旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

アンコール・ワットとメコンデルタ紀行ー2

2014年12月19日 16時57分03秒 | アンコール・ワット
(目次)
1.26年越しの宿題

2.相棒のこと

3.アンコール遺跡群
3-1.アンコール・トム
3-2.アンコール・ワット
-3.タ・プロム
3-4.パンテアスレイ
3-5.サンボール・プレイ・クック
3-6.ジャヤヴァルマン7世の石橋
3-7.トンレサップ湖

4.旅のエピソード
 4-1.カンボジア編
・ガソリンのビン売り
・ビールとガイドさん
・とっけーの話し
・慈母観音の微笑み
・ホテルのこと ╴ シャワールームの惨劇
・沙羅双樹の花のいろ
・学校・田植え・スカーフ・ガイド君の恋

 4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
・食べ物のはなし
・バスのなか、1コマ

5.メコン・デルタの舟旅

6.禁断の5時間エステ







4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
 この国は高地でコーヒーの収穫があります。町にはコーヒーショップがよくあり、ホットコーヒーは金属製のドリップ、アイスコーヒーは決まって25cm程のやけに細長いコップに入ってくるので、飲みにくいったらありゃしない。おまけに底の5cmくらいは濃い砂糖の溶液になっていて、なんぼなんでも甘すぎ。
 ベトナムの缶コーヒーをスーパーで買いました。一缶30円ほどでした。朝起きた時に飲もうと思い、冷蔵庫で冷やしておいたのですが、一口飲んでいっぺんに目が覚めた。恐るべし、ベトナム缶コーヒー。砂糖が飽和状態にまで溶かし込んである。もうコーヒーなんてもんじゃない。「なんだ、こりゃ!」残りは捨てようかと思ったが、生来の貧乏性が待ったをかけ、我慢して全部飲んだ。口の中の虫歯菌共が歓喜の雄たけびをあげ、歯ぐきはうずき、胃は朝から砂糖汁で満たされた。









・食べ物のはなし
 外国を旅するとよく「食べ物はどうだった」、と聞かれるのですが、この旅では実際のところどうだったんだろう。ホテルの朝食はどこもバイキング方式で、カンボジアで食べたものは中華が多かった。野菜はニンジンもカリフラワーも、空芯草も歯ごたえがあって味が濃くうまかったし、特にチキンが肉のうま味が出ていて好かった。卵は意外と日本と変わらなかった、ように思う。
 カンボジアでもベトナムでも他のアジア諸国と違って、あまり辛いものは食べない。日本人には親しみやすいと思う。最も自分は辛いもの好きですが。
 ベトナム料理はいろいろ食べましたよ。メコン川で取れた大きなドジョウ、バイ貝くらいある、でかタニシ、象の耳の形をしたエレファントフィッシュは、から揚げの身をほぐして香草と併せて生春巻にし、ニョクマムのたれにつけて食べました。メコンの魚は淡白でした。ベトナム名物フォー(米粉ウドン)は、それだけでは味がなく、一緒に入れる調味料で味つけする。その加減が分からず、ウドンをお湯で食べているような感じで残念でした。
 果物は、この時期スイカがおいしかった。大きな丸型で黒いのですが、薄く緑のスイカ模様が入っているような外見です。龍眼が旬でしたが、これは小さい実の方が甘くておいしい。直径15cmくらいのザボンを買って、ホテルの部屋で一人で食ったのですが、ナイフが無かったため、指で皮をむくのにザボンと格闘しました。これはおいしかった。
 最後にカンボジア名物、カボチャプリン。これは絶品。写真の通り、本物のカボチャの中にプディングが挟まれているのですが、中身より周りのカボチャの実がホクホクと甘くて、皮まで食べちゃいたい代物でした。カンボジアのカボチャはうまいぜ。

・バスのなか、1コマ
 ベトナム航空の帰国便は、東京も大阪も真夜中発、朝一に日本到着です。帰りは現地の旅行会社が、大きなバスでホテルを次々に回り、日本人客をピックアップして空港に送り届けます。ホーチミン市の日本人旅行者は、学生のような若い人達が多かった。その中の一組の、女の子とガイドのやり取り。
 「みなさん、お疲れさまでした。忘れ物はありませんね。」
「ハーイ、今ではないのですが、来た時に飛行機の中にマフラーを忘れてしまいました。」
「来たときというと4日、5日前ですネ。難しいですネ。」
「でも空港なんだから、お忘れ物センターとかあるでしょう。そこに問い合わせてもらえば。」
「お忘れ物、何?お忘れ物を集めるところ、お忘れ物センター、あー、ベトナムにはありません。」
「えー、そうなの。」
「来たときのガイドに言ってもらえれば、見つけられたかもしれませんが、今はねー、ベトナムではありませんヨ。」
「––––––––」















5.メコン・デルタの舟旅
メコン川はヒマラヤの雪どけ水を水源とし、中国、ラオス、カンボジアを経てベトナムでたくさんの支流に分かれ、南シナ海に流れ出ます。そのため、ここでは九龍川と呼ばれています。
メコン・デルタは豊穣の大地でした。植物の量も種類も、人も車も家も、カンボジアよりはるかに多く、牛までが肥えていた。自転車をこぐ女学生のアオザイの白さが目にしみる。太陽の光もふんだんで、女の人は何もそこまで、という程に日除け(長手袋、大きな帽子、目だけ出したギャングスタイル)をしていた。
このデルタの中の町、カントーに行きました。車でホーチミン市から6時間くらい、途中橋のない川はフェリー(乗っているのはバイクの大群)で渡ります。カントーに泊まった翌日は、夜明け前から半日舟に乗っていました。川の水は、お汁粉を薄めたような感じで、透明度は全くない。乾季でも水量は実に豊かで、ゴミとかは全然浮いていないが、机くらいの大きな金魚藻がプカプカ漂っています。水上マーケットに行きました。川の上に大きな船が2-30艘と、それを取り囲んで小さな舟が行ったり来たりしています。大きな船はたいてい家族で暮らしていて、果物や野菜の倉庫のようになっています。小舟はそれらを仕入れて小売に行くわけですが、売り物が何であるかを知らせるために、竹ざおを立てて、そこに本日の売り物を縛りつけています。川舟はどれも同じ形をしていて、先端に赤く、魚の眼の図柄が描かれています。動力は車の中古エンジンを積み、長い木の棒の先端にスクリューを取り付けた大変やかましい代物です。回転したスクリューを水に突っ込み、けたたましく暴走します。
カントーの水上マーケットには観光客がいず、川べりの家も含めてむき出しの生活が舟に座って見えます。物干し竿にさした、となりの奥さんの下着まで丸見え、といった生の舞台が川沿いに続きます。本流からそれて支流に入ると、流れもゆるやかになり、草木が生い茂り、水浴びをする子供たちが手を振り、ちょっとしたジャングル・クルーズといった趣きになって楽しいものです。無数の島々(中州)があり、教会があったり、市場や学校、田んぼや、あぜ道を通る人々を舟の中で、ちょっと低い位置から見上げる格好になります。動いているので、川面を渡る風も涼しい。その島の中の一つに果樹園があり、ジャックフルーツやパパイヤが実っていました。
ここで会ったホー・チ・ミンひげをはやした78歳の老人は、至って元気で片言の日本語を話します。ベトナムの三菱重工に数年勤めていたそうです。78歳なら、日本軍の仏印侵攻のときは何をしていたのかというと、ベトコン(抗日ゲリラ)だったそうです。タフネス。

6.禁断の5時間エステ
    ベトナム航空の帰国便は、関空も成田も深夜0時ごろ出発です。ホテルをチェックアウトした後、21時まで部屋を借りた場合は、交渉したのですが1日分の料金が掛かってしまう。まあ無理もないか。ホーチミン市は町中バイクだらけで、歩道は駐輪場となり、ロッテリアに入ったらバイク屋か、お前は、と思うぐらい店内一杯にとまっていて、カウンターにたどりつくのにバイクをかき分けかき分け。市場へも行ったし、博物館も見たし、国営デパートは2時間で飽きた。ブランドショップは向こうからお呼びでないよ。甘いコーヒーを飲んでも9時間はつぶれない。以前なら映画でも見たところですが、今はDVDの普及で映画館がすっかり寂れていて、国産の化け物映画くらいしかやっていません。
    そこで思いついたのがエステ、それも思いっきり時間の長いコースで、出発までの午後を楽に過ごそう、と考えたのですが、いったいエステって何するの?男でもいいの? ガイドブックを見て日本人のあまり行かなそうなところに、ドキドキしながら電話しました。おじさんは禁断の道に踏み出した。
    「あのー、そちらはスパ&エステ?」「ハイ、ソーデス」「あの、そちらはやっぱり、Lady Onlyとか?」「そんな事はありません。」とSusanはやけに明るい声でキッパリ。コースとか料金とかをテキパキと説明してくれ、あっという間に明日の予約とお迎えを約束させられました。「あの、でも本当に男でもOKなんでしょうか?」「ノープロブレム」翌日、相棒も二つ返事でOKしたので、おじさん達はエステの受付でSusan(結構年いってました。)から日本語のパンフを受け取り、まさかネイルケア、マニキュアは外してもらって、後はお任せの5時間、130ドル、禁断コースにいきなり突入しました。
    この殴りこみの前に、相棒と愚息に、「いいな、これはエステなんだからな。感違いするなよ。絶~対に勃つなよ。」と言い聞かせたのは言うまでもありません。
    白衣のお嬢さんに案内され、こぎれいな個室に入り、パンツ一丁になった。体にタオルケットを乗せられ、頭をタオルできつく縛るのですが、生来のでか頭のせいで、最後にぎゅっと折りこむところで、タオルがパッと開いてします。お嬢さんあわてず、もう一回縛りなおし、ぎゅっと折りこみパッと開く。4回やり直したところで、お嬢さんもさすがに意地になり、思いっきり締め付けて頭の皮がよじれてギューギュー言い出したところで、やっととまった。おじさん心底ホッとした。一時はどうなることかと、身も心も細る思いで、体を一寸法師のように縮めたのに、頭蓋骨がいうことを聞かず、こら、こら、もちろんその後は、頭をそよとも動かしませんでした。
    最初はざらざらするものを、顔を除く全身にゆっくりゆっくり塗りこめられ、顔にはパックをされました。部屋は薄暗くヒーリングミュージックがゆったりと流れ、何やらよい香りがします。半分まどろみながらもう終わっちゃうの、と思っている内に2時間近くたっているじゃあ、ありませんか。アラー不思議、お風呂につかって甘いレモンティーを飲み、今度は全身オイルマッサージです。気色えーなー。温かい小石を2つ、背中でゆっくりと滑らし、それが曲線を描いて触れ合う度に、カチッ、カチッと鳴ります。
    そこまで終わって服を着て休憩。硬いフランスパンにはさんだチキンのサンドイッチを食べました。チキンは香草を入れニョクマムをまぶしてあり、ベトナムの味がしました。最後は首から肩にかけてのマッサージと、髪の毛のケアでした。最初のマッサージをやってくれたお嬢さん達は、私服になって帰宅していきました。チップを要求することもなく。
    相棒は、クリリン、天津飯系統の髪型なので、ここはアッという間に終わってしまって手持ち無沙汰。自分も首のマッサージがかなり痛かったので、最後はもういいや、という感じで5時間のエステは終わったのですが、やれやれと言って首を撫でたらビックリ、つるつるしているじゃあありませんか。手の甲もつるつる。スネ毛も無くなっちゃってる。最初のザラザラは脱毛だったんですね。まっ、脱毛はともかく、2人ともおじさん大満足の5時間でした。

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アンコール・ワットとメコンデルタ紀行-1

2014年12月07日 17時01分47秒 | アンコール・ワット


*アンコール・ワットとメコン・デルタ紀行


(目次)
1.26年越しの宿題

2.相棒のこと

3.アンコール遺跡群
3-1.アンコール・トム
3-2.アンコール・ワット
-3.タ・プロム
3-4.パンテアスレイ
3-5.サンボール・プレイ・クック
3-6.ジャヤヴァルマン7世の石橋
3-7.トンレサップ湖

4.旅のエピソード
 4-1.カンボジア編
・ガソリンのビン売り
・ビールとガイドさん
・とっけーの話し
・慈母観音の微笑み
・ホテルのこと ╴ シャワールームの惨劇
・沙羅双樹の花のいろ
・学校・田植え・スカーフ・ガイド君の恋

 4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
・食べ物のはなし
・バスのなか、1コマ

5.メコン・デルタの舟旅

6.禁断の5時間エステ

















1.26年越しの宿題
「アンコール・ワットです。」ガイドの声を聞くより一瞬早く、目はバスの窓越にそれを捉えていた。乾季の、緑色をした水をたたえたお堀の彼方、密林の中に小さく、あの印象的な尖塔が3つ見えた。あれがアンコール・ワット、きれいだ。でも、あれが本当にアンコール・ワット?
 振り返れば26年前、デパートを通して宝石のセールスをしていた自分は、25歳の若造でした。
 来る日も来る日もデパートの社員に同行して、お金持ちの女の人に、高価な指輪を勧めて、売り上げに追われていました。そんな生活がいやになり始めたある日、新聞の片隅に載っていた小さな記事に心を惹かれました。「タイの国境地帯で、難民の世話をしていたボランティアのリーダーが、タイ人の強盗に撃たれて死亡」それは本当にちっちゃな記事でした。それを見て行動を起こしたのは、一億人で自分ひとりではないか。
 自分は学生の時、印度やタイを貧乏旅行していたので、アジアの空気は良く知っていました。「えらい奴だなー、俺も行きたい。」 宝石の会社の社長も変な人で、休職して行けばいい、と言ってくれた(26年前ですよ。NGOなんて言葉は無かったし、海外のボランティアなんて、頭おかしいんじゃないの、という時代でしたよ。)ので、数ヶ月後にタイ・カンボジア国境の町、アランヤプラテートに着いて、井戸掘りチームに参加しました。1982年、夏の終わりでした。
 カンボジアでは、親米派のロン・ノル将軍を追い払って、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)がプノンペン入城、以後3年8ヶ月(1975年4月~79年1月)に渡って、恐怖と狂気がこの国を支配します。当時の総人口700万人のうち、約170万人がこの間殺されたといいます。4人に1人です。極端な共産主義(能力に応じて働き、必要に応じて取る。)を追求したクメール・ルージュ(赤いクメール、の意味、以下K.R.)は、100万人の人口がいた首都プノンペンから住民を一人残らず立ち退かせ、農村に追いやりました。
 医師、教師、僧侶といった知識人は、反抗的で資本主義に汚染されているという理由で、特に対象とされ、少年兵による大量殺戮が繰り返された。市場・通貨の廃止、労農・政治教育以外の学校教育の廃止、宗教の廃止、サハコー(人民公社)の設置と集団生活化。ガイドのソトム君やワンディーさんの話しでは、銃弾を節約するため、先の尖ったサゴヤシの葉で殺された人も多いそうです。K.R.の支配がもう少し長く続いていたら、カンボジアの織物も、アプサラダンスも復活出来なかったことでしょう。ダンサーも先生も9割が殺されたといいます。
 長い説明になっちゃいましたが、この悲劇はカンボジアを旅するうえで、避けて通れない事柄です。K.R.の支配は、ベトナム軍との戦闘にあっけなく敗れたことにより終わりを告げ、以後10年間カンボジアの平野部は、ベトナムが占領することになった。 
ガイドのピセットさん(現在27歳位)が子供のころは、学校でベトナム語が教えられ、彼は村に駐屯するベトナム兵が好きだった、といいます。もっとも14歳以上の男子は内戦(対K.R.戦)に徴用され、大人になった今、彼はベトナムにあまり良い感情は持っていないそうですが。
 自分はタイ国境の町、アランヤプラテートに住み、毎朝夕、タイ軍の検問を数箇所通って、車で1時間ほど北上、国境の小さな川に架かる丸太の橋を渡って、カンボジア領内に非合法で入り、ソン・サン派(自由主義者、ロン・ノル時代の首相)の難民キャンプ、バン・サンゲーで井戸掘りをしていました。その頃、カンボジアの大半はベトナムに占領されていました。大量のカンボジア難民がタイ領内に流入し、当初、難民を国境の向こうに追い返していたタイ政府も、国際世論の圧力に屈して、難民の受け入れを始め、タイ国内にカオイダンをはじめ、大きな難民キャンプがいくつも出来ました。北部ではラオス難民も発生していた。しかし、タイ国内の難民キャンプに収容された人数の、数倍の人々が西部の国境地帯にへばりつくように住み、K.R.は特に南西部の山岳地帯にたてこもって中国の支援を受け、ベトナム軍に抵抗し続けていました。
 抵抗勢力は、5万5千人の兵士を持つK.R.、5千人(一説では1,500人)のソン・サン派、500人と名ばかりの軍隊だが、国民の人気が絶大で国際的に有名なシアヌーク殿下、この3者が三派連合にむりやり組み入れられ、ベトナム軍政下でのヘン・サムリン政権と、和解に至るまでの10年間戦い続けることになりました。
 このベトナム占領下の10年は、西側にとって情報の空白の時代です。プノンペンの市場のひとつは、今でもロシアンマーケットと呼ばれています。現在はロシア人なんか一人もいないのですが。
 ドイモイといわれる開放政策を採る前のベトナムでは、旧南ベトナムの人々を中心に大量の難民が、ボロ船に沈みそうになるほど乗り込んで海を渡り、日本にもたどり着いていました。サメや、タイ人のにわか海賊の餌食になった人々も数え切れません。その当時、アンコール・ワットは、戦闘で破壊されて無くなってしまった、といううわさがありました。無くなったわけではないが相当こわれた、という人もいました。
 自分が1982年、井戸を掘っていたバン・サンゲーからアンコール・ワットまでは、東に直線距離で約200km、バン・サンゲーのゲリラ兵も「行って行けないことはないよ。帰ってはこれないけどね。」と言っていました。正直ちょっと考えてみたんです。このまま水・食料・パスポートと磁石を持って東方に進む。うまく地雷原とK.R.兵を避けて前線に出て、ベトナム軍に投降する。K.R.と違ってベトナム兵は、外国人をその場で殺したりはしない。たぶん。そこで将校に会って熱弁をふるう。(熱弁だって、お前の英語が通じるの?命をかければなんだって出来るさ。)
ベトナム統治下のカンボジアで、アンコール・ワットが無事な事を西側に伝えよう。大変なイメージアップになるではないか。私をアンコール・ワットに連れて行け。写真を撮って日本の新聞に載せるから、国外追放にしたらいい。ベトナム軍が親切で紳士的で、文化を愛し大切にすることを、責任をもって宣伝する。
人一倍臆病なくせに無鉄砲。輝ける青春無頼の日々は、追憶の彼方に消えてゆき、一つの決意が宿題として残った。“いつか必ずアンコール・ワットに行く。”


2.相棒のこと
 旅のきっかけは、この人のひと言でした。待機時間の喫煙室で、雑談の合間に、彼がもらした言葉、「アンコール・ワットに行きたいな。」は、何故か「ん?」と胸の奥に引っかかりました。‘アンコール・ワット’というキーワードには心の奥底をうずかせるものがある。「アンコール・ワット。何だろう?」から「そうだ。そうだった。俺はアンコール・ワットに行きたいんだ。いや行くんだ。」忘却の彼方から宿題を思い出すまでに3ヶ月かかりました。
しかし、「行こう。」と二人で決めてから実際に出発するまでにも、自分が足を骨折したりして、一年ほどかかっています。でも実際に飛行機に乗ったら、次の日の朝にはアンコール・ワットを見ていた。「なんだ。こんなに簡単だったのか。」
相棒は、いつも飄々としています。普段はどぎつい冗談を言って、ごくたまに落ち込んだり、怒っている時でも、本人はいたって真面目なんでしょうが、周囲に笑って見ていられるだけの余裕を与えています。
「まあ、すてき、少年の心を持った純粋なオジ様なのね。」「ノン、ノン、お嬢さん、ガサツであけっぴろげな親父ですよ。」 彼は、学生時代アーチェリーのナショナルチームに所属し、不良をぶんなぐって高校の先生を一年で首になり、その後ジュニアのアーチェリーのコーチをやったり、ベトナムで地雷除去のボランティアをしたりで、40数カ国を旅しています。ちなみに自分は35ヶ国。悔しいね。
「きっと吟遊詩人のような方ね。」「何言ってんだよ、三度がさ。ノン、ノン、ノン、断じてノン。スケベで、チャランポランで、おまけにあっちこっちに物を置き忘れる、物忘れ親父なんだってば。」
この人はいつも底抜けに明るくて、いっしょに旅をしていて楽しい。この旅がさわやかで、印象深いものとなったのは彼のおかげです。とはいえ、旅の間中この人の世話をしていたような気がする。「パスポート出して。」「明日の朝は何時に食堂で。」「今日の晩はフランス料理に行くよ。19時にロビーに集合。明日の朝は市場に行くから早起きね。」「ホイ、ホーイ」
相棒が、旅の最後に言いました。「俺、カンボジアがこんなにいい国だとは知らなかった。また来るよ。」









3-1.アンコール・トム
最初に訪れたのは、アンコール・トムの南大門でした。アルカイックスマイルを浮かべた四面の観世音菩薩が、圧倒的な迫力で頭上にそびえたち、門の下にはインドラ(帝釈天)の彫刻、その手前には、7つの頭を持つ蛇神ナーガの体で綱引きをする神々と阿修羅の巨人軍団、周りには各国から来た観光客の群れと象のタクシー、みやげ物屋とバイタクシーの喧騒。何かボーっとして現実感を失い、これはディズニーのMGMスタジオ、インディージョーンズの張りぼてなんじゃないか、などとおかしな事を一瞬考えました。
アンコール・トムは周囲12km、12世紀後半、アンコール・ワットから半世紀を経て、クメール朝絶頂期といえるジャヤヴァルマン7世が作った都です。その中心にあるのが、四面観音の塔を49持つバイヨン寺院です。アンコール朝では少数派の仏教遺跡です。
ここには門が5つあり、西側だけ2つ、凱旋門と死者の門があり、それぞれの門の上はバイヨン方式と言われる四面に向いた観音像があるので四面仏の塔は、全部で54あることになります。周囲の環濠の水は乾季の今、あまり残っていませんでしたが、ここは堅牢な城砦都市です。
 アンコール・ワットの回廊の浮き彫りが、スールヤヴァルマン2世の行軍を除き、ヒンドュー教の教えが多く、「天国と地獄」「乳海攪拌」「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」「ヴィシュヌと阿修羅の戦い」といった抽象的な題材が多いのに対し、バイヨンの回廊の浮き彫りは、戦いや生活を生き生きと描写していて楽しい。
 独特の長髪(またはカブト)をしたチャンパ軍との戦闘は、一時は都を占領される程の激戦で、3年も4年もかかっています。古代の戦車ともいえる象部隊のぶつかり合い(象同士も鼻を打ちつけ、激しく戦っている。)、湖上の決戦では水に落ちた兵士にワニが食いつきます。中国人傭兵隊も行軍しています。こちらは、ちょっとだらしない行軍姿です。戦闘の他にも調理、食事風景、出産や曲芸、将棋を指す人、闘鶏、投網、踊るアプサラ、ライ王伝説。ここは観光客が多いのですが、もっとじっくり見たかった。トンレサップ湖に住む様々な魚、立派なコブ牛、水牛、虎、鶏といった動物たちも生き生きと描かれています。
 アンコール・トムはアンコール・ワットよりずっと大きく、大乗仏教の遺跡の為か親しみやすさを感じさせます。四面観音は圧倒的な迫力です。













3-2.アンコール・ワット

 アンコール・ワットは他の大半の遺跡が東向きなのに対し、西に向いています。東側にトンレサップ川が流れているためだと考えられています。周囲をお堀に囲まれ、石畳の橋を渡って門に達します。門は5つあり、中央は王様が通る門で、その両側が人々が通る門、一番外側は象の門です。当時はよほどたくさんの象が飼われていたんでしょうね。遺跡の石には必ず丸い穴が開いています。ロープを通して象が運んだ跡です。修羅という運搬具も使われていました。
 話がそれました。自分は滞在中の三日間、夕日の中で(プノン・バケン=岡の上の寺院の廃墟)、また朝日が昇るのを待って、アンコール・ワットを何度も何度も見ましたが、いつでも、どの角度から見ても美しい。まさにカンボジアの至宝、アンリ・ムオが始めてここを訪れた時の感動を、『インドシナ王国遍歴記』(中央公論社・大岩誠訳)の中で、以下のように記しています。
 『かくも美しい建築芸術が森の奥深く、しかもこの世の片隅に、人知れず、訪れるものといっては野獣しかなく、聞こえるものといっては虎の咆哮か象の嗄れた叫び声、鹿の啼声しかないような辺りに存在しようとは誰に想像できたであろう。われわれはまる一日をここの見物に費やしたが、進むにつれていよいよ素晴しく、ますます酔わされてしまった。』
・中央部の天井の一部に赤く彩色された跡が残っていて、往時のきらびやかさをしのばせます。
・寛永9年(1632年)父の菩提を弔い、老母の後生を祈るためにアンコール・ワットを訪れた森本右近太夫一房の墨書跡は文字が薄れ、その上に書かれた最近の落書きにかき消されて、かろうじて日本國~、と読めるだけになっています。この人、鎖国令直前に帰国して、名前を変えて生きながらえたそうです。
・アンコール・ワットの中には不思議な仕掛けが数々あります。
*手をたたくと音がボワン・ボワンとエコーする空間
*壁一面に穴の開いている小部屋。このたくさんの小穴に宝石や光る石を入れ、ろうそくの灯りで輝かせたそうです。今では石はひとつも残っていず、ただ壁に穴がたくさん開いているだけです。
*中心部に向かう第二回廊には浮き彫りはなく、仏像が3千体置かれていたそうですが、今は壊れた台座が数個残っているだけです。ガイドのソッキさん(37歳)のお父さんが子供だったころには、ものすごい数の仏像が立ち並んでいて、人々に拝まれていたそうです。アンコール・ワットはヒンドュー教なので、仏像は後世のものでしょうが、森本右近太夫も、四体奉納したと書いていますから、貴重なものだったことでしょう。ことごとく近年になって盗難にあいました。
*ソッキさんのお父さんは農民ですが、ポル・ポト時代に強制労働にかり出され、尖塔群に登ってコケ落としをさせられたそうです。宗教を否定し寺を壊し、僧侶を殺したポル・ポトが、アンコール・ワットを大切にしたとは意外です。彼が若いころ歴史の先生だったことと関係があるのでしょうか。
*アンコール・ワットの尖塔を見ながら西参道を渡り、門をくぐって本殿に向かってゆっくり歩く。天空に突き出た3本の高塔(実は5本)はいったん視界から消え、忽然と窓枠の中に一本だけ現れたり、3重の回廊を出たとたん惜しげもなく全体をさらす等、建築者は明らかに意図的な導線を作っています。
*アンコール・ワットもアンコール・トム(大きな町の意味)もお寺だけではありません。城壁に守られた巨大都市で、中には町も王宮もありました。13世紀末に元朝の使節に随行して訪れた中国人、周達観の『真臘風土記』(『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』講談社現代新書、石澤良昭氏著、参照)によれば、『王宮や官舎、役所は全て東を向いている。その正殿の瓦は鉛で作られている----梁や柱はとても大きく、どれも仏の姿が彫られていて、部屋はまことに壮観。長い廊下は、上下2段になっていて、高くそびえて続いており、きちんと規範に基づいている。』これらの木造建築は、全てシャム(タイ)との戦争で消失してしまいました。













3-3.タ・プロム
ジャヤヴァルマン7世が、母の菩提を弔うために築いた寺院。仏教寺院だったが、後に宗教戦争によってヒンドュー教となり、仏の浮き彫りは削られた。
 ここは今回の旅行で必ず行きたかった所のひとつです。スポアン(榕樹、沖縄にも生息するガジュマルの木)と呼ばれる樹齢400年にも及ぶ木々が遺跡を侵食している。
 植物が鉱物を食い破りつつある、奇怪な世界が目の前に広がるのですが、榕樹の根は石の隙間にヘビのように入り込み、石を持ち上げ覆いつくし、千年かけて土に返そうとしています。植物のこの勢いを止めるには、水と太陽の光を断つしかありませんが、何も無いようにみえるこの国に、この二つは有り余るほどに豊富です。かくして植物のゆったりした時間の中で、タ・プロムの遺跡は確実に朽ち果てていきます。
 榕樹の他に、ビルマ軍の侵略による破壊の跡も見られます。腰掛けたガレキの石片にシバ神の浮き彫りがかすかに残っていたりします。





3-4.パンテアスレイ
 967年に建てられた「女の砦」の意味を持つヒンドュー教の小寺院。周囲400mでバラ色の砂岩とラテライトによって作られたが、ここの砂岩の質が良く、浮き彫りの一部が、あたかも昨日彫ったかの如く鮮やかに残っている。
 ここには「東洋のモナ・リザ」と呼ばれる、微笑みを浮かべた天女の彫刻がある。これは意外と小さなもので、高さ60cmほどの容姿端麗で優美な天女である。反対側にも同じような天女像があるが、こちらの娘は唇がちょっと厚すぎる。この像は「王道」の著者で、フランスの元文化大臣でもあるアンドレ・ジイド氏が若いころ、切り取って持ち帰ろうとしたことで有名です・
パンテアスレイは小さくて華麗な遺跡でした。





3-5.サンボール・プレイ・クック
この遺跡はアンコール・ワットのあるシュムリアップよりも、プノンペンに近いコンポントム州の郊外にあります。自分たちが訪れた時、他に観光客はいなかったので、遺跡の貸切り状態でした。せみしぐれの中に、崩れかけた八角形のレンガ造りの塔が、8つ位ありました。周囲の城壁は崩れ、原型を留めていません。
7世紀初頭、アンコール遺跡群の中でも初期に建てられたここは、クメール人の最初の王都でした。この遺跡は崩壊が進んでいるが、密林の中のうち捨てられた太古の廃墟といった風情があります。この時代(前アンコール時代)のことは、碑文も少なく、よく分かっていないそうです。
地面にいくつか、直径5mほどのクレーターのような、丸い穴があいていました。中には、塔の真横にあるものもありましたが、これらの穴は、ベトナム戦争当時、米軍がホーチミンルートの閉鎖をねらって空爆した跡だそうです。
ここはうれしいことに、我が母校、早稲田大学隊が修復していました。他にアンコール・ワットの正面の石畳は上智隊、他の遺跡もフランス隊、インド隊等、分担して補修作業に当たっていますが、割り当てがなく、カンボジア政府が補修している遺跡では、予算も技術も不足しているのでしょう。丸太をつっかい棒にするような乱暴な修理が目につきました。





3-6.ジャヤヴァルマン7世の石橋
 日本では、「1192(いい国作ろう鎌倉幕府)」の時代、カンボジアでは、対チャンパ戦争に勝利した、ジャヤヴァルマン7世がアンコール・トムを作り、クメール王国最盛期を迎えていた。ヴァルマンとは、「戦争に勝利した」というような意味です。
 この王様は治水にも成功し、現在よりもはるかに肥沃で広大な水田に、灌漑網を張り巡らしました。果物はたわわに実り、花々は鮮やかに咲き誇り、トンレサップ湖は、惜しみなく水産資源を供給し、多くのこぶ牛、水牛、ブタ、ニワトリを飼育、たくさんの戦象を持つ強力な軍隊、宮廷では楽団が音楽を奏で、髪を結い、頭に飾り物をつけ、美しい腰布をまとったトップレスの官女たち、踊り子たち、お祭りには綱渡りや力自慢の芸人が集まり、市場には物があふれ、女たちは元気で、異国の旅人や商人、僧侶が町にあふれている。
 筆がすべりました。‛稲田の民‛と呼ばれた当時の人々の暮らしぶり、儀式の様子は浮き彫りに描かれています。
 さてジャヤヴァルマン7世は、その40年にわたる治世の間に、アンコール・トムや数々の寺を造ったばかりではなく、後世、王道と呼ばれる道路を造り、その沿道に121の宿舎、102の施療院、大小の石造りの橋を建てました。そのひとつを見ましたが、思わずうなるほどの立派な石橋です。現在でも普通に使われていて、バイクや車が行き来しています。内戦時代には戦車も通行しました。大きさは、全長90m、幅15m、高さが10mあります。
 さて、この大王ですが、ライ病にかかったという伝説があり、この姿を映したといわれる彫像の指は欠けています。クメールの王国も何やらかげりが見え始めました。この王の後には、数々の王位の簒奪が起こり、絶え間ないシャム軍の侵入によって、人口は激減し、用水池は涸れ、田畑は荒廃していきます。巨大な建造物が建てられることは、二度とありませんでした。



3-7.トンレサップ湖
 とんでもない湖である。自分が行った乾季の終わりで、琵琶湖の5倍、水深2~3m、雨季の終わりには、琵琶湖の15倍、水深10~12mになります。道路も森も道路わきの家も、全て湖の底になるわけです。この湖で暮らす湖上生活者はクメール人(カンボジア人)、ベトナム人と少数のチャン人です。湖上生活者は100万人以上いるといいます。船の学校はありますが、通学で舟を出す余裕はなく、学校にはほとんどの子供が行けません。
 ベトナム人の船は相当数あり、クメール人の集落、というか船溜まりと分かれて生活しています。南シナ海から川を遡って勝手に来た人たちです。チャン人はチャンパ王国の末裔でイスラム教徒です。それゆえ、ポル・ポト時代に特に大量殺戮の対象となったそうです。
 以前は大変な漁獲量だったこの湖も、近年の乱獲(目の細かい網の使用とバッテリーによる感電漁法)によって、魚がめっきり減ってきています。この湖にはワニやヘビ、カエルに亀、300種類にも及ぶ淡水魚がいて、アンコール・トムの浮き彫りにも、たくさんの種類の魚たちが写実的に彫られています。数十年前は、水鳥が湖面いっぱいにいたようですが、訪れた日は全く見当たりませんでした。
 船着場までの道はひどくデコボコで、掘っ立て小屋のような家に、たくさんの家族が暮らしています。乾季の今、船着場は押し合いへし合い舟がびっしり泊まっていて、長い棒で押し、足で他の舟を蹴っ飛ばしてやっと水路に出ます。船着場付近の水は、ペンキのようにドロッとしたコバルトブルーで、生活廃水によって見るからに汚れていますが、そんな所でも子供たちがもぐってシジミを取っていました。舟の家には、こどもが大勢住んでいます。
 湖上のレストランから見た夕日はきれいでした。海に沈む太陽、というイメージです。トンレサップ湖は、カンボジアの宝物に違いありません。雨季の終わり、この湖が最大の大きさのとき、どんな光景なのか、見てみたいものです。


4.旅のエピソード
 4-1.カンボジア編
・ガソリンのビン売り
カンボジアもベトナムも、交通手段の主流は100ccのバイクです。家族4人でも5人でも器用に乗ります。(ベトナムでは、3人迄と決まっているそうです。)ホンダ、スズキが多いのですが、最近は価格の安い中国製が増えてきました。
旅行に行った3月末、日本ではレギュラーガソリン1リットル150円くらいでしたが、カンボジアでも税金が入って、1リットル130円ほどになります。この高値は、月5千円で高給取りの彼らにとって、たいへん痛い。何故か〔TOTAL〕という会社の独占でしたが、カンボジアにだってちゃんとしたガソリンスタンドはあります。でもそれ以上に道端でガラスのビンに入れて、タイから密輸したガソリンが堂々と売られています。
  1リットル110円ほどで、税金を払わない分安くなる。最初は、やたらとジュース売りが多いな、と思いましたよ。

・ビールとガイドさん
 アンコール・ワットのある町、シュムリアップでは缶のビールは3ドル、プノンペンのレストランで2ドル、明らかに観光地価格です。この国では、肉体労働者の賃金が一日働いて2.6ドル、遺跡の発掘・補修で村人をやとう場合は2.5ドル。一日終わってさあ一杯、という訳にはいきません。さてシュムリアップのレストランで、連れになった女性たちと食卓を囲んでビールを注文しました。ここで年配のお母さんが、「カンボジアのビール飲んでみようかしら。これってどんな味、甘いの?」とガイドのソッキさん(女性、37歳)に尋ねました。アジアのビールは、氷を入れて冷やしたりするせいか、味の濃いものが多いのです。するとソッキさん、すぐには答えず、そわそわしてお店の人に聞いたりし始めました。何事にもテキパキして、「乳海攪拌」から,ヴィシュヌ神の乗り物、奥方、4本の手で持っているものからその由来、質問は何でもOKよ、の人がどうしたんだろう。
「私、ビール飲んだことないです。」「えー、一度も?」「ハイ、生まれてから一度も」
ソッキさんは5人兄弟の下から2人目、5歳の時にお母さんを亡くし(写真もない)、
お寺に住んでお手伝いをしてお金をため、兄弟の中で一人だけ高校に行き、ガイドを目指した。最初は英語、その後入った日本語学校の先生が厳しくて、泣きながら勉強したそうです。暑いのにガイド服のボタンをきっちり上まで留めて、スカーフまでして歩きまわるソッキさん、成田で買った金太郎あめをあげたら、「面白―い」と歓声をあげたソッキさん。ビールの味は知らなくても、あなたは素敵です。

・ とっけーの話し
 今回の旅行でこいつに会いたかったのに、ガイドさんに聞いてもあんまり話しが通ぜず、この付近にはいないのかもしれません。
自分が26年前にボランティアで井戸堀りをしていた時、宿舎の家(タイ国内アランヤプラテート)が高床式で、1階は物置や洗濯物を干すスペースになっていましたが、そこに彼が住みついていました。夜食事をしていると、ククククー(空気を吸い込む音)トッケー、トッケーと大きな明瞭な声で、床の下から鳴く生物がいるではありませんか。10回くらい(最高12回)鳴いてクックーみたいな終り方をします。最初はナンダ、ナンダ、ここらの鳥は夜鳴くんかい、と思いましたが、彼は毎晩唐突に鳴きだしました。相当にでかくて、はっきりした声です。昼間、井戸掘り現場への行き帰り、作業中にも良く鳴いていました。鳴き方は必ず「トッケー」です。迷いはありません。ウグイスのように間違えたりはしません。それほど日をたたずに、彼と対面することになりました。夜、トイレのドアを開けると、出会い頭に、大きなゴキブリをくわえた彼と鉢合わせしてしまったのです。お互いにビックリ。天井から釣り下がった彼は体長約40cm、褐色の体に赤や青の小さな斑点の入った立派なトカゲ(もしくは大ヤモリ)でした。タイでは、トッケー(学名にもなっている正式名称)がいると、泥棒が入らないという言い伝えがあります。
今回の旅行では、エアコンのついたホテルに泊まったため、ヤモリ、イモリをほとんど見ませんでした。椎名誠の本(集英社文庫『メコン・黄金水道をゆく』)のなか、ラオス編でトッケーがやたらと出てくるのですが、トッケー君は意外とシャイで、都市化、近代化が苦手なのかもしれない。それとも内戦時代に食っちまったのかも。



・慈母観音の微笑み
 郊外の遺跡サンボール・プレイ・クックのそばで、なかなかきれいな公衆トイレに入りました。そのトイレの入口で小学生1、2年といった女の子が、台座にちょこんと座って笑いながら日本語でいいました。『お兄さんはこっち、お姉さんはこっち、あはは』帰りにその子からお土産を買いました。金属製の小さな四面仏とガネーシャの像、2ドルです。彼女しっかり働いていたんですね。2ドルといってもバカにはなりません。肉体労働を1日やっても2.6ドルなのですから。
 この女の子を見て、26年前のバン・サンゲー(ソン・サン派の難民村)を思い出しました。栄養失調で髪の毛は赤茶け、ものもらいや手足の潰瘍にかかっている子が多かったのですが、子供はくったくが無い。子供たちは他の生活を知らないから、自分達のことを気の毒だなどとは、ちっとも思っていません。
 その少女は、外国人(僕ら)からあいさつをされてとまどい、恥じらい、しばらくして口の両端にポッと小さな笑いが浮かびました。この小さな微笑みがゆっくりゆっくり顔中に広がっていくのは、花がつぼみから開いて咲いていくようで、うっとりと見つめてしまいました。慈母観音のような微笑みでした。アジアの大地の持つ限りないやさしさと豊かさ、あたたかさを感じました。


・ホテルのこと ╴ シャワールームの惨劇
 シュムリアップのホテルは中流でしたが、従業員は親切で朝のバイキングはここが一番良かった。部屋(シングル)は広く、窓の下には仮説テントみたいな所に暮らす一家の生活が丸見えでした。
 ベットサイドの電灯はつかないし、洗面所の蛇口は持ち上げると、勢いよく水を出したまま自分の方へ向かってくる。エアコンのリモコンはToo Warm(暑すぎる)、Too Cool(寒過ぎる)の2つしかボタンが無いため、2晩寒い思いをしたあげく、最後の晩にやっと手なずけ、Too Warmを最後まで押し、Too Coolへ2つ戻した所がちょうど良いという結論に達しました。
 便利な世の中で、ホテルの衛星放送の中にNHKが入っていたので、旅行中は普段よりも日本の出来事に詳しくなっていました。最も何故かメインのニュースの時間は、英語放送になってしまうのが不便でした。
トイレの横に金属製のホースがついていて、その先に噴水口がついています。取っ手を押すと勢い良く水が出る、ハンドウォッシュレットです。角度をうまく調整しないと、自分の手がびしょぬれになって、気持ちが悪い。相棒は、なんだこれ、っといきなりこの取っ手を押して、水が顔を直撃、数秒の間にシャワールームを、天井から床までびしょ濡れにして、朝から大騒ぎで拭き掃除をやっていました。













・ 沙羅双樹の花のいろ
 プノンペンでは、王宮に行きました。ノロドム国王とシアヌーク殿下が住んでいるところです。ラーマーヤナを描いた原色の壁画や、数々の王室の財宝、ナポレオン3世の奥方から贈られたテラス、4歳で亡くなった愛娘のためにシアヌーク殿下が建てた華麗なお墓、絢爛豪華な宮廷生活の一端がうかがえます。修学旅行なのか、地方の学生もたくさん来ていました。資料館のような建物に100年位前の写真がありましたが、現在のカンボジア人が小柄できゃしゃな体格なのに対し、古代クメール人の直系とされる人は、胸板が厚く筋骨隆々としています。北の密林に住む、今は未開の部族こそがその末裔なようです。現在のカンボジア人は、色々と混血してアンコールの時代とは変わってきたわけです。
 さてこの王宮で素晴らしい木を見ました。有名な平家物語の出だし、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必滅の理を現わす。おごれる者も久しからず~」 あの沙羅双樹の木です。摩訶不思議、大木の一面をツタが這うように、まるで木が花衣をまとったように、鮮やかなピンクの花が咲きほこり、実がなっています。
 沙羅双樹の花を見ただけでも、旅に出た甲斐がありました。この旅行では、植物で2度衝撃を受けました。タ・プロムのスポアン(榕樹)と、王宮に咲く沙羅双樹です。


・学校・田植え・スカーフ・ガイド君の恋
 * カンボジアの小学校は2部制、午前の部と午後の部に分かれています。子供達はたくさんいるんですが、校舎も先生も不足しているのです。子供が貴重な労働力なので、田植えの季節には一週間休みます。小中学校の授業料はただですが、高校以上に進む生徒は少ないそうです。
 * 大灌漑池を作ったアンコール時代は二期作でしたが、現在は一期作で乾季には、スイカやとうもろこしを作っています。トンレサップ湖周辺では、二期作が出来るそうですが、内一回は3ヶ月、50cm位で収穫する安い米だそうです。
 * 26年前はカンボジア難民もソン・サン派の兵士も、男はみんな白と赤のだんだら模様の、大きな木綿のスカーフをしていました。首に巻いたり、頭からターバン風に被ったり、昼寝のときは体にかけて、それぞれ巻き方に工夫を凝らしていました。そのイメージがあったので、今回初日にスカーフを買って日除けにしようと思っていたのですが、全く見当たりません。ついにカンボジアにいた4日間一度も見ませんでした。ポル・ポトの兵士が、黒服にゴムサンダル、手には中国製のAK47、首には赤白スカーフというイメージが強烈だったせいでしょうか? 何故無くなったのか、とても不思議だったのですが、聞きづらいな、と思っている内に聞き漏らしてしまいました。
 * ガイドのソトム君は23歳。なかなかのハンサムボーイで、レストランのウェイトレスを笑わせたりして如才がない。ガイドさんは、車との連絡があるからみんな携帯を持っています。ある遺跡で、ソトム君に掛かってきた電話がなかなか終わらない。ソトム君ちょっと距離を置いたりして、ハハーン、女の子からだな。
「彼女から?」と聞いたら、ギョッとして、「え、分かります?」「見え見えじゃん」彼まじめな顔をして、実はと話し始めました。1つ年上の、元自分の日本語学校の先生と付き合っているんだけど、「先生に恋をするのは、カンボジアではいけないことです。どう思いますか?」
 おじさん達は、この手の話しには極めて寛大なので、「いいんじゃない。2人とも大人なんだから。」ちなみにガイドさんの月収は80ドル位で、この国では高給です。頑張れ、ソトム。



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