城郭探訪

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木浜(このはま)城 近江国(守山)

2014年06月08日 | 居城

  

お城の概要

所在地:守山市木浜町

現 状:真正寺・宅地・畑地

遺 構:堀、湊

区 分:平城

築城者:進藤山城守

築城期:室町期

城 主:進藤賢盛

訪城日:2014.6.7

微高地

木浜城は、琵琶湖岸に面した(現在は埋め立てられ遠ざかった)木浜集落の中央やや南東にあった。かつて木浜地区は付近最大級の湊町で、幕末期まで守山市一番の戸数を誇る集落だったという。

城のあった位置は、集落やや南西の真正寺付近の一画であったとされ、すぐ西方には堀跡の水路が残っている。

城主進藤氏は木浜・小浜の要津を領したものの、六角氏の重臣として観音寺城内に上屋敷を構えていたので、木浜には居館を構えていた。

       

室町期は距離200mにも満たない東方に大槻氏城があり、どのように共存していたのだろうか。

歴 史

木浜城は江南守護六角氏重臣進藤氏の下屋敷であった。

 築城年代は定かではないが、戦国中期に進藤貞治によって築かれた。貞治・賢盛父子は、後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された。また六角義賢の六宿老として、三雲成持・蒲生賢秀・平井定武・後藤秀勝・目賀田綱清とともに進藤貞治の名が挙がり、観音寺城でも一際大きな上屋敷を構えていた。

 進藤氏は六角家臣として、将軍や有力守護大名たちとの外交役で多くの功績を立てたと言われ、浅井氏との合戦にも度々参加したが、観音寺騒動により主家六角氏と不和になり、信長の上洛戦が始まるとこれに従った。

 元亀2年(1571)佐久間信盛の与力となり、元亀4年(1573)の越前朝倉攻めや石山合戦に従事した。本能寺の変後織田信雄に属したが、やがて秀吉に転仕した。

進藤貞治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 進藤 貞治(しんどう さだはる、明応6年(1497年)- 天文20年(1551年))は日本の戦国時代の武将で、近江の六角氏の重臣。父は進藤長久で、子は進藤賢盛とされる(異説もあり)。

木浜城主であり、後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された。 貞治は六角高頼・六角定頼の時代に仕えた。外交手腕に優れ、時の将軍・足利義晴と細川晴元の和睦を仲介したりなど、豊後の大友義鑑と書簡のやり取りやその使者の臼杵鑑続とは直に外交役となり、多くの功績を立てたと言われている。

なお、蒲生賢秀や平井定武らとともに、「六角の六家老」と称されることもある。

 

進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。

 進藤貞治 (1497~1551)山城守。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。

<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

 ⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。

<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長直参でなく、後藤家が信長に重用されるようになっていた。>

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

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