旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

鄭和の南海大遠征

2016年01月20日 19時11分08秒 | エッセイ
鄭和の南海大遠征

 欧州の大航海時代に先立つこと百年、アジア人がジャンク船の大船団を連ねて西に向かい、マラッカ海峡を越えてベトナム、タイ、インド、セイロン、モルディブ、アラビア半島、アフリカ東海岸へ達した。この大航海は明の永楽帝が企画し、ムスリムの宦官、鄭和が提督となり都合七回に渡って行われた。
明の征旗、龍の旗を翻した大船団が波を蹴立ててインド洋、アラビア海を西に向かう様を思い描くと胸が熱くなる。
 なーに、中国嫌い?ケチくさいこと言うなよ。国は嫌いでも中国のお人を、十把一絡げにして嫌ってはいけない。中国人とひとくくりにするんじゃなくて、張xxさん、王xさん、余xx氏として付き合わなくちゃ。
 中国が南沙列島を占拠して滑走路を造り、不沈空母とほざいても怖れるには足らない。不沈空母がいかに脆いかは歴史が証明している。太平洋戦争で日本軍の不沈空母だったトラック、サイパン、硫黄島の航空戦力は一撃でやられた。不沈空母は移動が出来ない。確かに滑走路を穴だらけにされても、補修して再利用することは出来るが、補給が途絶えたらお仕舞いだ。制空権を失った守備隊は洞窟か地下に潜るしかない。ガソリンが尽きれば飛行機は飛ばない。たえずメンテナンスをしないと戦闘機は稼働しないが、部品が無ければスクラップ同然だ。
 唯一不沈空母としての役割を全うしたのは、地中海に浮かぶマルタ島の戦いだろうか。ロンメル元帥率いるアフリカ軍団への補給路を邪魔するマルタ島の航空戦力は、ドイツ軍にとって目の上のタンコブだった。ドイツ空軍の猛攻を必死に凌いできたマルタ島戦闘機隊も、ついにガソリンが尽きようとしていた。マルタが陥落すればアフリカを失う。アフリカを失えば、次はイランの油田を失う。この油田がドイツに奪われたら、大戦はがぜんドイツの有利になる。英軍は決死の覚悟で補給船団をマルタに送るが、ドイツ軍の猛爆撃で輸送船は次々に沈められた。しかしついに満身創痍の小型タンカーと数隻の輸送船がかろうじてマルタにたどり着く。これで息を吹き返したマルタ島戦闘機隊は島を守り抜く。
 さてどうしてこう話しが飛んでいくんだろう。ところで、ムスリム(イスラム教徒)の宦官って何?宦官とは、おチンチンをぶった切られた人。後宮、ハレムを守るのに間違いがあってはいけないので採用された制度で、中国だけでなくイスラム王朝でも用いられた。朝鮮王朝でも採用されたが、倭国(日本)には入ってこなかった。良かったね。
 宦官は子を仕込むことが出来ないから、基本的に(養子が取れた時代もあった。)一代で終わる。守るべき子孫も家名も無ければ、欲を持つことも無いだろうと思うが、さにあらず。断ち切られた欲望はいびつにゆがんで、ドロドロと増殖する。しかし彼らがいくら権力を手にしても皇帝にはなれない。特に明朝は宦官が活躍した時代だ。理由は後で述べる。後宮の管理に留まらず、皇帝の秘書官として司法、行政、警察を握り、軍司令官としても働いた。歴代の中華王朝は、宦官と外戚(皇后や妾の親族)の横暴に交互に苦しめられてきたのに、最後まで懲りない。仲間、兄弟、部下、先代の行政官を皆殺しにするから、ごく近くの取り巻きしか信用出来なくなるのかね。
 映画『ラスト・エンペラー』で出てくるでしょう。清朝最後の日、キンキン声の宦官数千人が紫禁城から叩きだされ、泣きながら右往左往する。印象的なシーンだよな。だが全ての宦官が髭のないつるんとした顔をして、甲高い声を発していると思ったら大間違いだ。名著『史記』を記した司馬遷は、対匈奴戦で敗北して降伏した李陵を庇い、武帝を批判して宮刑(男性器切除。腐刑とも言う。)に遇って宦官にされた。人の心を打つ『史記』は、死よりもつらい屈辱を与えられた司馬遷が、渾身の男気を振るって書き上げた歴史書だ。
 宮刑は敵方の捕虜に対して適用されることもあった。オスマン帝国では、キリスト教徒のすぐれた少年を数年に一度選び出し、イスラム教に改宗させて英才教育を施す。少数の少年は高級官僚となり、大半は皇帝の親衛隊イェニチェリとなる。死を恐れず残虐に戦うイェニチェリ軍団はヨーロッパを震え上がらせた。彼らが振るう半月刀と軍楽隊のタイコの音は、血の雨と破壊を呼び寄せる。イェニチェリは一代限り、世襲は出来ないのでこの世に未練は薄い。それでもイェニチェリはおチンチンを持っている。彼らは宦官ではなかった。鄭和と環境が似ている所があるが、違う。
 大船団を率いた鄭和が、何故宦官になったのかはよく分からない。彼の本名は馬和、「鄭」姓は戦場に於ける功績を称え、永楽帝が与えたものだ。馬はムハンマド(マホメット)の音をとった姓で、中国に移住した多くのイスラム教徒が名乗るありふれた姓であった。鄭和は雲南省に生まれた色目人(外国人)で、モンゴル帝国の崩壊に伴って明軍に捕えられ、12-3歳で去勢され宦官にされた。彼自身はモンゴル系ではなさそうだが、モンゴルに使われていた異国人という事で、雲南省を占領した明軍の将軍の勇み足で少年なのに宦官にされてしまったらしい。
 明国の創業者、洪武帝は猜疑心が強く三次に渡って部下の陰謀を指摘し、その都度1万5千人づつを処刑した。その結果国の功臣は根絶やしとなり、優れた将軍はいなくなった。洪武帝が世を去り皇太孫が即位したが、叔父である諸王の排除に乗り出した。その危機感から叔父の最有力者である燕王は反逆し、三年の戦いの後に皇帝位を奪った。43歳の燕王は第三代の皇帝、永楽帝となり前皇帝を支持した官僚達を、一族もろとも殺害した。鄭和はこの内戦「靖難の変」で軍司令官として活躍した。永楽帝の即位によって明帝国の基盤はようやく治まったが、彼は官僚にも一族にも頼ることが出来ない為、自らの側近で忠実な宦官を最大限利用して、独裁体制を敷かざるを得なかった。
 永楽帝はやたらと中華思想にこだわり、形式的な傾向があるが、王位を簒奪した後ろめたさがあったように思われる。永楽帝の大中華主義に基づく遠征は、鄭和の南海遠征だけでは無かった。自らは即位後間もなく80万の大軍を率いて安南(べトナム)を征服した。そして宦官の李興をシャムへ、李達を西域諸国へ、侯顕をチベット、ネパール、後にはベンガルへ繰り返し派遣した。アムール、サハリン(樺太)へは宦官イシハが二度派遣され、アイヌの人達に朝貢を促した。
 日本にも使節が派遣され、足利義満には「日本国王之印」が与えられた。この金印は残っていない。明は義満に、当時帝国を悩ませていた倭寇の取り締まりを依頼し、義満はそれを了承して勘合貿易を始めた。権力基盤の弱い室町政府でも、海賊取り締まり令は多少の効果はあったらしい。
 14-5世紀、中世の海は、マラッカより西はイスラム商人のダウ船、東は中国商人のジャンク船によって盛んに交易が行われていた。何しろ羅針盤は中国では11世紀の文献に出てくる。しかし中国、朝鮮は日本の海賊、倭寇に苦しめられていた。明は対倭寇対策として度々海禁策を採り、時には沿岸から内陸へ100km?離れろ、という乱暴な策を出した。しかし民間の貿易が止む事はなかった。いつの時代にも冒険心に富む連中はいる。何しろ船は、ラクダの背に載せるよりも遥かに多くの荷物を一度に運べる。鄭和の遠征に先だって、永楽帝は海禁策を出しているが、海外には漢族の民間貿易商人がすでに沢山いて、鄭和は彼らと提携したり討伐したりしている。必ずしも一律に禁じている訳ではない。
 中華思想に基づく朝貢とは実に馬鹿らしいもので、世界の中心の天子さまに地の果ての未開国が貢物を持って挨拶に参りました。よろしい、愛い奴じゃ。土産を取らそう、という事で持参した品より何倍、十何倍の価値のある下賜品を渡す。自己満足だけの、朝貢国と量が増えれば増えるほど持ち出し、財政を圧迫するものだった。しかし鄭和の大遠征の目的は、この朝貢国を増やし帝国の国位を上げることだった。この事が鄭和以降に遠征が行われなくなる原因となった。対等かちょっと持ち出し、くらいに止めておけば貿易で利益が上がったのに。
 さて次に七回の遠征の内容を簡単に記してみよう。
第一次航海:1405年7月出発。鄭和34歳。1407年9月帰国。蘇州よりチャンパ王国(ベトナム南部)→スラバヤ(ジャワ島)→パレンバン→マラッカ→アル→サムドラ・パサイ王国→セイロン→カリカット(インド北西部)
第二次航海:1407年末出発。鄭和36歳。1409年夏帰国。第一次に加えてアユタヤ(タイ)、マジャパヒト王国(ジャワ)訪問。セイロン(スリランカ)に漢文・タミル語・ペルシャ語の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている。ここでペルシャ語。ダウ船のイスラム商人はペルシャ人が多かったのか。それとも鄭和はペルシャ人だったのか?
第三次航海:1409 年末出発。鄭和38歳。1411年7月帰国。航路は前回、前々回とほぼ同じ。
第四次航海:1413年の冬出発。鄭和44歳。1415年7月帰国。カリカットへ至るまではこれまでとほぼ同じ航路を採るが、今回は更に西進してペルシャ湾のホルムズ王国に至る。分遣隊はアデン(現イエメン)に至る。
第五次航海:1417年冬出発。鄭和46歳。1419年8月帰国。本隊はセイロンからホルムズに到着。分隊はモルディブ、アデンを経由してアフリカ大陸東岸に到達。ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを連れ帰った。
第六次航海:1421年2月出発。鄭和50歳。帰国は1422年8月。それまでとは異なり、朝貢にやってきていた各国の使節を送るためのものであった。サマトラで分遣隊を出し、本隊は撤収。分遣隊は1423年にアデンに至った。
第七次航海:永楽帝の死後に孫の宣徳帝の命令による。1413年12月出発。鄭和60歳。1433年7月帰国。ホルムズに至る。分遣隊は東アフリカ、南アラビアの諸港を巡りメッカに至った。
 鄭和は帰国後ほどなくして死去。詳しい最期は分かっていない。航海の帰途インドのカリカットで亡くなったともいう。もしそうだとすると鄭和の死の65年後に、ヴァスコ・ダ・ガマの率いるポルトガル船団が喜望峰を巡ってカリカットに到着したから、アジアの大航海時代とヨーロッパの大航海時代が劇的に入れ替わったことになる。
 鄭和の死後明は再び鎖国的になり、国家主導の航海は二度と行われなかった。一番の原因は財政難である。北京遷都が行われた。また明は北方に逃れたモンゴルとの戦闘に国力を割かれた。現在残っている万里の長城は、そのほとんどが明代に造られたものだ。モンゴル残党との戦争は激しく、一度は皇帝が捕虜になっている。一回だけもう一度大航海をやろうか、という話しになったのだが、結局取り止めになってしまった。
 大航海の貴重な詳細な莫大な資料は、後の役人がこっそりと燃やしてしまった。二度と航海を行う事が無いように、という理由からだ。愛国心からだと言うのだろうが、燃やしたドブネズミのような役人は呪われろ。現在残っている断片的な資料は、航海に1-2回参加した文官達が私的に残したものに過ぎない。
 鄭和は身長180cm、立派な体格をした偉丈夫であったと云う。彼は宦官の最高位、太監であったので、彼の別名をつけて三保太監・三宝太監と呼ばれ、寄港した各地での評判は高くジャワ・スマトラ・タイでは三宝廟が建立された。また鄭和艦隊は第一回からマラッカを根拠地と重視したため、マラッカ王国は中国艦隊の来航が途絶えた後も、東西貿易の中継港として繁栄を極めた。
 さて鄭和の艦隊はどのような陣営だったのか?乗組員数はほぼ一定していた。第一回27,800余人、第三回27,000余人、第七回27,550人。内訳は宦官指揮官、外交官、交易の官僚、操船、軍事、儀仗の他、通訳、書記、航海士、操舵手、鍛冶工、船大工、水夫等々。外交、交易、戦闘のいずれにも直ぐに対応出来る。天体・天候の専門家として「陰陽士」が乗り、医官・医士が180名と通常に比べて格段に多い。乗組員150人に一人の割合だ。
 木造船だが、艦隊の中心は大型船60余隻、周囲に100隻を超える小船を配し、全体では200余隻の艦隊であったらしい。第一次遠征に208隻という資料が残っている。艦隊の中核となった巨艦は「宝船」と呼ばれる。少なくとも4-500人、場合によっては1,000人に近い乗組員が乗り込んだと推測される。最大の宝船は長さ約151.8m、幅約61.6m。中くらいの宝船は長さ約126.5m、幅約51.3m。積載重量は約2,500トン、排水量は約3,100トンと推定される。一説では8,000トンともいう。幅広な船だ。戦闘向きではないな、遅いだろうし。これを東郷元帥の旗艦、戦艦「三笠」と比べてみよう。排水量は15,140トン、乗員は860人、全長131.7m、全幅23.2mである。
 補助艦は、入り江や川を遡って淡水を採って艦隊に補給する「水船」、糧食を扱う「糧船」、「戦闘艦」大・小、動物を専門に輸送する「馬船」、浅い湾などで沖に停泊した大型船から人や荷物を移送する快速船等があったものと思われる。27,000人の食料は一日で約70トンを消費する。水もまた相当な量だろう。
 乗組員の数に関して、124年前の「元寇」と比較してみよう。文永の役(1274年)兵数25,000、船数900、各船の平均人数は28人。弘安の役(1281年)東路軍:兵数4万、船900、平均44人。江南軍:兵10万、船3,500、平均29人である。元のジャワ遠征時は船500、軍士2万。別の伝承では船1,000、兵2万。日本は距離的に近かったから小型船を用いた、という訳ではないようだ。100年で造船技術は飛躍的に向上したらしい。
 ちなみに元朝にとって「元寇」の失敗はどうだったのか。えっどこが失敗?結果は上々、万々歳だ。滅したとはいえ、南宋の残党は数が多い。特に水軍の力はあなどれない脅威だ。海に逃げられたら手に負えない。それが海に沈んで良かった。安心した。もしうまくいって日本を占領出来れば、それでも良い。どっちに転んでも構わない。気の毒なのは朝鮮だ。数千の軍船の建造を割り当てられ、古木名木を根こそぎ切り倒してしまった。朝鮮には樹齢千年を超える古木が残っていない。でもこれは日本のせいではないよ。
 鄭和の第七次遠征の約60年後に行われた、コロンブスの第一回航海(1492年)と比較してみよう。3隻の艦船、120人の乗組員である。旗艦サンタ・マリア号は200~250トンに過ぎない。ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は4隻、170人。旗艦サン・ガブリエル号は120トンしかない。マゼランの航海は5隻、265人だ。船員達は壊血病でバタバタと死んでいった。ガマの乗組員の内100人が壊血病で死んだ。ビタミンCの不足による航海での病死の問題は、19世紀に至るまで解決せず欧州の船乗りを苦しめた。ところが鄭和の艦隊は大丈夫だった。何と船内でモヤシを栽培していた!モヤシ船があったのか、各船で行っていたのか、今となっては分からない。
 マゼランは世界一周航海の途中、フィリピンで土民間の抗争に巻き込まれて戦士した。1521年のことだ。鄭和はどうだったのか。第一次の航海で二番目の寄港地ジャワで、王位を争う戦いに巻き込まれ170名の兵士を失った。波乱の幕開けだな。この時は攻撃した王からの謝罪を受け入れ、黄金一万両の賠償金を取った。
 スマトラ島バレンバンでは、対立する華僑の一方から攻撃を受けたが迎え撃ち、10隻の敵船を焼き5,000人を殺害、7隻の艦船と三人の頭目を生け捕った。第三次の航海では帰路、セイロンで王の騙し討ちに遇った。セイロン王は5万人の軍隊を動員して艦隊を攻撃したが、鄭和は招待を受け上陸していた2,000人を率いて、間道から王宮に攻め込み王とその一族を捕えた。戻ってきた主力軍と激戦を繰り返し、無事艦隊の停泊地に戻った。捕虜としたセイロン王は明帝国に連行した。鄭和艦隊の2万7千人は大人数に見えるが、兵士は一部だけで過半は船乗りだった。宝船の操作(舵、錨、主帆)には100~200人の力を要したという。航海を続けるためには千人単位の人的損害は命取りになる。本来この艦隊は戦闘を目的としていない。
 そうしてみると鄭和がいかに優れた指揮者であったかがよく分かる。七次に渡る航海の間、大きな海難、部下の反乱、疫病の蔓延に遇っていない。並みのリーダーではなかった。七回目、最後の航海で60歳になっていても代わりがいなかったのもうなずける。また鄭和がムスリムであったことは大きなメリットだった。何しろマラッカから西の海は、イスラムの船乗りの助けが必要不可欠なのだから。
 鄭和艦隊の航海には、宋代以降改良が続けられてきた航海技術が駆使された。主に羅針盤を利用して進路を定めたが、マラッカまでは特色ある沿海の景観観測、重りを付けた縄を用いて深度を測り、海底の泥を採取し泥の特徴から船の位置を確認する。船が揺れても方位を誤らないように、磁石を埋め込んだ木片を水盤に浮かべ磁極を測る。鄭和の持つ羅針盤は48の方位に分割されていた。マラッカ海峡を越えてインド洋に出ると、そこはムスリムの船乗りが活躍する「ダウ船の海」だ。北辰星や灯籠星(南十字星)黄蓋星、織女星といった天体観測によって緯度の測定を行う。15世紀のインド洋の星空は美しかっただろうな。勇壮だなあ。この大遠征には夢がある。ロマンがある。未知の世界との出会いがある。
 信頼出来る部下、高潔で決断力のある指揮官、各々が自分の職分を果たしつつ乗組員はワクワクするような高揚感があったのではないかな。母国の国威を高め、見たこともない動植物を目にし、港港で異国の人々に出会う。葡萄酒を飲みココヤシを味わうのは楽しかったことだろう。参加した乗組員は誇らしかったことだろう。鄭和の遠征で明にもたらされた財宝は山のようにあるが、珍品としては乳香や竜涎香(マッコウクジラの内分泌物)、海ツバメの巣(高級食材)。動物ではライオン、ヒョウ、アラブ馬、キリン、シマウマ、ラクダ、ダチョウ。「馬船」にエサを山ほど積み込んで動物を乗せ連れ帰った。
 アラブ種の馬は交配が出来なかったのかな。中国人はキリンやダチョウを見てびっくりしただろう。江戸の民衆が象を見て喜んだのと同じだ。情報の少ない時代だからキリンを見た人は孫にまで語り継いだことだろう。
 永楽帝もキリンを見て大変喜んだ。伝説の神獣、麒麟とソマリ語の音が似ていたのだ。これはめでたい。余の治世に麒麟が現れるとは。この永楽帝という人は冒険好きだったに違いない。鄭和の探検談をわくわくしながら聞いていたんだろうな。早く早く、二次三次の遠征はせかすように秋に帰ってきて冬に出発だ。鄭和が遠征に出て戻るまでの二年間、永楽帝は帰国が待ち遠しかったことだろう。今度はどんな冒険談が聞けるのか。どこの国の使節を同伴しているのだろう。少年のような王様だな。このスポンサーがいなければ大遠征は無かった。海など見たことの無い雲南省で生まれた鄭和にとって、幸せなことだったかどうかは分からないが、2万7千人、200隻の大船団を率い龍の旗を翻して西を目指す。男が奮い立たない訳はない。
 世界史の教科書では一行、二行の記述に過ぎない鄭和の南海大遠征、少しはお楽しみいただけましたかな。そうそう、今でもマダガスカル島の東海岸を歩くと、陶磁器のかけらが落ちていることがあると云う。

次回は大阪夏の陣ー毛利勝永、といきまっせ。
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貧乏飯

2016年01月17日 08時54分27秒 | エッセイ
貧乏飯

 工夫次第で、貧乏飯もまた楽しからずや。高卒の新人で東北出身の若者は、就職して最初の一年で200万円の貯金を作った。えらいもんだ。寮費(光熱費込)は月5-6万。食費を一日千円予定していたら、200万はてんで溜まらない。
 中学生かい、と思われる小柄な体格だったから食べる量は少ない。この若者が、友達(こちらも小柄)と二人で休みの日に横浜の中華街に行ったというから、「何食べた?」と聞くと「中華饅頭」と答える。350円程度の大きめの中華饅一ヶで腹が満ちるとは効率がよい。彼は朝早く起きて、電車で3駅位を歩いて交通費を浮かし、ペットボトルに水道水を入れて飲んでいた。
 彼には、イカ釣り漁船を買うという明確な目標があったから頑張れたんだろう。ところが二年目になると、周りに感化されてパチンコ、風俗を覚えバイクを買った。それでも一度貯めた200万円はそう一気には無くならなかったようだ。もう一年いたらどうだったかな。3年目の途中で転職していった。
 自分もそこそこ稼いでいた勤め人の頃は、昼食に千円出しても惜しいとは思わなかった。六本木に通勤していた時は、昼食代で千円は出さないとまともな飯は食えなかった。安い定食屋とかが無いんだ。あっても遠い。昼休みは短い。他のサラリーマン時代の昼食はたいてい700~750円位が平均値で、800~850円では高いな、と感じる。まあ残業をして夜遅くなっても、基本的に家で晩飯を食っていたので一日一食、週5日、月に20数回の話しだ。
 今のように24時間30時間勤務となると、昼・夜・朝(+昼)と食事の回数が1度で3-4回になる。その度に700円かけたら破産だ。まあ朝は菓子パンとインスタントコーヒーで済ませれば百円。昼はカップ緬とパン1ヶなら安上がりだが、健康にはよろしくない。たまには良いが毎回はいかん。100円の冷凍食品(パスタ、ピラフ、緬類)を二つ、という手もあるが炭水化物+炭水化物にゃ違いない。健康診断で保険のお姉さんが言っていた。どうしても必要なら夜食でもおやつでも、カップ緬は止めておにぎりにしなさい、おにぎり。
 おにぎりの弱点はね、日持ちしないことなんだな。限られた休憩時間に直ぐに買いに行けないじゃんか。あとやっぱ高い。俺はおにぎりだけだと4つは食わないと駄目、3つではどうしてももの足りない。そうすると500円か、高いな。レトルトご飯とカレーなら200円。ただこれだけでは量が足りない。レトルトのご飯は5パックで406円、直ぐに無くなる。
 このレンジでチンのご飯と何を組み合わせるかがミソだ。以前の勤務地では割りと近くに魚屋があった。そこで売っている色々な焼き魚(1片or1匹、150-350円)を買うのは楽しみだったが、今は無い。あそこは古本屋が2軒あって50円の文庫本をまとめてよく買ったもんだ。今の所はスーパーが3軒(中型x1,小型x2)弁当屋が1軒、飯屋は500円のハンバーグ定食(焼き肉屋さん)と中華600円定食(質量満足)、それと遠くなるがスキ屋。後は高い。弁当屋は基本高いので使わないが、各種おかずを盛ってハカリ売りのシステムはたまに使う。しかしちょっと盛ると350円、もうちょっとで450円、安くはない。
 冷凍食品(100-160円のギョーザ、シューマイ、チキン、ポテト等)や缶詰、106円ハンバーグ、39or54円の豆腐(やっぱり絹ごし、醤油とチューブ入りの生姜が宜し)、100円の冷凍野菜や生野菜、枝豆。野菜はドレッシングをかけて食う。でも昨今のMyトレンドはもやしだ。19-25円のパックを買って洗いレンジで3分チン。カレー(缶詰orレトルト)があればそこにぶち込む。もやしにドレッシングは今一合わない。白だしを買った。なかなか良い。
 後は小物、ふりかけ、ビン入りナメコ、小袋入りの味噌汁。飲み物は水の他に、インスタントコーヒー、紅茶のティーパック(100円で25パック入り)、お茶(寿司屋で出る粉茶)を用意してある。
 本当に貧乏飯だよな。でも色々と工夫して安くてうまい組み合わせを探すのは癖になる。若い頃、印度や亜細亜諸国を旅して、毎日の宿代と食費をいかに切り詰めようか工夫していた事を思い出す。何にでも楽しみはあるものだ。

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マイナーな宗教

2016年01月10日 16時22分03秒 | エッセイ
マイナーな宗教

 宗教の世界で時代によって分裂したり、新しい宗派が生まれたりすることはよくある。キリスト教はカトリックからプロテスタント、イギリス教会が生まれ、近年ではモルモン教、ものみの塔といった新興宗派が出ている。カトリック自体が原始キリスト教の精神とはかけ離れて、権力者の政治統治に迎合したものとなった。近代以降は政教分離が進んだが。他にロシア正教、ギリシャ正教、アルメニア正教、エチオピア正教、エジプトのコプト教徒などがいる。キリスト教会自体から迫害を受けた宗派は数知れない。
 仏教がお釈迦様の思想からすれば、考えられない奇奇怪怪な変化を遂げたのは、日本人なら分かるだろう。原始仏教に近いと思われる上座部仏教でも、いくつかの派がありミャンマーでは「森の人」という異端の宗派が流行った歴史がある。
 イスラム教もずい分色々ある。スンニ派、シーア派の話しではない。トルコに行けばメヴレヴィー教団が、両手を伸ばしてぐるぐると何時間でも旋回している。アレウィー派(シーア派に近い。信者の大半はクルド系の人)といって、多数派のスンニ派から極端な迫害を受けている人達がいる。
 さてこれで三大宗教は終わった。次に大きいのはヒンドュー(ユではなく小さいウにしたいが出来ない。)教か。これもビシュヌ派、シヴァ派があるな、詳しくは知らないが。五番目はユダヤ教?どっこい、シーク(シク)教でした。ターバン巻いたインド人。あのターバンの中にはとぐろを巻いた長髪がぐるぐる巻きに入っているって知ってた?シークは髪とひげを切らない、剃らない。女性もみんな長髪だ。
 約3,000万人の信者って、そんなに少なかったの、意外だ。13億弱の人口を持つインドでシェア1.7%だ。電卓を叩いて、違ってるやんけ、とは言わないこと。海外に住むシーク教徒を入れて3,000万人だ。神戸にはシーク教寺院がある。印僑の中でシーク教徒の占める割合は、信者数に比して高いはずだ。ちなみにインドの宗教分布はこうなっている。ヒンドュー79.8%,イスラム14.2%,キリスト教2.3%,シク1.7%,仏教0.7%,ジャイナ教0.4%。仏教が生き残っているのね。でもこの中にはインドに住むビルマ族が多いのかな。最近ベンガル人を中心に急激に増えているのがイスラム教だ。見るからに濃いいベンガリアンにガネーシャの置物をプレゼントしてはいけない。
 さてシーク教徒、あんなに目立つしよく宗教紛争の対象になるのにね。だってターバン巻いたインド人って、ターバン巻いて長いひげをはやしているのはシークだけだよ。シーク教徒は何故なのかは知らないが、背が高くて体格が良い人が多い。軍人やタクシー運転手、銀行やホテルの守衛などが多い。シンガポールやビルマ戦線で日本軍と戦った英印軍の中にもシーク教徒は多かった。
 シーク教は16世紀にグル・ナーナクによって作られた新しい宗教だ。輪廻転生を肯定し、カーストを完全否定している。神は一つだとして唯一神を標榜する。宗教は違えど目指す神は一緒だとして、原則として他宗教への攻撃はしない。イスラム教のジハード(努力。元々はこの意味。今は聖戦と訳されるけどね。)もヒンドュー教の苦行も、キリスト教・仏教の出家も否定する。世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじる。酒・タバコ・麻薬は禁止。離婚は好ましくはないが、やむを得ない場合は仕方がない。同性愛を受け入れはしないが、差別はしない。
 おお、公平で合理的、オープンマインドな宗教だこと。シーク教のベースとしてはヒンドューよりイスラム色、特に神秘派の影響が強いが。イスラム教との直接の繋がりは全く無い。別の宗教だ。よくインドでシーク教の寺院が多数派のヒンドュー教徒に焼き打ちされたりする。シーク教徒が勤勉で金持ちが多いのが原因か?ねたみ?そう言えば中東のドバイとかでもよくシーク教徒を見かけた。大富豪としてではなく、出稼ぎ労働者としてだ。出稼ぎ主流のインド人やバングラデシュ人より、教育水準が高くて勤勉なんだろうね。あくまでも一般論だから、怒らないでねインド人。
 或いは植民地主義の悪しき遺産なのかもしれない。分割統治という奴だ。イギリスが得意とした手だ。多数派のビルマ族を支配するのに、キリスト教徒が多いカレン族を優遇し、フランスはカンボジアとラオスを間接統治するのにベトナム人を使った。シーク教徒もそうだったんだ。権力者の犬、うらみは百年続く。だいたいインド人は未だに英国人に対して卑屈な態度を取りがちだ。こういうのは人の習性で染み付いているから三世代位たたないとなかなか抜けない。子供は親を見て育つからね。後で述べるパールシー教徒に関しても、イギリスは中間層として優遇した(利用した)。肌の色が白くてアーリア系の顔立ちをしていたせいだろう。シーク教についてはこれくらいにしておく。

 次はジャイナ(ジナ)教。この宗教は古いよ。開祖はお釈迦様と同年代、本名は「ヴァルダマーナ」尊称は「マハーヴィーラ」。唯一神とか吠える宗教ではなく、彼は釈迦と同じように思想家だった。真理は多様に言い表せる、と説いた。一方的判断を避けて「相対的に考察」すること。「これである。」「これではない。」という断定的な表現をさけ、常に「ある点からすると、」という限定を付すべきだとする。いいね!これは良い。ジャイナ教万歳。「絶対」とか「唯一」とか叫ぶ奴は阿呆だ。
 ジャイナ教は、徹底した苦行と禁欲主義をもって知られる。極端な不殺生と、球根すら出来るだけ食さない菜食主義。空中を飛ぶ小さな虫を吸い込まないように口を布で覆い、歩いて虫を踏まないようにホーキを持って地面を掃きながら歩く、と言われる。それは嘘のようだ。ホーキは座る時に地面を掃くらしい。こうなると漁業・牧畜・林業等は出来ず軍人にはなれない。農業すら難しい。したがってジャイナ教徒は商工業に従事する人が多い。商才に長けたジャイナ商人として定評がある。彼らにとって最高の死は、引き続いて行われる断食による餓死だ。マハーヴィーラもそうして死を迎えた。
 ジャイナ教は仏教と違ってインド国内でしか広まらなかったが、有名なアジャンタの遺跡も仏教だけでなくジャイナ教の寺院跡が残っている。現在の信者数は450万人。インドの全人口の0.4%未満だが、日本では神戸市中央区にジャイナ教寺院があるそうだ。僧侶の全てではないが、無所有の教えを守るために裸行を通す派もある。ジャイナ教徒の結束はきわめて固く、婚姻も多くはジャイナ教徒だけで行われている。

 次はパールシー。ササン朝の滅亡を機にイラン(ペルシャ)のゾロアスター教徒の一部は、インドのグジャラート地方に海路退避した(西暦936年。一説では716年)。今では本国イラン(信者数3~6万人)よりもインドのゾロアスター教徒の方が人数が多い。パールシーとはペルシャの意味だ。ゾロアスター(ザラスシュトラ)は紀元前1,600~1,000年頃に生きた人。善悪二元論を唱え光明の神アフラ・マズダを信仰し、光(善)の象徴として純粋な「火」を尊ぶため、拝火教とも呼ばれる。遺体を鳥に食べさせる鳥葬(ないし風葬)を行う。聖典は『アヴェスター』。ちゃんと邦訳がちくま書房から出版されている。えらいもんだ。古代ペルシャ語の分厚い本を訳した先生も出版社も、いったい何人の日本人が『アヴェスター』を読むと思ったことだろう。拾い読みを試みた事があるが、内容が抽象的、象徴的過ぎてさっぱり分からなかった。あれを読み通した人、手を挙げて。あんたはえらい。
 パールシー達がグジャラートに入った時に、ヒンドュー教徒のマハラジャと次のようなやりとりがあったと伝えられている。
マハラジャが言う。「もうあなた方の住む場所は残っていない。」パールシーの長老は、杯に並々と入れたミルクと砂糖を持ってきてもらう。長老は溢れそうなミルクにゆっくり砂糖を入れ慎重にかき回す。「王さま、このようにミルクで一杯になった杯にも砂糖は溶けます。砂糖を入れてもミルクはこぼれません。私達もこの国に住み、この国を甘くしてみせます。」この答えに感じ入ったマハラジャはパールシーを受け入れた。但しこのマハラジャは頭がよい。父方の子孫はパールシーだと認めるが、母方は認めないことを条件とした。つまり娘が異教徒と結婚したら、パールシーであることを止めなければならないのだ。この方法では、増えて行くことは至難の技となる。
 2010年現在、6万人強のパールシーがインド国内にいるとされているが、数は減少傾向にある。現在もパールシーはグジャラートのマハラジャとの約束を律儀に守っているため、女性が異教徒と結婚したら信仰は捨てなければならない。パールシーは教育水準と財産保有率が高いため、少子化が進んでいることも原因になっている。
 パールシーは特に東インド会社と結びつき、ほとんどのパールシーはムンバイ(旧ボンベイ)に移住した。彼らは主に貿易によって財力をつけ、強い経済力と支配的な地位や人々の上に立つためのノウハウを身につけた。インドの二大財閥のひとつ、タタはパールシーである。ムンバイの寺院には、イランから運ばれてきたザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が、消えることなく燃え続けている(はずだ。異教徒は寺院に入れない。)郊外には鳥葬用のサイレントタワー(沈黙の塔)があるが、都市化が進み遺体の死肉を食べるハゲワシが減少して困っているそうだ。

 さて国際都市、唐の長安には様々な異国人があふれていた。酒場では金髪、碧眼のスレンダー美女がテンポの速い胡旋舞を舞う。酒は硝子の杯に入れた葡萄酒だ。唐代三夷教とは、景教:キリスト教ネストリウス派、祆教:ゾロアスター教、明教:マニ教のことだが、長安にはそれぞれの教会・寺院が複数建てられていた。
 マニ教は興味深い。開祖マニはササン朝ペルシャの人(西暦216-276,or277)。ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義等の流れを汲む。経典はマニ本人が記したが、現在ではほとんど散逸している。かつては北アフリカ、イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教で、キリスト教が国教化される以前のローマ帝国全域にマニ教信者が増加し、原始キリスト教と並ぶ大勢力となった。信者は白い衣服を身につけ五感を抑制することを目指す。一日一食の菜食主義で、週に一度の断食といった禁欲的な宗教であった。
 中国において摩尼教(明教)は仏教や道教の一派として流布され、宋代には取り締まりを受けたが、宗教に寛容な元朝において復興した。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明朝の国号は「明教」に由来するものだと言われている。へー、自分で書いてへー、だな。「光明の父」「光明の母」「光の王国」、〝明〟教とはその教義に由来する。
 過去にあれだけ普及したのに現在では消滅した宗教と見なされていたが、中国の福建省においてマニ教寺院の現存が確認された。福建省、台湾と隣り合った沿岸の省だ。何やら南海大遠征を行った色目人、鄭和を思い起こさせる。鄭和はイスラム教徒だが。この寺院、文化大革命で紅衛兵にボロカスに壊されたけれど、何とか残っています。信者もいて、毎年マニの誕生祭を行っているそうだ。ちなみにマニ教の教義は、世界は光の王国(善)と闇の王国(悪)が対立していて、今は闇の勢力が支配していて人間の肉体も闇によって構成されているが、肉体には「光の破片」も残されている。智慧によって光の部分を自覚し、戒律を守り厳しい修行にすることによって光の部分を太陽に戻す努力をし、来るべき闇と光の最終戦争に備えよ、というものである。これでは時の権力者によって弾圧を受けるのも分かる。マニ教は各宗教のエッセンスを採ったような所から、他宗の信者への浸透は図り易かったが、独自性が保てなかったのかな。教義はドラゴンクエストみたいで恰好いいが。
 中国の白蓮教徒だが、この国は古くから特に王朝末期の農民反乱や世直しの動きが宗教色を帯びることが多い。古くは太平道、五斗米道、白蓮教、近年では義和団、太平天国。まあ中国では宗教というよりは、秘密結社の長い伝統と歴史がある。青幇、紅幇、洪門会などが有名だね。幇は運河の水運業ギルドの結束などから生まれた。古いもので実に興味深いが、今回は言及しないでおく。書かない積りのマニ教だけで、こんなにページを使ってしまった。編集長に怒られる。

 さてここらでインドも中国もペルシャも離れ、飛んでベトナム。ベトナムも多宗教な国なんだ。社会主義国だから建前は無宗教なのだが、まあ80%は仏教、主に大乗仏教だ。インドシナと言ってもベトナム(大越国)は文化的に中国の影響が大きい。ベトナム戦争の最中、サイゴン市内でよくお坊さんが焼身自殺をした。アメリカや他国の支配はいやだが、北の共産主義者の支配はもっといやだ。行き場の無い絶望のあまり、ガソリンをかぶるしかなかったのだろうか。体が燃えているのに合掌してじっと座禅を組み、やがて崩れ落ちる姿がTVで放映されていた。
 サイゴンの沖の島(or メコン川の川中島?)に何十年もココヤシしか食さないココヤシ坊さんというのがいた。あのおじいさんは、サイゴン解放(侵略)後、どうなったんだろう。話しが飛んだ。ベトナムは魅力のある国だ。この国のお人は個性が強い。キャラが立つ。インドシナの韓国人?そう言ったら、ベトナム人からも韓国人からもやり込められるな。
宗教も多彩だ。ホアハオ教も面白い。しかし信者数と教義の充実度から言って、これだ。カオダイ教。信者数は100~300万人。ずいぶんアバウトだな。総本山のあるタイニン省(サイゴン=ホーチミンcityから北西約100km)の人口の7割、あるいは3分の2が信者だという。1919年(1920年説あり)に二人のベトナム人によって唱えられた新興宗教だ。五教(儒教・道教・仏教・キリスト教・イスラム教)の教えを土台とするという。カオダイ教のシンボル「カオダイの目」はフリーメイスンを連想させる。
楽しいのは、聖人や使徒として孔子・老子・釈迦・観音菩薩・キリスト・ムハンマド、ここまではよいが、次、次、李白、ソクラテス、トルストイ、ヴィクトル。ユーゴーを仰ぐ。総本山は南国的で強烈な色彩乱舞、ネオンの氾濫。しかし信者は白いアオザイを身につける。一般の人も観光出来るから行ってみたら。面白いと思うよ。
今回のお題は変えないといけないね。メジャーな、マイナーな宗教でした。

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楼蘭の眠れる美女

2016年01月08日 18時40分47秒 | エッセイ
楼蘭の眠れる美女

 タリム盆地、北に天山(テンシャン)山脈、南に崑崙(コンロン)山脈。山に囲まれた楕円形の盆地の大半は砂漠、世に言うタクラマカン砂漠である。この砂漠の大きさは約32万k㎡、日本列島全部の面積よりわずかに小さい。タクラマカンとは、入ったら二度と出てこれない、の意味だ。
天山北路は、天山山脈の北側を通る草原の道。敦煌より西に向かって、高昌(トルファン)、庫車、喀什を経て南下すれば天山南路に合流し、そのまま西方に向かえばサマルカンドに至る。
 天山南路(西域北路)は天山山脈とタクラマカン砂漠に挟まれた道。主なオアシス国家は、紀元前1世紀(漢代)に楼蘭を起点として東から車師前、焉耆、亀茲、姑墨そして琉勒(カシュガル)へ至る。
 西域(さいいき)南道は、タクラマカン砂漠と崑崙山脈に挟まれた道。楼蘭から西に向かって、且末、精絶、玉で有名な于闐(ホータン)、莎車を経て琉勒(カシュガル)へ。
こんな漢字の羅列を見ても頭が痛くなるだけだ、という人もいるだろう。しかし高校生の頃の自分にとってこれらのオアシス国家群の名称や、対匈奴戦で漢が派遣した将軍の名前(李広、衛青、霍去病)は宝石のように輝いていた。大宛の汗血馬、張騫や班超の冒険と活躍、万里の長城を超えて匈奴の呼韓邪単于に嫁いで行く王昭君。

 渭城の朝雨 軽塵を潤し 客舎青青 柳色新たなり 君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西の方陽関を出づれば 故人(知人)無からん。

 文献の中で楼蘭の名が現れるのは『史記』匈奴列伝が最初で、紀元前176年に楼蘭が月氏の勢力圏から匈奴の支配下に入ったと記されている。漢の武帝が即位するのは紀元前141年、その後漢は対匈奴積極策を採る。楼蘭のような小国は漢にも匈奴にも人質を送り、両属しなければ生き残れない。楼蘭は早い段階から仏教の強い影響を受けた。400年に楼蘭を訪れた中国僧の法顕は、鄯善国(楼蘭の後の国名。最初の楼蘭とは場所が離れている。)に4千人の僧侶がいて、悉く小乗(上座部)を学んでいたと記している。
 楼蘭の遺跡から出土した漢文文書の下限は330年頃なので、楼蘭は間もなく放棄されたと考えられる。かつての楼蘭地方に流れ込んでいたタリム河の下流が堆積作用の進行に伴って、四世紀ごろに流路を南に変え楼蘭に水が流れてこなくなったのだ。7世紀に玄奘三蔵が天竺(インド)からの帰途、廃墟になった楼蘭に立ち寄った際に「城郭有れども人煙なし。」と『大唐西域記』巻五に記している。
 近年になって砂に埋もれた楼蘭を発見したのは、スウェーデンの地理学者スヴェン・ヘディンだ。彼の二度目の探検で1900年3月23日に偶然発見した。従者の一人、ウイグル人のエルデクが前日宿泊した廃祉に円匙(シャベル)を置き忘れたことに気がついた。シャベルは隊に一本しかなく、テントの設置に欠かせない貴重なものだったので、彼は一人でそれを取りに戻り、その途中で砂に埋もれた古代都市を見つけた。それが楼蘭だった。
 ヘディンはその翌年にも訪れ木簡や紙文書を多数発見した。イギリスの考古学調査隊が派遣したオーレル・スタインの探検隊は1906年12月に楼蘭の遺跡を調査し、多数の古文書を発見。1908年に西本願寺法主、大谷光瑞が派遣した第二次大谷探検隊の青年僧、橘瑞超が楼蘭故城を訪れ有名な『李柏文書』等を発見している。橘は1911年にも訪れ、壁画等を収集した。その後は軍閥が抗争を繰り返す無法地帯となり、入域できる状況ではなくなった。
 ちなみに楼蘭やニヤで発掘された仏教壁画には有翼の天使が描かれているが、その顔は目が大きくて何か地中海の遺跡のもののようだ。不思議な魅力を感じる。ヨーロッパの顔をした仏教僧がいたんだろうか。
 ヘディンはタリム河が1,500年周期で下流が南北に振れる川で、ロプ・ノールは振り子のように移動する湖だ、という仮説を立てた。すると1934年タリム河下流は流れを変え、ヘディンの仮説の通りにロプ・ノール湖が楼蘭故城近くに千数百年の時を超えて戻ってきた。千年単位の地球規模の変動を、人の短い一生の間に具現出来るとは、奇跡に近い話しだ。70歳近いヘディンは、かつてラクダで旅した道をカヌーで下って行く。
 この探検は彼が地理学上の自説を証明出来た喜びと、33年ぶりの再訪の興奮で始まる。しかしヘディンの「さまよえる湖」説は、全面的に正しかった訳ではない。現に今、ロプ・ノール湖は干上がってしまった。まさかこの地方で過去に行われた、たび重なる核実験のせいではあるまい。天山山脈の万年氷河が溶けきってしまったようだ。
 さて第二次世界大戦が始まる五年前に行われたヘディンの探検は、地方軍閥と中華民国の間の危うい均衡の中で行われた。この地域の探検は、常に軍事勢力の合間を縫って行われてきた。この探検行でヘディンは「楼蘭の美女」「砂漠の貴婦人」などと名付けられた若い女性のミイラを、楼蘭故城近くで発掘している。月下の発掘は、この本「さまよえる湖」のハイライトだ。
 「王女の顔の肌は羊皮紙のように固くなっていたが、顔立ちや面差しは時の移ろいによって変わってはいなかった。王女は瞼を閉じて身を横たえていたが、瞼の下の眼球はほんの心持ちくぼんでいた。口もとには今なお笑みをたたえていた。その笑みは何千年の歳月にも消えることなく、人の胸に訴えかけてくる。-----「楼蘭の王女」は、二千年の眠りから掘り起こされ、星明りに照らされて今一度まどろんだのである。」(『さまよえる湖』より)
 この女性のミイラはそのまま埋め戻され、その後60年の眠りについた。この地域は太平洋戦争、国共内戦、中華人民共和国建国、大躍進、文化大革命といった混乱と激動の歴史に揺れ動く中で忘れ去られ、ようやく近年になってから調査が始められた。NHKや椎名誠氏が訪れた頃が調査の始まりである。ヘディンが発掘した「楼蘭の王女」他多数のミイラが中国の調査隊によって発掘された。それらのミイラが、ヨーロッパ系白色人種(コーカソイド)の特色を現していることはすでに記した。(白人のミイラ)
 この貴婦人のミイラは発掘当時肌の色の白さが際立っていたが、空気に触れ現在では黒檀のように黒ずんでしまった。ヘディンは彼女が古の楼蘭王国の繁栄を楽しみ、匈奴や漢の軍勢を目にし、砂漠を行く隊商のラクダが着ける鐘の音が重なり合うのを耳にした事だろう、と語っている。誰でもそう思う。ところが衣服(後にミイラ本体)の炭素測定の結果は意外なものだった。彼女は紀元前1,800年、他のミイラは紀元前2,000年という古いものであった。彼女は2,000年ではなく、4,000年近い眠りを過ごしてきたのだ。年齢も40歳ほどであった。お釈迦様よりも遥かに古い時代の人だった。
 それほど古くから(もっと以前からかもしれない。)ここには人が住み、集落があった。どんな生活を営んでいたんだろう。衣服・装飾品を見るとかなり進んだ文明が伺える。彼らはどこから来たのだろう。彼女は何と呼ばれていたのか。トハラ人?トカラ語?謎だらけだ。
 西域、敦煌、楼蘭、天山、崑崙。この地は永遠に自分の中で憧れの地で有り続けるだろう。いつの日にか楼蘭故城を目にする事は、果たしてあるのだろうか。可能性は低いがゼロでは無い。椎名誠は旧ロプ・ノールの湖底には小さな巻貝が無数に敷かれている、と言っていた。椎名氏は井上靖氏にその巻貝を持ち帰っている。その時は俺もお土産にしよ。


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あったま来た!

2016年01月08日 18時37分00秒 | エッセイ
あったま来た!

 人間が小さいから直ぐに腹が立つ。三回押さないと点かない百円ライター。まだ少し残っているのに点いたり消えたりするライター。あったま来る。子供の頃、親父がTVに向かって散々悪態をついているのを見ていやだなと思ったが、今自分が同じことをしている。無性に腹が立つTVCMとかあるじゃない。阿部譲二だったか、ヤーさんOBの書いた本を読んでいたら、ヤー公の先輩がTVを見ながらCMに因縁をつける練習をしている光景が出てきた。絡んでなんぼ、いちゃもんをつけるきっかけを探す練習だ。こちらの方がただの悪態よりも頭がいるね。
 TVCMに悪態をつくことの被害者はカミさんだ。女は腹の中はともかく、周りに敵を作らないよういつも気を使っているから、あからさまな暴言や悪態を極端に嫌がる。「自分だってデブのくせに。」「まるで年よりだよ。」とか一生懸命俺をやり込めよう、より大きなダメージを与えようと頭を高速回転させているのは、時々的を得て腹が立つがちょっとかわいい。
 さて今回のあったま来た!はインスタントコーヒーだ。職場でコーヒーを飲む回数は、冬場で一日に4-5杯、結構な付き合いだ。24時間または30時間勤務だからね。缶コーヒーを買っていたら大変なのよ、お金が。それに無糖はマズいし、微糖は甘すぎる。ドリップ式のコーヒーはうまいし、そうしていた時期もあったが今はインスタントだ。ドリップ式は高いし面倒、おまけにゴミの処理がやっかい。インスタントはスーパーで安いのを買ってくるのだが、正月だしたまにはいいかと奮発した。
 コーヒー専門店に入って、見慣れないビン(中型の大きさ)を少々お高い値段で買ってきた。ところが、ところが、楽しみにしていたのにこれが、まずい。ショックだ。苦味が全くない。コーヒーの香りがしないで何かいやな匂いがする。味は?ウーン、微妙。ふざけんな、とブン投げるほどまずくはないが、何か変な香料を混ぜたような。この香料がトイレの消臭剤の香りならブン投げるが、そこまでひどくはない。飲めなくもない。こんなもんか?いや、やっぱりまずい。くそ、数百円高く払っているのに、これかよ。あと百数十回これを飲む度に頭にくるのか、チクショー。繰り返すが人間が小さいのだ。
 今、微妙で思い出した。あるお姉さんの話しだ。どこかで読んだのか聞いたのかは忘れた。彼女が電車に乗っていた。昼間で電車は空いている。彼女が座っている席の前に中坊(中学生男子)が二人座った。彼女を見て何やらヒソヒソ話を始めた。と、一人が言う。「ウーン、微妙。」これだけがはっきりと聞こえた。えっ?何、何?何が微妙なのよ。気になるじゃない。何の話よ。
 でもこれは本人も薄々と感づいているはず。「xxに似ていると思わない?」とかではない。「あの女の人、美人だと思わない?」これだ。余計なお世話、腹立つよな。でも人ごとだと思うと正直笑える。楽しい。ごめんね、お姉さん。でも女優でもいるよ。美人なんだかブスなんだかさっぱり分からん。見る度に違う女のような気がする。名指しは避けるが、菅野美穂とか、あっ言っちゃった。


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