城郭探訪

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大槻氏城 近江国(守山)

2014年06月08日 | 居館

お城の概要

別 名:大槻氏館

所在地:守山市木浜町2240

築城期:建久年間(1190-98)

築城者:大槻氏

城 主:大槻光秀・光永

現 状:宅地・畑地

遺構:屋敷跡(末裔大槻氏居住 個人宅)

訪城日:2014.6.7

  

お城の概要

 大槻氏城は、琵琶湖岸に面した(現在は埋め立てられ遠ざかった)木浜集落の中央やや南東にあった。かつて木浜地区は付近最大級の湊町で、幕末期まで守山一番の戸数を誇る集落だったという。

現在城館遺構は何も残らないが、木浜集落全体を水路が囲んでいる。今も城主末裔がお住まいの区画に、往時は3m弱幅の水堀と土塁が廻っていたとされる。

大槻邸だけの外周に比較的広い路地が通っているのは、堀を埋めて道路とした名残なのだ。

 

室町期は距離200mにも満たない西方に進藤氏の木浜城があり、どのように共存していたのだろうか。

  

歴 史

 大槻氏は、鎌倉時代以前から木浜に居住していた名主で、源頼朝の御家人となり、この地に築城を許されたとされる。

室町期に入ると江南守護佐々木六角氏の家臣となり、戦国期の大槻光秀の時には「関所奉行」を拝命し3000石の知行を得た。

 信長が台頭すると織田・羽柴方につき、越前朝倉攻めや賤ヶ岳合戦に従軍したが光秀は柳ヶ瀬にて討死する。

その後光秀の子光永・光定は八幡山城主で関白秀次の家臣となったが、秀次切腹後に浪人となり木浜に帰った。

大坂の陣では藤堂高虎に被官し戦功をあげ、伊勢津城下で3000石の知行を得たが、のちに光永は家督を継ぐため木浜に戻ったという。

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

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