城郭探訪

yamaziro

圓城寺城 近江国(大津)

2013年07月09日 | 城郭寺院

関ヶ原の戦いの前哨戦

大津市・琵琶湖展望(園城寺内)

お城のデータ

別 名:三井寺

所在地:大津市園城寺町246 map:http://yahoo.jp/W69Yvt

築城期:壬申の乱(672)の後創建 7世紀

築城者:大友与多王(大友皇子の皇子)

現 状:圓城寺(三井寺)

区 分:城郭寺院

標 高:150m 比高差:60m

陣 城:長等山(ながらさん)の山腹に西軍の陣所

  • 大津籠城は慶長五年(1600)9月4日
  • 西軍、立花宗茂と毛利軍
  • 大津開城は慶長五年(1600)9月15日

目 標:圓城寺(三井寺)

駐車場:圓城寺(三井寺)

訪城日:2013.7.7

展望台から大津市・琵琶湖(園城寺内)

お城の概要

関ヶ原の戦い前哨戦

  大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。
この籠城に対して、西軍、立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そこで西軍は、長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました

この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本丸に入り、和睦開城を申し入れました。

 

歴 史

三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。

平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。

しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

 文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

 寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

関ヶ原の合戦前哨戦

東軍の勝利を決定づけたともいえる大津城籠城の攻防戦

慶長三(一五九八)年八月、豊臣秀吉が伏見城で死去すると政治情勢が急激に動き出す。秀吉生前中から五大老の一人、徳川家康の台頭により合議体制がくずれつつあったなか、翌年に豊臣家を継承した秀頼の補佐役であった前田利家が病死すると、それまで保たれてきた均衡状態が失われてしまう。

家康は、豊臣方に忠誠を誓う有力大名の圧服にのりだす。まず加賀の前田利長、丹後の細川忠興などを押さえ、ついで東国の雄、会津の上杉景勝に働きかける。ところが、景勝が上洛を拒んだため家康は上杉討伐を企てる。

この強引ともいえる出兵は、反家康派の反感を呼び、石田三成を中心に五大老の毛利輝元や宇喜多秀家をはじめ豊臣方に縁の深い諸大名が大阪城に集結することになる。

これに対し、家康の動きも早く慶長五(一六〇〇)年六月十八日には大津城に入り、城主の京極高次と密談している。『京極家譜』には「大津城へ入御、御密談あり」と記されている。ときに高次は、豊臣方か徳川方か、いずれにつくか苦しい立場にあった。高次は豊臣方恩顧の大名であり、正室の常高院(お初)は秀吉の側室・淀君の妹であった。高次の妹・松の丸も秀吉の側室として仕えていた。一方、高次の正室の妹・崇源院は徳川家康の次男・秀忠(二代将軍)の妻となっていた。そんな苦しい状況の中で、高次はとりあえず豊臣方に応じて、加賀の前田討伐に兵を出す。

 高次は突如東軍に寝返り、手勢3,000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めた。この出来事に大坂城の淀殿は驚き、城中にあった高次正室の初(常高院、淀殿の妹)に海津殿を使者として遣わして停戦・降伏を求めるが、大津側は拒否した。

これに対して西軍側は、高次の裏切りに対する報復として、毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。しかし城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆守・山田大炊は兵500を率いて城外へ討って出て、戦ったという。攻めあぐねた寄せ手は、13日には大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中、城内は混乱し。高次も防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。

高次をはじめとする京極勢は9月15日に降伏して大津城を開城する。高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。

金堂は、桃山時代、豊臣秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)による再建。

削岩のノミの跡

影 響

この大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗因にもつながった。なぜなら、大津城が開城した9月15日は、関ヶ原の戦いのまさに当日だったからである。つまり西軍は、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う、という不利な状況を招いたのである。西軍は大津城を陥落せしめたものの、同じ日のうちにその局地的勝利は意味を失った。

立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。

一方、敗軍の将である京極高次に対して家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・9万2000石を与えて功に報いた。家康は、宗茂を大津城に引き付けたことを大いに賞賛したという。

 

参考資料:ウィキペディア、圓城寺HP、大津の城、

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