城郭探訪

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上坂城 近江国(長浜)

2013年07月09日 | 平城

 

所在地:長浜市西上坂町

現 状:児童公園

築城期:室町時代

築城者:上坂氏

区分:平城

遺 構:曲輪、土塁、屋敷跡、碑、説明板

訪城日:2013.7.9

 

 

戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂(こうさか)氏の館跡です。

 

上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。

 

関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。

上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました

 

館跡は土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。

城址は丸の内の跡が児童遊園に整備され、周辺には「いがんど(伊賀守殿)」「しなんど(信濃守殿)」の地名や土塁の跡が残されている。また、城址北方の鹿座神社は春日神社が勧請されたもので、寛正年間(1460~66)、上坂泰貞が修造したと伝えられている。代々の上坂氏の崇敬を集めた神社としても知られ、拝殿には透かし彫りで神紋「笹竜胆」が刻まれていた。

今浜城の戦い

 北近江の守護大名は京極氏で、戦国初期の段階では京極高清(たかきよ)が当主だっが、その跡継ぎを誰にするかで争いが起こった。
高清の子供のうち、弟の高慶(たかよし)が選ばれた。高清の意向と同時に、京極氏の重臣中の重臣であり、守護代をつとめていた上坂信光(こうさかのぶみつ)が高慶を推したからといわれている。

これに対し、上坂信光の専横的な行動を日頃から快からず思っていた部将たちは、高慶の兄高延(たかのぶ)への守護職継承を主張し、京極高清・上坂信光と敵対する行動に出たのである。

高延への相続を主張したのは浅見貞則をはじめ、浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らで、京極氏譜代の家臣であり、国人領主として位置づけられ、「国人一揆」の名で呼ばれている。
彼等は浅見貞則の居城、尾上城に集結した。これに対し上坂信光は機先を制そうと、軍兵を率いて安養寺まで出陣した。
ところが、国人一揆の方が上坂軍に攻めかかり、上坂軍は今浜城に退いて、ここで合戦が繰り広げられたのである。

上坂信光は今浜城を支えることができず、高清の本拠である上平城に逃れ、さらにそこから尾張へ落ちて行った。
結局、国人一揆に擁立された高延が新守護になったのだが、今度は国人一揆の盟主だった浅見貞則に不満が集中。やがてその不満をたくみに利用した浅井亮政が貞則を倒す事に成功し、北近江一の実力者にのし上がって行ったのである。
浅井氏の台頭を物語る一戦であった。

その浅井攻めの功績により、浅井の旧領と小谷城を与えられた秀吉が今浜城跡に目を付け、ここに築城した秀吉の最初の居城、長浜城はあまりにも有名であり、そして皮肉な物である。

  

上坂氏

矢筈/四つ目結
(桓武平氏梶原氏流/佐々木氏支流)



浅井の「両坂」と呼ばれていた。下坂氏は下坂田を領して下坂と称し、上坂氏は上坂田を領して上坂となったものという。
 上坂氏は、梶原氏の子孫といわれる。梶原氏は桓武平氏鎌倉党ののうち、坂東八平氏の一つ。相模国梶原郷を本領とし、源頼朝が挙兵した石橋山の合戦では平家方として戦った。戦に負けた頼朝が土肥の椙山に逃げ込んだとき、その所在を知りながら、見逃した話は有名である。その後、源頼朝に従い、平家との合戦では源義経の軍奉行として派遣軍の監督にあたった。
 また景時は上総・安田など幕府にとって煙たい存在の豪族を、次々と失脚させて、鎌倉体制の統制責任者として活躍した。しかし、頼朝死後、御家人から弾劾され、ついには鎌倉を追放され、梶原一族は没落したのである。
 とはいえ、支流のいくつかが各地に分散して梶原氏の血脈を伝えた。室町期、梶原景家は近江国坂田郡上坂に流れ落ち、同地に土着し上坂氏を称したという。その子の景重は佐々木京極勝秀の養子となった。そして、京極実高の子を養子として上坂を継がせ、高景と名乗らせて上坂城を譲った。
 以後、平氏を源氏と変え、家紋も梶原氏ゆかりの「矢筈」から佐々木氏の「四つ目結」に変えたと伝える。

京極氏の重臣

 しかし、近江上坂氏の場合、三つの系統があったとされている。すなわち、さきに述べた梶原氏流、多田源氏の山本氏流、そして坂田氏の三つである。坂田氏というのは、佐々木六角氏頼の二男、坂田二郎氏高を祖としている系統で、いわゆる近江源氏佐々木氏の支流である。とはいえ上坂氏には、上坂治部大輔と名乗った流れ、上坂伊賀守を称した流れ、さらに上坂信濃守との三系統があっていずれが、佐々木坂田氏の流れかは判然としないのである。
 上坂氏は早くから佐々木京極家の被官として、近江国上坂田に勢力を有していた。このため、上坂田の田の一字を略して上坂の姓を名乗り、居住地もまた上坂と称したという。
 上坂氏で著名なのは、京極高清に二十有余年仕え、その執権として権勢を振るった治部大輔景重(家信か)が知られている。景重は、文亀元年(1501)北近江の国衆である浅井氏・三田村氏・河毛氏・堀氏らと今浜で合戦に及んだことが『江北記』に記されている。
 当時、京極氏は家督をめぐって二派に分かれて争っていた。上坂氏は京極高清を擁して、一方の京極氏の流れである材宗をかつぐ今井氏ら国人衆と対立していたのである。このような国人層の対立をみて、美濃国揖斐にいた京極材宗は江北の今井館に帰り、今浜へ攻め寄せたが、京極高清方に敗北を喫している。京極家はこの段階において、国人領主の動向に左右される存在として、守護職たる地位を低下させていたことが理解できるのである。
 永正二年(1505)材宗は、九里氏らの支援を得て、南方から江北を攻撃したが失敗に終わり、結局、箕浦日光寺で和睦がなされた。
 以後、約二十年間は何事もなく過ぎたが、大永三年(1523)、また国人領主間の対立が劇化する。前述した浅井氏・三田村氏・今井氏・堀氏らは浅見氏を盟主として結束し、京極高清と結ぶ上坂氏と合戦に及んだ。上坂氏は安養寺に警固の軍勢(番勢)を置いていたが、国人同盟は小野江から仕掛けて、今浜まで撃破したので、上坂勢は数多くに戦死者を出した。京極高清は上坂氏が合戦に敗れたことで、尾張国へ落ちのびた。

近江の戦国争乱

 勝利した浅見氏ら国人衆は京極高延を擁立し、高延は浅見氏の小野江城へ入っている。ここに、江北では、国人衆の主導によって守護の交替がなされたのである。まさに下剋上が成立していたといえよう。
 やがて、浅井氏が台頭し、江北の支配権を守護京極家と取って替わったため、上坂氏は浅井氏の勢力としばしば戦ったが、結局、浅井氏の戦国大名化は揺るぎないものとなり、ついには主家京極氏とともに上坂氏は浅井氏の圧迫の前に衰退を余儀なくされたのである。
 その後の、上坂氏は大和郡山の豊臣秀長に仕えたが、郡山豊臣家滅亡のあと近江上坂に帰って帰農した者、また、彦根藩主井伊氏に仕えた者、あるいは加賀金沢藩主前田家に仕えた者など、それぞれの人生をおくったことが知られる。
 ところで、上坂氏の居城であった今浜城は、近江浅井氏滅亡のあとに江北の領主となった羽柴秀吉の居城が築かれ、その名も長浜と変わった。そして、居城跡は長浜城の築城によって跡形もなくなってしまった。しかし、上坂氏の一方の居城であった上坂城は、姉川水系の豊かな流水を取り入れて濠とし、その幅は五間はあったと思われる壮大なものであったというが、現在は道路となり、細流のみが残っているばかりだ。また、土塁もところどころに残り、往時における上坂氏の権勢のほどが偲ばれる壮大さをいまに感じさせている。

参考資料:長浜市史・近江国坂田郡志・田中政三氏著「近江源氏」など】

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