城郭探訪

yamaziro

宇賀野館 近江国(近江町)

2015年12月17日 | 居館

宇賀野会館の城址碑

戦国時代に京極一族・宇賀野氏の居館。宇賀野氏は京極高雅を始祖に持つ家柄で、宇賀野村(現在の米原市の北部一帯)を支配していました。

 戦国時代には、織田信長によって黒田城を落とされて尾張国から命からがら脱出し、この地に逃げ込んだ幼かった山内一豊と母の法秀院が一時期に身を寄せたという長野家の住宅が直ぐ近くにありました。写真は宇賀野会館の敷地内にあった石製の説明板です。説明によると、法秀院は村内の子女達に裁縫や行儀作法を教えていて、この習子の中に後に一豊の妻となる千代が居たそうです。この地で一豊と千代が運命の出会いをしたことを知らなかったのでビックリしてしまいました

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)宇賀野  map:http://yahoo.jp/yAj1tJ

現  状:公民館、宅地

区 分:居館

遺 構:屋敷跡碑

築城期:室町期

築城者:京極高雅

目標地:坂田駅・宇賀野公民館

駐車場:宇賀野公民館

訪城日:2015.10.3

 

 

お城の概要

宇賀野氏館は北陸本線沿いの宇賀野会館一帯にあったとされますが、今は遺構は屋敷碑と水路。

宇賀野集落は、水路がはり巡らされいるが、遠藤氏館の宇賀野会館の周辺も含めて、”中世の歓喜光寺”の外郭があり、浅井氏の被官であり在地土豪を超える存在であった、現遠藤家(連成寺の西)を含む一体の堀=水路も遺構あろう。

会館の西側の路地を北に進むと長野家があります。さらに長野家から北西へ600mほどのところに山内一豊の母である法秀院の墓があります。

宇賀野館は、JR北陸線で東西に二分された西の宇賀野地区にあったと考えられている。小字木戸より流れる水路が宇賀野会館の北西側で北と西の二手に分かれ、北西方向で直交している。この水路で囲まれた通称「西屋敷」が館跡とされ、現在は北西の一角に宇賀野氏の末裔の木村家がある。また、南東には長野家が在り、屋敷地の南東部に水路がめぐり、土塁の一部も残存している。この長野家の南側の水田が小字「親方」である。
なお、主家滅亡により流浪する身となった山内一豊の母・法秀院が身を寄せたのがこの長野家である。
2006年に放送されたNHK大河ドラマ「功名が辻」効果で、当時はこの宇賀野にも大勢の観光客で賑わったが、今は静寂を取り戻しひっそりとしている。

歴 史

淡海木間攫には、「東宇賀野村 遠藤嘉右衛門ト云武士居住スル由ニテ、田地ノ字ニ今以テ唱来レリ、」ある。

島記録に「・・・東宇賀野侍遠藤嘉右衛門尉といふ御前さらすのきり物ありしに・・・天文弐拾壱、正月十一日・・・」と記されている。遠藤嘉右衛門は住していた。明治初期の地籍図に東宇賀野に”東屋敷”が見える。両記述は符号する。

 宇賀野氏の居館。宇賀野氏は京極氏六代高秀の子の高雅を祖。なお、高秀の父は佐々木道誉の名で婆娑羅大名として有名な京極高氏です。この地を支配した京極氏六代高秀の子の高雅を祖とする宇賀野氏の館跡と思われ、現在の小字「親方」は、御館の名残りと推測されている。

この集落内にある長野家は、戦国武将で知られる山内一豊と母法秀院が一時身を寄せたところで、一豊と妻千代の出会いの舞台とされている。
なお、長野家は、永禄2年(1559)に岩倉織田家の岩倉城が織田信長に攻められ落城し、岩倉織田家の家老であった山内盛豊が討死したため、幼い山内一豊と母は流浪し、知人の紹介で永禄3年(1560)宇賀野の長野家に匿われた。

一豊の母・法秀院は、死ぬまで宇賀野に住したと伝えられ、墓が残っている。

長野家

法秀尼は戦で夫を亡くし、織田信長に追われて、宇賀野の長野家に身を寄せていた。利発な千代を見初めた法秀院が、息子(一豊)の妻に推したと言われている。

 

 


 

 天正13年(1585年)閏8月21日、秀吉は、山内一豊に湖北において2万石を与え、長浜の城主とした。秀吉、柴田勝豊についで3代目の長浜城主である。この後、5年間領国政治を行う。
 この長浜城主時代に、一豊と見性院の夫婦に悲劇が襲う。天正13年11月29日、長浜を大地震が襲い、二人の子供である与祢姫が、御殿の棟木が落下した下敷きとなり、乳母とともに息絶えてしまった。この年6歳であった。
 一方、地震から数年後、見性院は城下で男子の捨て子を拾い、養育した。後に、山内家の菩提寺である妙心寺大通院の湘南和尚となる

坂田駅前

宇賀野と法秀院

 戦乱が果てしなく続く尾張の岩倉城は、織田信長に攻められ永禄2年(1559年)に落城、岩倉城の家老であった一豊の父盛豊は城と運命を共にし、一豊と母や弟妹は夜陰の中、城から脱出、家臣や縁故親戚にもかくまわれていたが、信長の詮索が厳しく、逃避、流浪の上、知人の紹介で永禄3年(1560年)宇賀野の長野家に落ち着かれた。
 一豊の母は、夫盛豊が戦死したのち出家し法秀院と称したが、資料が乏しく実名等は定かでない。
 法秀尼は長野家の屋敷の一隅でひたすら息子の武運を念じ、慎み深く質素な生活を送りながら、近在の子女に針の業(裁縫)や行儀作法を教えていました。

 一説によると、この習子の中に、後に一豊の妻となった千代がいました。利発な彼女を見初めた法秀尼は、息子の嫁に推されたと伝えられています。悲運を背負い苦労の中にも地域の人達の温情に守られ、二十数年の歳月が経ち、念願であった息子一豊が長浜城主に栄達の朗報が届き、早々法秀尼へ迎えの使者が来ましたが、謙虚な人で老体が息子の活躍の邪魔になってはと、また長年住み慣れ恩義を受けた宇賀野を去り難く、再三の迎えにも応じず、その翌年天正14年(1586年)7月17日、病にてこの世を去りました。

取り壊された長野家

 


息子の迷惑になることを慮った法秀院は、最期まで宇賀野を離れなかったという。
宇賀野もまた水の美しいところで、集落を水路が巡っていた。
地元の方のご案内で、法秀院や長野家のお話を伺うことができた。

 
宇賀野にある法秀院の墓。平成9年に現在の新しい墳墓になっている。
現在は地元の方が顕彰会を作って、大切に守っている。

 
坂田駅前にある、山内一豊と千代の像。地元の彫刻家の方の作品だと伺った。
NHKの大河ドラマ「巧妙が辻」(司馬遼太郎さん原作)の放送に際して作られたものだという。
一豊と千代が二人並んでいる像は、全国でもここだけだという話だった。


坂田駅のそばには「坂田神明宮」がある。内宮の坂田宮は元伊勢(もといせ)の一つである。
伊勢神宮は、伊勢に鎮座するまで、大和・伊賀・近江・美濃・尾張を移動した伝承をもつ。
一時的に鎮座した場所は元伊勢(もといせ)と呼ばれ、その一つが近江の坂田宮である。
伝承には、伊勢への道中、倭姫命は坂田宮(さかたのみや)に2年滞在したとある。

 
坂田神明宮の境内にあった井戸。神秘的な水の色だった。
歴史ある社寺や建造物を撮っていると、自分の理解の次元を越えるものに出会うことが多い。
そんな時、神話や伝承は何かの寓話であって、暗示するものがあるように感じる。

神話の世界をどう捉えるかは難しいが、何かを政治的に美化するということではなくて、
ただその根底にあるものをつなげてみようというのが、今回の撮影のスタンスにある。
神話は好き嫌いというよりも、共同体の深層心理を探る一つの手がかりになると思っている。

倭姫命に日本武尊、世継の翁と息長氏。織姫に彦星、千代と一豊。
伊吹山の麓には、神話・伝承の人物から実在の人物まで、豊かな物語が残っている。
奇しくも、鈴鹿山脈の北側に坂田宮が、南側に甲可日雲宮があるのは興味深い。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「旧坂田郡の城」6、史跡ウォーカー

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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