京極氏の隠れ城
お城のデータ
所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)梓河内 map:http://yahoo.jp/uo9zYA
別 称:河内城
区 分:山城
標 高:355m 比高:155m
現 状:山林
遺 構:郭・塹壕空堀(城道)・碑
築城期:鎌倉期
築城者:京極氏
修築者:京極高慶が箕浦城主今井定清
城 守:石田為久(京極氏被官)、梓河内の山上の猪鼻城の城守。
城 域:650m×210m
駐車場:登り口の空地
訪城日:2015.5.14
梓川を右折、林道口に駐車林道口~支流の橋渡り
お城の概
河内集落の最奥部、梓川の合流点背後位置し、比高約150mの急峻な山容と東西両側面を深い谷川で守られた要害地形だ東西650m・南北210mの広大な、江北随一の城郭。
主郭・城跡碑のある東の頂部、その北側下に広い削平地があり、さらに西側下、北西下に広い削平地。あるいは段郭があり、70を超える曲郭が残存する。
曲郭・敷石の残る。城道には、削岩出来ず巨岩が残る九曲り塹壕空堀道(堀底道)が続く、虎口を兼ねた。
尾根先端から始まる塹壕(堀底道)道も碑のある平坦地の西下を越えると長い土橋状を越え、再び塹壕道となって、中尾林道に突き当たります。
集落から、比高約150mの急峻な山容と東西両側面を深い谷川で守られた要害地形に、東西650m・南北210mの広大な、城底道はに立派で、京極の隠れ城。山上御殿に70余の曲郭群・・・兵糧はと想像・心配します。
塹壕空堀・・・堀底道を登る
削岩の矢穴の後の残る巨岩
主郭の城跡 猪鼻城碑 東に伸びる土橋状の武者走りか
曲郭の敷石
歴 史
日本城郭体系によると、柏原城に近く「京極氏の隠れ城」という。柏原城は1358年(正平8年)頃に京極道譽が居住していたされる。(1336年(建武3年)の強豪氏の祖である氏信が築城したとされる大平寺館は焼失後)。
柏原城は京極氏塁代の中で強大勢力を誇る道譽に、清瀧寺がそれにあたるか。付近にこれがだけ巨大な城郭が構築する勢力は散在しなかった。或いは、街道より奥まった谷頭に立地条件等する勘案すると、京極氏の詰め城として築城か?
『定本日本城郭事典』によりますと、所在地は「坂田郡山東町梓河内」、猪鼻城・別称は「梓河内城」、形式は「山城」です。
城の歴史は「京極氏十二代高清の後見人をめぐって黒田政光と京極政経が対立、家臣も二派に分かれて相争った時、争乱を避けるべく一族が隠棲の地として築城したとか、また、それ以前に築かれていたが、多年の間、秘密にされ、文書、記録に現われなかったともいわれる。このため、京極氏の隠れ城との異名がある。
ともあれ、政経派が勢を得、政光派が衰える過程に登場してくる。浅井氏が湖北に戦国大名としての歩みを進め、反対に京極氏が衰微する頃、ここに拠った京極高慶が箕浦城主今井定清に城修築の人夫を求めている。
城址は京極邸址、馬駆け場に続いて石田氏邸がある。石田氏はここを本拠として河内城の守りについていた。が後年の石田三成との関係は明らかでないが石田家の祖でしょう。
しかし、元亀二年(一五七一)磯野員昌の佐和山城衆中に石田仁兵衛が梓の住人として知られる。また、梓は近江から美濃への通路で、関所が設けられていた。とあります。
道案内
国道21号線の、梓河内の信号で国道21号線「梓河内」信号に!
南に、すぐに名神高速のガードをくぐり集落に奥へ。ガードより1.7km先集落の一番奥、梓川の右手に中尾林道の入口があり、支流を渡り「霊仙山登山口」があり、霊仙山登山道を5分も登ると城跡の案内板があり、右手に登ります。比高20mほど登ると、不明瞭になるが、尾根に目指し獣道(先輩見学者の登城路)のような急坂を直登する。
尾根付近でまた道が現れ、岩場の九曲り塹壕掘の城道を尾根まで登ります。途中、岩場の虎口に見える箇所、石段の痕跡に見える箇所がある。尾根から塹壕道をどんどん登ります。壕(掘底道)道が終わり長い土橋になる箇所の左上に碑があります。
林道入り口手前の空地に駐車
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia・レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!