城郭探訪

yamaziro

丁野山城  近江国(湖北)

2016年02月23日 | 山城


滋賀県城郭分布調査より『東浅井郡志』(丁野山古砦図)

お城のデータ

住所地:長浜市(旧・東浅井郡湖北町)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/bbxo8l

区 分:山城

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:浅井備前守亮政

標 高:170m 比高:60m 

遺 構:曲廓・土塁・堀・堀切・竪堀・説明板

駐車場:駐車場(日本硝子独身寮の)に!

訪城日:2016.2.20

お城の概要

 この山は低い山で丁野山城まででも比高は60m程度です。5分で尾根の鞍部に出て、右側のピークが中島城、左のピークが丁野山城です。 木々が伐採され、大変見学しやすくなっています。おまけに時期的に下草も無く城郭遺構も見学し易い。城址は岡山山頂にあり、大嶽城を小型にした印象です。主郭は20m四方ほどで主郭周囲に 堀が巡り、南北双方に副郭のピークとその先に堀切、それに続く竪堀があります。 城は丁野山の山頂に南北に築かれ、最高所に南北20.5m、東西19.5mの方形の曲輪を削りだし、主曲輪とするが周囲には土塁がなく、一段くだった外側に横堀をめぐらし土塁が築かれている。土塁の周囲には帯曲輪がある。

 主曲輪の北側には横堀を挟んで4等三角点のある北曲輪、さらに堀切があって曲輪がある。主曲輪の南側にも
同様に横堀を経て曲輪、さらに堀切がある、連郭式の曲輪配置となっている。 南の堀切に続いて、竪堀も残っている。

 小谷山の西約1kmの位置に築かれている。

丁野山城は主曲輪を中心として南側と北側に袖曲輪といった連郭式(段廓)の曲輪配置で、主曲輪は約30m×25mで曲輪の周囲は横堀を巡らし、南側尾根と北側尾根には堀切を配している。

 北側の曲輪からは北国脇往還道を挟んで小谷山は目前で、小谷城の支城として築城されたことが容易に推定できる。

お城の歴史

丁野は小谷城浅井氏の発祥の地と言われています。丁野山城も永正十五年(1518年)に浅井備前守亮政によって築城とされます。天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もりましたが、織田勢に攻められ落城しました。 <現地案内板より>

----信長公記 巻六 元亀四年 12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事------

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山(長浜市湖北町丁野)の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、信長公記

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