城郭探訪

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佐々木六角氏と観音寺城 20120922

2012年09月23日 | 歴史講座・フォーラム

佐々木六角氏と観音寺城 20120922

平成24年町なか研究ゼミ 『近江八幡の城』    レジュメ                                                  

 佐々木六角氏と観音寺城

 講師 森下浩(県文化財保護課 副主幹)

1、佐々木六角氏の系譜・・・・宇多源氏説従来唱えられてきた説で、史料としては『尊卑分脈』や『佐々木系図』(沙沙貴神社蔵)等が挙げられる。宇多源氏である源成頼が近江佐々木庄に下向し、その孫の源経方が佐々木氏を名乗った事に始まるとされる説。この説では、古代豪族説にある沙沙貴山君の一族は源平争乱後衰退して宇多源氏佐々木氏に同化したとされる。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗った事から始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている。

                                                                                                       凡例 太字は当主。
   〇は、源頼朝の挙兵に応じた人物
                  宇多天皇
                      ┃
                  敦実親王               
                      ┃
                    扶義
                      ┃
                    成頼
                      ┃
                    義経
                      ┃
                   佐々木経方
                      ┃
                    爲俊
                      ┃
                    秀義
                      ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
                    〇定綱 〇経高 〇盛綱 〇高綱        義清           厳秀              ┏━━━━┳━━━━┳━━━━┫    ┃    ┃   ┃      ┏━━━┫            ┃
広綱   定重    馬淵廣定  信綱 高重 加地信実 重綱     政義   泰清            ┃
         ┏━━━━┳━━━━╋━━━━┓            ┣━━┳━━┓          ┃
    大原重綱 高島高信 六角泰綱 京極氏信            頼泰 義泰 宗泰       吉田重賢

  • 宇多天皇の子孫
  • 古代豪族族佐々貴山君を取り込む
  • 江源武鑑の問題点~氏郷系統の辛憑性
  • 注)江源武鑑(こうげんぶかん)は、「佐々木氏郷」が著者とされている近江の戦国大名・六角氏に関する日次記形式の歴史書。天文6年7月(1537年)から元和9年7月(1623年)までを記している。全18巻。18世紀に至り世に知られたが、一般的には偽書と見られている。また佐々木氏郷とは沢田源内の偽名とみられる。

2、近江守護への道

  • 源平の合戦で活躍~近江守護~
  • 佐々木総領家(六角氏)が近江守護職を継承
  • 注)やがて、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると息子たちとともに参陣、その後の源平合戦において佐々木一族は大活躍を演じた。鎌倉幕が府成立すると、各地の守護職に補されて一大勢力を築きあげたのであった。承久三年(1221)、承久の乱が起ると、惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは後鳥羽上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に付いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである

3、佐々木六角氏の近江支配~室町時代ー守護体制・・・・・注)近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護 として南近江一帯を支配していた。総領家は、六角氏と名乗ったのは、京都の六角堂に屋敷を構え たからだと言われている。 鎌倉時代、佐々木氏は承久の乱で一族の多くが宮方に属 した...北近江は京極氏、湖西は高島氏(朽木氏)、北近江に大原庄(旧近江町の一部)は大原氏

  • あくまで守護として~幕府の命令執行・軍事指導・段銭賦課
  • 家臣団(郡奉行と奉公人)の合議性~内談
  • 守護代伊庭氏の台頭~室町幕府との結びつき・・・近江源氏佐々木氏の支流であり、佐々木経方の子、行実の四男実高(出羽権守重遠)が、はじめて近江国神崎郡伊庭邑に居住し、伊庭氏を称した。伊庭城は建久年間(1190年 - 1199年)に実高によって築かれたといわれる。実高の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、実貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年(1607年)に没した。貞勝の子の貞家は渡辺吉綱に仕え、伊庭氏は代官として近江における和泉伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を代々支配するようになった実高が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる貞剛は明治12年(1879年)、裁判官から住友本社に入社、明治33年(1900年)に第2代総理事となり住友財閥の基礎を築いた。

4、戦国期の六角氏~六角高頼と六角定頼

  • 領国支配の強化~伊庭氏の追放→奉公人奉書体制・・・伊庭貞隆の時代になると主家佐々木六角氏に匹敵する勢力を持つようになり、文亀二年(1502年)佐々木六角高頼は伊庭貞隆を排除するべく立ちあがる貞隆は湖西へ逃れると管領家細川氏の援助を受けて攻勢に転じ、高頼は観音寺城を捨てて音羽(日野町)の蒲生氏を頼った。その後さらに足利将軍を巡る争いがおこり、伊庭氏は岡山城が落城して没落した。http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/d4c3717e0f9b44c549bfe465771aab48
  • 六角定頼~室町幕府に関与 足利義晴の近江動座を受入れ・・・室町幕府10代将軍足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げている。後に義稙が追放されると12代将軍足利義晴の擁立に細川高国と共に貢献し、功績により天文15年(1546年)に義晴から管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。

5、観音寺城

  • 佐々木氏の居城~小脇館(八日市)~金剛寺(近江八幡)→観音寺(安土)
  • 中世5大山城のひとつ                                                                                          ~観音寺城(佐々木六角氏)・小谷城(浅井氏)・七尾城(能登畠山氏)・春日山城(越後上杉氏)・月山富田城(出雲尼子氏)
  • 南北朝の内乱で砦として使用~六角氏が居城として使用したのは室町前期カ?
  • 山麓に御館屋敷~背後の山を「詰め城」として利用
  • 城下町石寺~東山道から道を引き入れ
  • 16世紀後半に山上の郭で生活(現在の城跡は最終期=16世紀後半のもの)
  • 安土城以前の城郭としては、例外的に石垣を多用
  • 天台系山岳寺院(観音正寺)の上峰に築城~場内の石垣は寺院のものカ?
  • 観音寺城の縄張り                                                                                                           ~城遺構:伝本丸、伝平井丸、伝池田丸、伝三国丸、伝伊庭丸、大見付、伝布施淡路丸、伝目賀田丸                                            ~尾根上に位置する郭郡城の中核は伝本丸・伝平井丸・伝池田丸                                                                             ~規模・構造・建物遺構
  • 伝布施淡路丸・伝目賀田丸~東方の防衛のための出丸
  • 伝三国丸・伝伊庭丸・大見付~中核と出丸とのつなぎの

6.落日の六角氏

  • 観音寺騒動~六角善治が重臣後藤賢豊父子を観音寺城内で謀殺⇒他の家臣たちは城内の屋敷地に自焼して本領に帰還
  • 六角氏「弐の制定」~六角氏と被官たちが相互に「弐目の内容厳守」を制約
  • 織田信長の近江侵略~被官たちの離反 六角氏観音寺城退城
  • 元亀争乱~反信長包囲網の一環  南江の一向一揆を顫動
  • 天正元年(1573)9月4日鯰江城の六角善治退城~元亀争乱の終焉

7、佐々木六角氏と中世近江

  • 穏やかな支配~在地諸勢力の自治性  主従関係の泥弱さ
  • 今につながる自治の伝統
  • 信長、秀吉とつづく統一権力が近江の在地社会を再編~近代社会へ

 詳細はスラドショーで

佐々木六角氏と観音寺城 20120922

 

 

 

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