旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

女王ブーディカの反乱、カンナエの戦い  

2016年10月05日 17時12分06秒 | エッセイ
女王ブーディカの反乱、カンナエの戦い   

 以前、このブログで第二次ポエニ戦争において、ハンニバルがローマ軍を殲滅したカンナエの戦いが、湖畔で行われたと書いた記憶がある。あれは間違いだった。カンナエ(カンネー)の戦いは平地で行われた。その前に行われたトラシメヌス湖畔の戦いと取り違えてしまった。
 紀元前218年、カルタゴの植民地カルタゴ・ノウァ(現スペイン中心)を発したハンニバル率いるカルタゴ軍は、待ち伏せるローマ軍の裏をかいて北上し、アルプス山脈に向かった。そして9月、30頭の戦象(ここまでに7頭を失っている)、1万頭の馬を引き連れてアルプスを越えイタリア半島に侵入した。山越えの前に歩騎兵併せて46,000の兵力だったが、アルプスを越えてイタリアに到着した時には歩兵2万、騎兵6千、戦象は3頭だけがアルプスを越えた。2万人の兵士と27頭の象、4千頭の馬が凍え死ぬか、滑落死した。
*ハンニバルのアルプス越えのルートについては、古くから論争があった。ところが近年、大量の馬糞の堆積物の発見と、その堆積物の中から発見された当時の微生物の痕跡からルートが特定出来たという報告が上がっている。象の骨は出てこないかな。

 アルプスを越えたハンニバルだが、兵力は半減し著しく疲弊していた。北イタリアのガリア人はローマに敵対していたが、多くの部族に分かれて互いに争いを繰り返してまとまりが無く、山越えでボロボロになったカルタゴ軍に容易に味方をしなかった。ガリア人の強力を得るためには、ローマ軍に勝って実力を示さなければならない。ハンニバルはイタリアに入って4つの会戦を行い、その全てに勝利した。勝利の度にガリア人はハンニバルの下に集まった。
4つの会戦をそれぞれ見てみよう。

①ティキヌスの戦い - 紀元前218年11月

(戦力等) ローマ軍の指揮官は16年後にアフリカ、ザマの戦いでハンニバルを破るスピキオ・アフリカヌスの父、スピキオ。カルタゴ軍の騎兵の全兵力6千名と、ローマの騎兵と軽装歩兵併せて4千人が遭遇して会戦。ローマ軍が敗走した。スキピオは負傷、両軍とも損害は大きくはない。

②トレビアの戦い - 紀元前218年12月18日

(戦力)カルタゴ軍―歩兵3万、騎兵1万、戦象3頭。ローマ軍―歩兵3万6千(ローマ軍1万6千、同盟都市軍2万)、騎兵4千。
    ローマ軍の指揮官はロングス。
(戦闘経過)カルタゴ軍は最前列に戦象、その後方に歩兵戦列を敷いた。歩兵隊は中央にガリア兵、両翼に古参のリビア、ヒスパニア歩兵。騎兵は二分して両翼に置く。またハンニバルは前夜、弟のマゴに2千(騎兵1千、軽歩兵1千)の分遣隊を与え、林の中(又は丘陵の上)に埋伏させた。
 両軍はトレビア川を挟んで対峙していた。12/18の早朝、ハンニバルは少数の騎兵を対岸に派遣してローマ軍の野営地を襲った。ローマ騎兵が迎撃すると、カルタゴ騎兵はすぐに退却する。カルタゴ弱し、血気にはやるロングスは全軍に野営地からの出撃を命令する。ローマ軍は朝食も取らずに冷たいトレビア川を渡河して、待ち受けるカルタゴ軍に突入する。長い距離を寒さに震えながら移動しスタミナを使ったローマ軍だが、カルタゴ歩兵を相手に優勢に戦う。
 しかし両翼ではヌミディア騎兵を中心とするカルタゴ軍がローマ騎兵を圧倒し、やがて粉砕してローマ軍の側面に廻り込む。さらに潜んでいたマゴの分遣隊が、ローマ軍の後方に出現して包囲する。ロングスは圧倒的な劣勢の中、正面中央のガリア歩兵に戦力を集中して突破し撤退した。しかし半数は包囲網に取り残されて殺害されるか捕虜になった。
(結果と影響)ローマ軍の損害は2万人を超えた。カルタゴ軍の損害はガリア兵に集中するが軽微で、ハンニバルの名声は高まり、参戦するガリア兵は増え、カルタゴ軍の兵力は5万を超えた。

③トラシメヌス湖畔の戦い - 紀元前217年6月21日

(戦力)カルタゴ軍5-6万、ローマ軍2万5千。ティキヌス、トレビアと敗戦を重ねたローマは、執政官(期限付きの指揮官)としてフラミニウスとセルウィリウスの両名を選出し、それぞれに2個軍団2万5千を託した。
(事前の作戦)ローマ軍団はイタリア半島を東西に分かれて北上し、カルタゴ軍をどちらかが捕そくしたら片方が足止めして、別の軍団の到着を待って挟み打ちにする作戦であった。ところがカルタゴ軍は、全く通過不能として考慮されていなかった中央の沼地、湿地帯をすり抜け両軍団の背後に出た。カルタゴ軍は沼地の毒虫や毒蛇、細菌による感染症によって少なからぬダメージを受け、ハンニバル自身も右目が失明した。
(戦闘展開)トラシメヌス湖畔に到達したハンニバルは部隊を展開して、フラミニウスの2万5千人を待ち伏せた。6/21早朝、ローマ軍はトラシメヌス湖畔(現トラジメーノ湖)に差し掛かった。濃霧の中、湖の北側と丘陵の間の隘路を一列になって進む。ローマ軍は近くにカルタゴ軍がいることを知らないが、前方の丘の上に幽かに噴煙が立ち上っているのが見える。敵の野営地?それを目指すようにしてローマ軍は進軍する。
 ハンニバルは湖畔の隘路出口に重装歩兵を配置し、そこから西に丘陵に隠れるように軽装歩兵、ガリア兵と騎兵を配置した。ローマ軍は出口の重装歩兵にぶつかる迄、霧の為にカルタゴ軍の存在に気が付かなかった。ローマ軍先鋒で衝突が起きると、後方からカルタゴ騎兵の攻撃が開始された。騎兵隊はローマ軍を東に追いやる。そこに丘の上から軽装歩兵とガリヤ兵が坂落としの攻撃をかける。側面からの奇襲によりローマ軍はたちまち分断され、湖に追い落とされるようにして壊滅された。ローマ軍の死者は3時間の戦闘で1万5千を超え、指揮官のフラミニウスも戦死した。
 それでもローマ軍前衛はカルタゴ重装歩兵の戦列を強引に突破し、約6千人が逃走した。その6千人もカルタゴ軍の追撃によって大半が降伏に追い込まれた。カルタゴ軍の損害は1,500~2,000名程度であった。
(戦後と影響)この敗戦はローマにとって大きな衝撃となった。元老院は非常手段を採り、ファビウスを臨時の独裁者に任命した。ファビウスはハンニバルとの決戦を避け、消耗を強いる持久作戦を取った。この作戦は実に効果的で、ハンニバルにとっては最も避けたいものであった。戦勝で盛り上がったガリア兵の士気は長続きせず、小競り合いが続くと彼らはカルタゴ軍を去ってゆく。
 カルタゴ軍歩兵は傭兵やガリア兵の混成で、一部の古参兵を除くと精兵とは言えず、戦列の耐久力は低い。一方のローマ軍は自主参加した市民中心の、統一された軍隊で結束力が強い。トレビアでもトラシメヌスでもローマ軍の重装歩兵は、カルタゴ軍の戦列を突破している。ハンニバルはこの戦訓を活かし、次のカンナエの戦いに備えた。
 一方カルタゴ軍の有利は騎兵隊だ。騎兵はこの4つの会戦で常に数的優位を保っている。特にカルタゴに同盟したヌミディア人騎兵の戦闘能力がずば抜けて高い。
*ヌミディア人だが、北アフリカのヌミディア王国はいわゆる黒人王国ではなく、現在のベルベル人やトュアレグ族に近い人達であったらしい。半裸の黒人兵が極寒のアルプス山脈を越えたのなら大変だったな、と思っていたら違った。ヌミディア人の肖像画を見ると、彫りが深くて欧州やアラヴ人に近いようだ。

④カンナエの戦い - 紀元前216年8月2日

 今から2,232年前、5万の軍で7万の軍を包囲・殲滅した衝撃的な戦い。この包囲戦は戦術の手本として、現在でも学ばれている。第一次大戦の東部戦線(ドイツ帝国がロシアの2個軍団を各個撃破)、日露戦争の奉天会戦、第二次大戦のスターリングラード攻防戦などが、その大規模な成功例である。
 それではハンニバル以前の軍事天才、アレキサンダー大王はどうだったのか。生涯負けなしの大王だが、このような包囲戦は行っていない。戦力の差が大きすぎる。例えばイッソスの戦い、紀元前333年。ペルシャ軍21万人、マケドニア軍3万1千人で、ペルシャ軍の損害は11万人だ。そもそも殲滅する必要がない。後に占領した土地を統治するからだ。専制国家の軍隊は、上からの命令が途絶えたら戦えない。そのような軍隊は指導者を倒せば、そっくり自分のものにすることが可能なので、殺してしまってはもったいない。
 しかしローマ軍は違う。このカンナエの戦いでは、3人中2人の指揮官と約80人の元老院議員が戦死している。当時の元老院は最大でも300人だから、議員の4人に1人は死んだことになる。日本の国会議員が祖国防衛戦に参加して、100人近くも戦死することが考えられるか。ハンニバルの宿敵ローマとはそのような国家だった。殲滅しなければ戦争は終わらない。ハンニバルの退場後にローマによって滅ぼされたカルタゴは、焼き払って整地されその上に大量の塩がまかれた。2度と草木が生えないようにするためだ。

 それではカンナエの戦いを見てみよう。
(戦力)カルタゴ軍 - 重装歩兵3万2千、軽装歩兵8千、騎兵1万、計5万。
ローマ軍 - 重装歩兵5万5千、軽装歩兵8-9千、騎兵6千、計7万。別に1万が野営地残留。

(損害)カルタゴ軍 - 死傷5,700 ローマ軍 - 死傷6万、捕虜1万。

(ローマ軍指揮官)トラシメヌス湖畔の戦いの後で任命された独裁官ファビウスの持久戦法は、ハンニバルを追い詰めたがローマ市民には不人気だった。ファビウスの独裁官の任期である半年が過ぎると、ローマ元老院は積極策に転じパウルスとウァロの両名を執政官に任命した。両執政官は8万を率いてハンニバル迎撃に向かった。一日交替で指揮を取ったという。ところがパウルスは正面対決を避け、ウァロは決戦を望んだ。日替わりで方針が変わっては戦争には勝てない。この当時のローマの真面目さには敬意を持つ。権力は腐る、英雄であっても独裁者になれば腐敗・堕落するのが人間の常だ。全くその通りなのは、周りを見れば分かる。会社のような小さな社会ですら、吹けば飛ぶような権益にしがみついて威張っている人間がいかに多いことか。しかし戦争に民主主義を持ち込んではいけない。ウァロが最高指揮官の日にカンナエの戦いが起こった。

(布陣)ローマ軍は1万人を野営地に残し、7万人を戦場に展開した。重装歩兵を中央に置き、その前面に軽装歩兵、右翼をローマ騎兵、左翼を同盟国騎兵が固める。自軍の優位性をより発揮するために、各中隊の間隔を狭くして戦列中央を厚くした。狙うは重装歩兵による敵中央突破だ。中央の指揮は前執政官セルウィリウス、パウルスは右翼騎兵、ウァロは左翼騎兵を指揮する。
 カルタゴ軍の布陣は変わっている。中央に重装歩兵、前面に軽装歩兵、両翼に騎兵を置くのはローマ軍と同じだが、重装歩兵が弓なりに湾曲している。中央部が張り出しているのだ。中央部分に兵を集中させ縦長に布陣している。ここが猛攻を受けるのは間違いない。ところがハンニバルは中央にガリア歩兵とヒスパニア歩兵を置いた。古参・熟練のカルタゴ歩兵は両翼にまわった。右翼にヌミディア騎兵、左翼にはヒスパニア・ガリア騎兵を配置する。ハンニバル自身は左翼のカルタゴ歩兵、右翼のカルタゴ歩兵はマゴが指揮する。

(戦闘展開)戦闘開始。数に勝り戦意も旺盛なローマ軍重装歩兵は、カルタゴ歩兵陣に向かってグイグイと押し込んでくる。中央部のヒスパニア・ガリア歩兵は圧力に押されるが、弓なりの配置のためにそれほど後退したようには見えない。その間に両翼では騎兵隊による熾烈な戦闘が行われた。カルタゴ軍左翼のヒスパニア・ガリア騎兵が、戦力差を活かして健闘しローマ軍右翼騎兵を打ち負かし潰走させる。一方カルタゴ軍右翼のヌミディア騎兵とローマ軍左翼の同盟国騎兵は互角に戦っている。
 カルタゴ軍戦列の中央部は圧倒されつつあり、戦いながら後退している。その時ハンニバルは両翼のカルタゴ歩兵を思い切り前進させ、ローマ軍の両翼を押し込んだ。一方ローマ軍騎兵を潰走させたヒスパニア・ガリア騎兵は方向を転じて、ヌミディア騎兵と交戦している同盟国騎兵の背後から襲いかかった。挟撃された同盟国騎兵は劣勢になり、まもなく壊走を始めた。カルタゴ騎兵は逃げる同盟国騎兵を追わず、ローマ軍本隊中央の後方に回り込んだ。
 ローマ軍の中央部隊は、ほとんどカルタゴ軍中央を突破しかけていた。しかし両翼は進出してきたカルタゴ軍歩兵に押さえられて前進出来ない。ローマ軍中央はV字型になってきた。そこへカルタゴ騎兵隊が後方から攻撃を加える。後方からの攻撃により恐慌状態に陥ったローマ軍は、極度に密集したため中央では圧死者が出た。押し込められた兵は剣を振り上げることも出来ない。
 前方をガリア歩兵、両側面をカルタゴ歩兵、後方を騎兵によって完全に包囲されたローマ軍は逃げることも進むことも出来なくなり、6万人が死んだ。野営地に残っていた1万人は降伏し、捕虜になった。6万人の武装した兵士を剣と槍で殺す。一人づつ殺してゆくのに6時間はかかっている。ローマ軍指揮官のセルウィリウスとパウルスは戦死し、ウァロは逃走した。カルタゴ軍の損害6千弱は、ほとんど中央部のヒスパニア・ガリア兵であった。
 この戦、ハンニバルはガリア歩兵を棄てゴマとして使った。時間を稼いで崩壊しなければ、どんなに損害が出てもよい。しかしここが突破されていたらローマ軍は包囲網から抜け出し、逆にカルタゴ軍を包囲していたかもしれない。弓型の配置が効を奏した。
 カンナエの戦いはローマにとって痛恨の敗戦であった。ローマはこの後15年かけて、この戦いで捕虜になり奴隷として各地に売られたローマ人を捜し、一人一人買い取って連れ帰っている。とはいえ捜し出せた人数は多くはない。

 ハンニバルはカンナエの戦いの後、一気にローマを攻略しようという意見を採らず、ローマを素通りして南イタリアに向かう。攻城兵器もなく、その実力は未だなく兵站も続かないという判断からで、ハンニバルは同盟都市のローマからの離反に期待した。ヌミディア騎兵隊長のマハルバルは言う。「あなたは勝利を得ることはできるが、それを活用することは知らない。」
 塩野七生さんの『ローマ人の物語、ハンニバル戦記』の中に、ローマの郊外に迫ったカルタゴ軍団の中から一騎ハンニバルが抜け出して、ローマの城砦をゆっくりと一周し、それをローマ人がかたずを飲んで見守るシーンがある。またハンニバルが戦場の天幕で短い後睡を取り、周囲の部下が剣を抑えて音を立てないように気遣うシーンがあって好きだ。
 ハンニバルは16年後、彼を愛し敬い師と仰ぎ、古戦場を巡ってその戦術を徹底的に研究したローマの若い将軍スピキオによって、アフリカ、ザマの戦いに敗れる。この時ヌミディア王国の主流派は、カルタゴを見限りローマについた。今でもイタリア人は子供をこうやって叱る。「ハンニバルが来るよ。」

*女王ブーディカの反乱

 2005年4月、イギリス、ノーフォーク州の農場の地中から見事な古代の首飾りが発見された。金と銀で作られた首飾りは、40年前に発見されたものの一部であった。自身の物であるかは分からないが、年代測定の結果、ブーディカの時代のものであることが分かった。今から二千年前である。この太い金属製の首輪状の装身具は、トルクと呼ばれケルト人が好んで身につけた。
 西暦60-61年、現在のイギリス、ノーフォーク州を治めていたケルト人、イケニ族の王プラスタグスは年を取り亡くなった。そのため王の妻ブーディカが二人の娘と共に王位についた。ブーディカは知性溢れる女性で、背が高く赤い髪は腰下まで伸び、荒々しい声と鋭い眼光を持っていたという。当時のイギリスはローマ帝国の支配下にあったが、イケニ族は独立国で、支配を受けない代わりに多額の税を支払っていた。
 西暦60年のローマは、ポエニ戦争の頃の民主主義を追求する真面目さは微塵も無く、権力が皇帝に集中する腐敗の極みに陥っていた。ところがその軍隊は、多年に渡る他国への侵略によって機能化が進み、格段に強くなっていた。折しもローマ皇帝は、カリギュラと並ぶ史上最低の変質者ネロの時代だ。上がゲスなら、その取り巻きは甘い蜜にたかるウジ虫どもだ。しかし軍は敵なしに強い。
 当時の行政官カトュスは、プラスタグス王の死に乗じてイケニ族の王国を帝国に併合しようと企んだ。ローマの法律では財産の相続は男子のみに限られているので、ブーディカの王位継承を無効とし武力で王国を奇襲、征服した。領土・財産は没収し、重税を課し貴族を奴隷のように扱った。その上カトュスは、ブーディカを鞭うち二人の娘を部下にレイプさせた。
 誇りを傷つけられたブーディカは復讐を誓い、隣のトリノヴァンテス族とともに蜂起した。折しもローマ軍主力は総督パウリヌスが率いて遠征中であった。ブリテン島の反対側、北ウェールズのモナ島にあるケルト族祭司ドルイドの要塞を鎮圧していた。トリノヴァンテス族は、イケニ族以上に古くからローマ帝国の圧政下にあり、首都カムロドゥヌムはローマの植民都市で前皇帝を祭った神殿が建てられていた。
 反乱軍のリーダー、ブーティカはカムロドゥヌムを最初の標的とした。住民はロンドン(ロンディニウム)にいるカトュスに援軍を要請するが、カトュスは200人の予備役隊を送って、自身はガリア地方(フランス)にまで逃げた。ブーディカ軍はカムロドュヌムを攻め、ローマ市民を手当たりしだい殺し、街を焼き払い神殿を破壊した。今でもカムロドュヌム(現コルチェスター)の紀元60年代の地層には、大量の炭化物が堆積している。
 ブーディカの反乱軍は、救援に来たローマ第9軍団(2千名)を林の中で待ち伏せ、横合いから一斉に襲いかかって、指揮官とわずかな騎兵を除き殲滅した。反乱軍に加わるケルト人は増え、ついには23万人に達した。反乱の報せを受けモナ島から引き返したスエトニウスは、一度はロンディニウム(現ロンドン)に入るが、防衛を諦めワトリング街道を東へ撤退する。退きつつ各地の少数の派遣隊や予備役を吸収して1万人を配下に置いた。南に駐留するローマ第2軍団、1万は何故か合流を拒み動かなかった。後にその指揮官は自決する。軍隊に見捨てられたロンディニウムの住民で、軍に付いて行けなかった市民は反乱軍によって皆殺しにされた。
 恨み重なるケルト人は、捕虜は一切取らずにローマ人をむごたらしく殺し、街を焼いた。現代のロンドンの地下には、硬貨や陶磁器片を含む酸化物が厚く積み重なった赤色層がある。退却するスエトニウスの第14軍団を追うブーディカ反乱軍は、続いて街道上のウェルラミウム市(現セント。オールバンズ)を踏みにじり焼き払った。三都市でのローマ人犠牲者は7-8万人と推定される。
 スエトニウスは後退するワトリング街道の中で、迎撃に適する地形を見つけた。両側に障害物があり、前方にだけ狭い開口部がある場所だ。ここに1万人の兵士を配置し、押し寄せる反乱軍を待ち構えた。ブーディカと2人の娘は復讐に燃え、チャリオットに乗って23万人を率いて火の勢いで進む。地を埋め尽くす大集団を見て、ローマ軍兵士は震え上がったが逃げ出すことは出来ない。プロの職業軍人の彼らは、一瞬のためらいが隊列を崩し、怯えを見せたら皆殺しに遭うことを知っている。
 訓練の通りに、距離を測ってピルム(投げ槍、150-200cm,2-4kgs,木製の柄に30-60cmの穂が付く)を投擲する。次々にピルムを投げ、前列が疲れると最後尾に廻り次の列が投げる。反乱軍は勢いのままに突入したが、先頭を走る最も勇敢な戦士が真っ先にピルムの餌食になった。ケルト人は顔に模様を描き、剣技に長けた勇敢な戦士だが楯も鎧も持たない。長楯で左右の兵士を相互に守り、密集して槍や短剣を突き出して戦う重装歩兵集団に正面からぶつかっては歯がたたない。第9軍団を壊滅させたように四方八方から襲撃すれば、数の差で勝てたであろう。重装歩兵の弱点は横や後ろからの攻撃だ。前方には滅法強くて死角がない。
 反乱軍を刺し殺しつつ前進を始めたローマ軍は、V字になって突き進んだ。反乱軍は戦場の後方に配置していた、家族が乗る荷馬車群に後退を阻まれ、押し込まれて戦場に死体の山を築いた。8万人が死んだという。一方ローマ軍の被害はわずか400人であった。
 こうしてブーディカの反乱は終わった。彼女はこの戦場では死ななかったが、その後の消息は2人の娘と共に分からない。毒を飲んで死んだとも、北に逃れて王国を築いたとも云う。非情だが有能な指揮官スエトニウスはその後、ネロでさえ呆れるほど過酷な支配を行うが、政敵の告発を受けて罷免される。ブーディカの存在は千年以上忘れ去られていたが、ルネッサンス期に再発見されビクトリア朝で人気を得た。
 ケルト人の反乱は、ワトリング街道の一戦で負けなくてもいずれは鎮圧されただろう。しかしローマ人の三都市を焼き滅ぼして、少しは溜飲を下げたのかもしれない。都市伝説では、ブーディカがロンドン、キングス・クロス駅の8・9・10番ホームの下に埋葬されている、と云う。

・家内とベトナムに行くので、ブログの更新を一週間ほど休みます。帰ってきたら紀行文を入れます。
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