東京の雑踏の気楽さ
孤独死などという報道が、地方でなされるのですから、これから書くことは必ずしも都会にのみあるとは限らないようですが、
都会の雑踏の気楽さ、
っていってわかりますか?
もちろん、都会の雑踏が嫌いだ、という方もいるので、ホント!個人の趣味になってしまうのですが、都会の雑踏の中にいると何とも言えない解放感があります。都会の砂粒地獄ともいわれたこともありますが、個人個人がバラバラで隣に住んでいる人も、わからない、というまさに共同体が解体した状態ですね。それは、もちろん社会として不健康な側面をも同時に抱えるのですが、個人が自由になるという意味ではこれくらい、気楽な環境はないわけです。
日本社会は同調圧力のきつい社会です。「みんなといっしょ」でないと不安になる人が多い社会です。そのマイナス面を、都会は払拭してくれるわけです。
実を言うと私は、その孤独が好きなんですね、個人的には。
人間関係で苦しんできた方が単位制の門をたたくケースは多い。その方たちに、一つ一つの人間関係を軽くする、というのが、実は、単位制のもっとも個性的な特徴なのです。だから、ホントは、単位制は800人なんて規模ではいけないのです。
2400人、これがざっくり私が適正規模と考える単位制の規模です。
この規模になった時、これから書くことは、明瞭になってくるはずなのです。
多様の共存
単位制高校には、学年も、特定のクラスもありません。
各生徒が、時間割表にある各講座を各人のライフスタイルにあわせて、選択します。クラスは、結果として形成されるのです。あらかじめ、こういうメンバーで、というように確定することはできないのです。
だから、当然、授業集団はいわゆる、入学年次でいう
1年生から卒業年次生までの生徒が共存する
可能性があります。かんたんにいうと、
「いろんな人」が「バラバラ」に「当人たちの意志だけ」で
集まっているんです。
もちろん、最初の1年生で取るのが合理的な科目は存在します。たとえば、「現代社会」がそれにあたりますね。あるいは、「国語総合」とか「理科総合」といった科目です。しかし、それとても最初の年に取らなくてはいけない、ということはありません。
したがって、それぞれの講座には、当然多様な年齢の人が集合してくることになります。ただその講座をとろうとしている受講生から成り立っているのです。
さて、ここまで書いて、みなさんは、この驚くべき制度の可能性に気付かれましたでしょうか?
なぜ、無学年制無学級制が多様に対応する仕組みなのか?
年齢未詳の集団
年度当初に、授業クラスにいきます。すると、完成された単位制高校では一目でそこに何年生にあたる、何歳の人がいるのか、まったくわかりません。もちろん、50歳の人がいれば、一目で違うな、と気がつきますよ。ま、しかし、それにしても、その方が何年生なのかは、わからんのです。
そこには、何年生にあたるひとがいるのか?
留年にあたる人がいるのか?
何年目の人がいるのか?
十代から二十代くらいの幅であれば、何歳の人なのか?
十代のみなさんは、したがって、ある意味の不安に襲われる方もあるようです。一体、自分の前の人は何歳なのか?
私はだからいいます。
「聞くな!」
って(笑)。せっかく何歳だの、何年だの、といった
つまらない
ことをわからなくさせているのだから。
そんなことを意識せずに対せよ、
これが単位制の構成原理なのです。
人生を高校3年で生きていこうとする方だけが高校生ではない。それが多様性を包含しようとする単位制高校の一つのメッセージなのです。
ゆったりと高校生活を過ごそうとする人、
4年以上をかけて高校生活を過ごしていきたい
いや過ごさざるを得ない
というニーズを私たちは、3年で過ごそうとする人と等価なものとして、生活可能なものとしなければならない、というのが、単位制の構成原理なのです。
中途で高校を中断し、中途退学した人
いじめで、学校生活を中断せざるを得なかった人、
対人恐怖でなかなか教室へといけない人
こういう方が、自分のペースで卒業可能にする、というのが、単位制高校の役割なのです。だから、ホントは1万人の単位制高校がいいんです。まさに、他人の集合体になるから、はじめに書いた都会の雑踏が教室にくるからです。
学年制での留年
学年制の高校で、留年にあたることをしてしまったことを考えてみてください。
あなたが1年生であったと仮定しましょうか。
すると、教室が今年も
「1年生」
の並びになることになります。二年生となった仲間と切り離されます。
すると、教室の配置そのものが
「1年生=留年」
という疎外をあなたにむけて行います。当然、
あなたにむけての自他ともの
「(本当は二年生になるべき)1年生」
である、という視線が刺さります。取り残されて、先に行った上級学年とは隔離されたという自他のまなざしの中で生活することになるのです。つまり、こうしたまなざし地獄を消し去ること、これが多様性を担保することになるのです。
無・制服
これと連動しているのが、通常単位制高校には制服がないということです。
20歳を過ぎた方が単位制の高校生になることは珍しいことではありません。で、その方たちにこういう質問をします。
「制服があったら来ますか?本校に?」
多くの方は否定的です。
いい年をして、制服をきて学校へ行くことはできません。
そうです。ここに社会の制度の差別性が浮き彫りになります。
通常の学年制の全日制、つまり、お昼にある学校には、制服が通常あり、15歳から18歳程度の高校生が通学しています。
それは、こうした
「処女」
以外は、高校生となることを排除する機制が存在しているということです。
こうした排除の機制をとりのぞこうとするのが、この無学年制、無学級制なのです。
ただ科目だけ
高校の教員を30年近くやってきて、確実に言えることは、学校の先生にとって授業というものは、さほど重要ではない、ということです。もう少し、ソフトにいえば、あまりに毎日のことで、授業が大事だ、授業こそ、と授業第一にやっているという教員は、私のような変わり者でもない限り、不自然なのです。
すると、単位制の教員をやるとこういうことを言い出します。
「もっと学年や、ホームルームを大事に」
これは、大体こういう発想です。
「持ち上がり、クラスの生徒の抱え込み(=自分の恣意でクラスのメンバーを決め)をしたい」
単位制は、抱え込みを禁じます。
タコ足配線のように、いくつもの根拠をもつことを是とします。
それが、年齢や学年の意味を消去することにつながり、多様をうみだすことになります。そして、その構成原理は派生的に、いえ、同時並行的に、薄気味の悪い教員の抱え込み根性を否定し、生徒の選択意志を強調します。
それが多様の無学年・無学級制を組織原理としてもつ単位制高校のもう一つの裏側の顔でもあるのです。
「授業集団をクラスと思おう」
これが単位制の構成原理なのです。
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