし、そんな風に思い返すと、ダンスと建築の近さなんてことに考えが及んで、いろいろと刺激を受けたりもする。ところで、ぼくには建築への憧れがほとんどない。10年くらい前に本郷の風呂・トイレなし3万のアパートも虫がわいて大変だったけれどそれはそれで楽しかったし、鶴川の2Kもいまに比べれば狭くてかなわなかったが、いろいろ工夫をする楽しさがあった。いまは広いところに住めているけれど、これが理想なのかは分からない、不便なことも多い。「自分の住み家」意識がそんなにないんだと思う。どこにいたって、どこも「仮の宿り」でしかない。

その後、荻窪へ。駅近くのまる福で中華麺を食べて、会場へ。着くと、解説を受けるが、数日前にもらったメールに書いたあった概要に変更があるという。リハもなく、本番へ。

ここからの内容は、お越しいただいた方々へ向けて書きます。本当は、本番直前の打ち合わせでは、パフォーマンス後にトークの予定がちゃんとあったのです。けれども、ご存じのように、調整に四苦八苦した結果、パフォーマンスだけで三時間近くかかってしまったので、そんな時間なくなってしまったわけです。けれども、泉太郎とまっとうにトークが出来るなどと思ってはいけない、ということも重々承知していました。ぼくは泉くんを「野生の小動物」と称することがありますが、そうしたとらえ難さというものについて考えると面白いと思うんです。作家の中には、ぼくのような批評の立場で話しやすい人と話しにくい人がいます。ダンサーや振付家の中にはそういうひとが多いです。「全身パフォーマー」のような人間は他人の目に触れている間は一秒たりともパフォーマーであることをやめません。延々と裏をかき、本心を悟らせるなんてことはしない。土方巽はそういうひとだった、といえるかもしれない。泉くんは、ちょっとそういうマジシャンなところがあると思うんです。美術作家は、自分の身体ではなく身体から切り離したキャンバスみたいなマテリアルで表現できるので、作品と自分を切り離し、批評家のように自分の作品を流暢に語ることが可能かもしれません。例えば、小林耕平さんとはぼくは会話が出来ます。小林さんの場合、禅問答のような謎をパフォーマンス空間に置き、その問いに応答するべく試行を繰りかえす作品が近年目立っていますが、ここでは、謎は小林さんの外部にあります(その謎をそこに置いたのはたしかに小林さんなのですが)。観客は小林さんと同じ立場にあるかのように、その謎を向き合います。泉くんの場合は、泉くんそのものが謎の発生源です。だから、泉くんが何かを話すとすれば、それはマジシャンが自分の種を明かすようなもので、それは基本的に聞かない方がいい、聞かなくていい、ことなのです。あるいは、マジシャンのいう種明かしなので、実はそこでは何も明かされないかもしれない、それもひとつのマジックなのかもしれない。そうであるべき、そうであってほしい、ものなのです。

だからぼくは内心、原宿でうろうろしながら「トークどうしよう」と思っていました。結果的に時間切れでトークがうやむやになった。それこそが、泉くんのトリックだったのかもしれません。(ぼくの泉太郎論は『こねる』展のカタログに書きましたので、これをご一読いただけたらと思います。Nadiffなどで販売しているはずです。)

それにしても、満員の大盛況。泉くん人気を再認識しました。あと、女子率の高さにも驚き、このあたりが泉太郎の本質かなとも思わされ。とはいえ、終演後見に来ていたKATのメンバーに「蓮沼さん行けばよかった、と思った時間があった、、、」といわれてしまいました。さすが身内は厳しい!

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