城郭探訪

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佐和山城 近江国(彦根)

2016年02月13日 | 山城

鎌倉時代初期に「佐々木定綱の六男の佐保時綱」が築城、姉川の合戦時「磯野丹波守員昌・員昌父子」が城代として入城 

後に、1586年に「石田三成」がはいったが関ヶ原の戦いで落城。

翌年、「井伊直正」が入城したがすでに山城では城下の経営に不便なことから彦根築城により廃城

①本丸 ②本丸南東遺構 ③本丸北東遺構 ④二の丸 ⑤三の丸 ⑥美濃殿丸 
⑦八幡山遺構 ⑧太鼓丸 ⑨法華丸 ⑩西の丸 ⑪西の丸北西遺構 
⑫嶋左近屋敷 ⑬石田三成屋敷碑 ⑭石田三成屋敷 ⑮丸郭 ⑯奥ノ谷の出丸

所在地:彦根市鳥居本・佐和山町・古沢町 map:

別 称:佐保城

区 分:山城

築城期:鎌倉期 建久年間(1185-99)

築城者:佐保時綱

標 高:213m 比高差:145m

遺 構:曲輪跡・移築城門・掘

訪城日:2012.9.27・2016.2.13
【歴   史】
鎌倉時代に近江守護となった佐々木定綱の6男・佐保時綱が築いた。
戦国時代後期には湖南の佐々木六角氏、湖北の浅井氏が強い勢力をもっており、この佐和山城をめぐって激しい攻防を繰り返した。
寛正から応仁年間(1460-69)にかけて六角氏の武将である小川左近太夫が在城していたが、浅井氏の攻撃を受けて落城すると、浅井氏の家臣磯野員吉・員昌父子が城代として入城。元亀元年(1570)姉川の合戦で浅井氏が織田軍の敗れると、員昌は戦場より急いで佐和山城に帰り籠城。織田軍佐和山城は、交通の要衝に築かれた城で、鎌倉時代の建久年間に佐保時綱によって築かれたと云われている。

 室町時代には、観音寺城主佐々木(六角)定頼の持城となり、大永年間には重臣小川左右大輔を城主にしている。

 戦国時代になると、小谷城主浅井氏の持城となり、磯野昌吉・員昌が城将となり、元亀元年~天正10年にかけて織田信長と戦い、そしてついに開城した。 

 本能寺の変後、豊臣秀吉はこの城の立地条件から有力武将を城主に配置した。 天正11年に堀秀政が5万石で城主となり、天正13年に堀尾吉晴が城主となり近世城郭へと改修が始められた。

 天正18年、石田三成が194,000石(後に21万石)を領して城主となった。 三成は、改めて城と城下町の整備を行ったが、慶長5年の関ヶ原の合戦に敗れ、居城佐和山城も東軍に攻められ落城した。の重臣丹羽長秀に説得され8ヶ月後に開城。員昌は城から退去した。
天正10年(1582)信長が本能寺に倒れると羽柴秀吉が後継者となり、翌年掘秀政を入城させたが、’85年越前北ノ庄に移封され、坂本城の堀尾吉晴が封じられた。’90吉晴が浜松城へ移ると石田三成が入城した。三成は豊臣政権の奉行として、伏見や大坂に詰めていたので、領内の統治にあたっていたのは父正継であった。
慶長5年(1600)三成と徳川家康の間で「関ヶ原合戦」が起こり、三成は敗れて敗走。のちに捉えられ処刑される。佐和山城には徳川方の軍勢が押し寄せ、激戦の末落城した。
翌年、井伊直正が入城したがすでに山城では城下の経営に不便なことから彦根城を新たに築いた。このとき佐和山城の建物は取り壊され、彦根城の資材として使われたという。

 

 

宗安寺移築門        彦根市本町2丁目3-7 MAP

宗安寺の赤い山門が特徴的だが、これは佐和山城の表門を移築したとされている。

  京橋通りにある浄土宗の寺。佐和山城の正門を移築されたと伝えられています。大坂夏の陣で戦死した、豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成を偲んで、重成忌が行われます。
 井伊道政の正室東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪(みのわ)に建立された安国寺は、佐和山(232.5m)山麓へ移され、宗安寺と改名、その後彦根城築城のさい現在の地へ再度移転されました。元禄の大火で、「赤門(あかもん)」と呼ばれる朱塗りの佐和山城大手門を移築した表門が唯一焼け残り、現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏(ねんじぶつ)と思われる仏像を持ち帰ったもので、鎌倉時代の作といわれています。その他、墓所には木村重成の首塚、唐人門、鐘楼、白砂に巨石を配した庭園があります。
 また、徳川の将軍が替わるごとに祝賀のため朝鮮国から来朝した朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であり、朝鮮王像が残されています。

 高源寺移築門        犬上郡多賀町楢崎374 

高源寺総門は、佐和山城の裏門を移築したものだとされている。門に敷居がない構造は馬に乗ったまま城内に出入りするための設計だと言われている。

 元は天台宗に属し、十福寺と呼ばれていましたが、戦国時代に廃寺となり江戸初期に再興され、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っています。最盛期には書院三十坪、仏殿二十五坪、奥殿三十坪、禅堂三十二坪などを要する大寺院で、常に五十有余人が住した湖東における名刹でありました。しかし、明治九年の火災により石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものである総門以外はすべて焼失しています。またこの寺には、幕末、開国論を実行するため主役を演じた大老井伊直弼と、それを助けた長野主膳、この悲劇の二人に献身して、二人の死後、六十八歳で死ぬまで、直弼主膳の菩提を弔い続けた村山たかの肖像画があります。

 

蓮成寺        彦根市栄町一丁目5-11 

日蓮宗蓮成寺は、開基は永禄2年(1559)で、慶長7年(1602)に佐和山城法華丸から移した寺であるといわれる。三成の念持仏といわれる鬼子母神像が安置されている。

妙立山蓮成寺が彦根城を望むこの地に建立されたのは1602年のことです。前身は石田三成公の居城佐和山城にありました。1559年、当時の城主磯崎丹波守員昌(かずまさ)が織田信長の命により法華丸を建立したのが始まりです。佐和山城主はその後、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴、石田三成と代わりましたが、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成公が敗れると、法華丸も廃寺となりました。しかし、彦根藩初代藩主(彦根城の築城までは佐和山城に居城)井伊直正公の命令により現在の地に蓮成寺として再建されました。蓮成寺はかっての彦根城外堀(昭和の初めに埋め立てられ現在は県道になっています。)を背に建てられました。蓮成寺の正面側には彦根藩の足軽屋敷が立ち並び彼らの檀那寺である蓮成寺とともにともに彦根城を守っていました。しかし1741年彦根城東中島(現在の馬場一丁目)から出火した火災により焼失しました。当寺に祀られている鬼子母神の信仰篤かった彦根藩主奥方より用材の寄進等があり1743年から1746年頃に再建立したものと考えられます。

 

妙源寺        彦根市河原三丁目4-32 

 

祖師堂

祖師堂
彦根藩八代藩主・井伊直定候が真如院の病気回復を礼に寄進されたもの。以前は旧本堂と廊下でつながっていた。

日蓮宗妙源寺は、蓮成寺と同じく佐和山城法華丸にあったと言われている。
門は佐和山城内にあった城門であったと伝わり、柱材には無数の矢穴痕と思われる跡が残る。
本堂は近年建て替えられたが、それ以前の本堂と庫裏は三成の佐和山御殿を移築したものとされていた。

日蓮宗妙源寺は文禄元年(1592)開基で、元禄年間(1688-1704)頃に佐和山よりこの地へ移転した。
三成ゆかりの寺院ということで、毎年石田家らの法要を行っているらしい。

 

龍潭寺   彦根市古沢町1104 

 

 井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基(ぎょうき)によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院です。井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場でした。

 

参考HP:お城のとびら/滋賀県の城/もっと佐和山城

  本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


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