お城のデータ
所在地:甲賀市甲賀町鳥居野字小杉・鳥岡(旧甲賀郡甲賀町鳥居野字小杉・鳥岡) map:http://yahoo.jp/Hvo-66
別 名:殿藪
目標地:甲賀コミュニティーセンター、鳥居野の信号・バス停
区 分:平城
現 状:雑木林
遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・土橋・庭園跡
築城期:慶長年間(1596-1615)
築城者:篠山理兵衛景春
市指定史跡
駐車場:東虎口の近くに路上駐車
訪城日:2014.7.14
東の虎口西虎口
西虎口の外に水堀と土橋
姥百合の蕾
お城の概要
篠山城は、甲賀町鳥居野のうち、東出集落の北端で、大橋川南河岸の台地上に築かれている。
市指定史跡になっていて、東辺土塁の開口部に案内板が建っているが、まるで整備されておらず、城内北半分は高いブッシュに覆われている。
縄張は、東西約50m×南北約60mの主郭Ⅰと腰曲輪状のⅡからなる。基本的には四方を土塁と、北側自然崖以外の三方を堀で囲む一般的なプランである。
土塁は削り残しではなく、平城ならでは、盛土だと判る綺麗な断面台形で、よじ登ることが困難な急斜面になっている。
東辺と西辺の開口部は切り通し状で後世の破壊に見える。南辺は土塁が破壊され、あまりに開口が広いが、本来の虎口はここにあったと考えられる。
西辺土塁の外側には水濠が残り、近年までは南辺にも濠が残っていたが埋め立てられた。東辺の道路も本来は堀であったのではないかと指摘されている。西辺開口部に架かる土橋は後世のものかも知れない。
aとbには浅い空堀が確認できる。
Ⅰの主郭の北辺は庭園跡だと指摘されているが、ブッシュで確認ず、土塁の形状、水濠、庭園など、近世の城郭遺構だ。
歴 史
城主篠山氏は、甲賀五十三家に数えられた大原氏の庶流で、戦国末期の蔵人頭景元(景助)の時に笹山姓に改姓し、その子景春(資家)はさらに篠山姓に改姓した。
豊臣政権化での甲賀武士はことごとく所領を失い、多くが流浪を余儀なくされていた。やがて秀吉が没すると、元々徳川家康との関係を築いていた景春は、近隣十郷の代官に取り立てられた。この時期に豊臣勢力に備えて篠山城の築城を開始したと考えられる。
篠山城は代々この地に勢力を持っていた篠山氏が築いた城であり、大原から篠山に改姓した景春を初代としている。
景春は慶長5年伏見城篭城戦で長男と共に戦死し、その墓が多聞寺にある。
家康はその功に報いるため、子孫を江戸城警護役や鳥居野の領主(旗本)として遇した。子孫の中には大阪代官や佐渡奉行、大目付などの要職に就いた人もいる。大原城の主である大原数馬氏はその一統である。
慶長6年(1600)6月、上杉景勝を討つため途中近江国石部に宿をとった徳川軍に、水口城主で五奉行の一人長束正家が、家康の謀殺を企てていたことを察知した篠山景春が通報した。
同年7月、石田三成が家康打倒の兵を挙げ、家康の老臣鳥居元忠が守る伏見城を攻撃した。この伏見城の戦いに、篠山景春・景尚父子をはじめ多くの甲賀武士が籠城、激戦のすえにことごとく戦死した。
これにより、築城中であった当城は完成を見ないまま廃城になったと思われる。
関ヶ原に勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、伏見城で戦死した景春と嫡男景尚の功として、子孫を江戸城警護役や鳥居野の領主(旗本)とし、篠山家の存続を許し、二男資盛に旗本として鳥居野を安堵した。資盛は当城近くに新たに笹山陣屋を築いた。篠山氏は、その後江戸時代を通して旗本の地位を守りぬいた。子孫の中には大阪代官や佐渡奉行、大目付などの要職に就いた人もいる。大原城の主である大原数馬氏はその一統である。
「・・大原庄住居於鳥居野村構小城・・」」(篠山氏系図)とあるので、既に篠山城は造られていたであろう。姓を大原から笹山に代えたのは、父の景元(大原蔵人)のときで、大原氏系図には元亀2年(1571)とある。年代からみて無理はない。
篠山氏にとって災難だったのは秀吉の天下取りへの動員である。篠山景春は甲賀士36人と一緒に織田信長に仕えていたが、信長死後羽柴筑前守に属し、尾州長久手で信雄と秀吉の合戦(天正12年4月)のおり、信雄と「通心」した疑いをかけられ失脚した。信雄は信長の子供であるから、そんな疑いをかけられたのであろう。それで関地蔵辺りに隠れ住むことになった。
篠山氏だけではない。他の甲賀武士もひどい目に合っている。天正13年(1585)、秀吉は前年の小牧長久手の戦いで家康と組んだ紀州の根来・雑賀の一揆を鎮圧するのに、甲賀武士も動員して水攻めの堤を築かせた。それが不備であったと難癖をつけて領地没収を命じたのである。大方の甲賀武士は仕方なく命に服したが、小佐治の佐治氏は勇敢にもこれに抗して戦った。だが、結果は水口古城(岡山城)の堀 秀政・中村一氏に攻められ滅亡している。篠山氏では、景元の弟資忠(篠山監物)は領地を没収され「住所離散」の憂き目に遭い、後、相模に移ったと記されている。資忠の子景近は田堵野に住し、これが大原数馬氏のご先祖である。このようにして甲賀武士から領地を奪い、それを水口古城の領主に集中させ、集権的支配を拡大していった。こうして天正13年(1585)には岡山城の中村一氏は6万石の大名になり、天正18年(1590)に一氏移封のあとは増田長盛、更に文禄4年(1595)からは長束正家が城主を引き継いだ。
これらの不運を取り払ってくれたのが家康である。慶長年中に家康が上洛の道すがら景春を召し出して先祖のことや「年来の在様」を聞き、近隣十郷の代官をするよう命じている。篠山氏がどれだけ恩義を感じたか想像に余りある。
そして、この恩義は、数年後家康の危機を救うことになる。慶長5年、家康が上杉中納言景勝を討つために甲賀郡を通過しようと石部に宿をとっていた時に、景春は、秀吉政権の五奉行の一人長束大蔵大輔が水口駅で陰謀を企てている事を知らせた。家康は長束からの朝餉の招待をすっぽかして夜中に宿を発ち、無事水口を通過し関に着いている。景春はその時褒美として「腰物」をもらった。いかにも忍者らしい働きである。事の真否は知る由もないが、家康は無事水口を通過し上杉攻めに向かうことができ、直後の関ヶ原の戦いで勝利して天下を取り、江戸時代の350年が続くのである。正に「情けは人のためならず」である。余談であるが、事後長束はこの企みを否定したが、家康は信じなかったという。
北東からの遠景
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城
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