旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

ええじゃないか

2016年12月28日 17時30分18秒 | エッセイ
ええじゃないか

 江戸260年、島原天草の乱とシャクシャインの反乱以降、幕末に至るまで戦争が無い日々が続いた。世界の近代の歴史を見ても、これほど長い平和な年月は珍しい。アジア・アフリカ・中南米の国々は植民地として悲惨な日々を送った期間である。
 江戸時代と一くくりにすると始まりも100年後、200年後も同じような日々が続き、金太郎アメのように代わり映えのしない生活を送っていたように思える。或る意味そうであった。ルネサンスも産業革命も日本では起きなかった。参勤交代も武士のならわしも元の意味は忘れ去られ、古くからの仕来たりを守ることに汲々とする毎日であった。決まりごとを守ること自体が目的とされる形骸化された建て前社会になった。
 しかしそんな中でも新しい産業、新規の需要は徐々に生まれ、士農工商という身分制度は実態に合わなくなっていった。だいたい戦争も無いのに武士が多すぎる。欧州の騎士・貴族が千人に一人なら、日本の武士は十人に一人だ。行政官僚と考えても多すぎる。しかも行政区分が幕藩体制では細か過ぎて、実に非効率的だ。
 江戸時代の人口を見てみよう。前期1650年(慶安3年)当時の日本の総人口は、1,781万人であった。それが55年後の1705年(宝永2年)には2,769万人に増えている。中期1750年には3,110万人、後期1850年には3,228万人と1.8倍に増えているのだ。寒冷期で大飢饉が何度か来たのにも係わらず、人口が大幅に増えたのには米の品種改良(寒さに強い、病に強い、作柄が多いetc)と、サツマイモ、ジャガイモ、カボチャやスイカ等の新品種の普及が大きな役割を果たしている。
江戸の和算が世界の数学のトップレベルであったように、江戸のバイオ技術も相当のものであったようだ。朝顔の品種改良に凝って様々な変わり朝顔を作り、競ったのも江戸時代だった。しかし新品種や改良米はどのようにして普及したのだろう。それに役だったのが、お蔭参りであった。

お蔭参りは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣のこと。数百万人規模のお蔭参りが、およそ60年周期(おかげ年という)で3回起きている。お伊勢参りで抜け参りともいう。最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、また子供が親に内緒で参詣した。江戸末期に、勝海舟の父親の勝小吉が親に無断で参詣している。伊勢神宮のお守りやお札を持ち帰れば、おとがめ無しだった。信心の旅ということで沿道の施しを受けることが出来た。
江戸からは15日間、大坂から5日、名古屋から3日、東北地方や九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかっている。当時庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどお咎めなしだった。集団ヒステリーのような大参拝を除き、通年の参拝には相当な旅費がかかる。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは難しい。そこで「お伊勢講」という仕組みが作られた。
「講」の所属者は定期的に集まって金を出し合い、それを合計して代表者の旅費とする。代表者は「くじ引き」で決められ、当った者は次回からはくじを引けない。続けていけばいずれ全員がお参りに行ける仕組みだ。これなら貧しくても一生に一度は旅行が出来る。江戸が終わっても無尽講の仕組みは生き続けた。講は戦後GHQによって賭博行為と見なされ解散させられた。GHQには理解不能な仕組みだったんだろう。
戦国の世では寺院巡礼は、現世に絶望し来世の平安を祈るものだったが、江戸のお蔭参りは現世利益というか観光旅行になった。ガイドブックや旅行記が発行され、出発時には盛大な見送り、無事に帰れば帰還の祝いが行われた。参詣者は道中の名産品や最新の物産をお土産にする。またお蔭参りは最新のファッションや農具、音楽や芸能の普及にも貢献した。
集団旅行には添乗員が必要だ。お蔭参りを極めてシステマチックに運営したのは御師(おんし)だ。御師は数名ずつに分かれて各地に散らばり、農村部で伊勢暦を配ったり、豊年祈願を行って初穂料を受け取った。旅行団が来ると、担当の御師が自分の宿屋でもてなす。豪華な食事に歌舞、絹の布団に寝かせて観光ガイドに努める。
伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まり、参宮した農民は品種改良した新種の種を持ち帰った。これが品種改良の稲が全国に広がった仕組みである。幕府がそこまでの効果を知ってお蔭参りを許可したのかは疑問だが、窮屈な日常の中で為政者への不満が溜まらないようにガス抜きの効用を期待したことは確かだ。ところが明治政府は御師の活動を禁じ、お伊勢参りは急速に廃れた。民衆のエネルギーが恐かったのか。

本来お蔭参りとええじゃないかは別物だが、60年に1度数百万人(1705年330~370万人、1771年200万人、1830年427万6,500人)が自然発生的に集まる、その凄まじい民衆のエネルギーには共通するものがある。
ええじゃないかは、江戸末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。意外と短期間だ。そして関東では発生しなかった。「天から御札(神符)が降って来る。これは慶事の前触れだ。」民衆が仮装するなどして、「ええじゃないか」を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。
岩倉具視によると、京で神符がまかれ、ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカト、8月下旬に始まり12月9日王政復古発令の日に止んだ。歌詞は各地で作られ、「今年は世直し、ええじゃないか」(淡路)、「日本国の世直しはええじゃないか、豊年踊りはお目出度い」(阿波)、「御かげでよいじゃないか、何でもよいじゃないか、おまこに紙張れへげたら又はれ、よいじゃないか」(淡路)、「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」(西宮)、「長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか」(備後)
空から降って来るものは神仏のお札だけでなく仏像、貨幣、生首や手、足など。こんなん降ってきたら嫌じゃ。ひと頃空からオタマジャクシが降ってきた(極く小規模)とかいうニュースが流行ったのを思い出した。魚の卵が大量に空に巻きあげられ、雲の中で孵化して小魚の雨になった事件があるそうだ。
ええじゃないかは、倒幕派が仕掛けた陽動作戦ではないかと疑われている。逆に幕府が仕掛けた『ガス抜き』説もある。鳥羽伏見に向かう長州軍の移動と共に『ええじゃないか』騒動が動いたともいう。しかし政治を操る者の思惑がどうであれ、小さな火種で爆発するような巨大なエネルギーが民衆の内に溜まっていたことは間違いない。世の中が大きく変動する時、思いもよらないような出来ごとが起きるものだ。今ええじゃないかが発生したら、俺は真っ先に飛び込むね。
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その他(ほか)の十字軍

2016年12月24日 16時41分43秒 | エッセイ
その他(ほか)の十字軍

 先日、少年十字軍の話を書いた。聖地エルサレムの奪還を目指し異教徒と戦うキリストの騎士、十字軍には西欧キリスト教徒の血をたぎらすロマンがあるらしい。実際の十字軍がどれほど愚劣で、ハタ迷惑で野蛮なものであったかは、ここでは繰り返さない。いや書いちゃうかも。
 9.11の同時多発テロの直後、おつむの緩いブッシュ大統領はアル・カイーダ、タリバンとの戦いに入る際に、十字軍という言葉を使おうとし慌てて補佐官に止められた。
 第1回十字軍は奇襲効果もあり、聖地奪還を果たした。その後の十字軍対イスラム軍の戦いとは、エルサレムとその周辺に駐留したキリスト教王国、十字軍国家とイスラムとの戦いである。遠征軍は第2回十字軍以降、ほとんど戦力になっていない。十字軍国家の中心はエルサレム王国だ。第1回十字軍がエルサレムを占領したのは1099年で、ムスリム勢力の英雄サラディンによって奪回されるのは1187年だから88年間はキリスト教徒の手の内にあった。最後に残ったパレスチナの十字軍国家はエジプトのアッコン港に追い詰められ、1291年ついに落とされ完全に滅亡した。
 元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍で、現地に建てられた諸侯国もお互いに対立していた。また現地生まれの諸侯は周辺のムスリム勢力と融和し共存を目指したが、新来の十字軍や聖書者(クソ坊主共)は異教徒だ、殺せ、戦えと喚く。いつの時代でも議論は喚き散らす強硬論に傾く。悲しい哉、必ずそうなる。理性と良識は、野蛮と暴言に屈する。気様、臆したか!白けてしまうんだな。馬鹿につける薬はない。
 しかしこれでは協定も約束もあったものではない。中心となるエルサレム王国も内情は同じだ。悪い事にエルサレム陥落間近の国王ボードゥアン4世は高潔な青年だが、らい病が進行して身動きがままならない。とても子供は望めない。後継者を巡って、新来十字軍を中心とする宮廷派と、現地諸侯を中心とする貴族派の抗争が激化した。余命いくばくもない16歳のボードゥアン4世は、危うく両派のバランスを取り1177年のモントジザールの戦いで自身が戦場に立ちサラディンを破る。その結果しばらくは平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。1185年にボードゥアン4世が没し、ボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位1年で早世した。
 1186年対イスラム強硬派が権力を握り、休戦条約を犯してメッカへの巡礼者やキャラバンを襲撃して虐殺し、一部を捕虜に取った。1187年十字軍はヒッティーンの戦いでサラディンに大敗し、テンプル騎士団総長以下何人かの指導者が捕虜になった。サラディンは勝ちに乗じて多くの拠点を陥とし、エルサレムを包囲した。エルサレムは「神の助けがある。」として住民が武装して抵抗するが、あえなく降伏する。
 サラディンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許した。さてイスラムの英雄、十字軍の宿敵サラディンとはいかなる人物か。サラーフッディーン、通称サラディンは現イラクのティクリート出身で、アルメニアのクルド族だ。父はセルジューク朝治下の代官で、サラディンの兄弟が誤ってキリスト教徒の官吏を殺したためティクリートを追放される。しかし父は以前ザンギー朝の創始者ザンギーを助けたことから被護を受け、領地を与えられた。ザンギーが部下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、サラディンはシリアに勢力を持つアレッポの君主ヌールッディーンに仕える。
 ヌールッディーンの側近としてエジプト遠征に参加する。三度目の遠征でエジプトを下し、アイユーブ朝を創設した。主君であるヌールッディーンとの関係は悪化するが、決定的な衝突に至る前にヌールッディーンがダマスクスで病没。サラディンはヌールッディーンの後継争いに乗じてダマスクスに無血入場を果たし、エジプトに加えシリア南部を接収した。その後エルサレム奪還に来たリチャード1世などの第3回十字軍を退けて、エルサレムを守りきった。
 十字軍が再三捕虜や住民の虐殺、隊商や巡礼などへの襲撃を行ったのに対し、サラディンは寛容で身代金を払えない捕虜まで放免した。病床にあるリチャード獅子心王に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐に深い人物であった。しかし度々休戦協定を破って隊商を襲った指揮官を捕えた際は、指揮官と配下の騎士団員を一人残らず処刑した。サラディンの姉妹が隊商の中にいたという。
 またサラディンは指導者になると贅沢を止め、行軍の際に立ち寄った村に軍事費の一部を分け与えている。私財もそのように用いたので、遺産は自身の葬儀代にも足りなかった。彼は敵味方を問わずにその人格を愛され、現在まで英雄としてその名を残している。サラディンの墓(廟)はダマスカスに、世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接して残されている。

*民衆十字軍
民衆十字軍、または農民十字軍、庶民十字軍、貧者十字軍は、第1回十字軍の一部として1096年に起こった西ヨーロッパの庶民たちによる大規模な聖地巡礼運動。初期の十字軍では、諸侯や騎士らによる軍事行動だけではなく巡礼者が多数付き従っていた。熱狂的な巡礼熱はやがて冷めてゆくが、1096年の4月~10月に起きた民衆十字軍の動きを見てみよう。
11世紀は中世の温暖期に差し掛かり、人口や農業生産が増大した。その過度期に於いて農民は干ばつや飢饉、疫病の蔓延に苦しんでいた。1095年には流星雨・オーロラ・月食・彗星といった天体現象が起きた。またライ麦などの麦角菌による中毒が広まった。「終末思想」はキリスト教では繰り返し現れる。『ヨハネの黙示録』はvisualに訴える実に奇抜な一文だが、救済を早期に実現しようとする運動を「千年王国運動」という。救済は千年王国と新エルサレムの降臨という2段階で訪れ、そのうち千年王国で復活が許されるのは殉教者だとヨハネは語る。
 民衆十字軍はカリスマ性の高い説教師、アミアンの隠者ピエールの焚きつけによって始まった。ピエールはロバにまたがり質素な服を着て北フランスからフランドルまでの広範囲を精力的に説いて回った。民衆十字軍は実に4万人にまで膨れ上がった。農民が主体だが、中小の地主や下級聖職者、騎士も参加した。女性や子供も多かった。「文無し」の異名を持つ騎士ゴーティエも参加した。
 フランス人軍勢を率いるピエールは、ケルンに集結してドイツ人の参加者を更に募った。しかし待ちきれない先遣隊は、ハンガリーを通って東ローマ帝国のコンスタンティノープルを目指した。食糧は農村で掠奪し、彼らは特に各地のユダヤ人共同体を執拗に襲った。ルートを逆戻りしてまでユダヤ人を襲撃した。何も遠いイスラム教徒と戦わなくても、直ぐそこに異教徒であるユダヤ人がいるじゃあないか。エルサレムに遠征するには金がいる。奴らは金貸しを営み裕福だ。殺せ、奪え、ユダヤ人はイエスを磔刑にした。しかしこれはおかしい。イエス自身がユダヤ人だ。中には借金をチャラにする為に、ドサクサまぎれにユダヤ人共同体を襲ったものもいる。
 得体の知れない3万もの集団に入って来られた東ローマ帝国は、困り果てて彼らをボスポラス海峡の対岸に送った。先遣隊の内1万は途中ハンガリーの兵士によって殺されていた。掠奪・暴行を繰り返していたのだから仕方がない。小アジアに渡った民衆十字軍は、ギリシャ人やトルコ人の村を襲いつつ前進する。その内にドイツ人・イタリア人対フランス人の内紛を起こし、ピエールの主導権は失われた。
 セルジューク朝の王は、農民十字軍を冷静に迎撃し壊滅させた。多くの兵士が殺され、子供や女性は奴隷にされ残りは散り散りになった。無一文のゴーティエも戦死した。3千人だけ古い城跡に立て籠もったが、東ローマ帝国は軍を派遣してこれを救済、コンスタンティノープルに連れ戻した。隠者ピエールと合流した残党の3千人は、後に第1回十字軍に合流する。
 ピエールは何年もエルサレムに残ったようで、時々資料にその名が現れる。十字軍内の非武装の庶民、けが人、破産した騎士らの間で人気があったようだ。その最期は確かではない。フランスに戻り聖墳墓教会を建てたとも、ベルギーで修道院を設立してそこで亡くなったともいう。

*北方十字軍
カトリックの王であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドそしてリヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のこと。北ヨーロッパおよびバルト海沿岸南東の異教徒(非キリスト教徒)に対して行われた遠征。スウェーデンとドイツによるフィンランド南部、ラップランド等への遠征も含む。
エストニア。ラトビア、リヴォニアが1193~1227年にかけて征服された。リトアニアは13~14世紀に至るも抵抗を続けた。名目は十字軍だが、陸上・海上貿易のルートを握り経済的優位を確立するための軍事作戦であった。最初の遠征は第2回十字軍と並行して、1100年半ばに着手され16世紀まで不定期に継続されている。

* ノルウェー十字軍
 この十字軍は楽しい。ノルウェー王シグルズ1世が率いた第1回十字軍の後の1107~1110年にかけての十字軍。シグルズは60隻の船に5千人の兵士を乗せ、1107年秋ノルウェーを船出した。冬の間はイングランドに留まり、1108年の春西方へ向け出航する。数か月の後、ガリシア王国に到着し2度目の冬を迎える。
 食糧の売却を拒んだ領主の城を攻撃して略奪、その後ガレー船の大海賊船団と遭遇するが、海賊を粉砕して海賊船8隻を分捕る。もうまるきりバイキング、どちらが海賊か分からない。その後今日のポルトガルにあるムスリムの城を襲撃、改宗を拒む全ての人々を殺した。次にいくつかのムスリムの町を攻め、繰り返し戦闘に勝ち財宝を奪った。
 ジブラルタル海峡を通過する時、再び海賊と戦って勝ち地中海にあるサラセン人の領土バレアス諸島の3つの島を攻め落とす。シグルズの戦略は臨機応変、この時も最も防御の厚い本島は攻めない。バレアス諸島では莫大な財宝を手にした。1109年春、シチリア島に到着して歓待を受けた。そしてついにエルサレムを訪れ、ボードゥアン1世から暖かく迎え入れられた。数多くの宝物や聖遺物を与えられ、対イスラムの戦いに参加する。
 その後キプロス、次いでコンスタンティノープルへ行く。部下の多くは傭兵としてビザンチン帝国に残った。シグルズはその後3年程かけてブルガリア、ハンガリー、バヴァリア等を旅し、神聖ローマ帝国皇帝やデンマーク王と会いノルウェーに凱旋した。

* アルビジョア十字軍
 1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。宗教的理由にかこつけて領土欲に駆られる北フランスの諸侯を中心に結成された。南フランス諸侯の反撃により領土戦争の色合いが強まり、最終的にフランス王ルイ8世が主導して北による南仏の制圧に至った。
 コンスタンティノープルを占領した第4回十字軍と並んで、最も愚劣な十字軍である。この一連の十字軍(軍事侵攻)の結果、カタリ派は根絶やしにされた為、カタリ派がどのような思想を持っていたのかは定かではない。残っているのは悪意と偏見に満ちた言葉ばかりだ。元々カタリ派(アルビの町で盛んだったのでアルビ派ともいう)は、カトリック教会の聖職者の堕落に反対する民衆運動として生まれた。教皇が異端として憎む理由がここにある。
 カタリ派は二元論的世界観に代表されるグノーシス主義的色彩が強く、マニ教の影響も受けているらしい。極めて禁欲的で菜食主義、殺生を禁じ断食を行った。また一切の誓いを禁止した。カタリ派では女性の地位が高かった。婚姻を認めない代わりに、性行為に於けるタブーも無かった。カトリック教会は当初、繰り返し説教師を派遣してカトリック教会への復帰を促したが、全く効果はなかった。
 カタリ派は南仏では周辺のカトリック教徒からの人気が高く、北仏とは異なる文化で差別意識がなくギリシャ人、フェニキア人、ユダヤ人、イスラム教徒が仲良く暮らしていたが、アルビショア十字軍の後は荒廃し北仏の支配を受けた。改宗を拒んだカタリ派信者は、ことごとく火あぶりにされた。十字軍が町を攻める際、どうやってカトリックとカタリ派を見分けるかと云うと、「全部殺してしまえ。見分けるのは神だから!」

* 羊飼い十字軍
 13世紀半ばに、ヤコブという修道士が「聖母マリアの手紙を手渡された」と唱えた。その手紙には、聖地解放のためには堕落した騎士ではなく羊飼いを呼び集めなければならないと記されていたという。ヤコブが演説を始めると、数日のうちに数千人の民衆が集まった。特に牧童達は飼育していた羊や豚を放り出して集合した。
 これに泥棒や売春婦といった無頼の徒が加わり、各地で聖職者を攻撃して掠奪を始めた。この羊飼いの十字軍は教会と対立してアミアン、ウーアン、パリを経てブリュージュに至ったが、無法者として市民たちによってヤコブが惨殺され牧童の多くは絞首台の露と消えた。

・ まずイスラム世界は宗教に寛容で、イスラム教を強制していない。税金(人頭税と地租)を払えば信仰と財産を保証し自治権も与えた。特にキリスト教とユダヤ教は「啓典の民」として優遇された。
・ 元々十字軍を提案したのは、東ローマ(ビザンチン)帝国であった。東方からのイスラム勢力(セルジューク・トルコ)の脅威に対抗する為であった。餌は東西教会の統一である。東方の情勢に疎いローマ教皇ウルパヌス2世は、援軍要請をまともに受け取った。東方のキリスト教に対する優位を確立する魅力は大きかった。
・ 第1回十字軍はエルサレムを占領すると、神の名の元にイスラム兵士はもちろん、老若男女を無差別に殺戮した。フランク王国の年代記者はいう。「我らが同志たちは、大人の異教徒を鍋に入れて煮たうえで、子どもたちを串焼きにしてむさぼりくった。」
・ アラブの先代記者は次のように記した。「フランク王国に通じている者ならだれでも、彼らをけだものとみなす。ヨーロッパの人間たちは、勇気と戦う熱意には優れているが、それ以外には何もない。動物が力と攻撃性で優れているのと同様である。」
・ 第1回十字軍に従軍したフランスの聖職者はいう。「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げれれていた。まさに血の海だ。しかし当然の報いだ。長い間冒涜をほしいままにしていたアラブ人の人間たちが汚したこの聖地を、彼らの血で染めることを許したもう〝神の裁き〟は正しく、賞賛すべきである。」
・ 野蛮人である中世ヨーロッパ人は、文明の進んだイスラムの国に接して多くを学んだ。医療・文化・食事・衛生全てに遅れていた西欧は、イスラムを通して古代ギリシャ、ローマの文化を再発見する。それがルネサンスに繋がる。十字軍の兵士はテントを知らずに野原に寝ていたが、イスラムの兵士は天幕を使っていた。

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エル・ニーニョ

2016年12月19日 11時46分46秒 | エッセイ
エル・ニーニョ

 『エルニーニョ現象とは、太平洋赤道域の日付変更線付近から南米沿岸にかけて海面水温が平年より高くなり、その状態が1年程度続く現象です。逆に同じ海域で海面水温が平年より低い状態が続く現象はラニーニャ現象と呼ばれ、それぞれ数年おきに発生します。ひとたびエルニーニョ現象やラニーニャ現象が発生すると、日本を含め世界中で異常な天候が起こると考えられています。』国土交通省、気象庁のホームページを抜粋してみた。
 何故海水温が数度高いくらいで、エルニーニョ発生と大騒ぎし、それが世界で異常気象を起こすのか不思議だったんだ。エルニーニョ(El Niño)はスペイン語で「男の子」の意味。元々南米ペルーとエクアドルの間のグアヤキル湾やその近海で、毎年12月発生する海水温の上昇のことを指した。これは南東貿易風の弱化によって発生する。地元漁師の間で、ちょうどXマスの頃なのでイエス・キリストを指すと同時に「男の子」を意味する「エル・ニーニョ」と呼んだ。
 そして数年に一度、この海水温の上昇現象が大規模に発生し、太平洋東部の広範囲に及ぶとペルーの大雨、南米西岸の大不漁、さらにオセアニア・アジア・北米にまで波及する天候異常が報告されるようになった。海洋学者や気象学者の間で、元のニュアンスと場所がちょっと違うが、「エル・ニーニョ現象」と呼ぶようになった。
 さて物事には陰と陽、山と谷、オスとメス、金持ちと貧乏人があるものだ。エルニーニョの逆さまはラニーニャ(La Niña)「女の子」の意味だ。ラニーニャはエルニーニョ現象とは逆に、東太平洋の赤道付近で海水温が低下する現象を言う。エルニーニョとラニーニャは表と裏の関係だが、ちょっとした違いはある。
・ラニーニャによる海水温の低下は、エルニーニョによる上昇ほどは強くならない。
・エルニーニョの次の年にはラニーニャが現れることが多いのに対し、ラニーニャは2-3年と長期に渡ることが多い。
 漁師はラニーニャ、女の子が好きだ。アンチョビーナ(カタクチイワシ)はラニーニャの年に大漁になる。何故かは後で説明する。

 ペルーの首都リマは、日中は相当暑いが空気は乾燥してカラっとしている。最初にリマに行った時、折り畳み傘を持って仕事に行こうとホテルのフロントを通ったら笑われた。10年は降っていないぜ。海岸線は街の直ぐ先だが、そこには南極から流れてくる恐ろしく冷たいフンボルト海流が流れている。捕れる魚はカレイなど寒流系のものだ。貿易風は東風だ。東風とは東方からやって来て西に向かう風だ。東から吹いて西に向かえば西風になる。貿易風(東風)が大西洋から暖かくて湿った空気を運び、それが大アンデス山脈にぶつかり大雨を降らすから、山脈の東側の広大な地域は高温多雨、アマゾンの大密林になる。そして山越えした乾燥した風がリマの市内を吹き過ぎる。
 さて何でエルニーニョが発生するかというと、東風が強くなり西部に溜まっていた暖かい海水が東方に流され、東部では冷たい水の湧き上がりが弱まる。東風(貿易風)と地球の自転の効果によって、南米の東部沖では冷たい海水が、深いところ(数百m以上)から海面近くに湧きあがってくるんだ。それがエルニーニョでは弱まるわけ。
 ラニーニャの時は東風が強くなり、西部に暖かい海水がより厚く蓄積し、東部では冷たい水の湧きあがりが平常時より強くなる。深海から栄養分をたっぷり含んだ深層水が水面に湧き上がれば、魚は集まり大漁だ。
 エルニーニョの海水温の上昇は、通常では1-2度だが1997-1998年にかけては20世紀最大規模の5℃上昇した。その年、東日本、西日本では大暖冬、北海道では寒冬、欧州東部で洪水、北米で豪雨、東南アジアで少雨、全世界で高温であった。
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無かった事にしようぜ。

2016年12月17日 12時05分59秒 | エッセイ
無かった事にしようぜ。

 全くヤになっちゃう。ジジイになりかけているのに、まだ阿呆なことをする。子供の頃たまに思ったものだ。今この手の中に、この世も自分も一瞬で消し去って無にするスイッチがあれば、押すね、と。子供にとってそれほど嫌な事って何んだ?ライバルと取っ組み合いになって押し倒された、とかそんな事かな。具体的な出来事は忘れたが、何もかも無くなってしまえ、という絶望感は鮮明に覚えている。あのスイッチのイメージはキューバ危機とか、冷戦時代の核戦争の影響が子供の中にもあったのかもね。
 実際に点数の悪いテストが戻ってきたら、帰り道に畳んでマンホールの穴(長方形のが2つある)から捨てていた。自分の家は一番学校から遠かったから、友達と別れて一人になった時、割と家の近くのマンホールだったな。下水の点検にきたオッちゃんはびっくりするよね。同じ名前のテスト用紙がたくさん捨てられていたんだから。
 今は思う。ヤなこと、ヤな日は最初から無かったことにしちゃおう、と。どうせ人の一生なんて地質学的に見れば、瞬きの間だし、今夜見た星の輝きは、何億光年と離れた宇宙の彼方で光った何億年も前の光に過ぎない。人ってどんだけちっぽけな存在なんだ。
 ところで、今見ているあの星の輝きは、のセリフでナンパに成功しかかったことがある。若き日、晩秋の札幌のホテルの駐車場だった。女性が、どうしようかなー、までいったのにあと一歩の押しが足りなかった。残念。これは残念だが、無かったことにはしたくない。
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少年十字軍

2016年12月14日 18時35分09秒 | エッセイ
少年十字軍

 ハーメルンの笛吹き男は、子供たちを連れ出してどこに行ったんだろう。13世紀に起こった子供十字軍は、大人の扇動ではなく自発的に起こった集団ヒステリーのような出来ごとだった。歴史を見ると時々、突拍子もない事が起きている。小説家は気の毒だ。余りに現実離れした事は書けない。書いてもリアリティーが無いから本は売れない。
 アフリカの戦場ではしばしば村を襲って子供をさらい、AK47を持つ少年兵とする。少年に父親を殺させ、後戻りが出来ないようにすることも多い。日本の特攻隊では最年少は16歳。ナチスの少年兵(14~18歳のヒトラーユーゲント)がうまく機能したとは思わないが、いくつかの戦場に登場している。ベルリン最後の日々で、押し寄せる赤軍兵の楯となって死んでいった少年兵も多かった。
 イラン・イラク戦争では、地雷原の突破にイランの革命防衛隊の少年兵が駆り出された。しかし少年少女を実にうまく使ったのは、毛沢東とポル・ポトだ。毛沢東は、自身に無条件で忠誠を誓う紅衛兵を率いて政権を奪還し、死ぬまでの10年間、好き放題の毛帝国に君臨した。死後も取り巻きは駆逐されたが、毛本人は批判されていない。1966~1976年に至る文化大革命、あの狂気の時代を生きた老人、大人、子供たちはそれぞれに辛い思いをし、心の傷を残している。
 先生を小突きまわし殴り、親を密告した心の傷は、大人になっても容易には癒えない。ポルポトは、政権を取っていたのは4年弱だが、200万人ともいわれる自国民を殺している。オンカー(党)の手先となり、民衆を殺したクメール・ルージュ兵の多くは少年だった。「泣いてはいけない。笑ってはいけない。それは昔の生活を想い出し、オンカーを裏切ることになる。」
 強制収容所では先生や医者、村長や僧侶といった知識人が次々と殺されていった。終いにはメガネをかけている、という理由だけで殺された。銃弾を節約するためにこん棒で殴り殺し、鋭い葉先を持つサゴヤシの葉を首に刺した。収容所を任されている看守は、ほとんどが少年だった。少年は資本主義に毒されていない、という理由から重用され、子供医者などという奇怪なものが生まれた。3ヶ月の速習教育を受けた子供医者は、患者を次々に死なせた。
 ある監獄に収容された元英語教師の男性は、少年看守達に毎晩イソップ物語などを思い出して話した。娯楽のない社会で少年たちは、目を輝かして男の話を聞いた。先生は毎日必死に物語を思い出し、また創作した。面白くないと思われたら、他の囚人と同じくゴミのように殺される。少年達は、あの男は面白いから生かしておこうと相談し、先生は収容所がついに解放される日まで生き延びた。
 
さて話を少年十字軍に戻そう。十字軍は第一回が成功した以外、ことごとく失敗した。第一次十字軍で獲得した聖地エルサレムは既にイスラム側に奪還された。第四回十字軍(1202~1204年)は、イスラム教徒と戦うどころかあろうことかキリスト教(正教)国、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻め落とし、掠奪と殺戮の限りを尽くした。
 ローマ教皇はこの恥知らずの十字軍を破門(後に取り消す)し、欧州各地に説教師を派遣して新たな十字軍を募った。しかし諸侯や騎士は、見返りの少ない遠征に乗り気にならない。内政で手一杯な上に、遠征には莫大な資金がかかる。イスラム軍の圧倒的な強さも思い知っていた。ところが為政者ではなく、説教師に煽られた民衆の中から十字軍参加の気運が高まっていった。
 そんな鬱屈した空気の最中、ドイツと北フランスで少年が呼びかけ自発的な十字軍が結成された。共に1212年のことだ。ドイツに住む羊飼いの少年ニコラスは、『約束された奇跡』を主張し始めた。
・我々の前に海は避け、聖地までの道が開かれるだろう。
・我々の聖地到着と同時に、戦うことなく異教徒は改心するだろう。
ドイツの少年少女はケルンに集合し、二手に分かれてアルプスを越え7,000人が北イタリアのジェノヴァに到着。ジャノヴァに着いた少年達は港に向かい叫ぶ、海よ、裂けよ!ところが何も起こらない。ここで多くの少年は失望し、熱が冷めて故郷へ引き返した。それでも残った少年達は、奇跡を待ってジェノヴァに滞在した。その信心深さに感銘を受けたジェノヴァ当局が、彼らにジェノヴァ市民権を与えた。それでもニコラスと数人の少年は諦めず、法王に面会する。法王は少年達に諦めるよう説得し、ついに彼らは帰郷する。しかし少年少女には資金も食糧もなく、多くの子供達は故郷にたどり着けずに、野山で死んでいった。
ドイツ、ニコラス少年の十字軍が平均15歳であったのに対し、北フランスの少年エティエンヌの呼びかけにより結成された少年少女の十字軍の、平均年齢は12歳と幼い。エティエンヌ少年は「神の手紙」を手渡され、聖地回復のお告げがあったと説き、熱狂した少年少女が親の反対を振り切り、家出をして集まった。その数2万。彼らは酷い食糧事情のなか、マルセイユに集合した。彼らも海が裂けるのを待つが、奇跡は起こらず、大多数は失望して帰郷した。                  残ったエティエンヌと数百人の少年達は、無償で船を提供するという商人の申し出を受け、7隻の船に分乗して船出する。2隻はサルディニア島付近で難破、残りの5隻はアレクサンドリアに直行し、エティエンヌ以下全員がイスラム教徒の奴隷商人に売られた。これが少年十字軍の顛末だ。なお、少年十字軍の中に大人の庶民も数多く参加していた、という話しもある。
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